第3話 涙が溶ける、左腕の体温
尾崎主任に言われた言葉が、頭から離れない。
『私の右腕に、なって欲しいのよ』
そこまで望まれているなんて、思ってもいなかった。凄く驚いたけど、嬉しいけど。
でも、私の中で戸惑いが一番大きな感情だったかもしれない。
ただ、毎日言われた仕事をこなしている。それだけしか、意識していなかった。
直人さんに会いたいから。気持ちよく、仕事をしてもらいたいから。
もちろん、他の室員の人たちにも同じような思いを抱いていたけれど、でも私の中では、直人さんに対してはダントツに別格扱いをしていたと思う。
だって、好きなんだもの。
その私の想い、あの合コンの日まで、誰にもバレなかったのって、ある意味奇跡かも。直人さんが、あまりにも周りから「ジミー」とか言われて、敬遠されていたせいもあるかもしれない。
それでも、ずっとずっと好きだった。そして思いを通わせた今、ますます私の恋心は膨れ上がっていく。
毎日、『好き』って気持ちが大きくなっていくのが分かる。
知れば知るほど。私を明かせば明かすほど。
恋って、とめどない。
総務主任の言葉って、そんな浮ついた私には、やっぱり相応しいお誘いではないんじゃないかな……。
考え込みながら着いたカフェ。タバコを吸わない直人さんを、禁煙席で探すと、いたいた。
珍しく、スマホをいじってた。
両手で持った画面のキーを、ゆっくりと押している。あれ、メールしているのかな。
もたつきながら、いくつか指を動かして、そしてカバーを閉じたところで、私は声を掛けた。
「お待たせ、ごめんね、直人さん」
にっこりと笑って言うと、直人さんは顔を上げて、眼鏡越しの切れ長の目を細めて微笑んだ。
「お疲れ様。どうする? 一息入れる? それとも、もう食事にする?」
お疲れ様、だって。うわ、どうしよう。凄く嬉しい言葉だな。
仕事でお疲れ様って言ったり言われたりすることって、たくさんあるけど。
でも、アフターで、私の趣味でやっていることに対してのこの言葉って、初めて貰っちゃったような気がする。
やだ、何か頬が火照ってきちゃった。
私はそれを気付かれないように、頬に手を当てた。そしてその時、ふいに自分の笑みが強張っていることに気付いた。
分かる。私、引き攣った笑みを浮かべてる。ほんの僅かなもので、きっと誰も気付かない。だけど、私自身で気付いてしまった。
作った微笑を浮かべているなんて、気付かれたくない。ううん、これだけじゃない。私の迷いを、知られたくない。まだね、まだ。私の中で、何か道を見つけるまで。
今はまだ、今までどおり、直人さんとの時間を楽しみたい。甘えた考えに、浸っていたい。
それって、ずるいのかな……。
一瞬、考えながらも私は直人さんの前の席に座ることなく、お腹をさすった。
「もう、限界。お腹空いちゃった。ご飯、食べたいな」
そう言うと、直人さんは私を見上げ、そして見つめて……あれ、何だろう。私、何かヘンかな?
そう思うほど、短い時間だったけど凝視して、そして頷いて立ち上がった。
「そうだね、俺も腹減った。まどかちゃん、予定していた店じゃなくてもいいかな?」
今日の夕食は、直人さんが探してくれたお店でってことになっていたんだけど。そこ、凄くお洒落なイタリアンのお店で、楽しみだったけど。でも、私としては、直人さんがいればそれでいいんだもの。
二人でいる時間。それだけで、幸せなんだもの。
私の表情を見て、諾と受け止めたらしい直人さんは、「ちょっと待ってて」と言いながら、鞄からノートパソコンを取り出した。そして、おもむろにカチャカチャと操作し始める。
「あの、どこでもいいのよ? なんだったら、そこの居酒屋でもいいから」
そう私が言うと、直人さんは少しはにかんだような笑顔を私に向けて、またパソコンに目を戻した。
「どうも携帯とかスマホで検索って、苦手なんだ。すぐに見つかると思うから、もう少し……あ、あった」
そう言うや、今度はその苦手だと言っていたスマホで、パソコンに映し出された店に電話をしている。
「個室を希望しているんですけど、……ええ。あ、空いていますか? 今から伺います。……はい、二名です。コースじゃなくて結構ですので。はい、……はい。不破です。不破直人です。はい。よろしくお願いします」
個室? 何で?
