第1話 アフロディーテの忙しい放課後
金曜日のこの日、今日もメールで依頼が来た。メイクをしてもらいたいという依頼。その送信者を見て、凄く驚いた。
だって、里佳からだったから。
忙しそうな里佳と、勤務後に更衣室で向かい合った。椅子に彼女を座らせて、とりあえずメイクをしながらも、どうして里佳が私にこんな依頼をするのか気になって仕方ない。
だけど里佳は、目を閉じながらふと微笑んだ。
「そうそう、まどか、あれからラブモードを控えめにしているみたいね」
里佳に煽られてしまった一件から、さすがに反省した私は、勤務中はなるべく直人さんに対する態度を他の人と同じようにするよう努力している。
仕事をしている直人さんを見ると、キュンキュンして止まらないけど、でも。
仕事を終えたら、直人さんと一緒にいられるから。甘えて、
「ぎゅってして?」
ってお願いすると、顔を真っ赤にしながらも、私を強く抱き締めてくれるから。この胸の中は、私だけの空間なんだって思うと、次の日も頑張れるもの。
それを思い出し、思わずにやけてしまった私に、里佳は閉じていた目を開いて、呆れたような声を上げた。
「なあに、気持ち悪いわよ。ニヤニヤしちゃって」
「あっ、ごめん!」
「しょうがないわねえ、あんたは。本当に不破さんのことが好きなのね。理解出来ないけど。どこがいいのかしら、あんな無愛想な男」
「失礼ね、何度も言うけど、直人さんは無愛想なんかじゃないの、照れ屋なだけなの!」
私は反論しながらも、ちょっと嬉しかった。
あれから、里佳と私の関係は前と変わらない。
『あんたのことが嫌い』って言われたときは、本気でショックを受けたけど、でも里佳はそんなことを言ったのを忘れたかのように、私に向き合ってくれている。
気にしていた私に、直人さんは、
「南條さんの『嫌い』って言葉は、その通りの意味じゃないと思うよ。まどかちゃんのことが心配で心配で仕方ないから、思わずそう言っちゃったんじゃないかな」
そう慰めてくれたんだけど……里佳ってもしかして、結構ひねくれた性格なのかも。そんな彼女のこと、私は大好きなんだけど。
里佳の整った唇に、ローズ系のルージュを塗り、仕上げにグロスを重ねたら完成。
「はい、出来た。確認してみて?」
そう言って手鏡を手渡すと、里佳は大きく瞬きをした。
「凄いわね! 初めてあんたにメイクしてもらったけど。やっぱ上手いわね、目が一回り大きく見える!」
「里佳はもともとくっきりした二重だけど、アイラインを入れると更に目が際立つのよ。アイシャドーも薄い色から重ねていって、三色を馴染ませるようにぼかすと綺麗に見えるの」
そう教えてあげると、里佳は何度か頷いて、私に手鏡を返した。
「そっか、ありがとう。『アフロディーテ』の魔力を借りて、頑張ってくるわ」
「あの、里佳、誰か好きな人がいるの?」
里佳はずっと彼氏が欲しい! って言ってたけど、そう言えば最近そのこと、口にしなくなったなあ。
里佳は美人だし、仕事も出来るし、モテる要素満載なんだけど。ちょっとキツイからな……男性が引いちゃうのかも。もったいないなあ。
そんなことを考えていた私に、里佳はけろりとして言った。
「いるわよ。ていうか、彼氏いるんだけど。言わなかったっけ」
「えええ!? 聞いてない、聞いてないよ!? いつ出来たの?」
私は思わず興奮して言うと、里佳はくすりと笑って私を見上げた。
「前の合コンで、営業の川上くんと気が合ってね。あれから付き合い始めたの」
川上くんて、確か入社一年目の人だ。すらりと背が高くて、爽やかな感じの人だった。
四年制の大学を出た里佳は、入社二年目。私と同じ年だから、一つ年下の人と付き合ってるのか。
それにしても、全然分からなかった。だって川上くんと一緒にいるところなんて、見たことなかったもの。里佳からも、そんな雰囲気全然感じなかった。
「気付かなかったなあ……」
思わずふて腐れたように呟くと、里佳は可笑しそうにクックッと笑った。
「あんたとは違うわよ。男ゲットに掛ける情熱と、仕事に掛ける情熱と、手に入れた男を更にモノにする情熱は別物なの。あんたは全部一緒じゃない」
ギクッ! た、確かに。
私って基本的に単純に出来ているんだろうか。
「で、でも! 今付き合ってるその川上くんに、何を今更告白するの?」
唇を尖らせながら言うと、里佳はメイク道具をしまいながら、あっさりと言った。
「プロポーズすんのよ」
「……は?」
思わず聞き返した私に、里佳は僅かに耳を赤く染めて、少し大きな声を上げた。
「だから、プロポーズすんのよ! 私、結婚しても仕事は続けていくつもりだけど。でも、あの人とずっと生きていける気がするから。ちょっと頼りないけど、でもまあ私がサポート出来る範囲だから問題はないわ」
「あの……二人って、付き合ってどれくらい?」
「二ヶ月チョイかしらね」
早っ!!
