森の奥へ
魔の森の深くへと足を踏み入れるにつれ、周囲の空気は泥のように重く、視界も霞むようになっていた。
ティエリー曰く、「並の魔法使いであれば、数時間で発狂し、確実に命を落とすレベルの極悪な魔力濃度」らしい。
「――とはいえ、この中なら快適でしょう?」
「ええ、結界の外の地獄が嘘のようです。……ただ、少々物理的に息苦しいですが」
私は、自分の周囲に『浄化の結界』を展開し、その清浄な空間の中でティエリーと頷き合った。
この結界の中は、王都の神殿よりも澄み切った無臭の空気が保たれている。
しかし、何が潜んでいるか分からない未知のダンジョンである以上、私の聖魔力は極力温存しておかなければならない。
そのため、結界の範囲は半径一・五メートルほどの最小限に絞っていた。
その結果どうなるかというと――屈強な男四人と私が、ひとつの傘に無理やり入るような、ぎゅうぎゅうの状態で行軍することになるのだ。
「おい、みんな! いくら結界から出られないとはいえ、ラフィナにくっつきすぎじゃないか!?」
私のすぐ隣を陣取っているシルアレク殿下が、落ち着かない様子で周囲を威嚇し始めた。
「ヤンバラ、君の分厚い腕がさっきからラフィナの肩に当たっているぞ! ヴィノンも、剣の柄が彼女に触れないようにもう少し気をつけたまえ!」
「しょうがねえだろ、殿下! 結界から出たら瘴気に当てられちまうんだからよ!」
「……不本意ですが、ヤンバラの言う通りです。殿下こそ、ラフィナ様に寄り添いすぎではないですか?」
「僕と彼女は、愛という名の絆で結ばれているから問題ないんだ!」
文句を言い合いながらも、私たちは和気あいあいと、ある種のピクニックのような奇妙な連帯感を持って禍々しい森を進んでいった。
だが、そんな騒がしい行軍も、森の深部へ進むにつれて徐々に口数が減っていった。
襲いかかってくる凶悪な魔物を連携して倒しながら進むうち、結界の維持に集中している私以外のメンバーに、明らかな疲労の色が見え始めたのだ。
「ハァッ……ハァッ……」
特に消耗が激しかったのは、魔力を持たず『魔石』の力だけで結界内の圧に耐えているヤンバラと、パーティーの中ではまだ若く、魔力の絶対量が少ないヴィノンだった。
二人の顔色は青白く、額には脂汗が浮かんでいる。
「……二人とも、ストップです。少し休憩しましょう」
私が足を止めると、二人は申し訳なさそうに膝に手をついた。
「わりぃ、お嬢ちゃん……。なんか、息が上手く吸えなくてよ……」
「面目ない……。これほどの魔力圧、想像以上でした。私の鍛錬不足です……っ」
私はローブの袖をまくり、彼らに向かって両手を差し出した。
「ヤンバラ、ヴィノン。私の手に触れてください」
「……お嬢ちゃん?」
「え? ラフィナ様の手に?」
「直接、体内を『浄化』します。結界の中にいるだけより、直接触れた方が回復が早いですから……遠慮しないで、早く」
「あ、ああ……」
「失礼します」
ヴィノンが恐る恐る私の右手を握り、ヤンバラが私の左手を大きな両手で包み込むように握った。
その瞬間、私の体から温かく清らかな光が彼らの体内へと流れ込んでいく。
「お、おおおっ……すげえ……! すげえぞ、嬢ちゃん! 身体が羽根みてえに軽い……っていうか、なんだこの胸の奥がドクドクする感じは!? すっげえ身体が熱くなってくぞ!」
「こ、これがラフィナ様の……。なんて清らかで、温かい……。くっ、いかん。動悸が激しくなって……私は一体どうしてしまったんだ……」
二人とも、何だか顔が赤くなって、私を見る目が潤んでいるように見える。
「……? どうしたんですか? 回復が上手くいかなかったですか?」
「いや……十分だ」
「魔力酔いは、すっかり良くなりました……けど」
二人の様子に、ティエリーがメガネに手を当てて呟いた。
「これは……極限の緊張状態と、死の恐怖が隣り合わせの森の中で、絶対的な安心感と温もりを与えられた影響でしょう……いわゆる『吊り橋効果』が発動したみたいですね。純度の高い聖魔力による多幸感と相まって、特別な感情が芽生えたようです」
その言葉を聞いてもピンと来なかった私は、とりあえず元気になったみたいで良かったと実務的に頷いた。
「魔力酔いは治ったみたいですね。このまま進みましょう」
「お、おうっ! 任せとけ、お嬢ちゃん! 今の俺なら、魔の森のバケモンなんざ素手でも引き裂けるぜ! お嬢ちゃんがいれば百人力だ!!」
「……騎士として、我が剣に誓って。ラフィナ様は、私が必ず、命に代えてもお守りするっ!」
顔を真っ赤にしたまま、俄然やる気を出して前衛を務めるヤンバラとヴィノン。
直後、木々の影から襲いかかってきた凶悪な魔獣の群れを、二人は信じられないほどの猛スピードと超火力で、文字通り瞬殺してしまった。
「やれやれ……単純な二人ですが、前衛としてのスペックは破格ですね」
「まったく……僕のラフィナに直接触れるなんて、許しがたい。だが、あの頼もしさだけは認めてやろう」
ティエリーが感心したように微笑み、シルアレク殿下が頬を膨らませてヤキモチを焼きながらも、しっかりと後方の警戒を怠らずに剣を構えている。
本当に、頼もしいパーティーだ。
そうして魔物を片付け終えた直後、ティエリーがふと、倒木の陰に群生している植物に目を留めた。
それは、毒々しい赤紫色の斑点を持つ、奇妙にねじ曲がった花と、そこから滴る黒い樹液だった。
甘く、そしてどこか腐敗したような強烈な匂いが漂っている。
「……皆様、見てください。これです」
「なんだい、その悪趣味な花は」
「ネマの化粧品に含まれていた、微量な魔力成分……その『原料』となる植物群です」
ティエリーの言葉に、私たちは息を呑んだ。
私は眉をひそめ、その花を見下ろした。
「こんな、普通の人間なら数時間で死んでしまうような森の深部に……化粧品の原料が?」
「高濃度の魔力の中でしか育たないってことだろう」
「ええ、これほど奥深くでしか採れない未知の素材を、自分の足で探し出し、大量に採取して、あまつさえ誰もその正体に気づかないような『化粧品』へと加工してみせた。……ネマという魔女の持つ、底知れない魔法技術の高さと、生存能力の異常さが窺えます」
やはり……ただの悪戯や、浅知恵の呪いではない。
彼女は明確な意志と、途方もない実力を持って、この世界を狂わせたのだ。
「……油断はできませんね。気をつけて進みましょう」
私たちは改めて表情を引き締め、さらに深く、暗く沈む魔女の領域へと足を踏み入れていった。




