第3話 目覚めの不意打ちと、朝の誓い
目が醒めて、まず思ったこと。
まずい。
昨日の記憶が後半無い。
里佳から、メデューサと呼ばれる女の子がいて。その子は、自分が欲しいと思ったものは、全て手に入れないと気がすまない子で。
そんな不気味なあだ名をつけられた子が、憎んでいる女がいる。
それが、アフロディーテ……つまり、私だ。
おこがましくも、愛と美を司る女神の異名を頂戴してしまっている私が、目障りなんだろう、きっと。
目鼻立ちが、人よりも少しばかり派手な私は、メイクも好きだから結構自分に手間を掛けている。目立つといえば、目立ってしまうかも。
それでも、私は男の人に媚を売ったりしたことないし、入社してから直人さん一直線の思考回路でやってきた。
だから、もし、万が一その『メデューサ』と呼ばれる女性と好きな男性が被っていたら、そのターゲットは直人さんっていうことになる。
嫌だ。直人さんが、他の女の人をその腕に抱いて、その名前を囁く姿なんて想像したくない。
やっと、二人きりの時間が持てるようになった。それがどんなに、嬉しいか。
照れ屋さんな直人さんは、皆の前だと、滅多に私の目を見てくれないけど、でも。二人きりになったら、ちゃんと私を見つめてくれるもの。
そして、時々だけど。本当に時々だけど。私が十回言ううちの、一回くらいだけど。
「好きだよ、まどかちゃん」
って、それはそれは恥ずかしそうに、言ってくれるもの。
その囁きで、私は今までよりもメイクに気合が入ってしまう。
出来るだけ、ナチュラルに。だけど、綺麗に見えるように。
だって、少しでも、直人さんに私を見てもらいたい。
直人さんに昨日よりも綺麗だなって思ってもらいたい。
そんな私の前に突如現れた、謎の女『メデューサ』。
負けない。絶対負けないわ。直人さんは、誰にも譲らない!!
鼻息荒く、ガンガンワインを飲む私を呆れたように頬杖ついた里佳が言っていたような気がする。
「あのさ、いくら髪型とか眼鏡を変えて格好良くなったとしても、不破さんはやっぱり不破さんなのよ? あの地味で暗い性格が変わったわけじゃないんだから。あんたが心配するほど、モテやしてないって」
そしてそれに、私は反論したような気がする。
「何度も言ってるけろ、直人しゃんは地味で暗い訳じゃないんら! 照れ屋なだけなんら!」
……どうして記憶の私は呂律が回っていないんだろう。
そしてどうして、目覚めた私の部屋に、直人さんがいるんだろう……。
直人さんの姿を認めて、一瞬にして覚醒した私は、ばっと起き上がった。そして自分の姿を見下ろす。
パジャマを着ていて、左を見上げれば、ハンガーに私のスーツが掛かっていた。
私が何も言っていないのに、缶コーヒーを飲んでいた直人さんが慌てて立ち上がった。
「あの、何もしてないから! まどかちゃん、相当酔っていたし、その、服、皺になるからと思って、言われるままパジャマに着替えさせちゃったけど、でも!! 他に何もしてないから!」
……何もしていないのか、残念。
て、違う! 私なんでがっかりしているの。
私と直人さんは、すでに、その、ええと……そういう仲になっているわけだから、手を出してくれても全然構わないのにな。というか、積極的な直人さんも素敵なのに。
ほら、例えばあの夜とか。もう私ったら。思い出したらニヤニヤが止まらなくなってしまった。
そんな私を見ていた直人さんは、困ったようにベッドサイドに腰掛けた。
「まどかちゃん、頭とか痛くない?」
「え? あ、うん、大丈夫よ」
私はすぐに酔ってしまうけど、でもあんまり二日酔いを経験したことが無い。便利な体質だ。
頷いた私に、直人さんはほっとしたように微笑んだ。その微笑を見て。そして、直人さんの崩れたYシャツを見て。
私は一つあることに気付いて、サアッと血の気が引くのを感じた。
まさか、よもや!
「な、直人さん、一つだけ聞いてもいい?」
「あ、うん。なに? おなか空いた? 会社に行きながら、朝ご飯食べよう」
うん、それもとっても魅力的なお誘いだけど、でも。
「もしかして……直人さんが手を出さずに、私が手を出した?」
だってここのところ、二人でゆっくりと夜を過ごすことなんてなかったから。直人さん、決算で忙しかったし。
いつも、大丈夫かしら、その、ええーっと、男性的に溜まりゆくものがあるんじゃないかと心配していた。
何より、他で発散されるのが嫌だから。
だからもしかしたら、私ったら暴走して、直人さんを襲ってしまったんじゃないかと。そう思って恐る恐る尋ねたら。
直人さんは、途端に顔を真っ赤にして、そして俯いてしまった。
ガーン! 私が襲ったの、確実じゃないの!!
