第3話 過去からの手紙、現在(いま)を壊す音
結婚後か……正直、全然考えていなかった。
ただ、今直人さんとの二人の生活を始めることが出来て。そして来月から、直人さんがアメリカに行ってしまった後、私がいかに冷静でいられるかとか。
そんなことばかりを考えていたんだけど、里佳と真菜に言われて、確かにそうだと思った。もし、退社をするんであれば、ちゃんとそのことを考えていかなくちゃ。仕事を引き継いだり、主任の肩書きも返上することを頭においていくことも必要なのかもしれない。
……直人さんに、相談してみよう。
今日は定時ちょっと過ぎに仕事を上がれたから、帰りに簡単に作れそうなお夕飯の材料を買ってきた私。生たらこが安売りをしていたので、これをほぐしてパスタにしよう。この間、直人さんが作ってくれたこのタラスパが絶品で、見ていたら作るのも簡単そうだったので、私も挑戦してみることにしたのだった。
喜んでくれるかな。「美味しいよ」って言ってくれるといいな。
うきうき気分で鍵を開け、玄関扉の裏に付いている郵便ポストを開けてみた。
光熱費の検針票と一緒に、いくつかの手紙が入っている。それらの手紙は、輪ゴムでくくられていた。
首を傾げて手に取ると、あて先が全て『不破直人様』になっていた。
まだ、直人さん、住民票異動していないのに。出向から戻ってきたら、どうせ家賃を払うんだったら、マンションか小さな戸建てを購入しようか、なんて話もちらりと出たりして。
そんなすぐ先にある未来の話を、直人さんとするのが今の一番の楽しみかも。
だから、直人さんは結婚して、その後住む家を決めてから、住民票を移すって言っていた。きっとこれは、美咲ちゃんね。わざわざ直人さん宛ての手紙を持ってきてくれたんだ。
玄関のすぐ脇にある台所に、買い物した袋を置いた私は、何となく。本当に、全然考えなしで、その手紙の裏を見ていった。
いくつかは、直人さんと取引をしている会社の人とからしい。社印が押してあった。
それから、男性の個人名が書いてあったり。
凄いわ、今この時代でも、ちゃんと手紙を、しかも自宅へと郵送されてくるなんて。お付き合いをきっと大事にしているんだな、この人たちも、直人さんも。
そう感心しながら、最後の封筒に手が止まった。
淡い、ピンク色。和紙っぽいその手触りは、企業からのものじゃない。それから、男性が使うものでもない。
ばっくん、ばっくん。
私の心臓が、急に激しく動き出す。
な、何で私、こんなに動揺しているの。大丈夫、大丈夫。直人さんに限って、そんな。
浮気なんてしないよって、言っていたもの。だから、絶対大丈夫。
これはきっと、どこかの会社の営業の女の人からだ。
そう自分に言い聞かせ、震える手で、封筒をひっくり返した。
差出人欄には……企業名は、書いていなかった。
必死で探した。
小さな封筒を、端から端まで食い入るように見たけれど、そこには社印もなければ、手書きの会社名もなかった。
ただ、住所と名前が書いてあった。
私なんかには、とても敵わないようなクセのない、綺麗な字で。
『大西真理奈』
って書いてあった。
きっと、多分。
直人さんの元彼女なんだろうと思った。
どうして手紙なんか来るんだろう。ああ、そうか、結婚することになりましたって、報告したのかな。生真面目だからな、直人さんは。
……わざわざ、元彼女に?
元彼女ではないのかもしれない。友達かもしれない。けど、違うと私の本能が否定する。
直人さんから、女友達の話なんて聞いたことなんてない。もしいるんだったら、私に会わせると思う。話題の欠片にも出たことなんて今まで無かった。
やっぱり、元彼女だ。なんで、どうして……。
ぐるぐるぐるぐる、頭の中で同じことを繰り返して考えている。でも、結果なんて出ない。出るわけがない。知らないことなんだから。
知らないこと……手紙のやりとり、していたのかしら。私の知らないところで。
どんなことが書いてあるんだろう。読んでしまおうか。いや、それはダメよ。だって私、美咲ちゃんに言ったじゃない。
例えお兄さんのでも、携帯を勝手に触るのは良くないわって、私が言ったじゃない。
そんな私が、直人さんへの手紙を勝手に開封して読むなんて。私は今後きっと、直人さんと美咲ちゃんに顔向け出来なくなる。
あれ、私、今何をしようとしていたんだっけ。
そうだそうだ、お夕飯を作ろうと思っていたんだった。その前に、お風呂は沸かしたっけ。
おかしいな、自分の行動を思い出せないわ。
あの手紙を見つけてから、私は何をして、何をしていないんだっけ……。
ぼんやりと台所で立ち尽くしていると、ふいに肩を掴まれた。その強さに、ビクッとして身体が震える。
顔を上げると、目の前に心配そうな直人さんがいた。
「まどかちゃん!? どうしたの、大丈夫!?」
直人さんは、私を覗き込むようにして腰を屈め、ひどく真剣な顔を浮かべて眉を寄せていた。
前の彼女にも、そんな表情を見せていたの?
私の眼差しが、ぼんやりと肩に置かれた手に向けられた。
前の彼女にも、この手で触れたの?
そして私の眼差しが向けられたのは、直人さんの唇。
その唇で、手紙をくれた彼女に……
「まどかちゃん……!」
直人さんが、悲鳴のような声を上げて私を揺すった。
あれ、どうしてかしら。直人さんが歪んで見える。
私の頬に、涙が伝っているのに、そこでやっと気付いた。
私、泣いているの? ずうずうしいわね、私ったら。
私だって、直人さん以外の男の人と付き合ったことがあるじゃない。直人さん以外の人の手で抱かれたことがあるじゃない。
直人さん以外の人の……そうよ、私だって直人さん以外の人を知っている。
だけど、どうして。
何で今、手紙なんて来るの。
理解できない。
直人さんが、指先を私の頬に伸ばそうとした。それを無意識に身体を硬直させて、私は震える足で一歩後退して拒否してしまった。
動き出してから、自分の行動に驚いている、何とも間が抜けた私に、直人さんは戸惑っているようだった。
まずい、泣いている理由を誤魔化さなくちゃ。
そうだ、たまねぎ。たまねぎを刻んでいたことにしよう。だけど目の前のまな板には、たまねぎなんて乗っかってない。
私が言い訳を考えている間に、直人さんは見つけてしまった。あの、ピンク色の和紙で出来た封筒を。
それを手にしていた直人さんを、私はただ見つめていることしか出来なかった。
だって、言葉が出ない。一言でも発したら、私は何を言い出すか分からない。最悪、直人さんを傷つけるかもしれない。
全然状況が読めないままで、一人勝手にパニックになっている私は、まだ心のどこかで期待をしている。
『ああ、これ、取引先の人。いつも社印を押さないんだ。だから、気にしないで?』
そんな言葉を期待している。
だけど、封筒を見つめていた直人さんが再び私に目を向けていた時には、その瞳が揺れていた。それを、見てしまった。
「……ごめん」
その言葉で、私の杞憂が事実だと分かった。
元彼女からの手紙……もしかして、現在も付き合ってるかもしれない。
最悪の返事を、聞いてしまった。




