第2話 香りの記憶と、朝の失態
朝、直人さんと並んで駅へと向かう。
今までもたまにはあったけど、でも、これからは違う。毎日、これが続くのね。
そう思うと、自然に頬が緩んで仕方が無い。
ニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべ続ける私を時折見下ろし、直人さんは可笑しそうに笑った。
「まどかちゃん、笑顔全開だね」
「うふ、だって嬉しいんだもの!」
そう言って、直人さんのコートのポッケに手を突っ込んだ腕に抱きついた。
ぎゅぎゅっと掴むと、直人さんは慌ててしまったのか、身体のバランスを思わず崩した。
「っと」
「あっ、危ない!」
私はそこで手を離せばいいのに、スッポンのようにくっついて離れないものだから、直人さんは両足をどうにか踏ん張って、転ぶのを免れた。
そしてやっと、私はそこで腕を放してあげればよかったことに気付く。
今更遅いけど、ぱっと手を離し、直人さんを慌てて見上げた。
「ごめんね、大丈夫!?」
そんな私を見て、直人さんは目をぱちくりさせ、そしてくすくすと笑い出して。
怒ってないよっていう証拠に、私の髪をそっと撫でた。
こんな、何気ない一瞬。それがとても嬉しかった。
満員電車も、いつもは憂鬱なのに。べったりと身体を寄せてくるのが、汗臭いおじさまではなく直人さんだというだけで、私は至福の頂点へと登っていってしまう。
どうしてこう、直人さんからはいい香りが漂ってくるのかしら。尋ねても、香水の類はつけていないらしい。
スーツだって、クリーニングに出しているから無臭のはずだって、そう直人さんは言うんだけど。
ぎゅーぎゅー押し付けられた満員電車の中、顔元にある直人さんの胸元を、こっそりと。嗅いでみた。うん、やっぱりいい香りするわ。
私は首を傾げながら、吊革に掴まる直人さんを見上げた。
「本当に、コロンとかつけてないの?」
「うん、つけてないよ。……ああ、そうか」
ふいに直人さんは納得したように頷き、私に声を潜めて囁いた。
「分かった。きっと、まどかちゃんだ」
「え?」
「まどかちゃんの匂いが、スーツについてるのかも」
えええ!? 私の匂い!?
あ、でも、確か前に石橋さんが酔っ払ったとき、直人さんに抱きついて、『くそー、何でお前からまどかの匂いがすんだよー!』なんて喚いてた。
そっか、私か。
こっそりと付けている香水の香りか、髪のセットで使っているムースの香りか分からないけど。
……でも、自分の匂いを、いい匂いだと絶賛していたなんて。
なんて私、おめでたくずうずうしい女なの。
急に恥ずかしくなった私が黙ってしまうと、直人さんは吊革に掴まっている腕に顔を近づけ、そして微笑んだ。
「うん、きっとそうだよ。まどかちゃんの匂いが染み付いているんだ。嬉しいな」
しっ、染み付いているって……嬉しいなって! けろっとした顔で、何たる大胆発言!
直人さんじゃないけど、ドッカーンと顔を赤くしてしまった私は、とてもじゃないけど駅に着くまで顔を上げられなかった。
そして私の反応を見て、言った本人もすっかり照れてしまい、朝から真っ赤な顔で二人揃って出社する。
企画室と総務部への分かれ道で、私は直人さんに左手で手を振った。
そこに嵌められた指輪。私があなたのものだと証明する大切な指輪。
それに気付いた直人さんは、私とその指輪を交互に見て、目を細めて手を振り返してくれた。
ふふ、嬉しい。幸せ。
私はスキップでも踏み出すばかりの勢いで、総務部に入り。そしてカチーンと固まっていた。
ま、まだ始業時間まで三十分以上はあるのに。総務部員、全員揃っていた!
え、何、何で、どうして!? あの元マーケティング係の三沢さんと島村さんまでもが、いつもは始業ギリギリで駆け込んでくるのに、早くも出社していた。
「え? あの、今日って何かありましたっけ?」
急に鳴り出す心臓を押さえながら、自分の机に鞄を置くと。つかつかとやってきたのは、真菜。
彼女は目を眇めて、開口一番、
「遅い! 初日から遅刻してどうするのよ!」
「お、遅いって、だってまだ、始業前だし、それに、初日って……」
戸惑う私に、真菜がピッと指差した先には、カレンダー。あれ?
……あれ? 月が替わってる。今日って、もしかして、一日?
頭の中でパニックになっている私に、いつもと違う席にいた尾崎主任が苦笑して手招いた。おどおどとそれに応じて歩み寄ると、尾崎主任は急に顔を鬼のように変えて、ひい、怖いっ!
「こらっ! 今日は部内会議を開くから、四十分前に出社するように通達したでしょうがっ!」
と、怒鳴られてしまった。
初、怒鳴られ。私は何が何だか分からないまま、首を竦めてしまった。
え、そんな話あったっけ。あ……そうだ。
月替わりの今日、尾崎主任は係長に、そして私は主任になるんだった。で、その報告とこれからの方針を部長からお話をするということになっていたんだった。
大変! 私、ここのところ色々ありすぎで、すっかりと忘れてた!!
