第1話 心の澱(おり)と、朝の告白
あの日から、直人さんは今まで以上にやたらと私に気を遣うようになってしまった。
照れ屋さんなくせに、出来る限り私の目を見て話をしてくれる。
嬉しいけれど、顔がガチガチになっていて時折可哀想になったりするから、そんな時、私は直人さんの手をそっと握る。
電車の中でも、会社で昼休みでも。
常に隣にいる直人さんが、そんな不自然なくらい私に気を遣っているのに気付いた時には、大きな暖かい手をそっと握って、『大丈夫よ、私、あなたのことが大好きよ』って気持ちを伝えようとしていた。
私の中では、手紙の一件はすでにもう終わったことだった。
だって、手紙のやりとりをしていたかもしれないけど、それを最後は直人さんはきっちりと破棄までしてくれて、相手に電話をしてくれて。そして、私に何度も謝ってくれた。
別に特別な感情はないし、別れてから会ったことも無いという。
だったらそれ以上、私も気にする必要はないと思っていたのに。
想像以上に、直人さんが気にしていた。
たまたま帰りが同じ時間になったので、一緒にスーパーに入った私たち。
鮮魚コーナーに行くと、お刺身の盛り合わせが半額になっていた。
「直人さん、お刺身で日本酒もいいわね」
そうカートを押していた私が直人さんを見上げると、彼は無表情のまま一点を見つめていた。
その顔を見て、私は心臓が妙な動きを始めるのに気付いた。定期的なバクバク感じゃない。
なんていうか、間隔を置いて不自然にざわめく感じ。
「直人さん……?」
もう一度名前を呼ぶと、彼ははっと意識を戻したようで、私に目を向け、そしてお刺身の盛り合わせを見て、笑みを浮かべた。
「あ、ああ、そうだね、それ、買おうか。半額セールになっていたんだ、ラッキーだったね」
……全然、直人さんらしくない。
確かにああいうことがあったら、ヘコむのも無理はないのかもしれない。でも、ちゃんと私たちの間では解決したことだと思ってた。
直人さんの中では、違うの? 解決していないの?
心の中で、聞き出したい思いは膨れ上がるけれど、とてもじゃないけど本人に問いただすことなんて出来ない。
出来るわけがない。
あの日から、何となくおかしな様子のまま、数日が過ぎていった。
あと少し。
こうして、直人さんと毎日一緒にいられるのは、あともう少しなのに。
どうして私たちの間に、距離が出来るの。
隣で眠る直人さんが、凄く遠く感じる。
手を伸ばして触れられる場所にいるのに。触れてはいけないような気がする。そして直人さんからも、私に触れてくれない。
あの日から、私を求めてくれない。
私は間違ったことを言ったんだろうか。見てみぬ振りをしたほうが良かったんだろうか。
狭いシングルベッドの端っこで、背中を向けて眠る直人さんを見つめて、私は必死で泣き声を上げないように堪える夜が続いた。
休日のこの日、朝目覚めた私の隣には、直人さんはいなかった。
目を擦って身体を起こすと、明るい日差しの中、居間でノートパソコンを操作している直人さんの後姿が見えた。
きっと、仕事をしているんだろう。忙しい人だから。
邪魔をしないように、だけど直人さんの姿を目に焼き付けておきたくて。
半身を起こして、ただ直人さんの姿だけを見つめていた。
今までの幸せな気持ちで満ち足りた感情とは、違う。自分で分かった。
辛く、切ない思い。
だって、この目に焼き付けておこうだなんて。そう思って常に直人さんを目で追う自分が辛かった。
だけど、私のこの気持ちを察してくれたからこそ、直人さんは同棲してくれる気持ちになったんだと思う。
その矢先に、あの手紙・・・・・・直人さんとしたら、きっと立場無く気まずい思いをしているんだろうな。
その直人さんの思いを心に浮かべただけで、またじんわりと涙が浮かんでくる。
何でだろう。
今まで、とても毎日が幸せ一杯だったのに。
何で急に、こんなになっちゃったんだろう。
やっぱり、私が見てみない振りをしたほうが良かった。そうしたら、私が一人でもやもやしているだけで、直人さんは何も知らないままで、今まで通りの生活を送れたのに。
忙しくて、大事な時間を潰させてしまっている。そして、安らぐ時間を奪ってしまった。常に私と一緒にいることで、直人さんの息つく暇を無くしてしまった。
……同棲、早くも解消したほうがいいかも。直人さん、きっと潰れちゃう。折角の長期出張、失敗したら大変だもの。
そうだ。同棲を解消しよう。
私はまるで雲の上にでもいるような感覚の思考のまま、そう結論を出し、今まさにベッドから立ち上がろうとしたとき。
ふいに直人さんが振り返った。そして私に気付き、さっと顔色を変えて私に駆け寄ってくる。
何で、そんなに焦っているの? どうしたの、顔色悪いわ。
私がそっと手を伸ばすと、直人さんは眉をきゅっと寄せて、私に頬を触られるがままにしておいて。
切なそうな、辛そうな声を上げた。
「まどかちゃん、……俺を見て?」
何を言っているの? 見ているわ。充分なくらい見ている。うっとおしいくらいでしょ?
