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26話5日目土砂降り7

 土砂降りの雨というのはいつまでも続かないものだ。


 どのくらいの時が過ぎただろうか? 楽人(らくと)が社で腰を下ろし呆然としている間に雨は小雨へと変わっていた。


「はくしゅんっ!」


 ずずっと鼻水をすすり彼は「あ゛ぁ-っ」と鼻声をあげ……


「……帰るか」


 と、誰もいない神社で独り言を言って立ち上がった。


「はぁ……」


 しかし、一体これはどういうことだろうか? 雨が止んだというのに、曇り空が空から降りてきたように視界が悪い。いや、海の中にでもいるのか? 彼は目元をさすった。


「なんだこれ……なんだよ、これ」


 乙守楽人(おともりらくと)は人生の中で一度たりとも振られたことはなかった。そもそも彼女がいた試しがない。そして――少々怒られたりするものの――友人に避けられたこともなかった。女の子になった駿(しゅん)に避けられるというのは、振られた経験と友人に避けられた経験が一度にやってきたようなものだ。


 目から溢れでる涙は彼の視界を歪ませてしまう。石畳が、鳥居がふにゃふにゃとゆがみ、足元もおぼつかない。


「わっ!?」


 鳥居の下をくぐったあたりで、彼は足元の小石につまずき、鳥居のその先にある下り階段へと転げ落ちた。


「ッて――!」


 転んだ場所は偶然にも5日前、彼が転んだ場所と同じ場所であった。否が応でも中秋の名月の夜に出会った少女の言葉を思い出してしまう。


「本当に、その願い、叶えてよいのだな?」


 今は彼女の言葉の意味がわかる気がする。5日前と違うのは、今は昼であり地面は泥水が溜まっていたというところだ。楽人のドジっ子属性は大抵の場合悪い方向に働くことはないが今回の転び方はあまりにも惨めだ。


 無言のまま立ち上がり、泥水を払いのけ彼は再び歩き出し――


 おっと。


 なんてことだ。また転んでしまった。どうも今日のドジっ子属性は最悪の働きをみせているようだ。そして、帰り道の不幸は続く。


 大通りを歩く、車が水をはねる、楽人の全身に水がかかる。


 大通りを歩く、カラスが鳴く、フンが空から落ちてきて頭に当たる。


 大通りを歩く、ぐにゃという感触を足の裏に感じる、犬のフンを踏む。


 もはや、ドジっ子というより、不幸の少年という称号の方が相応しい彼は泥や泥でないものにまみれたまま家路についた。


「あらあら、ふふっ、あはははっ、なにその恰好!」


 玄関で楽人を迎えた母親の陽莉(あかり)は彼を見るなり、壁をバンバン叩いて笑い出した。「どうしたの?」「何かあったの?」という心配よりも先に泥だらけの彼を見て笑い出すところは大分ズレていると言えよう。ここでいつもなら、楽人はムスっとしたり、文句を言ったりするものだが、そういったリアクションをする気力まで失っている彼は、泥だらけのまま廊下へ足を踏み出そうとした。


「あら……何かあったの?」


 ここでようやく「何かあったの?」である。陽莉は少しズレてはいるが、母親としての役目はしっかりと果たしてきた女性である。


「お風呂行きなさい。廊下はあとで拭いておくわ」


 そう言って彼女は玄関から徒歩2秒の楽人の部屋へと入っていった。どうやら着替えを取りに行ったらしい。楽人はというと心ここにあらずといった感じでゾンビのように風呂場へと歩き出した。


 陽莉は案の定、楽人の部屋で着替えを用意していたが……


「あら? 何か忘れてたような……?」


 * * *


「ふんふふ~んふーん。ふんふふ~んふーん」


 蒸気の中から上機嫌な鼻歌が聞こえてくる。楽人の妹乙守風凛(おともりかりん)は自宅のお風呂場でシャワーを浴びていた。今はまだ昼時であるが、彼女もまた大雨に遭いびしょ濡れになって帰ってきたのだ。


 鼻歌をBGMに、ショートヘアの髪の毛へシャワーのお湯が注がれる。降り注いだお湯は彼女の肩甲骨の間を伝っていき、背中から腰へ。腰からお尻へ。お尻から太ももへと流れていく。中学生の彼女の肌はよく水を弾くため、肩や二の腕にはぷっくりと膨らんだ水滴が幸せそうにキラキラと輝いている。


 シャワーは雨に濡れて最悪だった気分さえも流してくれる。そんな彼女の下へゾンビが近づいていることに彼女は気づかなかった。


 泥人形と化した乙守楽人は脱衣室へフラフラと入ってくる。洗濯籠に乙守風凛の着替えがあり、お風呂場から物音が聞こえるが、思考能力の落ちている彼は、それが何を意味するのか理解できていない。


「? 誰かいるの?」


 少女の怪訝そうな声が聞こえてくる。が――

 

 ガチャン!


