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恋するアフロディーテ  作者: 沙莉
戸惑いの先に

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第1話 望まない王冠と、秘密の会議室

呆然。まさに私は、腰砕けになって床に座り込んでしまっていた。


だって、内示、全然無かった。


なのに、突然の人事異動って……私が主任って、どういうこと!?


普通だったら、喜ぶべきことかもしれない。だけど、私はまだ総務に異動になってから、そんなに日が経っていないし、自分がそんな器じゃないことはよく分かってる。


何よりも、主任になんてなってしまったら、山のような仕事を更にこなすために、残業だって当たり前にあるだろう。


私は仕事は嫌いじゃないけど、今の私の中で一番重要なのは、直人さんと会うことなんだもの。定時後、直人さんと二人きりの時間を過ごすことが、わたしにとって一番大切なことなんだもの。


それが減ってしまうなんて。心から嫌だ。


直人さんは、私の指差した壁に張られた紙を見て、僅かに目を見開き、私とその紙を何度も見比べていた。


「え、ええと、まどかちゃん、大丈夫?」


私がのろのろと首を横に振ると、直人さんは腕を掴んで私を立ち上がらせてくれた。


「凄いじゃん、山岸さん! おめでとう!」


「まどか、出世コースに乗ったわね! おめでとう!!」


私の周囲を取り囲んでいた社員達が、そう口々に言ってくれるけど。


……おめでとう?


ちっともめでたくなんてないわ。私にとっては地獄の毎日が始まるのよ。直人さんと会えない日々。それは私にとって、地獄以外の何者でもない。


でも、お祝いを言ってくれているわけだし。皆、素直に私が昇進したことを喜んでくれているみたいだし。


「あ、ありがとう……」


そう小さく応えると、直人さんが心配そうに私を覗き込んだ。


「まど……いや、山岸さん。ちょっとあっちで休もうか。歩ける?」


「う、うん、ごめんね……」


ガクガクと膝を揺らしながらも、直人さんに支えられて、何とか第五会議室まで連れて来て貰えた。


直人さんは、鞄からノートPCを取り出し、今から三十分、この会議室を予約してくれた。


そして情けなく椅子にへたりこんだ私の前に椅子を引き寄せ、私の目の前に座った直人さんに視線を合わせる。眉を寄せた直人さんは、今日もとっても素敵で、昨日抱きついて、たくさんキスしてくれたことを思い出すと、頬が緩んでしまうけど。でも、今は私、そのことよりも、あの掲示から頭が離れない。


「まどかちゃん、知らなかったんだよね?主任に昇進すること」


「うん……尾崎主任から、何も聞かされていないの。どうして私なのかな。私、仕事全然出来ないのに。私なんかよりも、もっと相応しい人がいるはずなのに」


「そんなことはないよ。今回のこの人事は、頑張ったまどかちゃんが正当に評価されたことだと思うよ。もっと、自分に自信を持って?」


直人さんはそう言って、私の手を握ってくれたんだけど。


でも、私、与えられた仕事をこなすことしか出来ない。それ以上を望まれても、困ってしまうだけなのに。


自分のスキルとか、キャパとか。分かってるつもりだから。


重たいよ。もっと気楽に仕事をしていきたいのにな。


せっかく昇任してもらえるというのに、ズーンと落ち込む私に、直人さんは握った手を軽く揺らした。


「まどかちゃん、無理して何かを変えようと思わなくてもいいんじゃないかな?今のまどかちゃんのままでいいと思う。だってそれを見た上層部が、まどかちゃんを評価した訳だし。ね?」


「……でも、でも。今までみたいに、直人さんと毎日お夕飯食べれなくなっちゃうかもしれない。会える時間、ぐっと減っちゃうかも……」


本音を言うのは情けないけど、でも私の思いはそこなんだもの。


直人さんは、軽く目を見開き、私を掴んだ手に力を込めた。


呆れ返っちゃったかしら。私のこんな言葉。いつでもお仕事に全力投球の直人さんだものね。バカなこと言ってるって思うかな。


思わず目線を下に降ろすと、それを追うように、直人さんが私の顔を覗き込んだ。


「主任に昇進するよりも、俺との時間を大切に思ってくれるの?」


そうよ、直人さん。あなたとの時間が、私の全てなんだもの。


潤んでしまった目で、何度も頷いていると、直人さんは私から手を離して私をぎゅっと抱き締めた。


スーツ姿の直人さんに抱き寄せられ、私は何が何だか分からない。


でも、当てた耳元から、ドキドキと早い鼓動が聞こえてくる。これって直人さんの心臓の音かな……?


「まどかちゃん、凄く嬉しい」


「直人さん……」


「まどかちゃんがそう思ってくれているのも、今回の昇進も嬉しい。だって本当に、まどかちゃんは頑張っているから。それを評価してもらえて、俺も嬉しいよ」


まさか。直人さんが、こんな風に思ってくれていたなんて。


胸がキュンとなるけど、でもやっぱり私は嬉しさよりも寂しさが先に立ってしまう。


「けど……尾崎主任みたいに、毎日残業になっちゃうかもしれない。そうしたら、直人さんと休みの日しか一緒にいられない。そんなの、やだ。辛すぎる」


直人さんの首に、ぎゅっと噛り付いていたら、彼はしばらく逡巡していたみたいだけど。


でも、私を僅かに引き離し、間近で私を見つめた。


「辛い?」


「う、うん。辛い。やだ」


子供みたいに、いやいやをするように首を振ると、直人さんはくすりと笑って私の唇に、掠めるようなキスをした。


「可愛い、まどかちゃん。そっか、やか。俺もやだ。だけど、少し頑張ってみよう?」


「え……・?」


「ちょっと頑張ってみて、どうしてもやっぱり辛かったら、俺、考えるから。まどかちゃんと一緒にいる時間、増やせるように考える。まどかちゃんが辛くならないように、何とかするから。だから、少しだけ、頑張って。俺も我慢するから。ね?」


直人さんは、切れ長の目を細めて微笑んだ。


考えてくれるの?私のために。私が、辛くならないように。


嬉しい。


私がぎゅっと抱きつくと、身体を受け止めてくれた直人さんが、私の耳元に囁いた。


「おめでとう、まどかちゃん。これからもずっと、応援しているから」


「……うん、ありがとう」


ありがとう、直人さん。


おめでとうって言葉、一番先に言われたら、私はきっと素直にその言葉、受け止められなかった。


だけど私のことを考えてくれて、それから言ってくれた。優しい人。だから恋心が止まらないのよ。


あなたのことばかり。私の脳内は、直人さんでいつも一杯。


「好き。大好き。直人さん、もう一回キスして?」


おねだりするように囁いた私を膝に乗せ、直人さんは頬を赤らめてにこりと微笑み、私に顔を寄せてくれた。


さっきよりも、深いキス。これがあれば、取り合えず今日は何とか頑張れるわ。


だけど毎日、こうやってコソコソ会えるわけもない。


これから、どうしよう。私、耐え切れるのかしら。


考えてくれるっていう直人さんの言葉を信じて、頑張ってはみるけど。でも、総務の人たちと、今まで通り上手くやっていけるかな。私で、主任なんて肩書きをこなしていけるのかな。


喜びなんて、やっぱり沸きあがらない。不安がどんどこ私に押し寄せてきた。

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