第1話 耳元のシークレット・トーク
朝、出勤準備に掛ける時間が大幅に増えた。いつもだったら六時に起きれば余裕で間に合ったのに、今は五時半には起きて、ブローにメイクに手を抜かずに頑張ってる。
全ては、直人さんに喜んで欲しいから。
直人さんが、自分の姿を変えてくれたように。
『俺と一緒にいたら、まどかちゃんが恥をかいちゃうかなって思って』
そう言ってくれた気持ち、私も同じなのよ。
昨日よりも、今日。今日よりも、明日。
もっともっと綺麗な姿を見て欲しい。あなた好みになれるかは分からないけど、それでも今出来る、精一杯のメイクテクを駆使して、なるべく地味になるように……普通は逆なんだろうけどね……それでもいいの。綺麗だって、直人さんが思ってくれるようなメイクを目指して頑張る私。
元々派手な私の顔は、気合を入れてメイクをすると、どんどんケバくなっていってしまう。直人さんは、そういうのあんまり好きじゃないみたいだから(って、勝手に思ってるんだけど)。
だからね。なるべく、自然に。そう、ナチュラルメイクを目指して。
それって、嫌な時間じゃない。何だかドキドキして、ウキウキする。
とっても楽しい時間だった。
今日も、朝は郵便物配達人と化す私は、企画室のメンバーに笑顔と共に封書を手渡していく。
そして、一番最後。ドキドキマックスになる瞬間。
誰よりも、一番早く仕事を始めているあなたに、いくつもの郵便物を渡す瞬間が、私の朝の楽しみなの。
「おはようございます、不破さん」
会社では、お互いになるべく苗字で呼ぼうねって話し合った。その代わり、オフになったら、たくさん名前を呼ぶから。
私は甘えて、ことあるごとに『直人さん』って呼んじゃうけど、直人さんも、段々自然に私を『まどかちゃん』って、頬を軽く染めながらも呼んでくれる。それが堪らなく胸がキューンとなってしまって止まらなくなる。
オンオフって大事だなって、初めて知った。だってそれだけ燃え上がるもの。
オンの直人さんは、なるべく私を意識しないように努力しているのが分かる。それがとてつもなく可愛い。
今も、ほら。
私の差し出した手紙の束を受け取って、パソコンのディスプレイから目を離さないまま、
「おはようございます、山岸さん」
なんて、本人は違和感無く言っているつもりなんだろうけど、耳が真っ赤に染まってる。その耳に、そっと囁くの。
「今日のスーツ、どう? 昨日買ったばっかりなの」
そうこっそりと、誰にも聞こえないように小さく小さく囁くと、直人さんははっとして私の顔とスーツを慌しく見比べて、そしてすぐにパソコンに目を戻した。
「かっ……可愛い、うん、可愛い」
いつも、そればっかり。可愛い、綺麗。違う感想もたまには聞きたいのにな。
でも、やっぱり嬉しい私は、にこにこ笑顔で隣の石橋さんに郵便物を差し出した。
あれ、珍しい。もう、仕事を始めている。今日は石橋さん、会議があるのかな。
「おはようございます、石橋さん」
「……ああ、おはよう。そこに置いといて」
石橋さんは、私に目を向けることなく、キーボードを操ってそう言った。
こんなこと、今までになかった。いつも、うっとおしいくらい、私に『付き合おう』を連発してくるのに。
直人さんとのことが分かって、諦めてくれたのかな。ほっとした私は、余り深く考えずに、言われるがままにデスクの端っこに郵便物を置いて、そして自分の机に座った。
そして、パソコンをそこでやっと立ち上げる。
背中には、直人さんの気配を僅かに感じることが出来る。それだけで、とても幸せな気分になれた。
今までは……想いを告げる前までは、ただドキドキしているだけだったけど、今は違う。
直人さんに、呆れられないように。
私の出来る全ての力を注いで、仕事を頑張ろうって思えるようになった。
仕事に全力投球の直人さんに、堂々と私も顔向け出来る様に頑張りたい。
ただそれだけで、仕事への威力が俄然増していく。
恋の力って、偉大なのね。
改めて、そう思った。
終業のチャイムが鳴り、大きく溜息をつく社員達。
私も丁度備品のチェックを終えて、不足しそうなプリンターのトナーとか、印刷用紙を発注して、やっと仕事終了。
くるりと振り返ると、やっぱりというか、直人さんは終業のチャイムなんて聞こえていないみたいだった。
ずずっと椅子を寄せて、無心でパソコンに立ち向かっている直人さんに、こそこそと囁いた。
「まだまだ掛かりそう? もうお腹ペコペコ」
最近は、お店を待ち合わせてそこで私が待っていて、一緒にお夕飯っていうパターンが多いんだけど、でも、たまには一緒にお店に行きたい。
無理だったら、全然構わないんだけど、ダメ元で聞いてみると、直人さんは私とパソコンを見比べて、僅かに苦笑して、作っていたグラフみたいなのを保存した。
「ちょっと待ってて。これ、保存したら終わりにするから」
仕事を中断させてしまったかな。まずい。足を引っ張る、うっとおしい女的発言だったかな。
一挙に不安感が私の中で膨れ上がる。
「あ、いいの。待ってるから、全然大丈夫だから!」
慌てて言うけど、直人さんはサクサクとパソコンを立ち下げてしまった。
あああ……。本当に昔の人は、上手いことを言う。後悔って何で先に立たないのかしら。
がっくりと落ち込んだ私の肩をぽんと叩き、直人さんはすっかりと爽やかになった髪を揺らして立ち上がった。
コンタクトは、やっぱり無理だったみたい。だけど、細めの眼鏡越しに綺麗な切れ長の瞳を細め、
「お待たせ」
そう言いながら、僅かに浮かべた笑みに、私はもう舞い上がってしまって。大きく頷いて、鞄を手にして立ち上がった。
そこで気付いた。石橋さんが、まだ仕事している。嘘でしょ、だって定時過ぎたのに。いつもなら、定時前には早くもパソコンを立ち下げるような人なのに。
まだ、仕事を続けていた。
「石橋さん、まだお仕事、終わらないの?」
思わずそう尋ねると、彼は軽く肩を竦めて私を見上げた。
その表情は、少し疲れているように見えたけど、でもさほど気になるような変化は無かった。
「まあな。気をつけて帰れよ。あ、まどか、明日、朝一で会議入ってるから。会議室の予約は入れといたけど、後頼むな」
「はい、分かりました。お疲れ様でした」
私は石橋さんに頷いて、そして忘れないように付箋にメモを残して会社を後にした。
何の不自然さもない会話。今までに戻れたのかな。よかった。出来るなら、あまり揉めたくないもの。
石橋さん、とてつもなく軽くて、男の人としては魅力全く感じないけど、でも、嫌な人じゃない……と思うから。直人さんに対しては、キツいから嫌だけど。でも。
出来るなら、同じ部署だし仲良くしていきたい。今までのように、気軽に話せるようになるのなら、それはそれでいいか。
何の疑問もなく、ただ私はほっとしていた。




