第3話 おバカさんの恋と、親友の背中
茫然自失とは、まさにこのこと。
里佳が私からスマホを奪い、真菜がそれを使って、直人さんのスマホに電話した。
直人さんは私からの着信を見て、何かあったのかと驚いただろう。就業中に、電話なんてしたこと無かったから。
そして電話に出れば、相手は私ではなく真菜で。
彼女は、至極冷静に言い切った。
『まどかと別れてください』
何て……口にするのもおぞましいことを言ってしまったの!?
別れる!? とんでもない。真菜は私の気を狂わせたいのだろうか。
有り得ない。せっかく手に入れた、直人さんの彼女という立場をどうして私が捨てられるの。
好きなのよ。この世の中で一番好きなの。生まれてきて良かったと、両親に心から感謝するほど好きなの。
確かに私、辛いよ。直人さんと一年も逢えないなんて、耐える自信がない。しかも出張先は、気軽に行けるはずもないアメリカのサンフランシスコ。
どんだけ遠くに直人さんを行かせるのかと、会社に憤慨する気持ちもちょこっとあるけど、でも。
直人さんの未来を、長い目で見れば、決して悪い話じゃない。むしろ、直人さんが飛躍していくチャンスなのが分かる。
だから私は、笑顔で彼を見送ろうと決めていたのに。それを……それを……
「酷いわ、真菜! 信じられない! 何てことを言ったの!」
背後から羽交い絞めにしてくる里佳を、私は両手を上下左右に動かして、振りほどこうとしたけれど。
でも、びくりとも動けない。
前の真菜は、腕を組んで指先にスマホのストラップを引っ掛け、くるくる回してニヤニヤ笑っていた。
「いいじゃない。すぐに忘れられるわよ、合コン、セッティングしてあげるからね。社内の男は嫌だろうから、別会社の男を探してあげるね。それとも、医者とか弁護士とかの方がいい?」
「そうそう、あっという間に忘れちゃうもんだって。それに、不破さんだって、アメリカに行っちゃえば現地の女とか、向こうの会社で働く女に目が移るって。そんなもんだって」
真菜に続いて、里佳までそんな酷いことを言う。
私が合コン? 参加なんてするわけ無い。直人さんをすぐに忘れる? とんでもない。それどころか、寝てもさめても、今以上に直人さんのことで頭がいっぱいになる。そう確信出来るもの。
だからこそ、待ってるって言ったのに。里佳も真菜も、私の話で、どれだけ私が直人さんを愛しているか、分かってくれなかったのかしら……。
ていうか、現地で直人さんが他の女の人に目が移るですって!? 嫌だ、やめて。そんなこと、想像したくない……のに。
『何と素敵な金髪だ。きみのその髪に触れてもいいかい?』
『オーウ、ナオトならよくってよ。さあ、触れて? 髪だけじゃなく、私のハートにも……』
『ジェシー!(なぜかジェシー)』
『ナオト! 日本の女なんてもう忘れて、私のものになりなさい、ね?』
『もちろんだ。もう俺の心には、きみしか存在しない……』
「嫌だー!!」
突然叫んだ私に、真菜はびっくりして目を見開いているけれど、背後の里佳は可笑しそうに笑った。
「まどか得意の妄想が始まったわね」
「嫌よ、嫌!! どうして!? 別れないわっ! 誰が何と言おうと別れるものですか!」
そう叫びながら、涙がボッタンボッタン流れていくのが分かった。手で顔を覆いたいのに、身動きできない。私はただ、馬鹿みたいに「嫌だ」を繰り返しながら、涙を零すことしか出来なかった。
そしてそんな私の耳に、激しいドアを開く音が聞こえてくる。
顔を里佳越しに背後に向けると、そこに荒く息を継ぎ、顔を真っ赤にした直人さんがいた。肩を激しく上下させている。……走ってきたの? ここまで……?
「ま、まどかちゃんを、放せ!」
直人さんは足音高く私の方に歩み寄り、ぐいと肩を引き寄せた。すると、簡単に私は直人さんの胸に抱かれる。あれ……? 里佳、さっきまであんなに凄い力で私を捉えていたのに……?
