第2話 軽井沢の風、予感のバクバク
直人さんが、私にプロポーズしてくれた。
直人さんの海外出向が決まって、私がその間寂しくないように、出向までの間、一緒に生活をすることになって。
それだけでも、私にとってはめまぐるしく決まった嬉しい出来事だったのに。
それなのに、更に直人さんは、私を幸福の坩堝へと落してくれた。
「俺を、貰ってください」
とても恥ずかしそうに、だけど何とも直人さんらしいようなその言葉を貰い、当然私はその言葉を受けた。
アメリカ出向が終わったら。
そうしたら、私、直人さんの奥さんになる。
信じられない。まだ、夢を見ているかのようだわ。
一瞬でも気を緩めると、ぽわーんと憧れの結婚生活に思いを馳せる私がいた。
『お帰りなさい、直人さん。今日もお仕事、お疲れ様。ゆっくり休んで?』
『ああ……だけど疲れているのは、まどかちゃんも一緒じゃないか。それにね』
『それに……なあに?』
『俺のほうが、早く疲れを癒せるよ。だから、大丈夫』
『どうして……?』
『だって俺には、きみがいるから。こんなに可愛くて柔らかくて……甘いきみに触れれば、ほら。もう、俺の中の疲れなんて残らない。だから、強く抱きしめてもいい……?』
『ああっ、直人さん……! そんな、ああっ!』
『まどか、……愛してる、まどか……!』
「……ふっ……ぐふっ」
思わず零れ落ちた、怪しさ満載の私のほくそ笑んだ声。いけない。今日も総務の皆を怯えさせてしまったわ。
だけど、止まらないの。幸せ一杯で、妄想が止まらない。
だって同居よ? おいしいシュチュエーションが、どこかしこにも転がっている。
朝起きてから、夜眠るまで。
今までよりもずっとずっと増えた、二人の時間。
手を伸ばせば、ぎゅっと抱きしめてくれる、暖かくて頼もしい腕。これがあれば、毎日コンビニ弁当でも構わないわ。
そうよ。直人さんが一緒なら、コンビニ弁当じゃなくて、スーパーのお惣菜ですら超高級料理も顔負けの、美味しいお料理に大変身なんだから。
幸せ。本当にこんなにバラ色の毎日でいいのかしら。
あのプロポーズしてくれた次の日、私は直人さんのお宅に再びお邪魔した。同居する許可を、お母様に得るためだ。
もう仕事がひと段落したらしいお母様は、私を笑顔で出迎え、そしてとても喜んでくれた。
喜ぶ……というか……
「本当に!? あらまあ、同棲! まさか直人に限って、そんな暴挙に出る勇気があるなんて思いもしなかったわ!」
「か、母さん、暴挙って……」
「いやー、よくまあ、まどかさんがOKしたわねえ。何? まどかさん、直人の泣き落としかなんかで堕ちた?」
お母様は、ケロリとした顔で凄いことを言う。私は慌てて手と首を振った。
「い、いえ、そういうことじゃなく、直人さんが私のことを考えてくれて……!」
「ふーん、ま、いいわ。良かったわねえ、直人。このままデキちゃった結婚にもつれこんじゃえ! そうすりゃ、まどかさんも逃げられないし」
……お母様は、どうも私を逃がさない算段らしいけど、私としては、逆に直人さんを逃がさないように頑張るしかないっていうか……。お母様の思っていることと、事実は大分違うんだけどな。
それをどう伝えようか迷っていると、直人さんは苦笑して言った。
「デキちゃった結婚なんてしないよ」
「えー? いいじゃないの。私は気にしないわよ? まどかさん、私、母としては先進的な考えを持っているつもりなの。うまくやっていけるわよ。あ、同居はやめましょう。お互いのために」
あらら、先に同居を断られてしまった。だけどこれは、直人さんも言っていた。
「うちには美咲もいるし、結婚しても母と同居はしなくていいよ。むしろ、まどかちゃんの実家を考えたほうがいいな。まどかちゃん、一人っ子だもんな。その辺りも、ご両親と相談しよう」
なんて、早くも直人さんはしっかりと未来ビジョンを描き始めているようだ。
凄い、やっぱりさすがは私の直人さん。私のことを第一に考えてくれているのね。素晴らしい、何て優しいの。
隙さえあれば、妄想三昧の私とは違う。現実をちゃんと見据えた直人さん、かっこよすぎる。
私みたいな、ぽわーんとした女の子には、やっぱり直人さんのようにしっかりした男性がいいのよね。私の目に、狂いは無かった。うん。と、一人大満足なんだけど。
だけど、だけどね……私も、うちの両親と同居は嫌だわ……。
そのことをまだ、直人さんには伝えていない。会ってもらってからの方が、いいかなって思った。
