第2話 仮面を脱いだメデューサ
満喫してしまった。
直人さんを独り占めしたあの夜。帰りの電車が無くなるまで、ワガママ言って直人さんに抱きついて甘えまくって。
「やだ、帰らないで。もう少しいて?」
私のアパートで、ギューギュー直人さんに抱きついたら、彼は恥ずかしそうな、嬉しそうな、でもちょこっと困ったような微笑を浮かべて、黙って私を抱き締めてくれた。
言葉なんていらない。ただ、このぬくもりがあればいい。
私を包み込んでくれる、腕と胸。そして直人さんから漂う、何とも言えないいい香り。
私が悩んでいることなんて、どうでもいいことのように思えた。
いいじゃない。そうよ、どうでもいい。私にはこの人がいる。
だって、四年も片思いだったのよ。近くにいたけど、遠かった。
それが今は、私だけの直人さんでいてくれる。それで充分よ。それ以上望むなんて、贅沢の極みだわ。
そう、直人さんさえ私傍にいてくれたら、それでいい。
私は直人さんの胸の中で、幸せな気分を満喫させてもらった。充電完了したって感じ。
そのお陰で、次々と聞かされる私への批判的な噂を全て笑い飛ばせるようになった。
でもそれは、直人さんから貰ったパワーだけじゃない。申し訳なさそうに、または憤然としながら教えてくれる人たちの言葉が、私に更に勇気をくれた。
「山岸さんに限って、そんなことないと思うって言っといたわ。全くなんでこんな噂が飛び交っているのかしらね」
「まどか、頑張ってるのにね。そんな噂を流すやつが、性格悪いっつーの!」
何て言って、私のフォローをしてくれて。
ああ、繋がりって大事なんだな。今まで私に、『アフロディーテ』としての依頼をしてくれた人たちはこぞって私を庇ってくれる。
何だか申し訳ないのと、嬉しいのと。
複雑な感情が入り乱れるけど、でももうショックは受けずに済んでいた。
「ごめんね、ありがとう。でもきっと、私に何か落ち度があってその人を傷つけたんだと思う。これから、気をつけるようにするね」
そう返事をするようにしていた。だって、証拠もないのに芹沢さんが噂を流したかもしれないなんて、言えない。
大人な対応が出来ていたと思う。この日までは。
ところが、私のこの大人な対応をぶち壊しにさせる噂を聞いてしまった。
それを運んでくれたのは、同じ総務の真菜だった。
彼女は今まで、一切私に関する噂には口出ししなかったのに、この日に限って心配そうに眉を潜めて私に言った。
「ねえ、まどか。不破さんとの仲、大丈夫だよね?」
「え? どうして? いたって円満よ?」
そうよ、円満過ぎるほどよ。今日だって一緒に夕飯食べるもの。
今日は全部の料理が300円均一という面白いお店に連れて行ってくれるらしい。
新橋にあって、サラリーマンばかりが集うみたいなんだけど、直人さんからその話を聞いて、ぜひ行ってみたい! とお願いしたのだった。
凄く楽しみだなあ。一杯飲み屋みたいなところかしら。そういうお店って行ったことない。どんなところかなあ。
ぽわーんとニヤケ顔で想像していると、真菜は私にずいと顔を寄せて囁いた。
「あのね、実は妙な噂を聞いちゃったんだけど」
「また噂話? もう何を聞かされても驚かないわよ」
私が苦笑して手を振ると、真菜は僅かにほっとしたように、私の隣に椅子を引き寄せて座り込んだ。
「そう? だったらいいけど。何でも不破さんが、まどかを利用するためにあなたと付き合ってるんだって、そんな噂だったのよ。そうだよね、どうせデマだもの、大したことないよね」
「え……?」
「いや、ね。まどか、ほら、上司にも受けがいいじゃない。特に企画室長なんかは、まどかをまるでわが子のように可愛がってるでしょ? それを利用して、出世に繋げるために、まどかと付き合ってるって。そんな噂だったの。だけど有り得な……」
「何ーーーー!?」
言いかけた真菜の言葉を止める、私の叫び声。
な……な……何ですって!?
私は眦を上げて、バンッと机を叩いて立ち上がった。それにびくりと身体を震わせる真菜。
ああ、ごめんね、驚かせてしまった。
だけど……だけどそんな噂まで蔓延ってしまっているなんて。
直人さんが、私を利用して付き合ってる!? そんな訳ないじゃないの!
