第5話 順番違いの、真剣な約束
初めて。こんなに、家に帰るのが楽しみになるなんて。
私は途中のスーパーで、ワインを買いながら化粧室でメイクが崩れていないかをチェックしたりして。
ウキウキしながらいつもの道を歩いていった。
鳴らすパンプスの音も、なぜか軽やかに聞こえてくる。それだけ、私自身が嬉しくて仕方が無いことを実感する。
アパート前の小さな門を開き、窓から漏れる明かりに頬が緩みながら、ドアノブに手を掛けた。
鍵が掛かっていないそれは、すぐに開き、私はそっと扉を開いた。
テレビの音が流れている……テレビじゃない、ラジオかしら? 今、ヒットしている音楽が聞こえてくる。
顔を部屋へと覗かせると、いつも座っているその場所に、寛いだ様子で直人さんが腰掛け、ノートPCを操作しているのが見えた。
やっぱり、お仕事持ち帰ってきてたんだ。そんな時に、夕飯を作らせてしまっただなんて。
申し訳ない思いが急浮上し、私はそれでも頭を振った。
直人さんから、言ってくれたこと。それだけ、私に会いたいと思ってくれたことだから。
だから私は、直人さんとたくさんお話して、たくさん満喫させてもらって。
直人さんも満足してくれたら、それで直人さんを、解放しよう。だって出向に掛ける準備、きっと半端無い。
同居しても、きっと直人さんは、眠るまでPCから離れることなど出来ないだろう。
だから、今日、この夜だけは。
直人さんと私、二人だけの計画だけに費やす時間にしたいな。
密かに決意した私は、頬に手を当て、笑顔を作り。少し音を立てつつ扉を大きく開いた。
「ただいま! 直人さん、ありがとう、待たせてごめんね?」
元気よくそう言うと、直人さんは驚いたように私に眼を向け、そしてふわりと微笑んで立ち上がった。
「お帰り。お疲れ様。寒かっただろ?」
そう言って、私の手を取り部屋の中へとエスコートしてくれた。
暖かい、部屋の中。暖房が効いていて、明るくて。そして直人さんの柔らかい笑顔があって。
やっぱり、いいな。心が、ほんわかしてくるもの。
ぽわんとしながら、コートを脱いだ私に、直人さんはPCを片付けながら言った。
「お腹空いた? なら、ご飯すぐ用意出来るけど。あ、でも、身体温めたほうがいいよね。お風呂、入ってくれば? もう沸かしてあるよ」
その言葉に、凄くドキッとした。だって、今日私が妄想したそのまんまなんだもの。
ただ、そのセリフは私が言うはずだったんだけど……でも。
私はきっと、多分。気持ち悪いくらいニヤけていたに違いない。だからそれを見せないように、スーツ姿の直人さんに抱きついた。
「ま、まどかちゃん? どうしたの?」
「……直人さん、一緒に入ろ?」
「え? は、入るって、え?」
「お風呂、一緒に入りたいの。ダメ?」
大胆発言しちゃったかしら。でも、あんな妄想をして何だけど、帰宅して、それから一番最初の望みは、あなたとお風呂に入りたい。一緒に入って、お風呂の中で、いろんな話をしたいの。
見上げる私を、途端に真っ赤になってしまった直人さんは、困ったような顔をしていたけど。
でも結局、私のワガママを聞いてくれた。狭い我が家のお風呂に、二人仲良く入ってしまった。
私はもう、大満足。照れまくって恥ずかしがる彼の背中を流してあげたりして。凄く楽しい時間を過ごしてしまった。
お風呂でのぼせた訳でもないだろうに、もうユデタコ状態の直人さんは、フラフラと台所へと入っていったので、私もそれを手伝って。
美味しそうな夕食が、テーブルに並んだ。
「凄い、いい匂いね!」
切り干し大根と鳥の皮を煮付けたのとか、炊き込みご飯とか、温かいお味噌汁とか。
純和風な料理が食卓を彩り、私は感激してしまった。
その私を見て、直人さんもやっと赤みの引いた頬を緩めて微笑んだ。
「まどかちゃん、和食って結構好きそうかなと思って」
「うん! 好き。大好きよ」
「そうか、良かった。……あ、出来上がったかな」
そう言って直人さんが再び立ち上がり、戻ってきた時にはグラタン皿をタオル越しに手にしていた。
「グラタン? いい香り!」
「今日は和食で攻めてみたから、味噌ベースのグラタン。結構いけるんだよ。暖かいうちに食べよう?」
私はもはや何も言葉にならず、ただ感動してテーブルに並んだ美味しそうな料理の数々を見つめていることしか出来なかった。
そんな私に嬉しそうな笑みを浮かべた直人さんは、グラスに冷えたビールを注いでくれて。
二人でリラックスした格好で、乾杯をした。
とても……どれもとても、美味しかった。
どんな調味料をどの配分で使えば、こんな味になるのかなんて、私には分からない。
でも、食べてみて、思ったの。
私、やっぱり少しずつでも、お料理覚えよう。
直人さんレベルになるのはまだ遠い……凄く遠いわ。遥かに遠い。ガンダーラよりも遠いかも。けど。
「直人さん、私、私ね?」
隣に座っている直人さんの肩に、頭をもたらせた。いつもの直人さんの香りもするけど、でも、私が使っているシャンプーの香りとか、ボディーソープの香りとか。そんなのが強く感じて、ドキドキしてきてしまう。
だけど、言わなくちゃ。伝えたいの。この決断をしてくれたあなたに、後悔してもらいたくないから。
「私、直人さんも知ってると思うけど、お料理、全然出来ないわ」
頭上で、くすりと笑って頷くのを感じた。
「そうだね、だけど俺がやるから、大丈夫だよ」
へっ……!?
