第一王子妃の失墜
***
「……馬鹿な。この私が丹精込めて集めた極上の瘴気が……こんなにあっけなく無に帰すなんて……っ!」
広場を見下ろす時計塔の陰で、前・宮廷魔法使いのミルティスは、ギリッと血が滲むほどに爪を噛み締めていた。
王都を火の海にし、魔物に蹂躙される人々の悲鳴と絶望を、極上のワインのように味わうはずだった。
なのに、彼女の最高傑作である合成獣の瘴気は、ラフィナの放った規格外の光の濁流によって、あっという間に消失してしまった。
「クソッ、忌々しい聖女め……! せっかくの美しい絶望を台無しにしやがって……!」
「……相変わらず、魔力の使い方が悪趣味ですね、ミルティス先輩」
突如、背後から掛けられた冷たい声に、ミルティスは弾かれたように振り返った。
しかし、彼女が魔法を展開するよりも早く、足元の影から這い出た翠色の『魔力の鎖』が、蛇のように彼女の全身に巻き付き拘束した。
「がはっ……!? ティエリー……ッ!」
「王都の地下から立ち上る、ドロドロとした粘着質で非効率な魔力の波長……すぐに貴女の仕業だと気づきましたよ」
暗がりから歩み出てきたティエリーは、眼鏡をスッと押し上げ、蔑むような冷ややかな目でかつての先輩を見下ろした。
***
ティエリーが拘束した犯人を、私たちの前に連行してきた。
前・宮廷魔法使いミルティス……王妃様の皮膚病の時に、見当違いの美容魔法で容体を悪化させていた張本人だ。
「離せ、忌々しいクソどもが……!」
泥の地面に引き倒されながらも、ミルティスは目を血走らせて私たちを睨みつけた。
「貴様ら、よくも私の芸術を邪魔しやがって!」
「芸術……?」
「人間は、絶望の淵で泣き叫ぶ時こそ、最も美しく輝くのよ! その絶望から生み出される瘴気の魔力こそが、至高の魔力なのよ! 貴様らのような薄っぺらい希望を語る連中には、この芸術の価値など一生理解できないわ!」
狂気に満ちた美学を、唾を飛ばして語るミルティス。
魔法の探求者でありながら、己の力ではなく、他人の生み出す負の感情に依存し、それを啜ることでしか快感を得られない。
ティエリーとは対極にある、醜悪な『魔法オタク』の成れの果てだ。
私は心底呆れ果て、深い溜息をついて彼女を見下ろした。
「芸術だか、何だか知りませんけど……」
私の氷のように冷たい声に、ミルティスがビクリと肩を震わせる。
「他人の不幸や絶望の瘴気を吸い上げないと、まともに魔法を使えないなんて、随分と燃費の悪い……まるで欠陥品の魔導具みたいですね」
「なっ……! き、貴様……私をコケにする気か……っ!」
「事実でしょう? 自分では大層な魔法が使えないから、他人の人生をめちゃくちゃにして、そのおこぼれに寄生して強くなった気でいる。……はっきり言って、魔法使いとして『三流』以下のゴミですよ」
容赦のない私の言葉に、ミルティスは顔を真っ赤にしてワナワナと震えている。
ティエリーが、口元を押さえて必死に笑いを堪えているようで、ヤンバラとヴィノンも、「お嬢ちゃん、えげつねえ」「だが事実だ」と小声で囁き合っていた。
「……前・宮廷魔法使い、ミルティス」
そこに、シルアレク殿下が静かに……しかし、王族としての絶対的な威厳を纏って一歩前に出た。
「国家反逆、および王都襲撃の首謀者として捕縛する。……だが、貴様一人で王宮の結界を抜け、地下に巨大な魔導陣を構築できたとは到底思えない。王宮内に、貴様を手引きした内通者がいるな?」
自慢の瘴気魔力が消失し、狂った美学を否定され、魔法使いとしてのプライドも完全にへし折られた彼女には、もう誰かを庇うような義理も忠誠心も残っていなかったらしい。
あっさりと、自白を始めた。
「ええ、いますよ。そもそも私を宮廷魔法使いとして王宮に引き入れ、資金と場所を提供したのは……第一王子デルマー様の正妃、マリーゼ様ですから」
「義姉上が!? ……予想はしていたが、浅ましいことだ」
殿下は、苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
「しかも、今回だけじゃありませんよ。……以前、王妃様が不自然な皮膚病で倒れられたでしょう? あれも、マリーゼ様に命令されて、私が毒花粉をすり込んだんです。あわよくば、病死に見せかけて暗殺しろとね」
