第4話 滲んだネオンと、高鳴る鼓動
どうやって、総務部へ戻ってきたか分からない。
机に座った私は、ボーッと一点をただ見つめていた。
頬が、凄く熱い。きっと私、顔が真っ赤になってしまっているだろう。
そして私の頭の中で、直人さんの言葉が何度もリフレインされている。
まどかちゃんと、一緒に住みたい。
あの時、そう言った直人さんの言葉に、私は驚いて、余りに驚きすぎて。ただ硬直した私の前で、直人さんは途端に顔を真っ赤にして手を振った。
「あ、いや、その……ごめん、嫌だったらいいんだ。そうだよな、順番、違う。ヘンなこと言って、本当ごめん……」
言いながら、次第に俯き始める直人さんに、私は堪らずに抱きついた。
だって直人さん、私のために考えてくれたんでしょう?
きっとあなたが出張に行ってしまって寂しい思いをするってことだけじゃなく。
私が主任になって、忙しくて会える時間が減ってしまうから。だからそれを補うために……言ってくれたものね。考えるって。私のために、考えてくれるって。
色々なことが、いっぺんに起こり、混乱気味だった私。
自分でどうしたらいいか、分からなくなってきてしまっていた。
そんな時に、直人さんがずっと傍にいてくれたら、すごく嬉しい。出向一年もいなくなってしまうけど、でも、一か月に一度はきっと二人の部屋に帰ってきてくれる。そうしたら、私、待つのも楽しみになるわ。
お部屋を綺麗にして、少しでもお料理を覚えて、あなたのために尽くしたい。
異国の地で頑張るあなたを、癒せる空間にしたい。
「嬉しい、すごく嬉しい! 本当に? 直人さん、一緒に住んでくれるの?」
声を弾ませながらそう言うと、直人さんはほっとしたようにうんうんと何度も頷いた。
「まどかちゃんさえ、よければ。詳しい話は、夜にしよう。夕飯、今日は一緒に食べれそうかな?」
直人さんは、お夕飯を一緒に食べたいとワガママを言う私に合わせ、ここのところ残業を控えてくれていた。その代わり、きっと仕事を家に持ち帰っていたんだろう。
申し訳なく思うけど、それでも私は二人きりになりたかったんだもの。
一分、一秒でも長く。大切な二人の時間を持ちたかった。
でも、そのワガママを言った私もまた、残業が増えている。直人さんほどじゃないけど、毎日確実に一時間は定時よりも遅れて帰宅していた。
すると直人さんは、私の『仕事終わった』メールが来るまで残業して、そして私に合わせて仕事を切り上げるようにしてくれていた。
それでも毎日、夜を一緒に過ごすことは難しいけど、これからは違う。例えどんなに遅くまで直人さんがお仕事頑張ったとしても、私の元に帰って来てくれる。それがどんなに嬉しいか。
全然想像もしていなかった展開。私は大興奮でギューギュー直人さんに抱きついた。
「私、今日も多分、少し残業あるかも。でも、頑張るわ! なるべく早く終わらせるようにする。だって、嬉しい!」
「うん、俺も嬉しい。夜、まどかちゃんちに行くから。その時に、ゆっくり話そう。今日は俺、残業しないつもりなんだ。だから、台所借りて夕食作っておくよ。だから残業があっても、そんなに急がなくて大丈夫だよ。待ってるから」
「嘘、本当に!?」
信じられない。時折、直人さんと一緒にうちでご飯を作ったりするけど。けど、でも。
ご飯を作って待っていてくれるだなんて! ……というか、いいのかしら。普通逆よね。もっとも私、料理出来ないけど。
うーん、やっぱりお料理頑張って覚えよう。簡単そうなのから始めてみよう。人間、努力すれば何とでもなるわ。なるはずよ。多分……。
「あの、直人さん。もしかしたら、調味料揃ってないかも。それにやっぱり、申し訳ないわ……?」
確かお塩はあったと思う。お砂糖もコーヒー飲むから常備してる。けど、直人さんが作ってくれるお料理に必要なものってちゃんとあるかしら?
