67話
ぶくぶくぶく……。
湯の中へ鼻の近くまで沈んだまま。
琥珀は、しばらく顔を上げようとしなかった。
「琥珀お姉ちゃん?」
「…………なに」
湯のすぐ上から、くぐもった声だけが返る。
リノは小さく首を傾げた。
「苦しくない?」
「……ちょっと苦しい」
「じゃあ、出た方がいいよ?」
「……うん」
そう言いながらも。
琥珀は、もう少しだけ湯の中へ沈んだ。
隣では、ラファお姉ちゃんが口元へ手を添えている。
笑っている。
絶対に笑っている。
琥珀の猫耳が、ぺたんと横へ倒れた。
「……ラファお姉ちゃん」
「なあに?」
「笑ってるでしょ」
「ふふ。少しだけ」
「もう……」
ようやく琥珀が顔を上げる。
頬には、まだ湯気だけではない赤みが残っていた。
そんな琥珀を見ても。
リノは、やっぱりよく分かっていないらしい。
「でも、琥珀お姉ちゃんかわいいよ?」
「……かわいいだけじゃなくて」
琥珀は頬を赤くしたまま。
両手を胸の前へ持ち上げると。
わきわき。
わきわき。
「ここも、おおきくなって~~~って……」
「?」
リノは、きょとん。
やっぱり意味は分かっていない。
琥珀の猫耳が、さらにぺたんと倒れる。
「……もういい」
そのまま再び湯の中へ沈もうとした琥珀の肩へ。
ラファお姉ちゃんが、そっと手を置いた。
「はい。今度こそおしまい」
「……はぁい」
「そろそろ上がりましょう。三人とも、のぼせてしまうわ」
「うんっ!」
三人は、ようやく湯船から上がった。
三人が着替えを終えて居間へ戻ると。
先ほどまでとは少し違う、くつろいだ姿になっていた。
琥珀は、ふわりとしたタオル地の上着に、同じ生地のショートパンツ。
まだ少し湿り気の残る髪が、肩へやわらかく落ちている。
ラファお姉ちゃんも、同じように柔らかな部屋着姿。
ただし。
長い髪は上へまとめられ。
頭には、垂れたうさ耳のついたタオル地のヘアバンド。
その姿を見た琥珀の猫耳が、ぴくっと動いた。
「……ラファお姉ちゃん、それ」
「これ?」
ラファお姉ちゃんが、垂れたうさ耳の片方へ手を添える。
「ノーラさんが貸してくださったの」
「……かわいい」
「ふふ。ありがとう」
琥珀はもう一度ちらりと見て。
なんとなく視線を逸らした。
「うしし。ラファお姉様、うさぎさんみたい!」
「あら。リノちゃんにも好評ね」
そんな三人を見て。
ノーラが、ぱんっと手を叩いた。
「はいはい。女の子たちはさっぱりしたみたいだね」
そして。
くるり。
今度は、男たちの方を見る。
「あんたたち」
「……ん?」
「次はそっちの番だよ」
グランが一瞬だけ目を瞬いた。
「俺たちもか?」
「当たり前だろう?」
にこにこ。
笑っている。
けれど。
断れる空気ではない。
「ロクスも、ベルグさんも、絵描きさんも。せっかくだから入っておいで」
「俺もか」
「もちろん」
「ほっほ。では、ありがたくいただくとするかのう」
「私もお言葉に甘えます」
グランが、ロクスたちを見た。
それからノーラを見る。
「……行くか」
「ああ」
「そうするかの」
三人が立ち上がり。
絵描きさんも、その後へ続く。
その背中へ向かって。
「ゆっくり入っておいで。こっちは夕飯を用意しておくからね」
「頼む」
やがて男たちの姿が見えなくなると。
居間には、女たちだけが残った。
「さて」
ノーラが袖を少しまくる。
「じゃあ、始めようかね」
「わたしも手伝う!」
「わたしもー!」
「私もお手伝いします」
「あらあら。今日は賑やかだねぇ」
台所へ立つ人数が、一気に増えた。
ノーラが食材を並べ。
ラファお姉ちゃんが必要な器をそろえていく。
リノは、ノーラに言われたものを一つずつ運ぶ。
そして琥珀は。
「ノーラさん。卵、使ってもいい?」
「もちろん。何か作るのかい?」
「うん。風月のお弁当で作ってるもの」
琥珀は少し得意そうに笑った。