きょとんとしている私を見上げた直人さんは、にこりと笑いながらパソコンを閉じ、そして立ち上がった。
「行こう、この駅前の店だよ。すぐだから」
全然状況が分かっていない私を連れて、直人さんが向かったお店というのは、駅前ビルの一角だった。
何度か通って見たことがある店構え。懐石料理店よりもカジュアルな感じの、和食の店だった。
店に入るとすぐに、着物を着た女性が出迎えた。
「先ほど電話を差し上げました、不破です」
「お待ちしておりました、どうぞ」
サクサクと店内に連れて行かれて、本当に私は何だかよく分からない。突然和食を食べたくなったのかな、直人さん。
ぽわーんとそんなことを考えながら、案内された個室は本当に狭かった。二人で向かい合って座って、ギリギリのスペース。
でも、何か居心地いいな。直人さんが、凄く近い。それに、周りのお客さんも大人の人が多いらしく、とても静かだった。
凄く、素敵だな。うん、こういうところ、好き。
おしぼりで手を拭きながら、私がにこにことしていると、直人さんは嬉しそうに微笑んだ。
「気に入った? 良かった」
「凄くいいお店ね! どうして突然、ここを選んだの?」
私が純粋にそう聞くと、直人さんは長い睫を上下させ、そして僅かに俯いた。
「ええと……」
そのまま、無言。沈黙が流れる。
その沈黙の意味が分からない私は、促すのもなんだしと思い、そのまま二人で黙っていると、従業員がオーダーを取りに来た。
飲み物といくつかの料理を注文して、その従業員が去ると、直人さんは両肘をテーブルに付け、顎の下で長い指を組んで、その上に顎を乗せて。
顔を僅かに紅潮させつつも、私を見つめて微笑んだ。
うう、その仕草。堪らないのよ! 胸に来る。ドキドキが止まらなくなる!
何でそんなに指が長いの。
何でそんなに綺麗な瞳なの。
何でそんなに……柔らかい表情で微笑むの…………?
その顔、会社の人たちは誰もきっと知らない。
地味だ無愛想だって、悪口ばかり言われている直人さんの、こんな穏やかな素敵な笑みを、きっと誰も知らないわ。
知らなくてもいい。私は、ちゃんと知ってる。それでいいの。
そしてこの一瞬を、永遠に記憶に留めるわ。私の脳内アルバムに、いくつもの直人さんのこんな素敵な姿を納めてる。
もっともっと知りたい。もっと、私に見せて欲しいの。
あなたの素顔を、もっと見たい。
ぽわわーんとまたしても妄想に入ってしまった私に、直人さんは静かに唇を開いた。
「まどかちゃん、何か今日、あったみたいだから」
「え……?」
私、何も直人さんに言ってない。
あの、総務部の尾崎主任とのことも、里佳とのことも。
何一つ、言ってないのに。
そしてそのどちらも、私にとっては衝撃的なことだったけど、でも。顔に出さないようにしてたのに。
「俺が聞いて、発散できるようなことだったら、言って欲しいなと思って」
私はこの瞬間、どんな顔をしていただろう。
驚いた顔をしていた? それとも、あまりにもびっくりしすぎて無表情だった?
私は、その時、凄く嬉しかったのよ。私の少しの変化にも、気付いてくれたのが嬉しかった。
私を、見てくれている。それが何よりも嬉しかった。
だけど、何も言葉に出ない。それを勘違いしてしまったのか、直人さんは慌てて続けた。
「あ、でも、無理して言わなくてもいいんだ。その、結局俺は、それを利用して、あの……」
聞きたい。その先の言葉。
私は目を細め、口元に浮かべる笑みを抑えることが出来ない。
直人さんは、私とテーブルを何度も交互に目を移しながらも、最後は私をまっすぐ見て。
そして、言った。
「まどかちゃんと、二人きりになりたかった。それだけでも満足だけど、でも。まどかちゃんが悩んでいることがあるなら、俺も一緒に悩みたいなって……一人じゃ無理でも、二人なら解決できると思うから…………」
ずっきゅーん。
心臓が、打ち抜かれるとはまさにこのこと。
私はむしろ、感動してしまって。言った後、恥ずかしそうにやたらおしぼりで手を拭う直人さんのその手をガシッと握り締めた。
びくりと震えるけど、構うことなくその大きな手を両手で包んで。
そして、身体を僅かに寄せて、何か言おうと思ったけど。でも、駄目。足りない。
私は立ち上がり、狭いと分かっていながらも、直人さんの隣に無理矢理腰掛けた。
もちろん、手は握り締めたまま。
「ま、まどかちゃん?」
戸惑う直人さんに、私は肩に頭を預けて瞳を閉じた。
嬉しいな。気付いてくれて、本当に嬉しい。
私が思っていることって、絶対言葉にしなくちゃ分からないけど。でも、そういう複雑な想いがあるってことを、気付いてくれたことが嬉しいの。
「直人さん……ありがとう」
そう言って、私は握っていた手を離し、代わりに直人さんの左腕に両手を絡ませた。
そして、顔をぎゅっとそこに押し付けていると、生ビールを運んできた従業員がノックと共に入ってきた。
「お待たせいたしました」
ヘンに思ったろうに、その従業員はただそう言って、ビールを置いて下がった。その瞬間の直人さんは、どんな顔をしていたのかな。
見たいけど、顔を上げられない。
何でだろう。別に、悲しいわけではないのに。
でも、私は涙が込み上げて来そうになるのを、必死で止めていた。
嬉しすぎて、泣けてくる。
ああ、そうか。嬉しいから。この人の優しさが、身にしみているんだ。
それに気付いたら、更に泣き出しそうになり、ますます直人さんの腕にしがみついた。
「まどかちゃん……」
柔らかい声と共に、私の頭部に暖かいものがゆったりと這った。直人さんの手だ。
何度も、私の頭を撫でてくれた。
こんなの、何年ぶりだろう。
無言で、私を認めてくれている手。
そう思ったら、ますます泣けてきて。
私はここ数年でかつて無いほど、情けなく声を上げて泣いてしまった。




