第1話 隠されたデマと、心の避難所
きーんこーんかーんこーん。
定時だ! 仕事が終わった。早く直人さんに会いたいのは山々だけど、今日は前から約束していた『アフロディーテ』としての依頼がある。
泣く泣く直人さんに携帯からメールした。
『ごめんね、なるべく早く行くようにするから。悪いけど、里佳の相手をお願いね』
今日は里佳が私に奢れ、そしてグチを聞けとのことで。申し訳ないけど、直人さんに先に里佳と店に行ってもらうことにした。
正直、直人さんが女性と二人きりになるなんて面白くないけど、でも私が悪いんだし、相手はあの里佳だし。
変なことになるはずもなく……というか、直人さんがちょっと可哀想な気もするけど。
そうお願いしたメールを送ったら、返事は意外なほど早かった。
『気にしないで。頑張ってね』
短いメールの返信。だけど、きっと一生懸命打ってくれたんだろうな。スマホの操作、苦手だって言ってたから。それに、頑張ってね、だって。
うふふ……ふふ。
頑張るわよ! 私は常に全力投球だもの。それしか、取り得ないもの。それに、好きでやっていることだもの。こうして、メイクの依頼をしてもらえるの、嬉しいから。
だから今日の依頼主二人組に、気合を入れた全力メイクを施した。
二人とも、夏の日焼けがまだ残っていた。UV対策はしていないみたい。
鏡で自分達の顔と、お互いの顔を見合わせて、「すげー!!」を連発している二人組……総務のマーケティング担当の子二人に、私は彼女達が持っていたコントロールカラーを手に取った。
「冬でも、日焼けするのよ。だから、UV対策しないとね。二人とも、日焼けしやすい体質みたいだしね。あまり厚く塗ってもダメよ。日焼け止めを薄く塗って、このピンクのコントロールカラーを乗せてね。それからファンデーションを鼻と口元は薄く、後は首筋までちゃんと塗っておくといいわ」
私の説明を、うんうんと真剣な顔で聞いてくれている。仕事もこの調子で頑張ってくれると嬉しいんだけどなあ。
思わず苦笑を浮かべながらも、一通り今日施してあげたメイクの説明を終えると、いつもよりもぐっと大人っぽいメイクに仕上がった二人組は、顔を見合わせて立ち上がり、そして驚いたことに私に深々と頭を下げた。
「山岸さん、給料でねえのに、マジありがとうございました!」
「噂には聞いてたけど、ここまで丁寧に教えてくれるなんて、思ってもみなかったっす。本当嬉しいっす!」
私はびっくりして、慌てて手を顔面で振った。
「やだ、そんな。趣味でやっていることなんだから、気にしないで!」
「いや、でも。……ねえ?」
「うん。あいつ言うほど、絶対嫌なヤツじゃないよね?」
うん? あいつ? 嫌なヤツ? あれ? 私のこと?
?マークが頭の上で飛び交っている私に、一人がおずおずと上目遣いで私を見上げた。
「あの……言いづらいんですけど、でも耳に入れといたほうがいいかも」
「うん、そうだよね、あの……芹沢のことなんすけど」
ドキッと心臓が打ち鳴った。
今、私の心の中で心配事というか、戦闘心を掻き立てられているというか。
目の前で、私を攻撃的な眼差しを向けた芹沢さん。彼女が、まさか噂のメデューサだと知ったのは、今日のこと。
そして彼女は、私をなぜか憎んでいるらしい……どうしてなの。
理由が、全然分からない。
もし、私が何か彼女の気に障ることをしてしまったのなら、素直に謝りたいけど、でも、今まで芹沢さんと私に共通点が合ったわけじゃない。
もちろん企画室の庶務担当だった頃は、ちょくちょく総務に顔を出していたから、芹沢さんのことを見たことはあったけど、直接会話をしたことなんてなかった。
そんな彼女が私を嫌う、ではなく憎む……その原因がさっぱり思い当たらない。
直人さんのことを、もしかして好きだった?
