第3話 聖域への冒涜と、荒ぶる女神
私よりも小柄な芹沢さん。なのに、腕を組んで私を挑戦的に見上げるその姿は妙に堂々としていた。
「で? 何しにいらしたんですか、わざわざここまで。噂が本当だから、焦ったんですか?」
「な……噂が本当って、どういうこと!?」
思わずカッとなって言うと、芹沢さんは薄い笑みを口元に浮かべたまま、直人さんのデスクまで歩いていく。そして、フリーズしていたパソコンのディスプレイの縁に指先を当てた。
「だってそうでしょ? 不破さんは、山岸さんの知名度を利用してるじゃないですか。二人が付き合う前と後じゃ、上層部の評価って大分違うんじゃないですか?」
何を……何を言っているの、この子。
上層部の評価? そんなの、知らない。
直人さんは、前からバリバリ仕事していたもの。私とお付き合いを始める前も、その後も、変わらず仕事に打ち込んでいる。むしろ、私とお付き合いをしてから、私に合わせてくれる時間が増えてしまった。残業を減らしてくれている彼に、申し訳なく思ってしまうことがあるもの。
だってその分、家に持ち帰って仕事している。私との時間も、仕事も大事に思っている直人さんを知っているから、悪いなあと思うけど、その気持ちが嬉しいんだもの。
なのに……何てことを言うの、芹沢さんは!
「私は、あなたが言うほど上に影響力なんてないのよ? 無闇に不破さんを蔑むのはやめて貰いたいわね」
目を眇めて私が言うと、芹沢さんはまるで哀れなものを見るかのような眼差しを私に向けて、肩を小さく竦めた。
「そうですかね? だって山岸さん、次期総務主任でしょ?」
「は?」
「尾崎主任が考えていることくらい、総務の誰もが分かっていると思いますよ。尾崎主任が係長になれば、主任の席に誰が座るのかって考えたら、その尾崎主任自らハンティングした山岸さんが適任でしょう? そして尾崎主任のご主人は、開発部長ですしね。山岸さんにゴマ摺っておいたほうが、不破さんにはメリットがあるでしょ」
ム……ムッカー!!
私を非難したり中傷したりするのは、頭にくるけど我慢できる。
だけど、……だけど直人さんをここまでバカにするなんて!!
今も、直人さんは数多くのプロジェクトを抱えている。総務に来て、更に直人さんの大変さが分かる様になってきた。
直人さんが関わる仕事の量の多さに、驚くほどだもの。それでも彼は、今までと一つも変わらずに、少しばかり照れたような笑みを私に向けてくれる。二人の時間を大切にしながらも、仕事に手を抜かずに頑張っているんだもの。
その彼の努力を何一つ知らないくせに!
「ちょっと、私自身のことと不破さんのことは関係ないでしょ!」
「そうでしょうか? 山岸さんのルックスや知名度、上司からの受けがなくても、不破さんは山岸さんとお付き合いしてますかねえ? 男なんて、利用出来るものは利用してやろうって考えている生き物なんじゃないですか。山岸さん、利用されているのにそれを認めたくないんだ、かわいそ」
薄笑いを浮かべた芹沢さんを見て、私の中で大きく激しく、ブッチーンと何かが音を立てて切れてしまったのが分かった。
キレるってよく聞く言葉だけど。まさにその瞬間だったような気がする。
「撤回しなさいよ」
静かに私は芹沢さんを見据えた。彼女は、薄笑いを浮かべたまま眼を細めた。
「はい? 何言ってるか、意味分かりませーん」
「撤回しなさいって、言ってるのよ! 直人さんをどこまで侮辱すれば気が済むの!」
もう止まらないわ。キレたなんて初めてだけど、こんなになっちゃうものなのね。
私が芹沢さんに詰め寄ると、彼女は突然眦を上げて、手を勢いよく振り上げた。そしてそれが降ろされたかと思うと、私の頬に熱を帯びた痛みが走る。
思わず息を飲んで、自分の頬に手を当てた。そこが、ジンジンと痛い。
殴られた。
生まれて初めての出来事だった。
呆然としている私に、芹沢さんは、今まで息を飲んでいたんだろうか。荒く息継ぎをしながら、私を強く睨みつけていた。
「ムカつくのよ! どうして自分の悪口を言われて文句を言わずに、不破さんのことになるとそんなにムキになってんのよ! どこまで良い人ぶれば気が済むの!?」
そう叫ぶなり、私の髪をガシッと掴んだ彼女に対抗すべく、私も芹沢さんの顔面に手を当てて引き剥がしに掛かった。
「い……痛いわね、離しなさいよ! 私の影響力なんてねえ、高が知れているわ! そんなの、直人さんを作る一部にもなりゃしないのよ! 何を勘違いしているのよ!」
「分かっていないのは山岸さんじゃないよ! こんだけ男の人にもモテて、女子社員にも頼りにされて! それで影響力無いなんて、本気で言ってるの? すんごい自己欺瞞! 最低だわ、やっぱ! 不破さんある意味見る目あるわ。最低男に相応しい、最低女!」
ムッキー!!