あまりにも淡々とした……衝撃的な自白だった。
あの皮膚病が仕組まれたもので、その黒幕が身内である第一王子妃だったという事実に、シルアレク殿下は怒りを露わにした。
「あの女……母上の命を狙い、あまつさえこの王都を地獄に変えようとしたというのか……!」
「マリーゼ様は、自分の本性が王妃にばれていると気づいて、シルアレク殿下が次期国王に選ばれることを酷く恐れていましたからね。私はマリーゼ様の嫉妬と焦燥から生まれるドロドロの感情と瘴気が大好きで、手を貸してあげただけ。今回のテロだって、マリーゼ様は喜んで承諾してくださいましたわ!」
狂ったように高笑いをするミルティスを、ティエリーが魔法で静かに気絶させた。
「……殿下、この女の身柄は、私が責任を持って王宮の地下牢へ連行します」
「ああ、頼む。国王陛下へは僕が伝える。これで長年の膿も、すべて出し切れるだろう」
シルアレク殿下は静かに呟き、血塗られた長剣を鞘に収めた。
***
その日の夜。
ミルティスの自白と、ティエリーが集めた数々の物的証拠により、第一王子妃マリーゼの悪事は、国王陛下および第一王子デルマーにすべて晒された。
本性を隠して第一王子に近づき、取り入って結婚。
その後の王妃暗殺未遂、そして王都への魔物引き入れ……そのすべてが暴露されたのだ。
「マリーゼ……君が、そんな恐ろしいことを考えていたなんて……!」
すべてを知った第一王子デルマーは、人が良いだけの無難な夫だったが、この時ばかりは己の愚かさを悟り、涙を流しながらも現実と向き合った。
「嘘です……! デルマー様、信じてください! これはシルアレクとあの下民上がりの聖女が、私を陥れるために仕組んだ罠なのです!」
王宮の大広間で、マリーゼは錯乱したように泣き叫んで無実を訴えた。
だが、その声が届くことはなかった。
人が良すぎたデルマーも、突きつけられた決定的な証拠の数々と、王都を襲った大暴走の凄惨な被害を前にしては、愛する妻の『完璧な仮面』の下に潜むおぞましい本性を、ついに認めざるを得なかったのだ。
「……もういい。マリーゼ」
デルマーは、初めて妻に向かって冷酷な背を向けた。
「君のその醜い野心のせいで、母上は命を落としかけ、我が国の民は無用の血を流した。……私は、君を絶対に許すことはできない」
「デ、デルマー様……っ! 嘘っ! 嫌よ! 私は次期王妃になる女なのよ! この顔も、まだ治してもらってないのに! 私は被害者なのよぉ……っ! お願い、助けてよぉぉぉっ!!」
絶望の叫びを上げるマリーゼは、近衛兵たちによって両腕を掴まれ、王宮の地下にある冷たい牢獄へと引きずられていった。
彼女がかつて夢見た『国を裏から支配する』という野望は、完全に潰えたのだ。
「……君を信じて、結婚までしてしまった私が愚かだった。すべては己の野心と自己顕示欲を満たすために、私を利用しようとしていたのだろう。まんまとそれに乗せられてしまった私は、母上に『王の資質なし』と見限られてしまって当然か……」
連行されるマリーゼを見送りながら、デルマーは自虐気味に微笑み、母である王妃と弟のシルアレクに視線を送る。
「デルマー……」
「兄上……」
王妃とシルアレクは、複雑な感情を抱いたまま、長男のデルマーを心配そうに見つめていた。
その二人に対して、デルマーは瞳を閉じて頭を下げた。
「『彼女は仮面を被っている』という、母上の忠告を無視して、彼女を王室に入れてしまった責任は取ります。第一王子である私が情けないばかりに、苦労をかけて申し訳ございませんでした……」
***
この事件を機に、王宮内の勢力図は確固たるものとなった。
第一王子派閥は、中核であるマリーゼの失脚により完全に崩壊。
その逆に、王都の危機を最前線で救い、数々の陰謀を暴いた第二王子シルアレクの評価が決定的となり、彼の『次期国王』の座は、もはや誰にも揺るがせない盤石なものとなったのである。
王都を脅かしていた内部の腐敗と脅威は、こうして完全に一掃された。
残る脅威はただ一つ。
諸悪の根源であり、未だ見えぬ森の奥で息を潜める魔女……ネマ。
その討伐に向けて、私たちは本格的に




