第6話 メデューサの罠、アフロディーテの決意
里佳に強引に今晩奢らされることが決定してしまった。
折角の直人さんとの二人きりの時間なのに……でも、里佳の言葉も気になる。
殆どの企画室男性社員が、彼女に陥落した。
陥落って凄い表現なんだけど……一体どういう意味なんだろうか。
悶々と考えながら、仕事をしていた私を尾崎主任が手招いた。
何だろう? 首を傾げながら彼女のデスクまで行くと、尾崎主任はひらひらと一枚の書類を私に振って見せた。
「記入漏れ。確認ミスね、差し戻ししてきてくれる?」
あらら、でもしょうがない、こういうことってたまにあるもの。
私は頷いて、その書類を受け取って、部署を確認すると。
何と、企画室だった。
私は今、どういう顔をしているんだろう。自分自身では分からないけど、尾崎主任は顎の下で指を組み、可笑しそうに私を見上げていた。
「あなたが庶務をやっていた頃は、こんなこと無かったのにね? もう、あの子が庶務担当になってから五回以上もこんなことがあるわよ」
「え……!?」
この短期間で、五回以上!? それは多すぎる。ニアミスとだけでは言い切れない。
私が黙りこくってしまうと、尾崎主任は軽く手を振って苦笑した。
「悪いけど、芹沢さんをもう一度教育しなおしてきて? あなたも仕事をたくさん抱えていて大変なのは分かるけど、でも元企画室の庶務だったあなたに教えてもらうのが一番いいと思うから」
「……はい、室長とちょっと相談して、日時を決めたいと思います」
「そうね、そうして。その都合は、こちらでもつけるから。よろしくね」
そんなに難しいことではないんだけどなあ。それにちゃんと、教えたはずなのに。芹沢さん、新しい部署に配属されて緊張しているのかしら。
緊張……? しているようには、見えなかった。だけど、目に見えないプレッシャーがあるのかも。
そう思い直した私は、一枚の書類を手に、企画室へと向かう。
何だか久し振り。だって私も忙しくて、なかなか企画室へと行くことが出来なかった。それもいけないことだったのかも。
部署を入れ替わってしばらくは、私も芹沢さんを見ていてあげればよかったな。そう、尾崎主任に頼めばよかった。
ちょっと後悔しながらも、企画室の扉をノックして、「失礼しまーす」と、顔を覗かせた。
ああ、いたいた。ほんの少し前まで、私の同僚だった面々。私に気付いた何人もの社員達が、
「山岸さーん、久し振り!」
何て言いながら、私の元へとやってきてくれた。
わあ、出迎えてくれた。何だか照れちゃうけど、でも嬉しい。
「遊びに来いって言ったのに、なかなか来てくんないんだもんなあ」
そう少し拗ねたように言う男性社員に、私は思わず苦笑いを浮かべてしまった。久し振りって言ったって、まだ配属が変わってから一ヶ月も経っていないのに。
「ごめんなさい、思うように自分で時間調整がまだ出来なくて」
「そうよねー、総務って、アレでしょ? 仕事量が人によって違うんでしょ?」
そう私を労わるような眼差しを向ける、女子社員。私は軽く肩を竦めて、ただ微笑を浮かべるに留めておいた。
だって、人それぞれの仕事を一応はしているんだもの。尾崎主任が係長になったら、もっと厳しくしていくと言っていた。マーケティングの仕事や社内イベントの企画をしている子達も、今のままではきっといられないだろう。
もう少しだ。それまで、今が踏ん張りどころかなと思っている。部署を配属されて、早速踏ん張りどころって何だか凄い状況だけど……でも、遣り甲斐はある。
それに、話せばギャルっぽい女の子達もいい子だもの。うん、頑張ろう。
私は大きく一つ頷き、にこにこと話をしていると。
「すみませぇーん、土屋さん、ちょっといいですかぁ?」
そう甘ったるい声が聞こえてきて。
一斉にそちらを振り返ると、ふわふわの長い髪の可愛らしい顔立ちの女の子が、大きなファイルを手にして立っていた。
ここの庶務担当、芹沢さんだ。何だかドキッとしてしまった私。
その途端、女子社員達がそれぞれ私に挨拶をしながら、席に戻っていく。
……里佳が言っていた通りだ。女子社員から、ヒンシュクを買っているとの情報は本当らしい。
土屋さんは、さっき私に「遊びに来いって言ったのにー!」と言ってくれた人。
彼が首を傾げると、芹沢さんは手にしたファイルを、困ったように首を傾けながら土屋さんに差し出している。
「これ、まとめたんですけど、どこに仕舞えばいいのか分からなくって」
「ああ、それはこの間教えたラックに仕舞ってくれれば……いいよ、俺がやっとく。それじゃあね、山岸さん」
そう私に手を上げた土屋さんは、芹沢さんからにこりと微笑んでそのファイルを受け取った。嘘でしょ。どうして企画室員から預かったファイルを、自ら仕舞わせるようなことを……。
私はちょっと口を半開きにしてしまっていたけれど、でもハッと気付いて私の持ってきた書類を芹沢さんに差し出した。
「あのね、芹沢さん。ここ、未記入になっているから、処理出来ないの。確認して、また総務に持ってきてくれる?」
そうなるべく柔らかくなるように言うと、芹沢さんは一瞬鋭い目で私を見据えた。凄く驚いて、瞬きをしていると、次の瞬間彼女は書類を受け取って、少ししょぼんとした表情を浮かべていた。
「やだ、ごめんなさい。でも、そっかあ、ここってチェックしなくちゃいけないんですね。知らなかった」
そう言う芹沢さんを慰めるかのように、男性社員達が一緒になってその書類を覗き込んで言った。
「総務の立場と庶務の立場って、見る目が違うもんな。最初のうちは仕方ないよ」
「そうそう。別にこれで企画自体が破綻する訳じゃないんだしさ、ゆっくりと覚えていけばいいさ」
この人たち、こんなに優しかったっけ?