私は腹の底から湧きあがる怒りを抑えることが出来ずに、芹沢さんの頬をギューッとつねり上げた。
「そういう生意気な意味わかんない口を聞くのはコレか!?」
私が芹沢さんの可愛らしい顔をつねり上げ、芹沢さんが私の髪を掴んで引っ張る。
ぶちぶちと音を立てて、私の髪が切れていくのが分かるけど、そんなことはどうでもいい。謝罪の一言がなければ、絶対許せない!
「謝りなさいよ!」
「何で謝らなくちゃいけないのよ、本当のことじゃないよ!!」
私と芹沢さんが、醜い争いをしているのに、たまたま資料を取りに来た企画室の女子社員が気付き、目を瞬かせて、直後血相を変えて何かを叫びながら企画室を飛び出していく。
その後も私と芹沢さんは、時折ヒールの先でお互いを蹴り飛ばしながらも、「謝れ」「謝らない」を繰り返している。
もう、脳内が真っ白。だけど、絶対許せる気持ちにならなかった。こんなに人に対して腹立たしい思いをしたのは、生まれて初めてだった。
ぎゅーぎゅーと芹沢さんの頬を掴んでいた私の指先に、大きな手のひらが添えられた。
その暖かいぬくもりに、はっと意識を取り戻す。
気付けば、私を背後から抱き締めて、私の手を芹沢さんから引き離そうとしていたのは直人さんだった。
「どうしたの、まどかちゃん! 離して、とにかく、落ち着いて!」
前を見れば、芹沢さんを背後から羽交い絞めにして止めようとしている、土屋さん。その彼に、芹沢さんは罵りの言葉を浴びせ、目を吊り上げて私に更に掴みかかろうとしている。
周囲には、企画室の面々が、驚いた顔で立ち尽くしている。
それをゆっくりと見渡し、私は目の前が霞がかってくるのを感じて。
力を徐々に、直人さんの手のぬくもりに預けて緩めていった。
「っ……な、直人さん……」
「うん、まどかちゃん、大丈夫、俺、ここにいるから。手、こっちに寄越して」
直人さんは、優しく私の芹沢さんを掴んでいた手を誘導して、彼にしがみ付かせてくれた。
柔らかい頬を掴んでいた手は、今、直人さんのスーツを握り締めている。
何も聞かないの? 怒らないの? みっともない、罵りあいをしていたのに。
ごめんなさい。あなたに恥ずかしい思いをさせている。そう思うと、更に泣けてきて。
私は直人さんの胸に縋って泣いてしまった。
「だって……やだ、ふぇ、やだよぉ……!」
まるで子供みたい。わんわんと直人さんの胸で泣いていると、上から至極冷静な彼の声が聞こえてきた。
「芹沢さん、彼女の髪から、手を離してくれないか」
「何でよっ! 私が一人悪者!? 不破さんは山岸さんの彼氏だから!?」
「彼氏、彼女は関係ない。ここまで彼女のものを奪い取れば、もう充分だろ?」
そう言って、直人さんは私の髪を掴んだ芹沢さんの手を外させた。息を飲む声が、周囲から聞こえてくる。
芹沢さんの手には、ちぎれた私の髪が、ごっそりと掴まれていた。
それに本人も驚いたようで。無言でいると、直人さんは私の肩に手を掛けて、腰を僅かに落として私と同じ目線に立った。
「まどかちゃん、大丈夫?」
「え……あ、うん、ごめんなさい……」
慌てて目元をポケットから出したハンカチで押さえていると、直人さんは私の頬に……芹沢さんから殴られた頬に手を何度か当てて、そして身を起した。私を、片手に抱きかかえたまま。
「芹沢さん。いくつか、庶務担当としてのきみに、言っておきたいことがある」
直人さんが、あの、直人さんが。
照れ屋で、人に意見なんてとてもじゃないけど言えない人が。
静かにそう、言いはなった。
しん、と静まり返った企画室。芹沢さんの忌々しげな眼差しが、私と直人さんに向けられていた。
それがこの部屋の空気を、ぞっとするくらい冷え切らせていた。




