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第65話

 遠くに見えていた屋根が、もう遠くの景色ではなくなっていた。


 ころころ、ころころ。


 土道を進む馬力車の車輪の音が、田畑の間へゆっくりと広がっていく。


 道の両側には、畑仕事をする人たちの姿が増えていた。


 土を起こす音。


 葉の擦れる音。


 少し離れたところから聞こえてくる話し声。


 琥珀の猫耳が、あちらへ、こちらへと忙しそうに向きを変える。


「もう村の中なんだね」


「ええ。さっきまで遠くに見えていたのにね」


 ラファお姉ちゃんの言葉に、琥珀は嬉しそうに頷いた。


 しっぽも、座席の後ろでゆらゆらと揺れている。


「リノちゃんのお家、もうすぐかな」


「このまま行けば、そう遠くはないはずじゃ」


「えへへ……やっと会える」


 その声に合わせるように、馬力車はさらに村の中へ進んでいった。


 ころころ。


 ころころ。


 その車輪の音に、畑の中で作業をしていた一人の女の子が顔を上げた。


「……あれ?」


 手を止めて、道の方を見る。


 見慣れない、大きな馬力車。


 その前を歩いているのは、馬耳のある大柄な男だった。


「馬族の人……?」


 少しだけ首を傾げる。


 けれど、その後ろ。


 馬力車の座席へ目を向けた瞬間。


 女の子の目が大きく開いた。


「琥珀お姉ちゃん!」


 駆け出しそうになって、一歩踏み出す。


「こ――」


 けれど。


 女の子は、ぴたりと止まった。


「あっ、待てよ……」


 馬力車の上では、琥珀がこちらに気づく様子もなく、前の方を見ながら楽しそうに話している。


 女の子は少しだけ考えるように目を細めた。


 そして。


「うしし……」


 いたずらを思いついたように笑った。


 馬力車は、そのまま畑の横を通り過ぎていく。


 琥珀は一度だけ畑の方へ顔を向けたものの、その女の子と目が合うことはなかった。


 髪の間から少しだけ見える、小さな角。


 以前より伸びた背丈。


 琥珀の記憶にあるリノの姿とは、ずいぶん印象が違っていた。


 だから、そのまま気づかずに通り過ぎてしまう。


 女の子――リノは、遠ざかっていく馬力車を見送りながら、もう一度楽しそうに笑った。


 ころころ、ころころ。


 少し進んだところで。


「あーっ! あそこだよ!」


 琥珀がぱっと身を乗り出した。


 猫耳がぴんと立つ。


 指さした先には、見覚えのある家があった。


「リノちゃんのお家!」


「やっと着いたな」


「うむ。まずはきちんと止めてからじゃぞ」


「はーい」


 ロクスが歩みを緩める。


 馬力車もゆっくりと速度を落とし、やがて家の前で止まった。


 琥珀はすぐに飛び降りそうになって――途中でぴたりと止まる。


 それから、少しだけ声を小さくした。


「踏み台の子を出して……」


 かちゃん。


 踏み台が停車位置へ出る。


 それと一緒に、車輪の固定が効いたことを確かめる。


「車輪を固定……」


 琥珀は足元を確認して、小さく頷いた。


「固定よーし」


 声は、さっきよりさらに小さい。


 けれど、その様子はラファお姉ちゃんたちから丸見えだった。


 琥珀は満足そうに頷くと、


「よいしょっ」


 ひょいっと踏み台から地面へ降りた。


 その瞬間。


 しっぽが、ぴんっと真っ直ぐ上へ伸びる。


 そしてそのまま、ゆら。


 ゆら。


 楽しそうに揺れ始めた。


 ラファお姉ちゃんが、そのしっぽを見て小さく笑う。


 ロクスも気づいたらしく、馬耳をわずかに動かした。


 ベルグは何も言わず、髭の奥で口元を緩める。


 絵描きさんも、どこか楽しそうに琥珀の背中を見送っていた。


 そんなみんなの反応には気づかないまま。


 琥珀は足取り軽く、家の扉の前まで進んでいく。


 そして。


 少しだけ姿勢を正して。


 扉へ手を伸ばした。


 こんこん。


 扉を叩いた琥珀は、すぐには声をかけなかった。


 ほんの少しだけ間を置く。


 それから、いつもの声より少しだけよそ行きにして。


「リノさんのお宅でしょうか〜」


 言い終えた瞬間。


 琥珀のしっぽが、また楽しそうにゆらりと揺れた。


 後ろでは、ラファお姉ちゃんが口元へ手を添えている。


 ロクスは何も言わず、馬耳だけをこちらへ向けていた。


 ベルグも髭の奥で笑いを堪えている。


 絵描きさんは、そんな琥珀の後ろ姿を静かに眺めていた。


 少しして。


 家の奥から、声が返ってくる。


「はーい。どちらさまですかー?」