不安になった私が上目遣いで直人さんを見上げると、彼は眼鏡越しの切れ長の目を細めて微笑み、ぽんぽんと私の髪を撫でた。
「大丈夫、気にしないで? それにこの間、調味料はチェックさせてもらったから」
「え!? い、いつの間に!」
「足りなそうなのは、用意しておくから。まどかちゃんの好きそうなもの、作っておくから。だから仕事、頑張ってね」
直人さんはそう言って、私を最後にもう一度ぎゅっと抱きしめて、おでこにキスをしてくれて。
そしてそのまま、私は夢見心地で、ふらふらと総務に戻ってきた。
一緒に住むって、あれよね。ど、ど、……同棲、よね。
やだ、恥ずかしい! だって私の寝顔を毎日見られたり、朝お化粧する姿を見られたり。
私、早起きなのよ? 直人さんに、少しでも綺麗な私を見てもらいたいから。だから、メイクに掛ける時間はいまだに長い。気合入れて頑張っているんだもの。
そんな気合の入れた姿を、見られちゃうのね。あ、すっぴんも見られちゃう。これはマズい。メイクを落とすのは、直人さんが寝てからにしなくっちゃ。
ふ……んふふ。妄想が膨らむわ。膨らみすぎて、止まらなくなる。
だって、毎日直人さんと一緒に眠れるのよ? 腕枕してもらっちゃったりして!
ああ、まずい。興奮してきちゃった。
私、寝相ってどうなんだろう。いい方かしら、悪い方かしら。ていうか、同じ布団で眠るの、決定なの? やだ、私ったら。でも、どうせ一緒に住むんだったら、一緒に寝たいわ。眠りにつくまで、抱きしめてもらいたい。
うふ、うふふふふ。頬が緩んで仕方が無い。幸せ。凄く幸せ。いいのかしら、こんなに私、浮かれちゃって。
帰宅した直人さんを出迎えるのも、とても楽しみ。疲れたあなたを、ほっとさせるように、いつも笑顔でいなくっちゃね。
『お帰りなさい、直人さん。ヘタだけど、ご飯、もう作ってあるのよ』
『本当に? 楽しみだな。まどかちゃんのその笑顔が、最高の調味料だよ』
『やだ、直人さんたら。あ、それよりも先に、お風呂にする? お風呂も沸かしてあるわ』
『まどかちゃん……。お風呂よりもご飯よりも、まずきみを満喫させて? 今日も可愛いきみを、たっぷりと愛したい』
『あん、直人さんたら……』
『好きだ、愛してる、まどか……』
なんちゃってー!!
きゃー、やだやだ、恥ずかしいー!!
私は両手で顔を覆い、身体を捩じらせて一人大興奮。もうどうしよ、この興奮が収まらない限り、仕事なんて手に付かないわ! こうなれば、妄想するだけして、飽きたら仕事に取り掛かることにしよう。
「……どか」
「ぐふっ。さて、次は一緒にお風呂編……」
「戻ってこい、まどかっ! いい加減にしなさいよっ!」
急に頭上から大きな声が降り注ぎ、私はぎょっとして意識を急上昇させた。
慌てて顔を上げると、そこに鬼のような形相の里佳が、手にした書類をバンッと机に叩きつけ、真っ赤なルージュを引いた唇を開こうとしている。
やばい! 里佳に怒られる!!