ううん、私にはそんなに厳しい言葉を吐かれたことってそんなに無いけど、でも会議で白熱して、強い口調で議論を交わしているのを見ていたから、逆に怖くて絶対ミスなんて出来ないって思ってた。
それをこんなにあっさりと。これはかなり驚いた。
そして、私の隣にいた男性社員が、こっそりと囁く。
「山岸さん、引継ぎの時に、業務内容も教えてあげればよかったね。そうしたら、芹沢さんも困らないし、山岸さんもこうしてわざわざ書類を届けに来ることもなかっただろ?」
え? ちょっと待って。私、ちゃんと引継ぎの時に教えたわ。
今回のこのチェックするべき場所だって、再三本物の書類と見比べながら伝えたはずなのに。
「色々とさ、教えてもらっていないって言うの、聞いてるしさ。まあ今後覚えていけばいいことだけど」
教えてもらってない……?
私、何も芹沢さんに教えていないことになっているの?
何だか呆然としていると、芹沢さんは私ににこりと笑って、書類を胸に頭を下げた。
「ご迷惑をお掛けしました。これからは、ちゃんと調べて総務に提出するようにします。自分で調べられることは、調べなくちゃ。山岸さん、お忙しいですものね。頼らないように頑張りますので、お気になさらないでくださいね?」
そう言って、まるで取り巻きのような男性社員たちを引き連れて、彼女は私の前から立ち去っていった。
残された私は呆然とするしかないけど、でも。
一瞬振り返った芹沢さんが、口元に笑みを浮かべたのを見てしまった。
にやりと、あまり好意的とは言えない……というか、敵意満載な笑み。
そしてその私に向けた瞳の色は、粘着質でぞくりとするほど冷淡で……。
あああああ!
その瞬間、私は叫びそうになるのを必死で押さえた。
だって、気付いてしまった。
私を憎んでいるというメデューサ。それが誰なのか、分かってしまった。
私、もしかしてメデューサの罠にハメられているの!? 嘘でしょ!?
呆然から段々ムカムカと怒りに変わっていく。だったら全部納得いくわ。
企画室から出される書類にミスが多いのも、私が教えなかったせいだと言い張り。
企画室男性社員に媚を売り、企画室庶務としての立場を確立しようとして、企画室での私の居場所を無くそうと画策し。
そして直人さんに、あのベタベタしたような仕草。
全部私に対抗してのものじゃないの! どうして気付かなかったの、私のおバカ!
気付いたら、腹が立つのが収まらない。私に直接攻撃してくればいいものを、どうして周りからジワジワと攻めてくるの。周りがいい迷惑じゃないよ。
というか、直人さんを巻き込まないでよ!!
私は落ち込むどころか、戦意が噴出してくる。
負けないわ。絶対負けてなるもんか!
一人心の中で絶叫を上げている私の肩が、ぽんと叩かれて。振り返ったら、直人さんが微笑を浮かべて立っていた。
「ここで会うの、久し振りだね」
うう、直人さん……! 抱きつきたい。その胸に飛び込みたいけど、今は無理。
だから、せめて。直人さんの肩をぐっと両手で掴み、勢いよく揺らした。
「え、まど……じゃなく、山岸さん……!?」
「私、頑張るわ! 全力の限り戦うわ!!」
きっと直人さんには意味不明だろう。だけど私は誰かに……違う。
直人さんに、宣言したかったの。言葉にして、そして今ある信じがたい事実を受け入れて。そして戦う決意を固めたかったのよ。
直人さんは私にガックンガックン揺らされて、目を白黒させながらも、ようやく私の手を掴んで、私を覗き込んだ。
そして、私にしか聞こえないくらい、小さい声で囁いた。
「うん、頑張って。まどかちゃんをずっと応援しているからね」
「直人さん……!」
「だけど、無理はしちゃダメだよ。俺の力になれることがあったら、絶対言って。約束」
うん……うん!
直人さんの力を借りることは辛いけど、でもその言葉は百人力よ!!
メデューサこと芹沢さんがどうしてここまで私を嫌うのか分からないけど。とても悲しいことだけど。
でも、私には戦う理由がある。
直人さんを護る。だから、負けないわ。
私は密かに拳を握り締めて、今立てたばかりの決意を新たにした。