それは違うような気がする。芹沢さんの直人さんに対する態度と、他の企画室員に対する態度を見比べても違うと思う。
だったら、どうして……深い思考の底に沈みそうになった私に、申し訳なさそうに二人組が教えてくれたのは。
「芹沢、山岸さんが意地悪をして、仕事を全然教えてくれないって」
「そうそう。山岸さんが、中途半端に総務に行っちゃったから、後処理するのが大変だって、言い触らしていましたけど……」
やっぱり。そうなんだ、そういうこと、触れ回っているんだ。
覚悟はしていたけど、さすがに少しばかりショックを受けてしまった。
どこまで言い触らしているんだろうか。芹沢さんの人間関係なんて、私知らないもの。
だけどそれを否定して歩くのも大人気ない。そしてキリがないように思えた。
私は落ち込んだ心を隠して、困ったように笑ってみせた。
「そう。芹沢さんには申し訳ないことをしたわね。引継ぎが足りずに、私の説明不足で、彼女に仕事を増やしてしまったみたいで。ちゃんとそのうち、説明しておくから」
「あ、いえ、絶対そんなことないっすよ!」
「そうですよ、私もその話最初聞いたとき、山岸さんて性格悪ぃーって思ったけど。でも、今は芹沢がデマ流してるって分かりますから!」
必死で言ってくれる二人の気持ちが、凄く暖かくて嬉しかった。
まだ、私、総務に来て間もないけど。
でも、こうして少しずつ信頼を得てきているのかなと思うと、何か泣きそうになってしまった。
こっそりと目元を押さえて、私はにこりと笑みを浮かべて二人の肩をぽんぽんと叩いた。
そして、言葉にしたのは、別のこと。
「ありがとね。これから、あなた達も仕事忙しくなると思うけど、一緒に頑張っていこうね」
私の顔を心配そうに見つめていた彼女達は、お互いに目を向けて。そして嬉しそうに微笑んで大きく頷いた。
芹沢さんが、私を憎んでいるという現実を目の当たりにして、私は少しばかりしょぼくれながら、直人さんが探してくれた店に入った。
入った瞬間、桃色の可愛らしい壁紙に目を捕られる。
店内の装飾、凄く可愛い。ところどころに陶器の猫の置物が飾られていて。暖かい色のシャンデリアは、華美過ぎずにいてとても落ち着く。
私の好みの店、一生懸命探してくれたんだな、直人さん。
何か今日、私涙腺壊れているのかしら。そう思ったら、涙がぽろりと零れてしまって、それに自分で驚いた。
慌ててハンカチを取り出し、目元をきゅっと押さえて心を落ち着かせていると、店員が私の元へとやって来た。
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
「あの、もう先に連れが来ていると思うのですけど、あの、不破なんですけど」
「はい、ではご案内致します」
直人さんはいつも自分の名前で予約しているからと、直人さんの名前を出したのは正解だったみたい。
案内してくれたのは、窓際の席で。四人がけのテーブルで、ビールのジョッキを豪快に煽っている里佳と、困ったようにジョッキを握ったまま硬直している直人さんがいた。
「でさー……ちょっと聞いてんの!? 全く表情が無いんだから、不破さんは!」
「え、あの、ちゃんと聞いているけど……」
そしてちらりとこちらに目を向けた直人さんは、ほっとしたように微笑を浮かべて立ち上がった。
店員に頭を下げて私がそのテーブルに歩み寄ると、直人さんは私を奥の席……つまり里佳の前の席に座らせてくれて、直人さんは私の隣に腰掛けた。
「遅い!」
私を出迎えた里佳の一喝。でも、何かほっとした。
私はほっとして……またしても泣きそうになるのを必死で堪えて微笑を浮かべた。
「ごめんごめん。直人さんも、ごめんなさい、遅くなっちゃって」
「いや、お疲れ様。ビールでいい?」
そう柔らかく微笑む直人さんに大きく頷いた私。
うん。冷たいの、キューッて飲みたいな。さっきの里佳みたいに。
にこにこと私が笑っていると、里佳はカラになったグラスを端っこへ押しやり、直人さんが店員を呼ぶのを見て、「私もビール追加!」とずうずうしくも言い放った。
「まどかさあ、不破さんと付き合っててどこがいいのかって思ってたけど。だって、不破さん本当に表情無くて笑顔見せないし。だけど、あんたが今来て、何か分かった」
はい?
何を突然。
きょとんとした私をフライドポテトで差した里佳は、面白く無さそうな顔でそのポテトを直人さんに向けた。
「別人じゃない、不破さん。ずっと人の話を半分くらいしか聞かないでさ、表情フリーズさせたまま、チラチラ出入口見てるしさ。なのにあんたが来た途端、にこにこしちゃって。あーあ、やってらんない」
えええ!?
私はびっくりしちゃって、里佳と、ビールを注文してくれた直人さんを見比べてしまった。
すると里佳はふて腐れたような顔をしていて、直人さんは話を聞いていたんだろうな。カーッ! と顔を真っ赤にしちゃって、俯いてしまっていた。
「そ、そんな。にこにこだなんて。俺は別に、普通に……」
そう言い掛けた直人さんを、里佳は速攻阻止して、そして断言した。
「しています。にこにこと、それはもう嬉しそうに。全くうっとおしいったらありゃしない」
里佳の言葉に、直人さんは更に口ごもってしまったけど、でも。
私はとっても嬉しくて、思わず里佳の前だというのに、直人さんの腕にぎゅっと掴まって彼を見上げた。
目をぱちくりさせている直人さんを、ただ見上げるだけ。言葉はいらないよね? これだけで、私の嬉しい想い、届くよね?
うん、きっと届いたはず。だって直人さん、顔をいまだ真っ赤にしながらも、私の胸がきゅんとなる微笑を浮かべて、空いている手で私の頭を撫でてくれたから。
それだけで、充分。
意外に逞しい直人さんの腕にすりよって、満喫している私を里佳が呆れたように見ているけど。でも、今だけは許して。
胸に溢れる負の感情。直人さんの暖かさで、消したいから。消えていくのが、分かるから。
もう少しだけ、直人さんに甘える時間が私には必要だった。




