第2話 メデューサ VS アフロディーテ
私の後任ということで、引継ぎに来た芹沢茜さん。
ふわふわとした長い髪に、ベビーフェイスの可愛らしい顔立ち。とてもキュートな笑顔を浮かべて私を見上げた。
「山岸さんのように、気配りできるか分かりませんけど。出来る限り企画室の皆さんのお力になれるように、頑張ります」
「そんな、私も大したことが出来ていた訳じゃないから。でも、総務と仕事内容は似ているから、そんなに難しいことはないのよ。まずは備品のありかを案内するわね」
そう言いながら、細々としたことを説明した私。彼女は素直に頷きながら、一つ一つを確認していた。
甘めな見た目よりも、しっかりした子みたい。よかった。
私の後任が決まり、企画室を離れるという現実に少し寂しさを覚えた私だけど、でも。これで私も前に進めるというほっとした気持ちもあった。
安心した私は、一人で見て回りたいという彼女を置いて、自分の席に戻った。また、何か分からないことがあれば聞いてきてくれるだろうし。
すると、一人であちこちを見て回っている芹沢さんの下に、段々と男性社員が集まってくる。
気になるんだろうな、どんな子が次の庶務になるのか。可愛いものね、芹沢さん。質問されて、にこにこと答える彼女を囲んだ男性軍が、何だか嬉しそうで。私は苦笑を浮かべてしまった。
ふと振り返ると、一番食いつきそうだった石橋さんが、面倒くさそうな顔つきでパソコンを操作している。私は首を傾げて、彼の隣に立った。
「石橋さん、芹沢さんのところに行かないの?」
「あー? ああ……いいや、俺は。何だか食指が動かねえんだよな」
食指って。思わず噴出してしまった私。
合コンに全てを掛けているような石橋さんだけど、芹沢さんみたいな可愛いタイプ、好みじゃないなんて、かなり意外。
「そうなんだ。でも、しっかりしてそうよ。これから彼女のこと、よろしくね」
両手を頭の後ろで組んだ石橋さんが、私を見上げて軽く肩を竦めた。そして私の言葉に返答しないで、ふいに何かを思いついたように、突然立ち上がったものだから凄く驚いた。
「そうだそうだ。まどかの送別会をしねえとな」
「ええ? いいわよ、退職するわけじゃないんだし」
慌てて両手を振って言ったんだけど、石橋さんはもう私の言葉なんて聞いてはいないようで。企画書を作成していたのを保存して、ウェブを開いてグルメ検索サイトを開いてた。
「いつも居酒屋だからなぁ。たまにはもう少しいいのを食いたいな」
何てブツブツ言いながら検索している石橋さんに苦笑して、私が荷物の整理を再開していると、直人さんが戻ってきた。
「お帰りなさい」
にこりと笑って出迎えると、直人さんは目を僅かに見開き、そしてはにかんだような笑みを浮かべた。
うう、何て素敵な微笑なの。胸がキュンキュンきちゃうわ。
そして、小さな声で返してくれた言葉。
「ただいま」
それだけで、昇天しそうなくらい嬉しくなる。ふふ……ふふふ。
にこにこと笑っていた私だけど、次の瞬間、激しい悪寒に襲われて、身体を大きく震わせた。
直人さんが、びっくりして私の肩に手を掛けた。
「どうしたの、大丈夫!?」
「あ……うん、大丈夫」
その悪寒は一瞬だけで、すぐに治まってしまったから、そのことを私は別に深く考えなかった。
だって、直人さんが私を心配してくれた。それがとても嬉しかったんだもの。
その後、数日芹沢さんが時折私の元へとやってきて、色々と引継ぎをしたりして。
私も総務へ行っては、尾崎主任に仕事を教えてもらったりして過ごした後。
私の異動の前日、定時後に送別会を開いてもらった。
張り切った石橋さんと里佳が、とても素敵なイタリアンのレストランを予約してくれた。だからかな。素晴らしい出席率。企画室メンバー全員参加という誉を頂いてしまった。