卵を割り。
よく混ぜて。
熱した鍋へ流し込む。
「琥珀お姉ちゃん、お料理できるんだね!」
「できるよー。最近はお弁当も作ってるんだから」
「すごーい!」
何度か巻きながら形を整え。
焼き上がった卵焼きを切る。
それから。
切った二つを向きを変えて合わせると。
「あっ!」
リノの目が丸くなった。
「ハート!」
「でしょ?」
琥珀が、えへへと笑う。
「こうすると、ちょっとかわいいんだよ」
「すごいすごい!」
今度は、小さなウィンナーへ切れ目を入れていく。
「こっちは?」
「これはね――」
焼き上がったものを皿へ置く。
「タコさんウィンナー!」
「タコさん!」
リノが楽しそうに笑った。
少し離れたところで。
ノーラは別の料理を作りながら、その様子をちらりと見ていた。
「琥珀ちゃん。ずいぶん手慣れたねぇ」
「風月でいっぱい教えてもらったから」
「そうかい」
「最初は全然だったけどね」
「ふふ。今では、ちゃんとお弁当を任せられるくらいになったものね」
「ラファお姉ちゃん、それ言うと最初の頃思い出すから……」
「でも、頑張ったでしょう?」
「……うん」
琥珀が照れくさそうに笑う。
それを見ていたリノが。
「……お外に行くと」
ぽつり。
小さく呟いた。
「ん?」
リノは、ハート形の卵焼きをじっと見ている。
「お外の経験があると、わたしも色々知ることができるのかなー」
「リノちゃん?」
「だって、琥珀お姉ちゃんも色んなところに行って、色んなこと覚えたんでしょ?」
「うん。そうだね」
琥珀は少し考えてから頷いた。
「知らなかったこと、いっぱい知ったよ」
「そっかぁ」
リノは、どこか楽しそうに笑った。
その横顔を。
ノーラは、何も言わずに見ていた。
口元には。
ほんの少しだけ、やさしい笑みが浮かんでいた。
卵焼きとタコさんウィンナーが皿へ並ぶ頃。
リノは、別の卓の前で。
じっと。
炊き上がったご飯を見つめていた。
「リノちゃん?」
「わたしも、何か作りたい」
「じゃあ、おにぎりをお願いしようかね」
「おにぎり?」
「ああ。みんなの分をいくつか作っておくれ」
「うんっ!」
リノは、ぱっと顔を明るくした。
ノーラから教わりながら。
手へ少し水をつけ。
塩をなじませ。
温かいご飯をそっと取る。
「熱くない?」
「だいじょうぶ!」
両手で。
ぎゅっ。
ぎゅっ。
形を整えていく。
けれど。
「あれ?」
きれいな三角にはならない。
少し丸く。
少しだけ片方へ寄って。
なんとも言えない形になった。
「……むずかしい」
「最初はそんなもんだよ」
「琥珀お姉ちゃんはできる?」
「できるよー」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
琥珀が隣で一つ握ってみせる。
形の整った三角のおにぎり。
それを見て。
「おおー!」
リノの目が輝いた。
「でもね」
「うん?」
「形がちょっと違っても、ちゃんとおにぎりだから」
「そうなの?」
「うん。食べたら一緒」
「うしし。じゃあ、これでもいいんだ」
「いいよいいよ」
リノは嬉しそうに。
もう一つ。
また一つ。
少しずつ握っていった。
その中には。
少し丸いもの。
少し平たいもの。
ちょっとだけ大きいもの。
いろんな形のおにぎりが並んでいく。
「……塩、これくらい?」
「そのくらいで大丈夫だよ」
「じゃあ、もうちょっと」
「えっ」
ぱらぱら。
「あっ、リノちゃん、それ――」
「これでおいしくなる?」
「……たぶん、ちょっとしょっぱいかも」
「ええっ!?」
リノが慌てて、自分の手のひらを見る。
「どうしよう」
「まあまあ」
ノーラが笑いながら近づいてくる。
「ちょっと塩が効いてるくらいなら、働いたあとの男どもにはちょうどいいさ」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