何が何だか分からない私を胸に閉じ込めて、直人さんは真菜と里佳を睨みつけていた。
「ど、どういうつもりなんだ、南條さん、横峰さん! まどかちゃんのスマホを使って、あんなこと……!」
「あーら、私たちはあなたたち二人のためにと思ってやったのよ? ね、里佳?」
「そうそう。だってそうでしょ? まどかが、このまどかがよ? 不破さんがいなくて一年間、無事に普通に過ごせると思う? 仕事なんて手に付かないでしょうね。食べ物も、ちゃんと食べれるのかしら。あなたのことばかりが気になって、食事が喉を通らない、なんて事態になるかもしれないじゃないの」
「それに、不破さんだって、まどかがいない間に浮気するかもしれないじゃない。ちょっとだったらいいかな、バレないかななんて思うでしょ? だったら最初から、フリーで出張に行ったほうが気が楽でしょ? まどかみたいな、嫉妬深くてうっとおしい彼女から解放されたほうが、色々やりやすいでしょうよ」
里佳と真菜が、二人揃って言いたい放題直人さんに言い募る。
それを聞き、私はまたしてもジェシーと直人さんが愛を語り合う姿を妄想してしまい、今度こそ両手で顔を覆った。
「ひぃん……!」
思わず声を上げて泣いてしまうと、直人さんは慌てて私の手を掴み、顔からその手を外させ、そして腰を落として私を正面から見つめた。
「な、何でそんな話に……! 浮気なんて、絶対しないよ、しないから! 泣かないで、大丈夫だから……」
「あらあら、大丈夫だなんて、簡単に言っちゃっていいのかしらねえ?」
「本当よね。男の言葉と下半身は別物だからねえ」
と、またしても里佳と真菜が面白そうに言うのを聞き、直人さんはもう一度私を両手で抱きしめて、珍しく大きな声を張り上げた。
「大丈夫だって、言ってるだろ!?」
私はびくりと身体を震わせてしまったけど、でも里佳と真菜はけろりとしたまま。
更に里佳は、揶揄するような口調で、
「ふーん、そう。なら、それをどうやって証明するの?」
証明……? そんなこと、出来るはずない。
だって……私は、信じてるけど。直人さんのこと、信じてるわ。妙な妄想しちゃうけど、でも、最終的にはあなたのことを、ちゃんと信じてる。
でも、それを里佳と真菜に証明することなんて、出来る訳が無い。
未来は、誰にもどうなるのか分からない。
……そうか、だから里佳と真菜は、執拗にこんなことを言うのかな。
直人さんが、いくら大丈夫だと言ってくれても、本当に『大丈夫』の保障なんて、どこにもない。
けど、直人さんは、一瞬小さく深呼吸して、そして私を抱きしめたまま言った。
「まどかちゃん、さっきまで、俺、室長とずっと会議してたんだ」
「そ、そう……そんな時に、ごめんなさい……」
「謝らないで。違う、そういう意味じゃなくて……ええと、室長に、アメリカ出向の条件を出してきた」
条件?
首を傾げた私の身体を開放した直人さんは、私をそっと椅子に座らせ、目の前に跪いた。そして、手を伸ばして私の頬を指先でぬぐった。
「……ごめんな、泣かしちゃった。たくさん、心配掛けちゃったね。本当に、ごめん」
「直人さん……?」
「俺の出張の期間、一年間だけど。でも、毎月日本に一週間、帰ってくるようにする。会社に報告するのもあるけど、今抱えているプロジェクトも、放置しておくわけにいかないから。同時進行で進めていくには、それが一番いいと思ったんだ。仕事のことでも、ええと……まどかちゃんとのことに関しても」
毎月? 一週間?
ぼんやりと頭の中でその言葉が反芻され、私はぱあ、と笑顔になった。
だって、嬉しい! 一年間、一日か二日くらいは会えるかなと思っていたけど。
でも、一ヶ月に一週間だけでも、帰ってきてくれる。そしてその間は、直人さんを満喫出来る!