「ご、ごめんなさい! 仕事、はい、仕事します!!」
慌てふためきそう言いながら、里佳からその書類を奪い取るように預かった。
里佳はしばらく私を眺め、そして深いため息をついた。
「まったく、あんたって奴は……。で、ジミーとの仲は無事に解決したの?」
「ジミーって言うな! けど、でも、えへへ、うん。大丈夫。ありがと、里佳」
怒ったりニヤけたりで忙しい私を呆れたように見ていた里佳は、鼻を一つ鳴らして、手を伸ばして。私のおでこをぺちんと叩いた。
「いたっ!」
「あんたって、本当に分かりやすい。浮上したんなら、仕事ちゃんとこなすのよ、いいわね」
「はーい……」
頬を膨らませながら、おでこを押さえた私に唇の端を上げて苦笑めいたものを向けた里佳は、そのまま踵を返して戻っていった。
あー、危なかった。里佳の説教、長いんだもの。それに痛いところをガンガン突いてくるから、怖いったらない。私と同じ年なのに、どうしてこうも違うのかな? 私って、子供っぽすぎるのかしら。
うーんと首を傾げながらも、その後は何とか平静を保ち、仕事に集中することが出来た。
マーケティング担当二人組が、大分仕事を覚えてきてくれたし、積極的に私のところに仕事をもらいに来てくれるようになったので、随分と楽になってきた。
その分、真菜が容赦なく私に仕事を振るんだけどね……。
「あんたには、アシスタントが二人もいるんだから。あの二人、使えるようになったんだったら、こっちに回して。そんでもって、あんたは次の使えない子の指導係になるのよ!」
「はいはい」
「ふふ、いいわ、この調子よ。大分以前よりも負担が少なくなってきたわ。頑張るのよ、まどか!」
「……はいはい」
といった感じで、真菜に煽られている私。そうね、総務部、皆で頑張ろう。それが総務部の平和に繋がるし、私の目指すところはそこだと思っている。
一枚岩の部署を、目指そう。
真菜の言うように、順調に仕事が回り、残業も一時間だけで済んだことだし。
家に帰れば、直人さんが待っていてくれる。
ウキウキ気分会社を出て、スマホを取り出して操作した。相手は、もちろん直人さん。
呼び出し音は、すぐに愛おしい声に変わる。
『はい、まどかちゃん? お疲れ様』
「ありがとう。直人さんも、お疲れ様」
『今、まどかちゃんちにいる。もうすぐ夕食、出来上がるよ』
は、早っ!! 会社から家まで、三十分ほど。直人さん、買い物してからうちに来てくれたのよね? それで、そこからご飯作り始めてくれたのよね?
素晴らしい……何と素晴らしいの!
直人さんのお父様が、徹底的に家事を叩き込んだっていう話だったけど。本当に本気で、そこらの主婦顔負けだったりして。
直人さんのお父様って、どんな方だったのかな。社長業をこなし、家事をこなし、息子にそれを教え込み。
とても素敵な方だったんだろうな。お会い出来なかったの、とても残念。
でも、お父様直伝のお料理、楽しみだな。
まるでスキップでも踏みそうな足取りで、駅に向かい、電車に乗り込んだ。
そこでようやく気づいた私。
……私、さっきお料理、少しでも覚えようって思っていたんじゃないの。何で全部直人さんに頼ろうとしているの。
だけど、苦手なんだもの。うーん、……悩んだ私は、突然ぴんと閃いた。
直人さんに、教えてもらえばいいんじゃないの。
そうだそうだ、出張に行くまでの間、基本的なこととか教えてもらおう。そして一ヵ月後に戻ってきたときに、練習の成果を見てもらって、驚かせちゃおう。
楽しみがまた増えて、私は笑みが止まらず、暖かい部屋に帰るのが嬉しくて仕方なかった。
暖房がついて、明かりがついて、何よりもあなたがいる。
これがこの先ずっと続くのね。
今日、たくさんお話しよう? 二人で楽しく、幸せに過ごせる空間を二人で考えて築いていこう?
直人さんと過ごせる時間を思うだけで、こんなにも高揚してくる。
きっと勇気を出して、言ってくれたんだろう。同棲なんて、直人さん、本当は嫌いだろうから。何となく、そんな気がする。
だけど私のことを考えてくれて、私のために言ってくれた。
それが何より、一番嬉しかった。
そして、直人さんの優しさを、改めて感じた私の目線の先には、電車の動きに合わせて流れる町並みのネオンが。
それが、なぜか滲んで見えていた。




