友達だった弱者聖女・後編
シルキーの家に着くと、リンリルが震えた声で私の袖を引いた。
「……ラフィナ様。あの家から、凄まじい量の『黒いモヤ』が溢れています」
顔をしかめるリンリルの言う通りなのだろう。
私には視認出来ないけど分かる。
凄まじい悪臭……鼻が曲がりそうだ。
ネマの化粧品の臭みとは、また別次元の酷い臭いだ。
私は無言で頷き、半ば壊れかけた木製のドアを静かに押し開けた。
「……シルキー」
薄暗い部屋の中は、息が詰まるほどの強烈な瘴気と、むせ返るような悪臭で満ちていた。
割れた鏡の破片が散らばる部屋の隅で、ボロボロの衣服を纏った老婆のような姿の人間がうずくまっている。
かつて化粧で彩られていた綺麗な顔は見る影も無くたるみきり、深いシワが幾重にも刻まれ、抜け落ちた髪が床に散乱していた。
「あ……らふぃな、ちゃん……?」
濁った目で私を見た彼女は、「ひっ」と喉の奥で悲鳴を上げ、顔を両手で覆い隠すように壁際へ後ずさった。
「こ、来ないで……! 見ないでよぉっ……!」
「シルキー。……酷い瘴気が出てるよ。苦しいでしょ」
私が静かに歩み寄ると、シルキーは床に顔を擦り付けるようにして、獣のような声で泣き叫んだ。
「ああああっ……! ごめんなさい、ごめんなさい……! 私、馬鹿だった……っ! 綺麗になったって有頂天になって、ラフィナちゃんを裏切って、聖女の力も、何もかも自分で捨てちゃって……!」
あまりの悲痛な絶叫に、息を呑むしかなかった。
呻くように泣くシルキーは、ポロポロと言葉を吐き出していった。
「私……本当に馬鹿で……初めて、ラフィナちゃんに勝ったと思ったの……。聖女として私は凡庸で、いつも堂々としてるラフィナちゃんに、ずっと劣等感を刺激されてた……。そんな私でも、化粧をしてる時だけ、『私はラフィナちゃんより上だ』って思えて…………たのに……」
「……」
「私に『愛してる』って言ってたあの男……私の顔がこんな風になった途端、『化け物』って言ってゴミを見るような目で、私を蹴り飛ばして逃げたの! 聖女を辞めてまで愛した彼に裏切られて……。本当に後悔して……ラフィナちゃんに謝りたくて、懺悔したくて……勇気を出して神殿に行ったら……」
彼女の指の隙間から、黄色い膿と濁った涙がとめどなく溢れ出す。
「神殿の前で……ラフィナちゃんに求婚してた男たちの中に、彼もいたのよ……っ!」
――あまりにも残酷で、滑稽な現実だった。
彼女がすべてを投げ打って手に入れた『女としての幸せ』は、ネマの魔法が解けた瞬間にあっけなく崩れ去り、何もかもが真逆の結果になってしまった。
シルキーにとって、悪夢としか言いようがないだろう。
「もう、何もかもどうでもよくなって……神殿から逃げて…………瘴気を祓う聖女だった私が、瘴気をばら撒くなんて滑稽だよね……。でも、自分でもどうしよもない……私、自分が気持ち悪い……っ! 調子に乗って、自分を見失って……全部自業自得なのに……自分が憎い、許せないのぉっ……!」
激しい後悔と自己嫌悪。
それが、彼女からこれほどの濃密な瘴気を生み出している原因だった。
床に突っ伏して、泣き崩れていたシルキーは、何かを思い出した様に私を見上げた。
「……あんなに恐ろしい同調圧力……世界中から取り残されるような疎外感……その中でも、ラフィナちゃんは動じず、自分の信念と感性を貫いた。本当にすごいよ……それに比べて、なんて私は弱いんだろう……なんて愚かなんだろう……」
シルキーは、後悔に塗れた涙をボロボロと流しながら、震える声で絞り出した。
「…………うん、そうだね。シルキーは大馬鹿だよ」
私は右手を、泣き崩れる彼女の頭上にかざした。
「紛い物の美しさに目が眩んで、自分の誇りも、優しさも、大切なものも全部捨てた。……本当に、救いようのない馬鹿だ」
「ううっ……ひぐっ……!」
「でもね、シルキー……」
私の手から、今までで一番優しく、温かい『浄化』の光が溢れ出した。
「私は……気弱だけど、誰に対しても優しい、本当のシルキーを知ってる。貴女は悪くないとは言わない。でも、あんな狂った空気の中で、シルキーが抗い続けるのは無理だったんだよ」
他人に優しいからこそ、他人に影響を受けやすい。
自分よりも、他人に重きを置いてしまう。
ゆえに、他人の目を気にして流されてしまう。
自分を見失ってしまう。
「そうならないように、私が支えてあげなきゃ駄目だったんだ。だって友達なんだから……気づいてあげられなくて、本当にごめんなさい」
光が部屋を満たし、彼女の心と体を蝕んでいたドロドロの瘴気が、嘘のように晴れていく。
「シルキーが見失ってしまったもの、全部取り戻してくるから」
私は彼女の皺だらけの頬にそっと触れ、はっきりと告げた。
「シルキーをそそのかした元凶をぶっ飛ばして、貴女の奪われた時間をちゃんと取り戻してくる。だから……それまで、ちゃんと生きていてね」
「ああ……ああああっ……!」
浄化された空気を胸いっぱいに吸い込み、シルキーは私の手を取って、子供のように声を上げて泣き続けた。
(……絶対に許さない)
私は彼女の涙を目に映しながら、かつてないほどの静かで、激しい怒りを燃やしていた。
人間の弱さにつけ込み、誇りを奪い、破滅へと追いやった美の魔女ネマ。
世界を狂わせた魔女を、私は聖女の名にかけて、必ず引きずり出してみせると誓った。




