第5話 アフロディーテの抱擁、メデューサの更生
初めて、男の人って怖いって思った。もちろん、全員じゃない。だけどそう思う人がいる。そしてそれに傷つく人がいる。
その事実を、私は今の今まで、全然気付かなかった。
「んだとー!? どこのどいつだ、まどかにそんな懸想を抱くクソ野郎は! 言え、芹沢!」
「……許せないな。教えて、芹沢さん。それって誰?」
派手にブチ切れる石橋さんと、静かにキレてしまった直人さんを押しのけて、私は芹沢さんの前に立った。
自分でも信じられない行動だった。だって今でも本当は逃げ出したい。だけど、私は逃げちゃダメ。私のせいで、この子が傷ついている。そして自分を傷つけている。
「……芹沢さん、もう、やめよう? 私のこと、嫌いでもいいから……」
言いながら、涙が溢れて止まらない。
だって……だって酷いよ。切ないよ。
「可哀想だよ。芹沢さんが、……どうして? あなたはこの世の中で、たった一人しかいないのに。それなのに、好きでもない人と寝て、一番傷つくのはあなたなのに……」
私は、死ぬまで恋をしたい。
そして最高の相手にめぐり合えた。
その心を繋ぐために、ずっと努力していきたい。
だって、恋っていいじゃない。心が暖かくなるじゃない。ドキドキするのって、素敵じゃないの。
なのに………身体を傷つけて、心を痛める一夜を過ごすなんて、芹沢さんの心と体が可哀想よ。
しゃくり上げながらの私の言葉。ちゃんと言葉になっているか分からない。
だけど、背後から私の頭を、優しく撫でる手が暖かい。振り返らなくても、それが誰の手か分かる。
だから余計泣けてきた。
両手で堪らず顔を押さえてしまうと、私の体が……というか、襟首がぐいと背後に引かれ、驚いた私は次の瞬間直人さんの腕の中にいた。
受け止めた直人さんも、びっくりしている。
私の目の前に、里佳が立っていて、腕を組んだまま唇を固く引き結んで涙を浮かべる芹沢さんを見下ろした。
「悲劇のヒロイン気取り? やっぱり最後までまどかのせいにするのね」
「待って………待って里佳!」
私が慌てて間に入ろうとするのを、そっと止めたのは直人さんだった。
どうして………。
里佳は、反論しようとした芹沢さんに言葉を放つ隙すら与えず続けて言った。
「あんただけじゃないわよ、そんな思いしてる女の子、この会社に腐るほどいるわ。だけどどうして、まどかが女子社員に恨まれないか分かる? まどかは、あんたと違って男に一切媚を売らないからよ。というか、行動に計算がないの。バカだから、まどかは。だから責めることができないのよ」
ひどいよ、里佳。さっきっから、私に向かってバカを連発してる。
ひどい……ありがとう……。
思わず直人さんに取り縋って泣いている私に振り返り、里佳は僅かに頬を染めて、
「猫みたいな泣き声上げて泣くな! うっとおしい!」
そう照れ隠しのように叫ぶや、両手をパンパンと打ち鳴らした。
「はいはい、もう茶番はお終い!! 仕事再開よ。解散!」
言いながら、自分の席に戻って行ってしまった。
芹沢さんを取り巻いていた男性社員たちは、女子社員たちに軽蔑の眼差しを向けられ、肩身を縮込ませながらそれぞれの席に戻る。芹沢さんに、声を掛けることもしない。
何だかそれが現実を見ているようで、切ない後に腹立たしさが私の中で沸いてくる。
「ま、女も男もそんなもんだよ。愛がなけりゃ、所詮な」
そう言った石橋さんの言葉が、一番真理をついているような気がするけど、それってやっぱり空しいだけだ。切なさがただ残っただけのような気がした。
給湯室に連れて行かれた私は、ハンカチにくるんだ氷で頬を冷やしてもらっていた。芹沢さんに殴られた跡だった。
殴られたのって初めてで、冷やしておかないと後でとても腫れてしまうんだって。知らなかった。
自分で出来るって言ったのに、直人さんは忙しいにも関わらず、私のことを心配そうに見つめながら氷を当て続ける。
「口の中、切れてない? 痛いところ、他にない?」
「大丈夫よ、もう。あの……ごめんね、直人さん」
腰を屈めて私を見つめる彼に、私は少しだけ目線を逸らして謝った。
だって、凄く恥ずかしい思いをさせてしまった。彼女が、会社で壮絶なケンカをしたなんて。彼氏として立場ないわよね……。
思い返せば思い返すほど……あああ、穴があったら入って閉じこもって、しばらく引きこもりになってしまいたい!