 その声に、琥珀の猫耳がぴんっと立った。


 うまくいってる。


 そんな気持ちが、そのまましっぽに出ていた。


 琥珀はますます楽しそうに、少しだけ声色を変えたまま続ける。


「お届け物でーす」


 家の中では。


 ノーラが扉の方へ向かおうとしていた。


 けれど、何気なく窓の外へ目を向けて――足を止める。


「あら……」


 窓の向こう。


 家の方へ近づいてくる女の子がいた。


 畑から戻ってきたリノだった。


 リノはすでに、琥珀の後ろにいるラファお姉ちゃんたちへ気づいている。


 そして。


 窓越しにノーラと目が合った。


 ノーラは一瞬だけ目を丸くする。


 けれど、すぐに状況を理解したように口元を緩めた。


 リノもまた、楽しそうに笑う。


 ノーラはそのまま扉へ向かわず。


 少しだけ、その場で待つことにした。


 外では。


 まだ扉が開かないことに、琥珀が小さく首を傾げていた。


「……あれ?」


 もう一度呼びかけてみようか。


 そう思ったのか。


 琥珀は扉の前で、もう一度手を上げる。


 その後ろへ。


 リノが、そっと近づいてくる。


 ラファお姉ちゃんが最初に気づいた。


 次に、ロクス。


 ベルグ。


 絵描きさん。


 四人の視線が、琥珀の後ろへ集まる。


 リノは人差し指を口元へ立てた。


 しーっ。


 声は出さない。


 けれど、意味はすぐに伝わった。


 ラファお姉ちゃんは笑いを堪えるように、そっと口元を押さえる。


 ロクスは馬耳をぴくりと動かしながら、何も言わない。


 ベルグは髭の奥でにやりと笑った。


 絵描きさんも、楽しそうに目を細めている。


 琥珀だけが。


 まだ、何も気づいていなかった。


「もう一回……」


 琥珀が、扉へ向けて手を伸ばす。


 もう一度、扉を叩こうとした。


 その瞬間。


「はーい♪」


「ひゃんっ!?」


 後ろから、ふわっと腕が回ってきた。


 自分より高いところから。


 上半身ごと包み込まれるように。


 ぎゅっ。


 琥珀の猫耳が、びくんっと跳ねた。


 同時に。


 しっぽが、ぶわっと大きく膨らむ。


 完全に不意を突かれた琥珀は。


 扉へ伸ばしていた手を、そのまま止めた。


 後ろから抱きつかれたまま。


 琥珀は、しばらく動けなかった。


 猫耳はぴんっと立ったまま。


 しっぽも、驚きでぶわっと膨らんでいる。


「えっ……!?」


 聞こえた声。


 抱きついてきた腕。


 それなのに、頭の中がうまく追いつかない。


「……あれ?」


 琥珀は、そろそろと顔だけ動かそうとする。


 けれど、自分より高いところから包み込まれているせいで、ますます混乱した。


「ノ、ノーラさん!?」


 その声に。


 後ろの女の子が、とうとう堪えきれなくなったように笑った。


「ふふっ」


「えっ!?」


 違う。


 ノーラの声じゃない。


 琥珀はようやく身体を少しひねって、後ろを振り返った。


 そこにいたのは。


 自分より背の高い女の子だった。


 少し大人びた顔つき。


 髪の間から、ほんの少しだけのぞく小さな角。


 琥珀の記憶にある姿とは、ずいぶん違う。


「……え?」


 見覚えがあるような。


 でも、すぐには結びつかない。


 女の子は、そんな琥珀の顔を見ながら、嬉しそうに笑っている。


「琥珀お姉ちゃん」


「……えっ?」


 その呼び方に。


 琥珀の猫耳が、ぴくりと動いた。


 けれどまだ、確信には届かない。


 琥珀の視線が、抱きついている女の子の腕へ落ちる。


 そこに。


 小さな王冠があった。


 ずっと前。


 琥珀が渡した、あの小さな王冠。


 琥珀の目が、ゆっくりと見開かれていく。


「……その王冠……」


 一拍。


 そして。


「リノちゃん!?」


「うん!」


 リノの顔が、ぱっと明るくなる。


「琥珀お姉ちゃん!」


 今度は隠すことなく。


 嬉しさそのままに、ぎゅっともう一度抱きしめた。


「会いたかった!」


「リノちゃん……!」


 ようやく全部がつながった琥珀も、リノの腕へ手を重ねる。


 さっきまで驚きで膨らんでいたしっぽも、少しずつ元へ戻っていく。


 その代わり。


 今度は嬉しそうに、ゆらゆらと揺れ始めた。


 そんな二人を見て。


「ははっ」


 最初に声を上げて笑ったのは、ロクスだった。


「見事にやられたな」


「えっ?」


 琥珀が振り返る。


 ラファお姉ちゃんは、もう笑いを隠していなかった。


 ベルグも髭を揺らしながら笑っている。