「ご、ごめんなさい!! 本当に済みませんでした!」
何たる不覚! この大事な日を、すっかりと忘れるなんて。
ああもう、何て私ってダメダメなの。これだから里佳に『色ボケ』って言われちゃうんだわ。もう、反論出来ないかも。それに、周りの皆にも迷惑掛けちゃった……。
しゅんとなり、総務部みんなにも、もう一度頭を下げた。
「大変ご迷惑をお掛けしました……」
すると、どこからかくすくすという笑い声が聞こえてくるや、それが広がり。
私はアホ面のまま、ぽかーんと顔を上げると、みんなが私を見て、それは可笑しそうに笑っていた。
「しっかりしているようで、しでかしてくれるのよね、山岸さんって」
「ほんとほんと。これで主任なんて、務まるのかしらねえ? 心配になっちゃうわ」
「あら、だから一つにまとまるのかもね。山岸さんには任せられないから、私たちが頑張ろうって」
あうう、これこそ反論出来ない……。
私が更にしょぼーんとなると、鬼のような顔をしていた尾崎係長が一転、苦笑をしてみんなを諌めた。
「ほらほら、もうそこらへんでいいでしょ、許してあげなさい」
「いえいえ、ダメです。まどか、気合が足りない! 私が闘魂を注入してやるわっ! 歯を食いしばれー!」
へ、あ、ええ、真菜ー!?
歯を食いしばる間もなく、私の脳天に真菜の闘魂チョップが落とされた。
……歯を食いしばれって。闘魂って。それって普通ビンタなんじゃないの?
まあ、それも嫌だけど……。
唇を尖らせ、頭を押さえた私を満足げにニヤニヤしている真菜を見て、尾崎係長が苦笑のまま私を隣に立たせた。
そして、一連の騒動を見て、呆れたような苦笑いを浮かべた部長から、長い長い訓示を受けて。
私はとうとう、総務部の主任になってしまった。
主任という肩書きを貰って変わったことと言えば、席が元尾崎係長の場所になったことくらい。
三沢さんと島崎さんは、大分仕事をこなすスピードが上がり、真菜の元、ばっちりとコキ使われている。
ああ、私は両腕をもがれた気分だわ。
黙々と仕事をしていたんだけど、ふと気付き。
まだ、マニキュアを塗るのに勤しんでいる女の子たちを呼び出した。
そうだそうだ、私が主任になったのは、教育係としてだった。
やる気ゼロの彼女たちを前にして、私はにっこりと笑って書類の束を差し出した……。
「つ、疲れた……」
ぐったりとテーブルにうつ伏せていると、コーヒーを手にした里佳が、眉を寄せて声を低くした。
「何よ、情けない。まだ午前中が終わったばかりでしょ。もっとシャキッとしなさいよ」
「うう、だって、だって……」
お昼ご飯を食べる気もしないくらい、疲れたんだもの。ここ数日のバタバタも重なって、私の疲労は超ピークに達しているような気がする。
それにね、誰も私の指輪に気付いてくれないんだもの。自慢したいのに。同棲始めて、婚約したこと言いたいのにー!
午前中、誰かが私の指輪に気付き、言葉を掛けてくれるのを待っていたんだけど、誰一人として触れてくれない。
私はもう我慢の限界とばかりに、目の前に座る真菜と里佳に、左手の甲を差し出した。
「見て、見てぇ! 聞いてよ、私の幸せな話!」
「は? あんたの幸せな話?」
里佳が片方の眉を上げると、真菜が私の手をむんずと掴み、そして顔を寄せて指輪を眺めた。
「何、これ。まさか婚約指輪とか言うんじゃないでしょうね」
なっ、なんて失礼な言い草っ!
私はカチーンと来て、身体を跳ねるようにして起き上がった。
「何よ、そうよ、婚約指輪よっ! 直人さんが、普段ずっと付けていられるようにって、選んでくれたのよ!」
「へえ、婚約したの、そりゃおめでとう」
「おめでとー」
……この悪友共め。どうして素直に祝福してくれないの!
私が更にいきり立って文句を言おうとすると、ふいに真菜の目が眇められた。
「まどか、一つ聞くけど。あんた、まさか寿退職狙ってるんじゃないでしょうね」
「へ?」
寿退職?
って、あれよね。結婚しました。私、専業主婦になりまーす! ってやつよね。
あれ? 私、どうしよう。結婚って一年後のことだし、全然その後のことって、考えてなかった。
私、どうするんだろう。結婚した後。あれあれ?
瞬きを繰り返す私に、里佳はコーヒーを飲みながら可笑しそうに笑う。
「ほら、何にも考えていないわよ、この能天気な主任さん」
「まどかー!? あんた、後先考えないにも程があるわよ! 絶対辞めさせないからね!! 結婚後も、仕事を続けるのよ! じゃなきゃ、私に被害が及ぶでしょ!!」
私を完全にバカにして笑う里佳。そして理不尽に怒り狂う真菜。
二人を前にして、私は心の中で呟いた。
ゆっくり未来を描いていくって、難しいことなのかしら……。直人さんがいなくなってしまったその後の寂しさを埋めることばかりを考えていた私って、やっぱりオバカなのかしら。
遠いと思っていた一年後が、何だかすぐ先のことのように思えた。
……悪い意味で。