きっと会った後に、私の気持ちを伝えれば、分かってもらえると思ったの。
私の両親も、ええと、何ていうか……凄いのよ。
まあ、そのことは別に置いておくとして、直人さんがアメリカから帰ってきたら、結婚をすることをお母様に伝え、非常にお母様は喜んで下さった。もちろん、同棲の話も両手離しで賛成してくれた。
美咲ちゃんは、頬を膨らませて、「ずるーい、兄貴ばっかりー!!」って不貞腐れていたけど、私が彼女を覗き込み、
「いつでも遊びに来てくれていいのよ? 直人さんがいない日でもいいから、お泊りにくれば?」
そう誘ったら、綺麗な顔を紅潮させて、
「本当!? いいの? やった、嬉しい!」
って喜んでくれた。直人さんは苦笑して、
「あの調子だと、年中遊びに来ちゃうよ」
そう言うけど、私としては妹が出来て嬉しいんだもの。もっともっと、美咲ちゃんともお母様とも仲良くしていきたいな。
こうして、直人さんの家の方は、結婚するまでの流れの話を全面的に受け入れてもらうことが出来た。
まずは、一安心ね。心からほっとした。
さて、次はうちの両親か……両親だけじゃないんだけど、問題なのは。
でも、色々今から考えても仕方が無い。それにやっぱり、親に会ってくれるというのは嬉しいわ。
実家に帰る前日、一泊だからそんなに荷物もないんだけど、鞄に服とか荷物を詰めていたら、直人さんがふと私に手を伸ばした。
何かしら? 首を傾げた私に、直人さんは……直人さんは、キスをしてきてくれた!!
き、奇跡!? 神様、一体何のご褒美ですか!?
一人大興奮を抑えられない私に、直人さんは柔らかなキスを繰り返し、ほんのり赤く染めた頬を緩めて、にこりと微笑んだ。
「まどかちゃん、俺、ご両親に会うの、凄く楽しみ」
「え、ええ……私も、嬉しいわ……」
ちゃんと声になってるかしら。上ずった声じゃないかしら。目、違う世界に飛んじゃっていないかしら。
そんな不安の中、返事をすると、直人さんは笑みを深めてもう一度私にキスをした。
さっきよりも、深い……私を蕩けさせる、甘いキス。
もう私は座っていられずに、フニャフニャと直人さんの胸に身体を預けた。
私を抱きとめた胸。ドキドキが、凄く早い。きっと、今から緊張しているのね。
「認めて貰えるように、頑張らなくちゃ。まどかちゃん、応援してね」
もちろんよ、直人さん。私の全てをかけて、あなたを両親に認めてもらうわ。
当然、大丈夫だとは思うけど。思うけど……人生、何が起きるか分からない。
特に、あの人たちは……。
だけどもう、私は頭の中が直人さんでいっぱい。他のこと、考えられない。
今は、考えたくない。あなたで、満たされたい。
顔を上げて、ねだるように唇を差し出すと、直人さんはくすりと笑って顔を下ろした。
それから続けられる、めくるめく官能的な愛の時間……。
「ふ……ふふふ」
思い出し、一人ほくそ笑むと、隣で新聞を読んでいた直人さんが、驚いたように私を覗き込んだ。
「ど、どうしたの?」
「あっ……ごめんなさい」
しまった。
今は、新幹線の中。
長野へ向かう途中だったんだ。
昨夜の興奮が止まることなく思い返され、私はせっかく直人さんと二人きりだというのに、一人違う世界へと旅立ってしまった。
思わずしゅんとなってしまうと、直人さんはくすりと笑って、私に冷たい缶コーヒーを差し出してくれた。
「もうすぐ着くね。新幹線に乗っちゃえば、結構近いんだね」
「そうね」
特急や新幹線を使えば、本当にあっという間。それなのに、面倒臭くてなかなか実家に帰っていない。
この帰郷も、いつくらい振りかしら。
だって休みの日には、直人さんと一緒にいたかったんだもの。実家に帰るよりも、彼との二人の時間が欲しかった私って、ひどい娘かしら?
そして、音楽とともにアナウンスが流れる。
「次は~、軽井沢~、軽井沢~」
着いた! いよいよだ。
何だか、心臓がバクバクしてきた。私がぎゅっと缶コーヒーを握り締めていると、直人さんが立ち上がり、棚に載せた荷物を降ろしてくれた。
見上げれば、私の視線に気付いた直人さんがにこりと笑う。
その笑顔があれば……私はどんな強敵にも立ち向かう勇気と度胸が沸いてくるわ。
お父さんたちがどう出るか分からないけど、何があっても負けないわよ。大丈夫だとは思うけど、でも、うん、絶対負けない!
私は心の中で、一人拳を振り上げて気合を入れていた。