大きなワンフロアで、賑やかなパーティ。
私は今までお世話になったお礼を兼ねて、皆にワインをお酌して回った。
「総務って大変だろうけど、頑張ってね」
「山岸さんだったら、どこへ行っても大丈夫だよ。これからも、頼りにしているから」
「寂しくなるけど、でも総務へ会いに行くからね。たまには山岸さんも、企画室に遊びに来てよ」
なんて有り難いお言葉を頂いたりして。
うん、頑張ろう。これからも、企画室の人たちとは関わっていくんだもの。
少し寂しいけど、でもこの人たちと、誰よりも直人さんのためにも頑張らなくちゃ。
心の中で、一人張り切った私は、すでに酔っ払ってしまっていた石橋さんにもお酌した。
「今までありがとね、石橋さん」
ちょっとしつこかったり、うっとおしいこともあったけど。そしてセクハラまがいなことを散々されたけど。
でも、石橋さんにもたくさんお世話になったから。
そう思って、にっこりと笑ってワインを注ぐと、その赤い液体をじっと見つめていた石橋さんが、突然泣き出してしまった。
「ま、まどかぁー!! 嫌だ、やっぱ嫌だー! これから先、俺は何を糧に生きていけばいいんだ!!」
げっ!! 何てことを叫ぶの、石橋さん!!
周囲の人が、一斉にこちらを見て、そして私に同情めいた眼差しを向ける。
ええ! これ、私にフォローしろというの!? 無理、絶対無理!
わんわんと泣く石橋さんを、どう扱っていいか分からなかった私がオロオロしていると、石橋さんは顔を上げ、そして彼の隣に座っていた直人さんの下へと歩み寄った。据わった目で見下ろされた直人さんは、私と石橋さんを困ったように見比べている。
そして石橋さんは、信じられないことに、直人さんにぎゅっと抱きついた!
「ええええ!?」
どうして、何で!? 私を含めた驚きの声があちこちから上がる中、石橋さんは硬直した直人さんにスリスリと擦り寄っている。
「ううー、何でお前なんかから、まどかの匂いがすんだよぉー! ちくしょー、悔しいけどいい匂いだぁ!」
……酔いから醒めたら、石橋さん、このこと思い出してどんな気持ちになるのかしら……。
妙な心配をした私は、直人さんから彼を引き離そうとしたんだけど。
直人さんは、くすりと笑って私に首を振った。
「どうせすぐに離れるだろうから。大丈夫だよ」
優しいのね、直人さん。日ごろ、この抱きつかれている石橋さんから理不尽な扱いを受けているっていうのに。
何て……何て大きな心なの!
感動した私は、直人さんのグラスにもワインを注いだ。一番嬉しくて、一番緊張しちゃった。だから、思ったこと全部言えなかった。
ただ、一言。
「不破さん、これからも頑張ってね」
ただ、それだけ。今までありがとうとか、色々言いたかったけど、でもそれは二人きりの時に抱きつきながら言えばいいかな、なんて思ったり。
やだ、抱きつきながらだって。ふふ、今すぐにでも、本当は抱きつきたいんだけど。
私のお酌を片手で受けた直人さんは、恥ずかしそうな表情を浮かべていたけど、でも真っ赤な顔のまま、私を見上げた。
「ありがとう。あの……山岸さんも、その、頑張って。応援してるから」
あああ……もう、この言葉を貰えただけでも充分。私はきっと、この言葉があるだけで、どんな過酷な職場でもやっていけるわ。妙にその自信がある。
そして、これで一応全員のお酌を終えることが出来た。
ニヤニヤしながら席に戻ると、隣に座っていた里佳が、にんまりと笑って私にグラスを差し出した。
「カラになっちゃったわ。はい、注いで」
「はいはい」
酒豪の里佳に、ワインをなみなみと注ぎながら、私は恐る恐る聞いてみた。
「あの、里佳。この間のプロポーズの件なんだけど……」
里佳から教えてくれないんだもの。気になったけど、話の内容が内容だけに、私からもなかなか聞きだせなかった。