そ、そう来るとは思わなかったわ。確かに、直人さんのお母様は、『直人に家事全般教え込んだから、いつでも持っていっていい』とは仰っていたけど、でも。
そんな、直人さんに全部押し付けることなんて、出来るはずがない。
私は動揺しながら、身体を起こして、懸命に言葉を選んだ。
「ええと、それはダメよ。直人さん、疲れて帰ってくるんだから、私、ヘタだけど、ヘタなりに頑張っていこうと思うの。だから、少しずつ直人さんにお料理教えてもらえていけたらなって……」
「だって、まどかちゃんだって疲れて帰って来るじゃないか。条件一緒だろ? だったら料理が苦手なまどかちゃんが、無理することないよ」
えええ!? な、直人さん、意外に粘るわね。だけど私も引くわけにはいかない。
「けど、でも、私の疲れ具合と、直人さんの疲れ具合はそれはまた別問題で、ええと……」
「あ、まどかちゃん、男女差別だ」
「え?」
「だってまどかちゃん、自分が女性だから、だから家事をしなくちゃいけないと思ってるんじゃない?」
ぐっと言葉に詰まった。
だって私の実家って、完全に祖父が家の頂点に君臨していて、母が働きながらも、家事はちゃんとこなしてた。父は母に甘いから、かなり手伝いをしていたようだけど。
だから私は、家事は例え共働きだとしても、基本的には女性がやらなくちゃならないのかな、と思っていた。
それが、結婚だとしても、同棲だとしても。そう思っていたから、ちゃんと直人さんに、長い目で私を見て欲しくて、そう言ったのに。
直人さんは、何でもないことのように、それはもうけろりとして微笑んでいる。
「いいんだ、人には得意、不得意があるんだから。俺は結構料理するの好きだから、負担に思わないし。もし疲れ果ててたら、最悪コンビニの弁当になっちゃうかもしれないけど」
「そんな……でも……」
「いいんだ。まどかちゃんの負担を、増やすつもりなんて無いから。でも、二人で出来ることはしていこう?」
にっこりとそう言われれば、私は「は、はい」としか返事のしようが無かった。
直人さんの気持ち、嬉しい。でも、やっぱり私は私なりに頑張りたい。喜んでもらいたいもの。だから、何だかんだ理由をつけて、お料理は教えてもらおう。
そう心の奥底で計画していた私に、直人さんは笑みを突然消し、目線を彷徨わせた。
「それで、……まどかちゃん、あの、俺、ちゃんと、その……」
ここまで、私をぐいぐいと引っ張るような、驚くべき強さでトークを展開していた直人さんが、急に再びまた、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
瞬きを繰り返すことしか出来ない私に、直人さんは小さく深呼吸をして、身体を私に向き直した。
何だか凄くドキドキして、私は思わず緊張の余り、ソファに正座をしてしまった。
「まどかちゃん」
「はっ、はい……」
「ごめんね、順番違って。本当は、ちゃんと、その、結婚してから同居するのがいいと思うんだ。だけど、今回は、俺は、その、何ていうか……俺の勝手で出向に行ってしまって、その間、まどかちゃんに寂しい思いをさせてしまうわけだし……」
凄く、凄く考えながら話してる。
直人さんは、俯いたままだけど、私は直人さんのその頭頂部をじっと見つめて言葉を聞いていた。
きっと、こういう機会って今後そう訪れない。だからこそ、貴重なこの時間。直人さんの言葉を、ちゃんと聞きたかった。
「……まどかちゃんを言い訳にして、その……俺も、一緒にいる時間を増やしたかった。て、言うのもまた言い訳で、まどかちゃんに寂しい思いをさせて、誰かにまどかちゃんを取られるのも不安だったりして、だから、……ああもう、俺ってダメだな! ごめん、まどかちゃん。俺……」
直人さんは、そう言いながら、私の手をぎゅっと握った。
頭が混乱しそう。だけど、大丈夫よ、正気保つように頑張るわ。
だって、一世一代の直人さんの決断の言葉が聞けそうな……そんな気がする。
心臓バクバク、脳内グラグラの妙に白熱した私。
だけど……聞きたい。ちゃんと、理性を保った状態で聞くように頑張る。だから、聞かせて? 直人さん、あなたの言葉を。
私は直人さんの手を、きゅっと握り返した。