 その時、水の楽園への扉は開かれた。裸の王様ならぬ、裸のゾンビは、顔や腕などが泥だらけのまま裸の少女の前に現れた。


「あ゛ぁ……?」


 ゾンビは疑問形の唸り声をあげる。


 風凛は手で大切なところを隠す時間さえなかったので、見えていたに違いないのだが、もはや人としての思考が働いていいない楽人は見えているのに何も見ていない。


 普段、道を歩いていて目の前に小石があっても、いちいち小石の形状を覚えようとはしない。それどころか小石があったことさえ記憶していないだろう。或いは、デパートへ買い物へ行き、照明がついているなぁ、とは思っても、いちいち照明の形状を覚えようとはしない。


 そう、目の前にぷっくりとした成長過程の小さな膨らみと桜のつぼみが見えていても、今の楽人には何も見えていないのと同じなのだ。


「いやーーーー!!!!」


 楽人の顔にお湯のスコールが降り注ぐ。扉は開けっぱなしだったので、脱衣室の方までシャワーのお湯がかかってしまったのだが、彼は微動だにしない。


「おにぃ! おにぃ!!」


 風凛は半泣きのままようやく身体を捻り、楽人に背を向けるような姿勢をとることで、大切なところを隠した。と、同時にシャワーの狙いが逸れた。


「いや……!」


 ゆっくりと、ゆっくりと楽人は風凛に向かって歩いてくる。


「おにぃ……やめて……!」

「あ゛ぁ……」


 兄の魔の手が少女に近づいていく。いつもの兄だったら脱衣室に入ったところで風凛がシャワーを浴びているのに気づいたし、間違えてドアを開けてしまってもすぐに謝り逃げ出すはずだ。この兄はいつもの兄とは違う。風凛はシャワーを手に、肩をすくめて縮こまってしまった。その妹の手に兄の手が重なる。


「っ!?」


 風凛は声にならない声をあげた。彼女の手からシャワーヘッドが離れて行く。


「あ゛ぁ……」

「えっ?」


 驚きの声をあげたのは風凛の方であった。そこには妹の裸には目もくれず、シャワーをあびている楽人ゾンビがいた。


「あらあらあらあら、楽人。なにやってんの」


 陽莉は「そういえば風凛がお風呂場に行ったの忘れてたわ」などということを思い出しながら楽人の着替えを脱衣室に持ってきた。


「お母さーん! あのね! あのね!」


 風凛は母親に抱き着き助けを求めた。


「あらあら、なに二人とも素っ裸で」


 そりゃ風呂場なのだから裸になるだろう。脱衣所で母親に抱き着いている裸の風凛と、風呂場で特になんの感情も表さずシャワーを浴びている楽人――幸いにも背を向けているため大事なところは見えていない。この状況は緊急事態のように思えるのだが母親はなんとものんびりな反応である。


「おにぃがおかしいの!」


 風凛は母親の服をぎゅっと掴みながら訴えた。


「そうね、少しおかしいわね」

「あのね、違うの! 少しおかしいんじゃないの! すごくおかしいの!」


 母親は心を無にしてシャワーを浴びている楽人を見ながら「そう?」と聞き返した。


「おかしいよ! だって、だって、風凛の裸見ても無反応なんだよ!」

「それはあんたの裸に魅力がないだけじゃないの?」

「い゛っ」


 乙守風凛は沈黙した。


 その日、たしかに乙守楽人はおかしかった。風凛に抗議されても上の空であり、乙守藍鬼(おともりらんき)――女物の服を着ずに道着を着ている女性の藍鬼――に風呂場の出来事について怒られても上の空であり、夕方ご飯を食べても上の空であった。


 深夜、真っ暗な部屋で一人、ベッドに仰向けになって楽人はスマホをかざした。スマホには3日前に撮った駿、未海(みみ)、楽人の3人の写真が映し出されていた。あの頃の駿は男の子だった。


 たった3日。


 たった3日で世界は変わってしまった。友人が美少女になるということは幸せなのだろうか? そんな自問自答もできないくらい楽人は疲れ切ってしまい眠りについた。

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