森の深部の危険性
翌朝――。
野営しっかりと休息を取った私たちは、再び隊列を組み、魔の森のさらなる深部へと足を踏み入れていった。
木々はもはや本来の植物の形を成しておらず、黒く捻じ曲がったオブジェのように天を突いている。
陽の光は完全に遮断され、ランタンの灯りと私の聖魔力の淡い光だけが、周囲の暗闇を辛うじて切り裂いていた。
「……うーん」
「どうしたんだい、ラフィナ。気分でも悪いのか?」
私が鼻をすんすんと鳴らしながら眉をひそめていると、すぐ隣を歩くシルアレク殿下が心配そうに顔を覗き込んできた。
「気分が悪いというか……魔の森の匂いが、なんだか『お酒』みたいだと思いまして。進むほどに濃度が上がっているのが分かります」
「お酒……?」
「ええ、私の結界で空気は浄化しているはずなのに、匂いだけがキツくなってきているんです。なんだか、息をしているだけで酔っ払いそうです」
私が顔をしかめると、シルアレク殿下がすぐに私の肩を支え、心配そうに覗き込んできた。
「無理もない。ここはもう、並の魔法使いなら結界があっても正気を保てないほどの濃度だ」
最後尾を歩いていたティエリーが、周囲の禍々しい木々を険しい目で見回しながら言った。
「確かに、古い文献でも魔の森の深部の空気は『酒のような香り』と形容されていますね。……だからこそ、並の人間や魔法使いはここに長時間居られないのです」
「匂いだけで、ですか?」
「匂いというより、大気中に溶け込んだ致死量の魔力そのものが、脳と神経を直接麻痺させるのです。極度の魔力濃度に当てられると、まるで強い酒を浴びるように意識が朦朧とし出し、正確な思考や判断ができなくなっていく。やがて身体も言うことを聞かなくなり……最後は狂乱の中で、死に至る」
ティエリーの淡々とした、しかし恐ろしい解説に、前衛を歩いていたヤンバラがブルッと大袈裟に肩を震わせた。
「おいおい、冗談じゃねえぞ。俺みたいな魔力ゼロの人間からしたら、姿の見えねえ毒ガスの中を歩いてるようなもんじゃねえか」
「改めて恐ろしい場所だな……。ラフィナの結界と浄化がなかったら、僕たちは今頃、とっくに全滅しているぞ」
シルアレク殿下が、冷や汗を拭うように額を押さえて息を吐いた。
彼ほどの魔力量を持つ王族であっても、この森の深部の異常な空間は脅威以外の何物でもないのだ。
「魔の森の深部へ入った魔法使いは、よく『恐ろしい幻覚を見た』と逃げ帰ることがありますが……それも合点がいきます」
ティエリーはランタンを高く掲げ、どす黒く淀んだ森の奥を冷静に見透かすように目を細めた。
「高度な精神攻撃の魔法が仕掛けられているというよりは、極度の魔力による『酩酊状態』で、自らの恐怖が生み出した幻を見ているのでしょうね」
「私も、騎士団の教本で読んだことがあります」
前方を鋭い目で警戒していたヴィノンが、剣の柄に手をかけたまま口を開いた。
「魔の森の深部を踏破するには、高い魔力耐性だけでは不十分。己を見失わず、正気を保つための『確固たる意志』が必要不可欠だと。……生半可な覚悟で踏み込めば、魔物に喰われる前に、森そのものに心を喰い殺されるのでしょう」
確固たる意志。
それは言い換えれば、どんな同調圧力や恐怖にも流されない『確かな自分』を持っているかどうか、ということかもしれない。
「なんだ、なら俺たちは心配ねえな!」
ヤンバラが豪快に笑い飛ばし、大剣の腹をバンと叩いた。
「俺たちには、世界一揺るがねえ『確固たる意志』を持った嬢ちゃんが、ど真ん中にいてくれるんだからよ!」
「ふふっ、違いない。君がいれば、どんな幻覚も悪夢も入り込む隙はないさ」
「……買い被りすぎですよ。私はただ、無臭の空気が吸いたいだけですから」
殿下とヤンバラの全幅の信頼に、私は呆れたようにため息をついた。
だが、彼らの言う通り、私の結界の中だけは、外の狂気など一切関係のない『正常な世界』として保たれている。
私たちは互いの存在と、この小さな結界の温もりを確かめ合いながら、狂気と酩酊の森をさらに奥へと進んでいった。