その声は、出ない。どうしてかな、言葉にならない。
そんな私を見つめ、直人さんは今にも泣き出しそうな顔で私の彼の頬に当てていた手を外させて、私の指先を自分の唇にそっと当てた。
今までなら、それで心臓バクバクになるのに。
どうしてかしら。寝起きだから? それをぼーっと眺めている私がいた。
「まどかちゃん……」
「なあに?」
大丈夫。ちゃんと、返事を出来ている。
何となく、まだ雲の上をふわふわ歩いているような感覚だけど、にっこりと笑えているはず。そう、私の顔の筋肉が動いているのが分かったから。
だけど直人さんは、とても苦しそうな表情を浮かべて、唇に当てていた私の指先を額に当てた。
もう私からは、直人さんの顔が見えない。見えないのは、とても不安になる。
うっとおしい女にならないようにしなくちゃ……だから、私は笑っていなくちゃ……。
「どうしたの、変よ? あ、そうだ。おはよう、直人さん。挨拶するの、忘れてた」
そういう私の声は、おかしくないよね。大丈夫だよね。うん、大丈夫、大丈夫。
そう思っていたのは私だけなようで。
直人さんは、ゆっくりと顔を上げ、泣き笑いのような表情を浮かべて、私の手を離し。
そして、私の頬をそっと何度もゆったりとした動きで撫でた。
「あれから、まどかちゃんが本当に笑った顔、見ていない」
……本当に、笑った顔?
どんな顔だったかしら。だって筋肉がちゃんと笑っている動きをしていたら、笑っていることになるでしょう?
「もう謝らないでって言うから、謝らない。だけど、俺、どうすれば許してもらえるのかな……」
何を言っているの。許すも何も、もう終わったことじゃない。今更気にすることなんてないのよ。
私の心の言葉は、全て言葉に出していけたと思う。それでも直人さんは、更に言う。私を追い詰めてくる。
優しく、柔らかく、……心の中に、入ってくる。
「言いたいこと、あるんだったら言って? まどかちゃんは我慢しすぎだ。全部自分の中で堪えてる。俺、鈍いから言われないと分からない……どうすればいいか、分からない……」
我慢、しているのかな。私、堪えているの?
そうなの?
「まどかちゃん、俺、きみしかいないんだ。だから、話して。言いたいこと、全部言って。このまま終わりだなんて、嫌だ」
終わり、なの? 知らなかった。
そうなの…………?