私はベッドの上に正座して、深々と直人さんに頭を下げた。
「ごめんなさい!! 合コンの日といい、昨日といい。私、酔うと危ないのね……何てお詫びすればいいか。本当にごめんね、私を嫌いにならないで!」
彼氏を酔った勢いで襲うなんて。信じられない、私。全く前回の反省が生かされていないじゃないの。恥ずかしい!
深々と下げた私の頭部が、ふいに引かれて。よろめいてしまうと、それが固くて暖かいものに受け止められる。
おずおずと顔を上げると、眼鏡を外した直人さんが、ユデダコ状態で私をぎゅっと抱き締めていた。
「謝らないで。その……嬉しかったから。まどかちゃんが、俺のこと気にしてくれていて。凄く嬉しかった」
……一体私は、何を言ったんだろう。そして何をしたのだろう。
聞くのが怖い。
だけど嬉しいって。そう言ってくれた。
私は返事することが出来ずに、ギュギューッと直人さんの腰に抱きついた。それを受け止めてくれる腕も強くなる。
「嫌いになんて、絶対ならない。まどかちゃんこそ、俺のこと……」
「嫌いになんてならないわ!!」
直人さんに、最後まで言わせなかった。言わせたくないもの。だって有り得ない。
思わず叫んだ私を、僅かに目を見開いて見つめた直人さんは、くすりと笑って私の頬を撫でた。
暖かい、てのひら。目を閉じた私に、段々と体温が近づいてくる。
「愛してる。人をこんなにも好きになれるって、教えてくれてありがとう……」
私もよ、直人さん。
塞がれた唇の甘さに酔いながら、私は心で呟いた。
こんなにも、全てを投げ打っても構わないほど。一人の人を愛したことなんて今までなかった。
その幸福を与えたてくれたあなたに、ずっとずっと着いていきたい。
だからこそ。
絶対絶対、その『メデューサ』とかなんかには、負けないんだから。
私は攻撃されても恨まれてもいい。だけど、直人さんだけはこの手で護りたい。
心新たに誓った私と直人さんは、時間がギリギリなのに気付いて、その後慌しく支度をして、会社に出社したのだった。
総務部異動、初日。
さすがに緊張する私と、それを心配げに見下ろしてくれる直人さんの前に、石橋さんが現れた。
「んだよ、二人揃って出社って、おま、それ有り得なくね? ってか、不破!! 何でてめえ、昨日と同じネクタイしてんだよ!!」
石橋さんが一人で弾丸のように叫び続ける。
あ、そうか。直人さん、昨日と同じネクタイなんだ。そりゃそうだ、うちに泊まっちゃったんだもの。
だけどよく見ているなあ、直人さんのこと嫌いなくせに。
思わず感心してしまった私の目の前で、石橋さんが頭を抱えている。
「うわー、くそ、嫌だ!! お前らが昨日の夜に行った行為を想像なんてしたくねえ! 何でだよ、くそー! 俺のまどかなのにー!!」
「や、やめてよぉ!!」
なんてことを叫ぶの、石橋さん!!
私が慌てて彼の口を塞ごうとしたら、直人さんがすっと私の前に立ち。そして、信じられない言葉を紡いだ。
「石橋、今のは訂正しろ」
「はあ? 何だてめえは偉そうに」
「まどかちゃんは……まどかは、お前のものじゃない」
直人さん……!
私は感動してしまい、思わず泣きそうになってしまった。
出来ればこの先、『まどかは、お前のものじゃない。俺のものだ!』と言ってくれれば完璧だけど、でも直人さんにしたら奇跡的な発言だった。
ふるふると感動に打ち震える私と、緊張感が伺えながらも堂々としている直人さんを見比べ、石橋さんは低く舌打ちをして、「認めねえからな!」と捨てセリフを吐いて行ってしまった。
「はあ……」
私と直人さん、どちらからともなく溜息をついて、それに二人で顔を見合わせて笑った。
ああ、今日はなんて素晴らしい日なの。
朝、目覚めた時から直人さんを満喫して。そしてちょこっと嫉妬めいた言葉を聞いたりして。
本当にいい日だ。これなら、異動初日も怖くないわ。
俄然気合が入った私は、直人さんの「頑張ってね」という応援の言葉まで頂戴し、意気揚々と総務部に入っていった。
そして、改めて総務部は、恐ろしいところだとその瞬間感じる。
真っ二つに分かれた空気。
山のような書類を、必死な形相で処理する人たち。
職場でマニキュアを塗ったり、化粧をしたりしつつ、談笑している人たち。
こ、これは一体……。
引き攣った私を、満面の笑みで出迎えた尾崎主任と友人、真菜。
「待っていたわぁー!!」
私は、必死な形相で処理する部隊決定かぁ……。折角芽生えた気合が、早速萎えていくような気がした。




