25話5日目土砂降り6
水滴が石畳を濡らしていく。
ポツリ、ポツリと。灰色から黒へ。
美見未海の頬を水滴がこぼれる。
「雨、雨~。雨降って来た!」
乙守楽人が当たり前のことを言いながら未海たちの下へ近づいてきた。
魅化神社はそれほど広くない。走らずとも小走りですぐに未海たちのいる鳥居までたどり着く。
「早く、雨宿り……」
と、社の方を指差して雨宿りの提案をしたところで、駿が怯える子ネズミのような目で楽人に助けを求めていることに気づいた。未海はホウキを片手に持っているが、駿のホウキは地面に転がっている。どうも最悪に近いことが起きているようだ……楽人は逃げ出したい気持ちに駆られていた。
「先輩……先輩は知ってたんですね?」
その問いかけに「ニャン」はついていなかった。雨は本降りへと急激に変化してきている。乙守楽人は俯き、ネコ科の生き物と思しき未海と目を合わせないようにした。
「答えてくださいよ! ……ニャン!」
「ニャン」をつけてなかったのに気づき、律儀に「ニャン!」を付けた未海だが、怒っているのは誰の目にも明らかである。
「雨が降ってるから……」
弱々しい声で目を合わせずに再び社を指差した楽人であったが……
「ここでいいです……ニャン!」
未海は降りしきる雨の中、雨音にも負けない声で「ニャン!」と吠えた。
威嚇の「ニャン!」である。
普通猫は怒ったら「シャー!」だとか「ヌァ~ゴォ~!」だとか威嚇の声をあげるので、犬みたいに「ニャン!」と吠えることはない。だが、未海という生き物は犬が「ワン!」と吠えるみたいに「ニャン!」と吠えた。美見未海はミミ科の生き物なのだろう。
「答えてくださいニャン」
続いて感情のこもってない「ニャン」である。身体が冷えるのは雨のせいだけではない。楽人は逃げ道がないことを悟りついに観念した。
「知ってた」
その、か弱い「知ってた」は本降りから土砂降りへと変わった雨音によってかき消された。が、美見未海が聞き返すことはなかった。声が聞こえずとも楽人の様子で十二分に答えがわかったからである。
「なんで……なんで教えてくれなかったんですかニャン!」
楽人へは批難の声が向けられた。
「なんで……? ねぇ……?」
続いて駿へは深い悲しみの声が向けられた。美見未海は今にも泣きそうな目で彼女を見ている。
「ごめん……」
駿の精いっぱいの「ごめん」であった。
「なにそれ……」
この「なにそれ」は、か細い声だったため、声を発した未海自身でさえ聞こえなかったかもしれない。が、一瞬、悔しそうに歯を食いしばる姿を楽人と駿は見てしまった。
「なにそれ! もう、こんなことしてても意味ないじゃん! ホントにホントにホントにホントに女の子になっちゃってさぁ!」
土砂降りの雨音にも負けないほどの大声で未海は叫んだ。ホウキが思いっきり地面に叩きつけられる! 駿は思わず目を閉じた。
「ニャン」
怒りで感情をあらわにしながらも「ニャン」を付け忘れたことに気づき、彼女は小さな声で「ニャン」を付け加えた。次いで叩きつけたホウキを拾った。これらの行動は或いは、感情的にならないよう頑張っている表れなのかもしれない。
「あたしって駿のなんなのニャン。なんであたしには黙っていたの? ニャン?」
もう3人とも服がびしょ濡れである。そのような状況下で駿は黙っていた理由を問われているのである。当然、答えを間違えてはいけない重い質問だ。
それ故か駿は沈黙を保っている。目が泳いでいるところを見ると、言葉を選んでいるようにも見える。その態度にイライラしたのか、未海は鋭い目で駿を睨みつけた。
「先輩はいいんだ。駿は先輩にはなんでも話せるんだニャン」
「いや、違うよ!!」
「先輩"が"いいんだニャン!」
「えぇ!? 違うよ!」
「嘘つきニャン! 駿は先輩と浮気してるニャン!」
「してないよ!」
「じゃあ、あのキスは何!」
「あのキス」というのは無論、未海が赤いハイヒールを投げて阻止したキスである。
「……」
言い訳のしようがない。早馬駿、完全撃破である。
「先輩」
突然、未海の矛先は乙守楽人に向けられた。楽人は群生するススキのように目立たないよう、目立たないよう、そっと2人のやりとりを見ていたのだが、さすがに諸悪の根源が見逃されるはずはない。
「いつから付き合ってたんですかニャン」
「早馬とは友達で……」
「嘘つき!」
未海は大声で叫んだ。
「ニャン」
そして、律儀に「ニャン」を付け加えた。
「先輩は友達とキスをするんですかニャン?」
楽人は思わず後ずさりした。
(なんだこれ。なんでこんな修羅場に)
楽人にとってはちょっとした出来心であったのかもしれない。
親友が可愛い女の子になったらキスしたい。キスってどんな味がするんだろう?
キスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたいキスしたい!
16歳彼女なしの彼にとってキスは未知の果実であり、彼の脳内は神社に群生するススキの数よりも多くの「キスしたい」に支配されていた。
そんな高校生男子の目の前に、気軽に話しかけてくれる可愛い女の子が現れたら「キスしたい」という気持ちが爆発してもおかしくはなかった。
「するよ! したいよ!」
それは宣戦布告であった。未海はギリっという音が聞こえてきそうな歯ぎしりをした。もちろん楽人は未海と争う気など毛頭なく、半分は本音、半分は破れかぶれで言い放っただけであったが。
「そうやって何度もキスしてたんですかニャン? あたしがいないところで!」
「してないよ!」
「帰るニャン!」
「待ってよ未海ちゃん!」
踵を返した未海を駿は引き留めた。……いや、未海が自ら立ち止まった。
「未海ちゃん!」
クルリと未海は向き直り、声をかけた駿を無視し、楽人の方へと早歩きで迫って来た。そして、右手に持っていたホウキを左手に持ちかえたと思った瞬間――
「あ――っ!」
パチン!
未海の右手が思いっきり楽人の頬を打った。それは猫パンチならぬ未海ビンタであった。
「この泥棒猫!」
美見未海から見たら、これは随分と不思議な状況である。
彼女の恋敵の乙守楽人は、駿のただの男友達であるはずだった。
それが、女性になった早馬駿と付き合っていた。意味が分からない。
本来泥棒猫とは彼氏を奪われた女性が、彼氏を奪った女性に対して言う言葉だが未海にとっては楽人は泥棒猫なのだろう。
「いてぇ~……」
大雨の中、痛そうに頬をおさえている楽人をしり目に未海は踵を返した。
「未海ちゃん!」
遠ざかる未海のことを駿が呼び止める。
猫耳のカチューシャを手で触り、未海はクルリと向き直った。そして駿を無視し、楽人の方へと早歩きで迫って来た。
「間違えましたニャン」
「え……?」
未海は左手に持っていたホウキを右手に持ちかえたと思った瞬間――
「あ――っ!」
パチン!
未海の左手が思いっきり楽人の頬を打った。それは猫パンチならぬ未海ビンタであった。
「この泥棒犬!」
猫キャラを自負する美見未海としては「泥棒猫」という言葉は自らを貶める言葉であったのだろう。或いは、楽人が男だから「猫でいいのか?」と思い直したのかもしれない。
とにかく律儀に彼女は訂正して、楽人は理不尽に2回目のビンタを受けた。
「いてぇ~……」
大雨の中、痛そうに頬をおさえている楽人をしり目に未海は踵を返した。
「未海ちゃん!」
遠ざかる未海のことを駿が呼び止める。
未海は空を見上げ、クルリと向き直った。そして駿を無視し、楽人の方へと早歩きで迫って来た。
「ごめんなさい! ごめんなさい! もう二度と――」
楽人は必死に身を守りながら全力で謝ったが……
「ポシェット忘れてたニャン」
どうやらただの忘れ物のようだ。
未海は楽人の傍を通り、社の裏へと消えていく。
「ふぅ~……」
楽人から安堵のため息が漏れた。
「乙守……オレ、間違えてたよ!」
2人きりになった駿は楽人に話しかけた。雨の中、しっかりと楽人に声が届くように大きな声で。
「オレ、未海ちゃんが大事だし、あんなこと冗談でもしちゃダメだったんだ!」
「俺は冗談じゃなかったんだけど!」とは楽人は言わなかった。心の中ではそう思っていたかもしれないが、未海にビンタされた痛みが引かなくて頬をおさえたまま駿の言葉に耳を傾けている。
「今までありがとう。でも、大切な人に浮気だって思われたら、もう乙守とは……会えない……」
早馬駿は泣いていたように見えた。
その駿の後ろを美見未海が通り過ぎる。
このまま無言で立ち去ろうとしたのだろう。
が、通り過ぎようとした未海を駿はガシッと掴んだ。
「へっ?」
未海は驚いたように駿を見つめる。
「未海ちゃん、ごめん。オレ、ちゃんと話すから。今までのことちゃんと話す。だから一緒に帰ろう」
「……うん」
未海は小さく返事をし、こくっと頷いた。未海がやや戸惑ったところを見ると駿は普段、未海に対して男らしいところを見せていないのだろう。駿の真摯な言葉に心を打たれたかのように未海は素直になった。
「乙守にも色々迷惑かけたね。ごめん。もう会わないから……」
「ぇっ?」という表情を浮かべたのは楽人と未海であった。
「行こう」
駿は未海を引っ張り、神社から立ち去った。途中、未海は楽人の方を見て「先輩を置いていっていいの?」みたいな表情をしたが、元々「帰るニャン!」と宣言したのは未海自身だったので、何も言えずに去っていった。
神社に残されたのは楽人ただ一人であった。
「いてぇ……」
土砂振りの雨の中で楽人は独り呟いた。




