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恋するアフロディーテ  作者: 沙莉
戸惑いの先に

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第2話 第二章、扉の向こうの私

直人さんは、それから何も言わずに私をぎゅっと抱き締めてくれていた。


時折髪を撫でる手が、気持ちいい。


直人さんはよく、私の髪を撫でてくれる。その大きな手から、照れ屋な彼の感情が流れてくるような気がした。



心配ないよ、俺がついているから。



そう囁いているような気がして、私は堪らなくなり、直人さんに更に強くしがみ付いた。


私、本当に甘ったれね。前からこんなに情けなかったかしら。


ううん、違う。


直人さんがくれる、たくさんの愛情に溺れている。


もっとしっかりしなきゃ。大人の女性らしく、自立して、手の掛からない彼女になるって、ついこの間誓ったばかりなのに。


私はそれを思い出し、直人さんから僅かに身体を離した。


「……大丈夫?」


直人さんが、私を真っ直ぐ見つめながら聞いてくれた。私が彼のその眼差しに応えるように目線を合わせると、少し恥ずかしそうに頬を赤くする。


まだまだ、私とじっと見つめあうの、照れちゃうのね。


私はくすりと笑い、大きく頷いた。


「うん、大丈夫。ごめんね、心配かけて。それから、ありがとう」


「いや……無理しないで。辛いこととか、グチりたいことがあったら、いつでも言って? メールでもいい。たとえ会えない時間が増えたとしても、連絡を取る手段はいくらでもあるんだから」


「うん……」


会えない時間。グサッとくる言葉だけど、でも……そうよね。今はメールがあるじゃない。電話だってある。


声を聞けるだけで、私、いつもハイテンションになれるもの。直人さんの声、電話越しだと、凄く落ち着くのよ。少し低めで、穏やかな響き。とても好き。


夜、電話をあなたとしている時。私、ベッドに潜り込む。寝転がりながら、幸せな時間を満喫して、「おやすみなさい」の挨拶の後に電話を切ったら、そのまま寝てしまうの。


あなたの声の余韻に、浸りながら。


するとね、怖い夢は絶対見ない。直人さんが、私を包み込んでくれる、そんな夢をみれる。


だから、きっと、大丈夫。


「ありがとう、直人さん。きっと私、毎晩電話しちゃうわ」


「うん、多分俺も毎晩話をしたいと思う」


直人さんがくすくすと笑うと、始業を知らせるチャイムが鳴った。まずい、職場に戻らなくては。


慌てて直人さんの膝から降り、鞄を手にしたら、ふと脳裏に真菜が過ぎった。


そうだ、真菜……入社以来、ずっと総務に所属している。仕事だって、一生懸命打ち込んでいる。


そんな彼女を押しのけて、私が主任だなんて……真菜、面白くないって思うかしら。私のこと、不愉快に感じるかもしれない。


「どうしよう……」


どうやって真菜に言えばいいの。困ってしまって、立ち尽くした私を心配そうに見下ろした直人さんに、このことを言うと、彼はなんだ、と言った顔で微笑んだ。


「きっと喜んでくれると思うよ、まどかちゃんの昇進」


「でも、私なんて総務では新参者な訳だし……」


「まどかちゃん、横峰さんは、まどかちゃんの大切な友達だろ?」


「う、うん……」


そうよ、真菜も里佳も、私の大切な友達。何でも言える、かけがえの無い友達なの。


直人さんは、俯いた私の頭をぽんぽんと優しく撫でた。


「なら、大丈夫だよ。横峰さんも南條さんも、あの、その……ちょっと怖いけど。でも、二人共、まどかちゃんを心配している気持ちは、俺にも伝わってくるから」


怖いけどって。思わず噴出してしまった私に、直人さんは安心したように笑みを深めた。優しい手。優しい笑顔。


直人さん、きっと私にしか見せないものよね? それがどれだけ、私をドキドキさせるか、知ってる?


ううん、気付いていない。だってほら、髪を撫でていた手が、私の頬を伝うもの。


お願い、これ以上は……嬉しいのを越えて、泣きたくなる。


「直人さん……」


「まどかちゃん、自信を持って。大丈夫、友達を信じよう?」


……うん、そうね。信じよう。こんなことで、友情は絶対壊れない。そう、信じる。


私は顔を上げて、直人さんににこりと笑って頷いた。



直人さんにパワーをたくさん貰った私は、気合を入れて総務に向かった。


なるようになる。そう考えるしかない。でも、尾崎主任とは、ちゃんと話をしなくちゃ。内示がなく、いきなり昇進なんて、おかしいもの。


一人「よっしゃっ!」と小さく声を上げて、頬を両手でぱちんと叩き、喝を入れた私は、総務に元気よく、と言いたいところだけど。やっぱりちょっと怖くて、そっと入っていった。


「おはようございまーす……」


私の声を聞き、席に着いていた総務部員が、全員一斉にこちらに振り返る。


ひえ! 怖い、凝視してる!!