リノは、ほっと胸をなで下ろした。
その後も。
四人であれこれと手を動かし。
やがて。
卓の上には。
湯気の立つ温かい料理。
汁物。
いくつものおにぎり。
琥珀が作った、ハートの卵焼き。
タコさんウィンナー。
色とりどりの皿が、次々と並んでいった。
「できたー!」
「うん。おいしそう」
「ふふ。ずいぶん賑やかな食卓になったわね」
「あらあら。今日はごちそうだねぇ」
その時。
奥の方から、足音が聞こえてきた。
「おっ」
「これはまた、うまそうじゃのう」
「すごいですね」
風呂から上がった男たちが、居間へ戻ってくる。
グランも。
卓の上を見て、少し目を丸くした。
「ずいぶん作ったな」
「人数が多いからねぇ」
「卵焼きとタコさんウィンナーは、わたしが作ったよ!」
「おにぎりは、わたしも作った!」
「ほう」
ロクスの視線が。
卓の上のおにぎりへ向く。
きれいに整った三角のおにぎり。
その横に。
少し丸く。
少しだけ形の崩れたおにぎりが並んでいる。
ロクスは。
きれいな方へ一度手を伸ばしかけ。
少しだけ止まった。
「……こっちだな」
手に取ったのは。
リノが握った、少し不格好なおにぎり。
「あっ!」
リノの顔が、一気に明るくなる。
「それ、わたしが作ったやつ!」
「そうか」
「うん!」
ロクスは、そのまま一口。
「…………」
少しだけ。
眉が動いた。
「どう?」
リノが、期待いっぱいの顔で見上げている。
「しょっ――」
そこまで言いかけて。
ロクスは止まった。
目の前には。
自分の作ったおにぎりを食べてもらえたことが嬉しくて。
にこにこと笑っているリノ。
「……いや」
ロクスは、ぐっと飲み込んだ。
そして。
もう一口。
「うまい」
「ほんと!?」
「ああ」
「うしし!」
リノの笑顔が、さらに大きくなる。
その横で。
ベルグが、何も言わず。
そっと。
湯のみをロクスの傍へ置いた。
「…………」
「…………」
ロクスは一度だけベルグを見る。
ベルグは。
何も言わず、にやりと笑った。
ロクスは小さく息を吐き。
湯のみを手に取った。
その様子を見ていた琥珀は。
ふと。
自分が初めておにぎりを作った時のことを思い出した。
きれいに作ろうとして。
少し失敗して。
それでも。
誰かに食べてもらえた時のこと。
リノの嬉しそうな顔。
そして。
何も言わず、おにぎりを食べ続けるロクス。
琥珀は二人を見比べ。
小さく。
やさしく笑った。
少し離れたところで。
ノーラも、そんなリノを見ていた。
そして。
ふと。
グランへ視線を向ける。
グランも、その視線に気づく。
ノーラは何も言わない。
ただ。
ほんの少しだけ笑った。
グランは。
一度だけ、リノを見る。
嬉しそうにしている娘を。
それから。
ノーラへ小さく視線を戻した。
言葉はなかった。
けれど。
二人の間では。
それだけで、十分だった。
食卓を囲んで。
それぞれが料理へ手を伸ばしていく。
「この卵焼き、本当にハートになってるんだね」
「ちゃんと二つ合わせてあるでしょ?」
「うんっ!」
リノは嬉しそうに一つ取ると。
ぱくり。
「おいしい!」
「やった!」
琥珀の猫耳が、ぴんっと嬉しそうに立った。
「タコさんも食べる!」
「そっちもどうぞー」
「あらあら。すっかり料理上手になったねぇ」
「まだまだだけどね」
「でも、最初の頃よりずっと手際がよくなったわよ」
「ラファお姉ちゃん、それは褒めてる?」
「もちろん」
「ならいいけど……」
琥珀は少し照れながら。
自分も卵焼きへ手を伸ばした。
そんな賑やかな食卓の中で。
絵描きさんは。
ふと。
手元に置いていた小さなノートを開いた。
さらさら。
鉛筆が紙の上を走る。
細かな描き込みではない。
ほんの少しの線で。
笑うリノ。
おにぎりを手にしたロクス。
楽しそうに話す琥珀。
その隣で穏やかに笑うラファお姉ちゃん。
