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恋するアフロディーテ  作者: 沙莉
メデューサの瞳

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第1話 企画室を去る日、忍び寄る胸騒ぎ

室長に出した、異動願い届。あっさりと受理されると思ったのに、室長は意外なほど私を心配してくれた。


「大丈夫か、尾崎くんに頼まれたんだろうが、あそこは半端ないぞ。分かっているのか?」


半端ないって。私は眉を潜める室長に、思わず苦笑して頷いた。


「聞いてます、総務部の内情は、ある程度。でも、こう見えても、私結構しっかりしてきましたよ?」


そう言うと、室長は更に心配げな顔になった。うーん、まだまだ私、弱々しく見えるのかしら。もう、迷子になったくらいじゃ泣かないのにな。


私の中では、この会社で、企画室で。庶務を四年間勤めたっていうのは少しばかり自信になっている。


だからこそ、チャレンジしてみたい。総務部で、自分の力を試してみたい。


そして望まれるなら、頑張っていきたいもの。


その理由の根本は、直人さんに恥ずかしくないように社会人としてやっていきたいとか、直人さんの役にもっと立ちたいなんてことなんだけど。


さすがにそれは、恥ずかしくて誰にも言えない。だから、心に仕舞っておこう。


「私にどこまで出来るのか、分かりませんが。でも、尾崎主任の手助けに少しでもなれるように、頑張ります」


そう室長に言うと、彼は本当に渋々、と言った感じではあったけど、承認のハンコをくれた。


それを総務に出して……何か変な感じ。自分がこれから異動する部署に、その処理を頼むんだから。


その書類を、友人の総務部所属の真菜に頼みに行ったら、彼女は書類を持った私の手をぎゅっと握り締め、そして真摯な顔で囁いた。


「待ってるわ、まどか。本当に本気で待っているからね!」


「ちょ、ちょっと、真菜……?」


「一日でも早く、引継ぎを終わらせて来てね。頼んだわよ!」


真菜のその言葉、凄く凄く引っかかるんだけど。


それでも、知り合いがいるということは心強い。


真菜の言葉をさらりと受け流してしまった私は、これで総務へと異動が決まったことへのワクワク感と、企画室を去らなくちゃいけない寂しさで心がいっぱいだった。






企画室に戻った私が、自分の机を片付けていると、石橋さんがやたらべったりと傍に寄ってくる。うっとおしいなあ。


「まどかー、マジかよ、何で異動なんてすんだよぉー! もう俺、この会社に来る意味が無くなっちゃうじゃねえかよぉ」


何を言ってるの! 会社には、仕事をしに来ているんでしょ?


見なさいよ、直人さんを。


ああ、いつ見ても惚れ惚れするほどの仕事っぷり。


どうしてこんなに、動きに迷いがないのかしら。


傍らに、何だか意味の分からない専門書を開き、それに時折目を移しながらもガンガンキーボードを叩いていく。


そのスピードたるや、まるで音速? 素晴らしいとしか言い様が無い。


ぽわわーんと直人さんの後姿に見とれてしまった私に、石橋さんは泣きマネなんてしているし。


あの、私を襲った一件以来、随分と私に対するアプローチを控えてくれていた石橋さんだったんだけど……まあこれは、去るのを惜しんでくれている、いわば餞別みたいなものかなと考え直した私は、彼ににこりと笑って言った。


「まだ、もう少しいるから。引継ぎが終わるまでは、ここでお世話になるから、それまではよろしくね?」


「くそー、引継ぎなんて、永遠に終わらなきゃいいんだよ!」


困った人だなあ。グレてしまった石橋さんの対処に困っていた私の背後で、「さて」と小さな声が聞こえた。


振り返ると、直人さんが立ち上がり、プリンターに向かって一枚の紙を手にして。


「承認してもらいに、総務部へ行って来ます」


そう、私に告げた。私は慌てて彼からその書類を引き取ろうとした。


「私が行くから、それ、預かります!」


だってそういうことは、私の仕事だもの。だけど、直人さんは僅かに頬を染めて首を振り、……そんな、会社で、嘘でしょ。


にこりと照れたように笑って、そのまま居室を出て行ってしまった。


ぽかーんとそれを見送っていた私の隣で、石橋さんがバカでかい声を突然上げたので、凄くびっくりした。


「あああああ!! そっか、そうだよなー!」


「え、何? なんなの?」


目を見開く私に、石橋さんはにやりと笑って一人ウンウンと頷いている。


「そうか、今まで総務行きの書類はまどかに頼んでたけど、それを自分で総務に持って行けば、まどかに一日に何度も会えるかも知んねーな! 何だよ、別にそんなすげえ大変なことでもねーじゃん。なーんだ、心配して損しちゃったよ」


さっきとは打って変わって、ご機嫌になった石橋さんは、くるりと私に背中を向けて仕事を再開し始めた。


はあ……? なんなの?


だけどそこで、はっと気付いた。


直人さんが、わざわざ自分で総務に向かうなんて。それって、石橋さんに、このことを教えたかったの? 今まさに、私に訪れたピンチ(って程でもないけど)を、救ってくれたのかしら。


直人さん……!!


私は胸が急にキュンキュンしてしまって、もうすぐにでも会って、抱きつきたかったけど。でも、それは定時後の我慢。


今日はもう、スッポンのように抱きついて離れないんだから。


ニマニマしながらも、更に気付いた。


そっか。直人さんが、ああして自分で書類を総務に持ってきてくれれば、何度も社内で会うこと、出来るね。


そういうことをアプローチしてくれてたんだったりして。


自分の都合のいいように、解釈するのは私の得意技。


もう、私は浮かぶ笑みが止まらずに、鼻歌でも歌い出しそうな勢いで机の整理を再開した。


ああもう、幸せで仕方ないわ。


だってね。






『山岸さん、この書類に、承認の印鑑をお願いしたんですが』


『そんな、私限定に承認を願い出られても……そこのラックに置いておいて頂ければ、誰かが処理しますわ?』


『いや、あなたにお願いしたいんです。駄目でしょうか……?』


『不破さん……ううん、直人さん!』


『まどか!!』






「ふ……んふふふ…………」


またもや妄想してしまった私は、誰が見ても気持ち悪いだろう笑みを浮かべていたら。


「山岸さん、お忙しいところ、申し訳ありません」


突然、すぐ傍から声を掛けられた。


「ひゃあ!?」


思わずヘンな声を出してしまい、慌てて振り返ると、そこにとても小柄な可愛い女の子が立っていた。


私よりも少し長い髪は胸元でフワフワのウェーブを作って揺れて。


大きな瞳に柔らかそうな頬。それに、口元のほくろが童顔と相まって色っぽい。


ぷっくりした唇に微笑を浮かべた彼女は、私を見上げて首を傾げた。


「今、お時間よろしいですか?」


「あ、え、はい!」


畏まって応えると、彼女はにこりと笑って、そして頭を大きく下げた。


「総務部から企画室へ異動になることになりました、芹沢茜です。どうぞ引継ぎ、よろしくお願いします」



引継ぎ?



え、この子が、私の後で、この企画室の庶務をやるの?



にこにこと笑みを浮かべる彼女を目の前にして、私は何だか胸騒ぎがしてならない。その原因が、何なのか分からないけど、でも。



覚悟を決めていたはずの私の後任の登場、それが私がこの企画室を去るという現実を突きつけられたようで、今更ながらに動揺している私がいた。

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