一瞬で気合が崩壊した私が、思わず後ずさりをすると、一人立ち上がった影がある。そちらを見ると、真菜だ。


眉を潜めて、私のほうへと歩いて来る。


お、怒ってる? どどどど、どうしよう、何て言おう。


心臓がバクバクヒートアップしていく中で、おどおどしながら目の前に立った真菜に目を向けた。


「あ、あの、真菜……」


「ちょっとまどか。遅刻よ、どういうこと!?」


「え、えっと、その、ごめんなさい、これには色々と事情があって……」


事情もなにも、ただ私が一人でヘコんでいただけなんだけど。でも、それを言うべきか悩んでいたら、真菜は険しい顔のまま、私をじっと見据えている。


「大方あんたのことだろうから、あの人事異動の掲示を見たら、不破さんに泣きつくんだろうなって思ってた。フォローしてもらって、遅刻した。どう? 間違いない?」


ドキッ! ど、どうしてバレているの。


私はそうだとも違うとも言えずに、視線を彷徨わせてしまった。すると真菜は突然プッと噴出し、そしてゲラゲラと笑い出した。


「やっぱり! 何てあんたって単純に出来ているの! 聞いた、みんな! そういうことだから、今晩の飲み会はフレンチに決定ね!」


へ?


何? どういうこと?


きょとんとした私を置いて、総務部内はざわめき始めた。


「ちょっと山岸さん、もっと奇をてらった行動出来ないの!? 全く、せっかく懐石料理に賭けてたのに!」


「やったー!! フレンチ! 肉! 肉が食べれるぅー!」


……はい?


呆然とした私を放置して、何だか壮絶な盛り上がりを見せる総務部。


そんな私を覗き込んだ真菜は、ニヤニヤ笑って私の額を突いた。


「まどか、あんたが平然と普段通りに出社したら中華、不破さんに泣きついてたらフレンチ、それ以外だったら懐石って賭けていたのよ」


賭け!? 人の行動を賭けにする!? というか、その選択肢って何よ。結局私が直人さんに泣きつくか、泣きつかないか。それだけじゃない。……事実、泣きついたんだけど。


ぷう、と頬を膨らませた私に、真菜は可笑しそうに笑ってもう一度私の額を指先で突いた。今度は、ちょっと強めに。


「おめでとう、まどか。これから大変だろうけど、頑張んのよ」


そう言った真菜は、まるで自分のことのように、嬉しそうに微笑んだ。


そして総務部の皆も、私を見てにこにこと笑ってる。


いいの? 私で……私なんかで。


メイクくらいしか特技がなくて、仕事だって、言われたことを必死でこなすしか、能がなくて。


すぐにヘコんで、すぐにテンション上がる、ちょっとうっとおしいかもしれない私でも、いいのかな……。


「おめでとう!」


「頑張ってくださいね、山岸さん!」


「山岸主任って言ったほうがいいのかな。でも似合わないから、いっか、山岸さんで。とにかくおめでとう!」


たくさんの言葉と、たくさんの拍手。


それを聞いて、私は思わず真菜に抱きついた。私の心配は、全部杞憂だった。それが嬉しくて、ぎゅーぎゅー真菜にしがみ付くと、耳元でクックッと低い笑い声が聞こえた。


「まどかの力で、使えない子たちを育てていくのよ。あんたなら出来る。そう信じているわ。ふふ……」


私はびくりとして、真菜から思わず身体を離そうとした。ま、真菜、怖いよ。悪魔の笑みだよ。


ビクビクしている私を逃がさないと言わんばかりに、真菜の手が、強く私を抱き締めてくる。


「ひい!」


「ふふふ、まどか、楽しみにしているわ。少しでも、私たちの致死量並の仕事が減るように、全力で頑張るのよ!」


そ、そうだった。真菜はこういう子だった……。


私は気が遠くなるような意識を保つので精一杯で。


大丈夫かしら、私……心の中で呟いていると、総務部で尾崎主任に継いで年長の館山さんが、穏やかに微笑んで立ち上がった。


「さて、それでは尾崎さん、山岸さんの祝賀会はフレンチということで決定ね。それじゃ山岸さん、辞令よ。奥の部屋で尾崎さん達が待ってるわ」


じ、辞令……初めての経験。どういうことをするんだろう。


というか、私、これからどうなるんだろう。


やっと離してくれた真菜たちに見送られ、私は恐る恐る、総務部内にある奥の会議室の扉をノックした。


この扉を開けたら、もう引き返せない。だけど、だけど……。




私は、前に羨ましいと思った。仕事を生き生きとこなす里佳を。


他の部署を寄せ付けない、エリート集団企画室の中で、堂々と仕事をしている里佳を、私は眩しい思いで見つめてた。



これからは、彼女と似たような世界に立てる。


直人さんと並んで立つなんて、そんなおこがましいことは思わない。だけど、少しでも直人さんたちの世界に近づきたい。


そのための、第一歩。



よし。気合、再び入った。



「失礼します!」


私らしく、元気な声を上げ、少し重い扉を開いた。



この瞬間、私の社会人としての、第二章が始まったような気がした。

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