向かい側には。
娘を見守るグランとノーラ。
「何描いてるの?」
「今の皆さんを、少しだけ」
「今?」
「はい」
絵描きさんは、もう一度食卓を見る。
「こういう時間も、残しておきたいなと思いまして」
「うしし。じゃあ、かわいく描いてね!」
「もちろんです」
そう答えて。
また。
さらさら。
小さなノートへ線を重ねていった。
「そういや」
グランが汁物の器を置く。
「ここまで来る道はどうだった?」
「前よりずっと楽だったよ」
「馬力車のおかげね」
「板バネも、ちゃんと効いていたわ」
「ほう」
グランがロクスを見る。
「引く方はどうなんだ?」
「悪くない」
短く答えて。
ロクスは、もう一度おにぎりをかじる。
「前よりは、ずっと楽だ」
「まだ腰へ少し返りは残っとるがの」
「そこは、戻ってからまた見るつもりじゃ」
「まだ完成じゃないんだ?」
「うん」
「今回の旅も、その確認を兼ねてるんだよ」
「じゃあ、この村まで来たのもお仕事?」
「それもあるけど――」
琥珀は、にこっと笑う。
「リノちゃんに会いたかったのも本当だよ」
「うしし」
リノの頬が、嬉しそうに緩んだ。
「途中では、炭鉱夫さんたちにも会ったのよ」
「あいつらに?」
「うん!」
「ロクスを見つけて、向こうから声をかけてくれたの」
「見慣れない馬力車を引いてたからな」
「それでね」
琥珀のしっぽが、ゆらりと揺れる。
「キャンプするなら、ちょっと街道から外れたところがいいって教えてくれたんだ」
「小川もあったわね」
「うん。釣りもした!」
「釣り!?」
リノが身を乗り出した。
「お魚とれた?」
「それがねぇ……」
琥珀は少し遠い目をする。
その横で。
ロクスが、ふっと口元を緩めた。
「琥珀は、ずいぶん楽しそうだったぞ」
「ロクス!」
「釣れたとは言ってねぇ」
「もうっ!」
「ほっほっほ」
ベルグが楽しそうに笑う。
「星空も、ずいぶん綺麗じゃったのう」
「うん……」
今度は。
琥珀の表情が、ふっと柔らかくなる。
「すごく綺麗だった」
「いいなぁ」
リノは、どこか遠くを見るように呟いた。
「わたしも、そういうところ行ってみたい」
その言葉に。
ノーラが一瞬だけリノを見る。
けれど。
何も言わず。
やさしく笑った。
「村の方は、どう?」
「大きく変わっちゃいないよ」
「みんな元気さ」
「炭鉱の方も相変わらず忙しい」
「父ちゃんもね」
「お前も手伝ってるだろ」
「うしし」
笑い声が。
食卓の周りへ、やわらかく広がっていく。
久しぶりに会ったからこそ。
話したいことは、次から次へと出てきた。
旅のこと。
村のこと。
風月のこと。
馬力車のこと。
そのたび。
絵描きさんの手も。
時折。
さらさらと動いた。
会話の合間。
笑った顔。
ふとした仕草。
そんな小さなものまで。
紙の上へ残していく。
気がつけば。
卓の上に並んでいた料理も。
少しずつ、その姿を減らしていた。
「ふぅ……食べた食べた」
琥珀が満足そうにお腹へ手を当てる。
「お腹いっぱい?」
「いっぱい」
「わたしもー」
「二人とも、よく食べたわね」
「だっておいしかったんだもん」
「あらあら。それは作った甲斐があったねぇ」
食事を終えると。
みんなで食器を片づけていく。
しばらくして。
卓の上には。
先ほどまでの料理に代わり。
湯気の立つ飲み物が、それぞれの前へ置かれた。
満たされたお腹。
温かい部屋。
旅の疲れも。
少しだけ、身体の奥へ沈んでいくようだった。
その頃。
絵描きさんは、小さなノートを閉じ。
代わりに。
旅の荷物の傍へ置いていた楽器を手に取った。
「演奏するの?」
「少しだけ」
「聴きたい!」
「では、食後のひと休みに」
ぽろん。
やわらかな音が。
部屋の中へ落ちた。
もう一音。
その次の音も。
穏やかに重なっていく。
「……いい音」
「ええ」
琥珀は。