殴られたせいじゃなく、頬を熱くしてしまっている私の頬からハンカチを外し、しばらく撫でていたと思ったら。
「まどかちゃん、俺を見て?」
「え?」
その言葉に驚いて、すぐ傍にいる直人さんに目を向けた。
彼は眼鏡越しの切れ長の綺麗な目を、悲しそうに細めていたと思ったら、何か心に思ったことがあったのか、小さく一人頷くともう一度私の頬をそっと撫でた。
「俺のために、怒ってくれてありがとう。……俺を守るために、怒ってくれたんだよな。ありがとう。ごめんな……」
胸が、一挙にキュンと来た。
何も言わなかったのに。ケンカの原因、言える理由でもないから、黙っていたのに。
なのに、全部お見通しなのね。
私は嬉しくなって、直人さんに抱きついた。それを抱きとめてくれた直人さんは、一瞬。
掠めるようなキスをしてくれた。
これだけで、充分よ。全てが報われたような気がするわ。
なのに、直人さんは更に囁いた。
「誰が何を言おうと、俺はずっとまどかちゃんの味方だから。きみが俺を思ってくれるよりも、もっともっと、まどかちゃんを大切にしていきたい」
「直人さん……?」
「今回のことで、まどかちゃんを俺、守りきれなかった。ごめん、ごめんな……」
なんで、そんな風に思うの。全然、そんなことない。だってちゃんと、芹沢さんに言ってくれた。私、凄く嬉しかったのよ。
私には、あなたがいる。私の全てはもはやあなたなの。
相変わらず暴走気味の私だけど。しっかりと繋ぎとめて、受け止めてね?
だから私も、囁いた。
「もっと強く、抱き締めて……」
私の望みを叶えてくれる、暖かい腕。これがあれば、どんな過酷な宿命を背負わされたって、ガンガン立ち向かっていけるわ。
直人さんの胸の中で、やっぱり結局私って幸せなんだなあと、浮かぶ笑顔を止められなかった。
その後、私にとっていいのか悪いのか……。
企画室内で、大きな変化が訪れた。
今まで女子社員からワースト2と言われていた、直人さんと石橋さんの株が、一挙に急上昇したんだそうだ。
「そりゃあねえ、あのメデューサに陥落されなかったんだからね、最後まで。まあある意味褒めてやってもいいかもね」
とは、そのメデューサに止めを刺した南條女史のお言葉。最近、里佳が企画室最強の人物ではないかと思い始めている私は、この食堂でコーヒーを口に運びながら、苦笑をするしかない。
「けど、でも……」
私が言いかけた、その時。
「山岸さぁん!」
甘ったるい可愛らしい声がした。私はギクリとしてその声の方に振り返ると、芹沢さんが満面の笑みで私に手を振り、こちらへやってくる。
「渦中の人物よ、まどか、頑張んなさい」
人事のように言う里佳と、肩を竦めて傍観を決め込む真菜を軽く睨んでいると、芹沢さんは私の隣に立ち、キラキラとした笑顔を浮かべた。
「今、総務へ行ったんですけど、こちらにいらっしゃるって聞いたので」
芹沢さんは、あれから別人のように私に懐くようになってしまった。一体どういう心境の変化があったんだろうか。だってあれほど私を憎んでいたらしいのに……女心って良く分からない。
「そ、そう。どうしたの? 何か用?」
戸惑った私が聞くと、彼女は私にズイッ! と一枚の紙を差し出した。それを首を傾げながら受け取ると………えええ!! 退職届!?
「せ、芹沢さん、これ!?」
「ええ、退職届ですぅー。山岸さんに、処理してもらいたいなって思って」
「や、辞めるの? ええ、どうして? あの、もし企画室に居辛いんだったら、他の部署に……」
そりゃそうよね、企画室の男連中とほとんどそういう関係になったっていうのがバレたら、仕事もし辛いに決まってる。総務にも戻りたくないだろう。でも、庶務はどこの部署でもあるから……そう思った私に、芹沢さんは大きく首を振ってにこりと笑った。
「いいえ、辞めます。私、変わりたいんです。山岸さんに言われて、とても嬉しかったんです。私、これから自分自身を大事にしていきたいんです。でもそれには、ここの会社じゃ無理だから」
「そんな……全然関係ない部署だったら、人事部にお願いすればきっと……」
「いいえ、私は社内の女子社員に敵を作りすぎました。それに、やっぱり山岸さんの存在、大きすぎるんです」
私の、存在……。
芹沢さんにとって、やっぱり私はうっとおしくて邪魔な存在なんだろうな……。
しょぼんとしてしまった私に、芹沢さんはくすりと笑って腰を屈めた。そして私の顔を覗き込む。
「山岸さんって、顔ばっかりキレイな人だと思っていたんですけど。でも本当は素直で可愛い人なんですね」
「え?」
「山岸さん、私なんかのために泣いてくれたじゃないですか。それを見て、胸が射抜かれちゃいました。自分にこんな性癖があるなんて、知らなかった」
せ……せいへき?
瞬きをする私の眼前に、迫りくる可愛らしい顔。
うそ…………嘘ーーーーー!!
「ごめん! 遅くなっちゃった、山岸さん、もう食事……」
背後から聞こえた、言いかける直人さんの声。イヤッ! 何で、何がどうしてこうなるの!?
私の唇に、柔らかいものが触れ。
そしてそれが離れると、眼前で芹沢さんがにこりと、それはそれは可愛らしい顔で微笑んだ。
「餞別、ご馳走様でした」
そして声が出ない悲鳴を上げる私と、爆笑している里佳と、「生で凄いもの見たわ……」と感嘆している真菜と。
そして、
「ま、ま、まどかちゃ……!」
動揺しまくっている直人さんを置いて。
芹沢さんは、颯爽とこの会社を去っていってしまった。
残された私には、新たな異名がついた。
メデューサをも堕としたアフロディーテ。
あんまり、嬉しくない……。




