令嬢の罠と男たちの欲望
買い出しを終えて神殿に戻り、一息つこうとしていた矢先のことだった。
神殿の入り口に、顔を布で隠したひとりの女性が駆け込んできた。
「せ、聖女様……! お願いです、助けてください! 下層区の路地裏で、呪いの症状が悪化した女性が倒れて、息をしていないんです……!」
切羽詰まった声と、震える肩で必死に訴えている。
私は用意していたティーカップを置き、即座に対応しようとした。
しかし、駆け寄ってきたリンリルが、青ざめた顔で私のローブの裾をきつく握りしめる。
「駄目です、ラフィナ様……! 行かないでください!」
「どうしたの、リンリル?」
「あの人から、すごく嫌な形の『真っ黒な虫』が見えます。呪いのモヤじゃありません。ドロドロとした、悪意と嘘の塊です……!」
リンリルの真紅の瞳が、恐怖に揺れている。
生来、彼女の目は人間の隠し持つ悪意を可視化して捉えることができる。
その彼女がこれほど怯えているということは、ただの悪戯や勘違いではない証拠だろう。
(……なるほど。あの『性格の悪いおばさん』が、さっそく何かを仕掛けてきたというわけね)
街で遭遇したビネッタの、嫉妬に狂った顔が脳裏を過った。
罠だと分かっていながら、そこに飛び込むのは愚の骨頂だ。
だが――もし万が一、本当に路地裏で死にかけている被害者がいた場合、私が見捨てるわけにはいかない。
それが聖女としての矜持であり、私の存在意義だからだ。
「大丈夫だよ、リンリル。何があっても、私なら平気だから」
私はリンリルの頭を優しく撫で、その手をそっと離した。
「リンリルは神殿で、カルネア様と一緒に待っていなさい。絶対に外に出ちゃ駄目だよ。……すぐに戻るから」
不安げに見送るリンリルを神殿に残し、私は案内役の女性の後を追って、陽の当たらない下層区の路地裏へと足を踏み入れた。
じめじめとした石畳、饐えた生ゴミの臭い。
王都の華やかさから完全に切り離されたその袋小路にたどり着いた瞬間、案内役の女性はヒッと短い悲鳴を上げ、逃げるように走り去っていった。
そして、前方の暗がりから、下卑た笑い声と共に複数の人影が這い出してきた。
「よく来たな、聖女様よ」
「へへっ……まんまと誘い出されてきやがって。馬鹿な女だ」
現れたのは、酒の臭いをぷんぷんとさせた、身なりの荒れた貴族の男たちだった。
彼らの手には鈍く光るナイフと、不気味に泡立つ緑色の液体が入ったガラス瓶が握られている。
「倒れている人なんて、どこにもいませんね。……私に何の用ですか?」
私が微塵も動揺を見せずに尋ねると、リーダー格の男が下劣な視線で私の全身をねっとりと舐め回した。
「決まってんだろ。街の若い女は『ネマの呪い』とやらで、みーんなシワシワの化け物になっちまった。俺たちの婚約者もな。……おかげで俺たちは、ずっと溜まってんだよ」
「今、まともな顔と身体をしてるのは、お前しか残ってねえんだ。分かるよなぁ?」
「唯一残った、若くて綺麗な女……聖女様で、たっぷりと性欲を処理させてもらうぜ」
その言葉の悍ましさに、私は思わず眉をひそめた。
「しかもよぉ」と、別の男が下卑た笑いを漏らす。
「聖女ってのは、男とヤるとその神聖な力が消え失せるらしいじゃねえか。あの天然王子も、複数の男に回されて汚れた女なんざ、一発で捨てるだろうよ」
「お前がネマの呪いを隠して、俺たちの婚約者を化け物にした復讐だ。俺たちがたっぷりと可愛がって、その『聖女』って偉そうな肩書きもぶっ壊してやるよ」
(……なるほど。そういうことか)
私は彼らの言葉から、この下劣な計画の全貌を悟った。
薄暗い路地裏の入り口付近の物陰に、黒いベールを被ったビネッタの気配があるのを、私は確かに感じ取っていた。
ビネッタは、私に嫌味をぶつけるだけでは満足できなかったのだろう。
男たちの不満や性欲を利用して、私を犯させて、女としての尊厳を奪う。
そして同時に、男性と契ることで失われる『聖女の力』そのものを私から剥奪しようというのだ。
「……そうなれば、私は聖女としての地位も、殿下からの寵愛も、すべてを失って地に堕ちる……というわけか」
「ああ、そうだ! お前をたっぷりと味わって、ただの汚れた女に成り下がった後……その綺麗な顔面に、この酸をぶちまけてやる。ナイフでズタズタに切り裂いて、二度と男を誘惑できねえ化け物にしてやるよ!」
「まあ、せっかくの若い女の顔を潰すのはもったいねぇ気もするが……それこそ顔の良さだけで調子乗ってる、クソ王子の泣きっ面が拝めると思うと悪くねぇ。神殿前広場でのイキリっぷりには、心底ムカついてたからな」
「顔がぐちゃぐちゃになる前に、たくさん楽しんでやるよ。まだ王子様も知らないお前の全てを、俺たちが奪ってやるぜ」
ビネッタはきっと今頃、ベールの下で歓喜に打ち震え、ほくそ笑んでいるのだろう。
女としての尊厳を奪い、聖女の力を奪い、最後に美しさも奪う。
「憎きラフィナを絶望のどん底に叩き落とす、完璧で一石二鳥の計画だ」と。
「……はあ」
私は、心の底からの深いため息をついた。
恐怖など微塵も湧かなかった……が、人間の底の浅さと、その陰湿で醜悪な悪意に対して、静かな怒りが冷たく燃え上がっていくのを感じていた。
「本当に、反吐が出ますね。どこまでも浅ましく、下劣で、救いようのない外道だ。……貴方たちも、そこで覗き見している哀れな『おばさん』も……」
私が冷ややかに言い放つと、男たちの顔が屈辱と怒りに歪んだ。
「強がってんじゃねえぞ、クソアマ! 泣き叫んで後悔しろ!」
男たちがナイフを構えつつ、唾を飛ばして一斉に襲いかかってくる。
私は逃げることも、防御の姿勢を取ることもしなかった。
ただ静かに右手を上げ、手のひらを彼らに向けた。
(……ちょうどいい的だ。ティエリーに教わったばかりの『聖魔法の攻撃』……その試し撃ちをさせてもらうか)
私は体内を満たす圧倒的な質量の聖魔力を、一点に極限まで圧縮し、攻撃的な「撃ち出す光」へと変換しようと意識を集中させた。
男たちの薄汚い手が、私のローブに触れようとした、まさにその瞬間だった――。