もし、断られたんだったら、彼女を更に傷つけてしまうかもしれないし。そう思うと、怖くて聞けなかった。
だけど里佳は、平然とした顔で瞬きを繰り返していた。
「ああ、あのこと? もう、籍入れたわよ」
「えー!?」
いつの間に!! ていうか、だったら教えてくれればいいのに。
思わず唇を尖らせてしまった私だけど、でも、「おめでとう!」とお祝いを言うと、里佳は少し照れたように頬を染めた。
「ありがと。でも、式を挙げるつもりないし、仕事上での名前は旧姓のままで続けるから。今までと変わりはないわよ」
そっか。全く里佳らしいな。私はくすくすと笑って頷きながら、里佳にどんなお祝いを贈ろうかなって考えていた。
そんな私に、里佳は「ああ、そうだ」と呟いて、隣のテーブルから未開封のワインを勝手に持ってきてしまい、そして私にお酌しながら言った。
「この間、総務に結婚後の手続きをしにいったんだけど」
ああ、そうか。仕事上では名前を変えなくても、年金とか社会保険とかは手続きしなくちゃいけないものね。
うんうんと頷きながらグラスを手にした私に、里佳は僅かに眉を潜めた。
「妙な噂を耳にしたのよね」
「妙な?」
「うん。一部の人たちから、『メデューサ』って呼ばれている子がいるんだって」
メデューサ! それはまた、何とも恐ろしげなあだ名。
メデューサって言ったらあれよね。髪の毛がヘビで、それで目を見ると石になってしまうっていう伝説のモンスター。
そう呼ぶ人たちから、あまりいい感情を持たれていない子なんだってすぐに分かってしまう。
何だか悪口が蔓延しているようで嫌だなあ。そう思っていた私の表情を眺めながら、里佳が言葉を続ける。
「私も、何それ? って思ったんだけど。何でも、欲しいものは何でも手に入れるって子らしくて。何人も、その子に泣かされたみたいよ」
「え、欲しいものって、もしかして男の人?」
「まあ、そうでしょうね。人の男でも、欲しければ手に入れてしまうらしいのよね。狙った獲物は逃がさないってところかしら」
うわぁ……。
里佳の話を聞きながら、私はぞくりと鳥肌が立ってしまった。
そんな人、本当にいるの? 信じられない。
なるほど、それでメデューサか……。
思わず無言で考え込んでしまっていると、里佳はそこでニヤリと笑って私に身体を寄せた。
「まあ、そんなことはどうでもいいけど。それでね、そのメデューサが憎んでいる女がいるんだって」
「憎んでる? 嫌いじゃなく?」
「憎んでるっていう噂よ。嫉妬じゃないかな。きっと簡単に、なんでも手にしているように見えるその女が憎いんじゃない?」
意味が分からない私が小首を傾げていると、里佳がふいに手を伸ばした。そして不意打ちのデコピンをされてしまって、私は思わず「痛っ!!」と叫んでしまった。
おでこを抑えた私に、里佳は含み笑いを浮かべながら言った。
「メデューサVSアフロディーテ。面白い戦いね。頑張りなさいよ、まどか」
……はい?
私? 私なの? そのメデューサに憎まれてる女って。
うっそぉー!!
フリーズしてしまった私は、思わず直人さんに目を向けた。
いまだ、石橋さんにへばり付かれている直人さんは、さすがに救いの手を差し出してくれた男性社員に苦笑を浮かべていた。
メデューサ……その子の魔の手が、この直人さんに伸びるのだけは、何とか阻止しなくちゃ。
私は、簡単に何でも手にしている訳じゃないけど。そう見えるというもの悲しいけど。
だけど、人には好き嫌いっていうのはあると思うから、私が嫌われるのは仕方ないとしても、直人さんに迷惑を掛ける訳にはいかないわ。
そして私の大切な直人さんに、害を成すものがもし現れたとしたら、私は全力で戦うわ!!
私は心の中で固く決意し、密かにぐっと拳を握った。