私の頬に、幾重にも滝のように涙が流れていく。凄いわ、自分でも驚く。
直人さんの言葉がスイッチになったようで、その途端にずっと堪えていたものを溢れさせるかのように、涙がどんどこ流れていくのが分かった。
「わっ、私っ……!」
「うん……」
直人さんは、私の頬を撫でながら……涙でグショグショになっちゃうのに。
立膝のまま、私を正面から見つめて小さく頷いた。
そこで、私は完全に自分の中でのコントロールを失ってしまった。口が勝手に動き出していく。
「嫌よ、嫌。どうして私以外の女に手紙なんて書くの!」
「うん、ごめん……」
「何を書いたのか、一字一句全て私に教えて。全部教えて!」
「うん、分かった。覚えている限りで、教える」
「私にも、お手紙書いて! やだ、前の彼女が貰っていて、私が貰っていないのは嫌なの!」
「うん、分かった。大したことなんて書けないけど、でも、まどかちゃんにあの手紙よりも長い手紙、書く」
「それから、それから、何で私に背中を向けて寝ちゃうの。寂しかったのよ。抱っこしてもらって、眠りたかったのに。何で……っ!」
「まどかちゃんが、まだ怒ってるみたいだったから、俺の顔を見たくないかなと思って、それで……」
「私は、もういいって言ったんだから、強引にでも抱きしめて貰いたかった!」
自分でびっくりするような大声で、私はとてつもなくワガママなことを叫んだ。
そうよ、私が「ぎゅってして?」って言ってから抱きしめてくれるんじゃなくて。直人さんから、私を強く抱きしめて欲しかった。
それがなくて、寂しかったのよ。
「それに、それにっ…………!」
「うん……」
直人さんは、頬から手を離し、私の肩を掴んで引き寄せた。
ドキドキドキドキ、どこかで鼓動がなっている。私? ……違う、直人さんだ。
恥ずかしがりやで照れ屋さんだと知っているくせに。
なのに、要求してしまった私の願いを、叶えてくれている。
更に涙が溢れてきてしまった。
「もう、……いい…………」
「駄目。全部言って。それに、何?」
直人さんの言葉は、柔らかい呪縛。逃げることを許してくれない。
私は髪を優しく撫でられながら、直人さんの胸に顔を埋めて涙を零し続けた。
「それに……私を欲しがってくれない…………」
「……え?」
「私のこと、飽きた? こんなうっとおしい女なんて、抱いても価値がもうない?」
言っていて、情けなくなってきた。だって、そう。今までもそう。
直人さんは、滅多に自分から私を欲しがってくれない。だから、寂しい。
それに更に最近は拍車が掛かっていて、自分ばかりがそういうことを求めているのかと思い、恥ずかしさと切なさで限界に達していた。
「…………もういい」
私は言っていて悲しく、虚しくなって、直人さんの胸に手を当てて身体を起こそうとした。だけどそれを止める強い腕。
私をもう一度胸の中に閉じ込めた直人さんは、深い吐息をつき、私をビクリとさせ。そしてそれに気付いた彼は、私の首の後ろを指先で撫でた。まるで、安心させるかのように。
「気持ちって、すれ違うととめどないな」
「え……?」
「あまり求めすぎると、嫌われると思ってた。がっついていると思われたり、身体が目的なのかと思われるのも嫌だった。だから、……それに最近は、触れるのも嫌かなとも考えたり…………」
「直人さん……」
「嫌われたくないんだ。だけど、本当は欲しいよ。まどかちゃんを抱きたい。毎晩でも抱きたい」
思いがけない熱い言葉に、私は頬が熱くなるのを感じながらも、直人さんを見上げ続けた。
「だけど、俺の欲望のまま、まどかちゃんを好きに扱っちゃいけないと思ってたんだけど……もう少し、俺もワガママ言ってもいいのかな?」
伺いを立てるかのように、直人さんが私を覗き込む。
私は彼の目を真っ直ぐに見つめながら、何度も首を頷かせた。
直人さんは、ほっとしたからか、ふわりと柔らかな笑みを浮かべて私の後頭部に手を当てたまま、そっと私を横たえた。
「まどか」
「はい……」
近づく顔。どうしよう、私、泣いちゃったから凄くブサイクになっている。
だけど直人さんはくすりとも笑わずに、私の目を間近で見つめている。
「俺は絶対、まどかを手離すつもりはないから」
「……はい…………」
「きみはずっと、俺のものだから」
「…………はい…………」
同じ返事を繰り返す私に、やっと直人さんは微笑んで、ゆっくりと私のパジャマのボタンを外していった。
「逃がさないからね?」
そう微笑んだ直人さんの顔が、今までに無く色っぽくて、私はドキドキしながらも臨戦態勢を整えた。
本当ね。
気持ちって、歯車が狂うととめどなく崩れていく。
だけどそれに気付いた直人さんが、ちゃんと修正してくれた。
私の感情の吐き場所を作ってくれて、私はそこで泣いてすっきりとした。
そんな時間を作ってくれたあなたに。
そして、ずっと待っていてくれたあなたに。
最大限の感謝の気持ちと、今ある感情を全て込めて、切なそうな表情を浮かべて私を見下ろす彼に囁いた。
「愛してるわ……」
小さくて、届かないかも。
だけど直人さんは、眉をきゅっと寄せて、私を更に強く抱きしめた。
「俺も。俺も、愛してる……!」
小さな封筒が起こした、大きな嵐。
だけどこれがきっと、私と直人さんの絆を更に深く強いものにしてくれた。
私は素肌の直人さんの胸に擦り寄り、この場所から離れたくないと心から思った。




