第4話 唇に触れる、絶望の距離
直人さんの机に石橋さんが座り。その石橋さんの机に、直人さんが座った。
バックアップ何とかというのを、石橋さんのパソコンに繋げて、そこから残っているデータを引っ張っているようだった。
会議室の準備をし、人数分のコーヒーを落として、郵便物を慌しく配る私。
最後はいつものように、この二人への手紙だった。
「……石橋、いいから。使えって言っているだろう」
「うるせえ、これ以上お前の手は借りたくねえんだよ!」
何か、直人さんと石橋さんが揉めている。だけど、二人とも顔を合わすことなく、お互いのパソコンのディスプレイに目を向けたまま。
何の話をしているんだろう。でも、きっと聞いても私には分からない。
邪魔にならないよう、二人の机にそっと手紙を置き、時計を見上げた。
会議が始まるまで、あと十分。
間に合うのだろうか。不安なドキドキで、胸が一杯になる。
でも、私は私の今出来ることをしなくちゃ。もうこれ以上、足を引っ張らないようにしなくちゃいけない。
私は心の中で、怒涛の勢いで作業をしている二人の背中を見つめて、心の中で祈った。
どうか、頑張って。会議が成功しますように。
そっと目を一瞬閉じ、私は給湯室に向かった。
そして迎えた会議の時間。室長以上の、お偉い面々が顔を揃えている。プレゼンターは、もちろん石橋さん。
彼のこういう姿、あまり見たこと無いから違和感感じちゃう。表情は、いつものようにお気楽な感じだったけど。でも、それを見て安心した。どうやら間に合ったみたい?
十時間の作業分を、三十分で本当に終えることが出来たのだろうか? 大丈夫なのかな。
不安だけど、私には成功を祈ることしか出来ない。企画室主催の会議で私も準備のお手伝いをいつもするけど、どの会議もいつも心配。
これが、庶務担当の気持ちなのかな?
コーヒーを配布し終えた私は、壇上の石橋さんを見上げた。
「えー、今回私が提案致しますのは……」
始まった。もう、これ以上私はここにはいられない。
石橋さんのこと、あんまり好きじゃないけど。というよりも、直人さんに意地悪ばかりの石橋さん、嫌いだけど。
でも、この時ばかりは石橋さんを心の中で声援を送る。それくらいしか、出来ない。
私は静かに、会議室を後にした。
一時間が過ぎ、二時間が過ぎ。
まだ、会議は終わらない。随分と長いな……まあ、大抵会議なんてこんなものだけど。でも、やたらと時間が過ぎるのが遅く感じる。
私はメールで指示された仕事をこなしつつ、さりげなく立ち上がって後ろを振り返った。
直人さんが、背広の上着を脱いで、袖をまくってキーボードを叩いている。
「不破さん……」
小さく囁くと、直人さんは少しずれた眼鏡を軽く上げながら振り返った。そして、小首を傾げて私を見上げる。
「あの、会議の資料、間に合ったの?」
出すぎた質問だったかしら。庶務ごときの私が心配することじゃないかもしれない。
それでも、やっぱり気になった。
直人さんは、目を軽く宙に彷徨わせて更に首をかしげている。
「うーん、間に合ったといえば間に合ったけど」
何か、歯に物が挟まったような言い方。何かあるのね?
私が更に聞こうとしたら、それを直人さんが軽く手を上げて止めた。
そして、口元に淡い笑みを浮かべた。
「大丈夫、会議は順調に進むと思う。だから、心配しなくていいよ」
「でも……」
「山岸さんは、ちゃんと自分の仕事をやってるよ。俺は、そう思ってるから」
ドキッとした。
直人さんの言葉……もしかして、里佳との会話を聞かれてしまったのだろうか。
『今までのあんただったら、誰かの助けを借りた言い訳なんてしなかったはずよ。それを何? 不破さんに助けてもらうのを待つばかり?』
図星を突かれたような気がした。
確かに、今までの私だったら、謝罪の時に他人の名前なんて口に出さなかった。なのに、あの時私は言ってしまったんだ。
『里佳、ごめんね。でも、何とか不破さんが……』
本当に、私は甘えている。今もこうして、私の不安の種を取り除いてもらいたいから、直人さんに質問したりして。
本当に私、情けない。
直人さんと、企画室の皆と、同じ目線で立って仕事したいな。初めて、そう思った。
だって私、さっぱりと皆の仕事している内容、分からない。だから、手伝いたくてもそんなことを口に出来ない。
直人さんの言葉は嬉しかったけど、しょぼくれてしまった私に、直人さんは不思議そうな表情を浮かべた。
いけない、心配させてしまう。
私が笑顔を浮かべようとした、その時だった。
「不破さん、ちょっといい?」
里佳の声だ。飛び上がってしまうんじゃないかと思うほど、驚いた。
振り返った私には見向きもせずに、里佳は手に紙の束を抱えて、直人さんの前に立った。
「この間のこの資料、ちょっと疑問点があるんだけど。時間、少しもらえる?」
「あ……ええと…………」
直人さんは、困ったように私を見下ろした。
私はにこりと笑って、言った。
「不破さん、ありがとうございました」
その私に、何か言いかけた不破さんに、里佳は腕時計を見ながら、
「第五会議室、今なら空いていると思うの」
第五会議室かあ……直人さんが、こっそりと私を呼び出してくれた場所だ。
いいな、里佳。今まさに、私がそうなれたらいいのになって思ったことを、実践している。