「本当に!? 嬉しい!」
私は笑顔全開で、直人さんにぎゅっと抱きついた。真菜も里佳もいるというのに。全然そんなの、気にならない。だって本当に、嬉しんだもの。
私を抱きとめてくれた直人さんの耳たぶ、真っ赤。照れちゃってる。それを見て、ますます私はぎゅぎゅっと直人さんにしがみ付いた。
そんな私を眺めていた真菜が、手にしていた私のスマホのケースを開いたり閉じたりしながら言った。
「いいの、それで。それでもたった一週間よ。残りの三週間は、不破さんに会えないよ。その間、あんた、情緒不安定になったりしないの?」
「しっ、しないわ! 一週間で、残りの分を埋めるつもりでイチャつくもの!」
何か友達にとてつもなく恥ずかしいことを言っているような気がするけど、私ははっきりとそう宣言してしまった。
直人さんは、私の言葉にピキーンと固まってしまい、その彼に今度は里佳が言葉を掛ける。
「不破さん、いい? まどかはね、基本バカだから。どんなことでも、言葉にしないと分からないのよ。察しろって方が無理なの」
ま……またしても、バカって言った! 頬を膨らませた私を苦笑して直人さんは見つめ、そして私から里佳へと視線を移動させた。
里佳は、戸惑うことなく直人さんを見下ろし続ける。
「思いをちゃんと言葉にしないと、まどかレベルのおバカさんには伝わらないわ。そういうことを、最初から考えてあげて欲しかったわね」
里佳……まさか、直人さんの口から、思いを言わせるために、こんなのことをしたの? 信じられなくて、ぽかんと口を開いてしまっていると、目の前に私のスマホがぶら提げられた。
手を伸ばしてそれを受け取ると、真菜が軽く肩を竦めて里佳を促す。
二人がこの会議室から出ようとするのを、直人さんが慌てたような声で、
「横峰さん、南條さん、あの……!」
振り返った二人に、直人さんは立ち上がり、頭を下げた。真菜は目を見開き、里佳は片方の眉を上げている。
「あの、ありがとう。まどかちゃんのこと、心配してくれて。俺たちのこと、考えてくれて……ありがとう」
その言葉を聞き、私も飛び上がるように立ち上がり、直人さんの隣で大切な友人二人に頭を下げた。
こんなに心配してくれる友達がいるなんて、何て私は幸せ者なの。
その思いで、心の中がいっぱいになる。
顔を上げると、里佳が気まずそうな顔で手を振り、ドアに手を掛けた。
「やめてよ。そういうの、私苦手なの。それに不破さんに礼を言われる筋合いはないわ」
「けどま、これでまどか、一年間ちゃんと使い物になるだろうし。仕事は安泰ねー! あ、まどか、このお礼は懐石料理でいいわ。不破さん、出張のお土産、楽しみにしてるからね。里佳、やっぱヴィトンかな。バック? 財布?」
「そうねえ、グッチもいいけどね。不破さんのセンスを頼っちゃだめよ。ちゃんと指示しておかないとね。出立の日までに、ネットでリサーチしておこう」
「そうだねー」
そう言って二人は、会議室から出て行ってしまった。
残された私と直人さんは、思わず顔を見合わせ、どちらからともなく微笑みあった。
幸せね。口ではあんなこと言ってるけど、私たちのこと、誰よりも気に掛けてくれている。
私のことを考えてくれるあなたと。私のことを心配してくれる友人と。
私は何物にも代えがたいものを手にしていることに、改めて気づいた。
「まどかちゃん……ずっと、考えていたんだけど」
私たちの他、誰もいなくなった会議室で、直人さんは静かに言った。
照れることもなく、真っ直ぐに私を見つめて。
「俺、出向するまでの間、……いや、出向から帰って来ても」
「うん……?」
「まどかちゃんと、一緒に住みたい」
またしても、脳内がフリーズしてしまった。