確かに直人さんはキレがいいし、頭の回転も素晴らしいけど、でも。
激しい照れ屋さんで、本人が認めるほどちょこっとニブチンだもの。私を利用してお付き合いなんて器用な真似、出来るわけなどないじゃないの。
私を中傷する噂話だったら、まだいい。
だけど、直人さんまで標的にする!? そこまでやるか、メデューサ!!
私の中で眠っていた戦闘心が、またムクムクと頭をもたげてくる。
私の愛する直人さんを、傷つけるようなことまでするなんて。絶対許すまじ!!
ブッチーンと私の中の何かがキレた。もうダメ。もう限界。
「真菜っ! 私、ちょっと企画室まで行ってくるわっ!」
鼻息荒く私がそう言い放つと、真菜は私の放つオーラに慄いたのか、「い、行ってらっしゃい……」と手を振った。
私はもう、怒りで体中が震えるよう。信じられない。どこまで卑怯なマネをするの!
ブツブツと私が呟きながら、ヒールを音高く鳴らして歩くものだから、通り過ぎる人たちがぎょっとして振り返るけど、気になんてしてられない。
直人さんに攻撃の牙を向けたメデューサ。それを後悔させてやるわっ!
企画室に入ると、そこには人がほとんどいない。そうか、今日は金曜日。企画室内会議の日だった。だけど、芹沢さんはいるはず。
メデューサこと、芹沢茜。問い詰めて、直人さんを穢した罰を償わせてやるっ!
気合を入れた私が、芹沢さんを探していると……いた。無人の企画室で、たった一人席に座り、こともあろうか雑誌なんて広げているし! まだ就業時間内なのに!
でもそれは二の次よ。とにかく謝らせなくては、私の気がすまない。
「ちょっと芹沢さん、話があるの」
私は我ながら引き攣った笑顔だなと思いつつも、微笑を浮かべて芹沢さんの席に向かった。
彼女は私を半眼で見上げ、笑顔一つ浮かべずに言った。
「なんですか?」
どうなの、この態度。他の社員がいるときと全然違うじゃないの。
やっぱりメデューサは私を憎んでいる。その話は本当だったらしい。
だけど……だったら攻撃の標的は私だけに絞ればいいじゃないの。直人さんは、関係ないじゃない。というか、私の一番大切な人を陥れるそのやり口。許せない!
私自身も浮かべた笑みを消し、手を勢いよく彼女の机に叩き付けた。思ったよりも大きな音が出て、芹沢さんも僅かに驚いたように目を見開く。
「あのね、私のことで、妙な噂が流れているの。知っている?」
「ああ、山岸さんが引き継ぎも満足にしないで総務に行っちゃったこととか、化粧を人にやってあげて、点数稼ぎをしているとかですか? 大変ですよね、嫌われないように人脈作るのに努力して。私にはとってもそんなマネ出来ません」
しれっとして芹沢さんは、片方の唇を嫌味ったらしく上げて言う。
こ、この……! 何たるアクドイ顔!
初めてここに挨拶に来た時の、可愛らしい笑顔は全く消えて面影もない。
あれは、演技だったのかしら。それにすっかりと騙されていた私。何と情けない。
ムカムカしてくるけど、それをかろうじて押さえつけて、私は小さく深呼吸した。
ここでキレたらお仕舞いよ、きっと彼女にいいようにされてしまう。落ち着け、まどか。冷静になるのよ。
私は再び口元を笑みづくった。だけど目は正直なもので、そこまで微笑を浮かべるのは無理。傍目からみたら、私の方が充分怖い顔をしていたかもしれない。だけどそんなことを気にする余裕はなかった。
「そんなことは、どうでもいいのよ。いちいちあなたに私の思いを説明する理由はないから。それよりも、どうして不破さんの悪口まで噂が流れているのかしらね?」
「へえ、もう山岸さんの耳に入ったんですか。早いですねえ、その噂を流したのは、昨日のことなのに」
芹沢さんは、フワフワしたウェーブの髪を靡かせて立ち上がり、私を挑戦的に見上げた。
こ、この子……! 自分で噂を流したことを認めたわ、信じられない!
もう私には、あの可愛らしい……じゃなく。カマトトぶった態度を繕う必要性を感じないらしく。
あくまでも敵意に満ちた眼差しを向けてくる。粘っこく、冷ややかな眼差し。
ぞっとするほどのその目線を受けても、私は怯まない。だって私には、護るべきものがある。
そのためには、どんなことでもしてやるわ。
私と芹沢さんの間で、見えない火花が散った気がした。