驚いて声も出ない私に、里佳はくすりと笑って立ち上がり、そして私の肩に手を掛けた。
「ありがとね、アフロディーテ。結構これでも緊張してんのよ」
「そっか……頑張ってね」
他に、里佳には何も言葉がいらないような気がした。
いつも自信に満ちたような里佳。美人で、サバサバしてて。ズバズバものを言うところは玉に傷だけど。それで、やること結構過激だったりするけど。きっと、私みたいなタイプを見ていると、イライラして堪らないんだろうけど、でもね。
私は里佳のこと、大好きだから。だから、応援したい。
私の施したメイクが、里佳に手助けの一端になれたならいいな。なれるといいな。
更衣室を出て行った里佳を見送り、さて私も直人さんとの待ち合わせのレストランに行こうかと思っていたその時。
閉じた更衣室の扉が、再び開いた。
そこから顔を出したのは、総務課の、尾崎主任だった。
尾崎主任は三十代後半の女性社員。ずっと私に、総務課に来ないかってアプローチしてくれている人だ。
確か、旦那様とお子さんがいらしたはず。旦那様は、この会社の開発部長。
「山岸さん、今、ちょっといい?」
尾崎主任は、周囲を見渡しながら中へと入ってきた。誰も他にいないことに、ほっとしているみたいだった。
「どうなさったんです? 何か私に御用ですか?」
そう尋ねると、尾崎主任は少し照れたように、先ほどまで里佳が座っていた椅子に腰掛けた。
そして、立ったままの私を見上げた。
「忙しいなら、いいんだけど、でも、出来たら山岸さんにメイクをお願いしたいの」
「えっ!?」
失礼だけど、凄く凄く驚いてしまった。
だって私が施すメイクには、恋を成就させるっていうジンクスがある。当てにならない噂よ、と私は必ず言っているんだけど、でも私にメイクを望む人たちはその願いがあるからで。
旦那様とお子さんがいらっしゃる、尾崎主任がまさか……。
私の顔を見て、尾崎主任はくすりと笑って手を振った。
「ああ、違うのよ。告白をしたい相手がいるわけじゃないの。それじゃないと、駄目なのかしら?」
「いえ、何だ、そうでしたか。分かりました。でも、ちょっと連絡したい相手がいるので、お待ちいただけますか?」
そう許可を得て、更衣室の端に行ってスマホを操作した。相手はもちろん直人さん。
もう、仕事終わったかな。レストランに着いちゃったかな。
ドキドキしながら通話ボタンを押すと、すぐに、
『はい、まどかちゃん?』
くうぅー!! 電話越しにもいい声! 堪らない!!
柔らかい、その優しい声に、私は一人で身体をモジモジさせながら、スマホを頬に押し当てた。
「あのね、ちょっと待ち合わせに遅れそうなの。ごめんね、大丈夫?」
『ああ、そうなんだ。いいよ。俺も今、会社を出たところ。それじゃ、前のカフェで待ってるよ』
「ホント? ごめんね?」
お腹空いているだろうな、きっと。でも、尾崎主任が自ら私に会いに来てくれた訳だし、無下に断るわけにもいかない。
そう言うと、歩きながらなんだろうな。周りの雑音が聞こえる中、直人さんの声が一際際立って私に届いた。
『気にしないで。ちゃんと、待ってるから。お腹空いているのは、まどかちゃんも同じだろ? 頑張ってね。そういって頼られるまどかちゃんが、とても、その、ええと……』
「え?」
『とっても、俺は好きだから……。ああ、もう駄目だ、ごめん、切るね!』
ブチッ、と通話が切られてしまった。
しばし呆然とスマホを眺めていたけど、でも後から後から笑みが浮かんで止まらない。
だって、言ってくれたのよ。
こうして依頼されたメイクを施す私が、好きだって。
好きって言葉が、ただそれだけが私の頭の中でリフレインされていく。
「ふふ…………」
笑みをうっすら浮かべながら、スマホをポケットに入れて、私はそれこそ満面の笑みで振り返った。
思わず声まで漏れていたかもしれない。
不気味な、「ふふふ……」という笑い声が。
私の表情を見た尾崎主任は、ひくひくと頬を引き攣らせていたけど。懲りない私は、『今がもう定時後』ということを免罪符に、浮かび上がる喜びを抑えることが出来なかった。