両手で器を包みながら。
耳を傾けた。
リノも。
椅子へ座ったまま。
楽しそうに身体を小さく揺らしている。
ノーラとグランも。
何も急かすことなく。
その音を聞いていた。
ベルグは。
湯のみを手に。
目を細め。
ロクスも。
椅子へ身体を預けながら。
静かに耳を傾けている。
ぽろん。
ぽろん。
穏やかな音が。
食後の部屋を満たしていく。
食事の賑やかさが落ち着き。
そこには。
ゆったりとした。
一服の時間が流れていた。
ぽろん。
ぽろん。
絵描きさんの奏でる音が。
ゆっくりと。
部屋の中へ流れていた。
琥珀は。
両手で器を包みながら。
その音へ耳を傾けている。
温かい飲み物。
満たされたお腹。
近くには。
久しぶりに会えた人たち。
旅の途中だということを。
一瞬だけ忘れてしまいそうな。
そんな時間だった。
「……琥珀」
「ん?」
呼ばれて。
琥珀が顔を上げる。
グランは。
手元の器を置き。
少しだけ。
真面目な表情になっていた。
「今回、この為だけに来たんじゃないよな?」
「…………」
琥珀の猫耳が。
わずかに動く。
グランの言っている意味は。
すぐに分かった。
馬力車の長距離確認。
リノに会いたかったこと。
どちらも。
嘘ではない。
けれど。
それだけではない。
琥珀は。
隣にいるラファお姉ちゃんを見る。
ラファお姉ちゃんは。
何も言わず。
小さく頷いた。
答えを決めるのは。
琥珀自身。
「……うん」
琥珀は。
器から手を離した。
「実はね、グランさん」
ぽろん。
ぽろん。
楽器の音は。
まだ。
変わらず流れている。
「ずっと、気になってたことがあって」
「気になってたこと?」
「うん」
琥珀は。
少しだけ。
息を整えた。
「崖の風車のことなんだけど――」
――。
音が。
消えた。
「……え?」
琥珀の猫耳が。
ぴくりと動く。
さっきまで。
確かに聞こえていた。
絵描きさんの楽器の音。
けれど。
今は。
何も聞こえない。
琥珀は。
絵描きさんの方を見る。
楽器を手にしたまま。
絵描きさんは。
動いていなかった。
「…………」
琥珀は。
ゆっくりと。
グランへ視線を戻す。
「……グランさん?」
返事がない。
「グランさん?」
もう一度。
呼ぶ。
それでも。
返事はなかった。
グランは。
器へ手を伸ばしかけた姿勢のまま。
止まっている。
ノーラも。
ベルグも。
ロクスも。
絵描きさんも。
誰一人。
動いていない。
「……なに、これ」
琥珀が。
小さく呟く。
その時。
卓の上へ目が落ちた。
さっきまで。
ゆらゆらと立ちのぼっていたはずの。
温かい飲み物の湯気。
それすらも。
空中で。
止まっていた。
「…………」
人だけじゃない。
音も。
湯気も。
周囲の動きも。
何もかもが。
止まっている。
外から聞こえていたはずの。
風の音も。
何も。
聞こえなかった。
静か。
あまりにも。
静かだった。
「ラファお姉ちゃん……」
琥珀が。
すぐ隣を見る。
「ええ」
返事が返ってきた。
「ラファお姉ちゃん……動ける?」
「動けるわ」
ラファお姉ちゃんも。
周囲を見渡している。
その表情から。
いつもの柔らかさが。
少しだけ消えていた。
「……みんな、止まってる」
「そうみたいね」
「どうして……」
その時。
琥珀は。
はっとした。
「……リノちゃん」
振り向く。
そこには。
リノがいた。
椅子に座ったまま。
うつむいている。
「リノちゃん?」
返事はない。
けれど。
琥珀には。
分かった。
リノは。
止まっていない。
わずかに。
呼吸をしている。
指先も。
ほんの少しだけ。
動いている。
「……リノちゃん?」
もう一度。
名前を呼ぶ。
それでも。
リノは。
顔を上げない。
止まった世界の中で。
動けるのは。
琥珀。
ラファお姉ちゃん。
そして。
うつむいたまま。
何も答えない。
リノだけだった。