仕事で、直人さんの隣に堂々と立てる里佳が、ちょこっと羨ましかった。
……いけない。また、暗いどん底へ落ちそうになってしまう。
どうして私はこうなんだろう。駄目だなあ。
私は大きく首を振り、フリーズしてしまったパソコンの、エンターキーをポンと押した。
頑張ろうって、決めたじゃない。私は、庶務なんだから。庶務の仕事をばっちりこなそう。
「山岸さーん、ちょっといいかな? お願いしたいことがあるんだけど」
男性社員の声がする。
よし、ファイトだ、私。
「はい、今行きます!」
私は今、浮かべることが出来る一番いい笑顔を湛えて立ち上がった。
会議は、直人さんの言うとおり無事に終わったようだった。
「うぇー、マジ疲れたー、有り得ねえ、もう嫌だ」
上司達がいなくなった会議室の机に、茶色い頭頂部を私に見せた石橋さんはうつ伏せになり、唸るような声を上げている。
いつもサボッてばかりの石橋さんは、こういうステージはお好きじゃないようだ。
私はコーヒーカップを片付けながら、くすりと笑った。
「お疲れ様。でも、良かった、何の問題もなく終わったのね?」
「まあなー、資料がムカつくほど完璧だったからな」
「……え?」
私がきょとんとすると、石橋さんは顔を上げて、深い溜息をついた。そして私を見ずに、私の背後の窓に目を向けた。
「あいつ……不破の抱えていた企画と俺のが、被ってたんだ。なあ、まどか、知ってるか? 不破のやつ、いくつもの企画を、同時進行で立ち上げてんだよ。だからいつも会議してんだな。そんな働いてどうすんだってーの。信じらんね」
信じられない。よく分からないけど、企画って普通、一つ一つ進めていくものじゃないの? それをいくつかって……しかもその企画がほとんど通ってしまう直人さんて、凄すぎじゃない?
ぽかんとしてしまった私に、石橋さんは苦笑して肩を竦めた。
「だからさ、結局俺が作った昼間までの資料は……そうだな、全体の三分の一くらいかな。残りは不破の作った資料で俺がプレゼンしたって訳。まーったく、苦々しいとはまさにこのことだな」
「石橋さん……」
「ちくしょ、今回は俺の完全敗北だ。だってさ、不破の資料、全然俺のより優れてるって一目で分かるんだもんさ。参っちゃうよな、だから、今回のプレゼンは、俺と不破の共同企画ってことに勝手にしといた」
「え、でも、それって室長と不破さんは……」
「知らねえよ。室長は目を剥きだして驚いてたけど、知るか。不破はいいんだよ。細かいことを上層部に聞かれたら、全部あいつに振ってやる。もうやだ、面倒くせえ」
そう砕けたように言う石橋さんだけど、でも分かる。本当に、直人さんに敗北を感じたんだ。同じ企画で作った資料……それは実力の差を、まざまざと見せ付けられたんだろうな。
石橋さんには気の毒だけど、でも私は今、直人さんの大きさを感じてた。
だって、直人さんは私にそのこと、一言も言わなかった。自分の作った資料を、石橋さんが自分で作ったって言い張れば、それで通ってしまうのに。
そんなことは、直人さんにとってはどうでも良かったのかもしれない。企画室の会議、ということを考えて、石橋さんに手を差し伸べたんだろう。
凄いな、直人さんて。
ぽわーんと感動してしまった私の前に、ふいに影が下りた。
驚いて顔を上げると、そこに真剣な顔をした石橋さんが立っている。
「まどか……仕事じゃ、確かに俺は不破には勝てねえ。やる気も違うけど、実力の差も分かってる。だけど、俺がどんなにお前のことが好きか、分かってるだろ?」
まずい、今、石橋さんとこの部屋に、二人きり。
その時に、この会話はまずいよ。嫌だ。
私は出入口に目を移した。逃げたくても、そこは石橋さんの向こう側。どうしよう……。
でも、ある意味チャンスかもしれない。ちゃんと、私の気持ちを、石橋さんに伝えるチャンスかも。
私は僅かに深呼吸して、なけなしの勇気を振り絞って声を上げた。
「石橋さん、お気持ちはありがたいんだけど、でも、私は不破さんが好きなの。だから、あなたには応えられないわ」
「……って、言うと思った。んだよ、あんな地味で暗いオタクのどこがいいんだよ」
「直人さんのこと、悪く言わないで!」
思わず大きな声を出してしまった。はっとして口元に手を当てると、石橋さんは苦笑して私の頭に手を当てた。
「直人さん、か。あーあ、こんなに好きなのになー、まどかのこと」
「……ごめんなさい…………」
「そうだな、一度でいいから、キスさせてくんね?」
突然の石橋さんの申し出に、私は意味が分からなくて。馬鹿みたいに、口をぽかーんと開けてしまった。
その私を可笑しそうに見て、石橋さんは私の頭に乗せた手を、徐々に下ろして、頬を撫で、そして親指で私の唇をなぞった。
「なあ、一度でいい。それで、もう終わりにしてもいいから……すげえ、したい。いいだろ、まどか……」
一度の、キス。
それで全て終わりになるの?
段々近づいてくる、石橋さんの顔。
終わりにしたいよ。そうしたら、直人さんも私も、仕事がしやすくなるし、気が楽になるし、石橋さんを苦しめないで済む。
一度、たった一度のキス。それさえ、我慢すれば……。
石橋さんの唇が、私に触れそうになった瞬間、私はぼんやりと、直人さんのはにかんだ微笑みを思い出していた。