 絵描きさんも、楽しそうに目を細めていた。


「えっ!? みんな気づいてたの!?」


「ふふ、ごめんなさい、琥珀ちゃん」


「おぬしだけ、きれいに気づいとらんかったからのう」


「……もうっ!」


 琥珀のしっぽが、今度は少しだけ不満そうに横へ振れる。


 その隣では、リノがくすくすと笑っている。


 ロクスは、琥珀とリノを見比べた。


 そして。


「しかしまあ……」


 少しだけ口元を上げる。


「どっちが姉か分からねえな」


「えっ!?」


 琥珀が、改めてリノを見る。


 見上げる。


 ほんの少しではない。


 ちゃんと、見上げている。


「……リノちゃん、わたしより大きくなってる!?」


「えへへ、大きくなったよ」


「ほんとに!?」


 驚いた琥珀の猫耳が、またぴんっと立つ。


 そんなやり取りに。


 みんなの笑い声が、もう一度広がった。


 その時。


 がちゃ。


 扉が開いた。


「あらあら」


 そこには。


 笑いながら、こちらを見ているノーラが立っていた。


「ずいぶん楽しそうね」


「ノーラさん!」


 琥珀の顔が、またぱっと明るくなった。


 そんな再会の笑いが続く中。


 ラファお姉ちゃんは、馬力車のそばへ動いた。


「ベルグさん、足元に気をつけてくださいね」


「うむ、すまんのう」


 ラファお姉ちゃんが手を添える。


 ベルグが踏み台へ足を下ろし、そのあとに絵描きさんも続いた。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 その様子を。


 まだ琥珀のそばにいたリノが、じっと見ていた。


「たくさんのお友達が一緒なんダネ」


 その瞬間。


 琥珀の猫耳が、わずかに動いた。


「……え?」


 ほんの一瞬。


 声の響きが、いつものリノと少しだけ違って聞こえた。


 抱きつかれたままの距離で。


 琥珀がリノの顔を見る。


 その瞳の奥に。


 風車の姿が。


 ほんの一瞬だけ、重なって見えた気がした。


 山の方にある。


 あの風車の面影。


 けれど。


 瞬きをした時には、もう消えていた。


 そこにいるのは。


 いつものように笑っているリノだった。


「こちらの方々は?」


「……あ、うん!」


 琥珀は小さく首を傾げながらも。


 すぐにみんなの方へ向き直った。


「まず、ロクスだよ」


「ロクスだ。よろしくな」


「よろしくお願いします!」


「こっちはベルグじい」


「ベルグじゃ。よろしくのう」


「はい!」


「それから、絵描きさん!」


「はじめまして。各地を旅しながら絵を描いています」


「絵描きさん……!」


 リノの目が、少しだけ輝いた。


 けれど。


 その視線はすぐに、ラファお姉ちゃんの方へ移った。


 そこで。


 リノが、ぴたりと止まる。


「……わぁ」


 ラファお姉ちゃんを見上げるようにして。


 少しだけ見とれていた。


「リノちゃん?」


「あっ」


 我に返ったように瞬きをして。


 それから少し姿勢を正した。


「ラファお姉ち……」


 一度、止まる。


 そして。


「ラファお姉様、お久しぶりです」


 ラファお姉ちゃんは。


 一瞬だけ目を丸くして。


 すぐに、やわらかく笑った。


「お久しぶり。リノちゃん」


 その返事を聞いたリノは、嬉しそうに笑う。


 それから。


 もう一度、琥珀の方を見た。


 じーっ。


「……な、なに?」


「絵でも見たけど……」


「うん?」


 リノの目が、ますます輝く。


「その制服姿、可愛いーーーー!」


「ええっ!?」


 琥珀の猫耳が、ぴんっと立つ。


 しっぽも、驚いたように跳ねた。


「絵で見た時も可愛いって思ったけど、本物はもっと可愛い!」


「い、いきなりそんな……!」


 琥珀の頬が、少しだけ赤くなる。


 リノはそんな琥珀を見ながら。


 楽しそうに、にこにこと笑っていた。


 リノが琥珀の制服を眺めながら、まだ嬉しそうにしていると。


 家の奥から、大きな声が飛んできた。


「リーノー!」


「わっ!」


 リノが家の方を振り向く。


「玄関先でずっと喋ってないで、早く中に案内しないか!」


「あっ!」


 言われて初めて気づいたように、リノが目を丸くした。


「はーい!」


 元気よく返事をするリノの横で。


 ノーラは、あらあらとでも言いたそうな顔で笑っていた。


「ふふ。ごめんなさいね。久しぶりだから、つい話し込んじゃって」


「いえ、私たちも楽しくて」


「さあ、みなさん。どうぞ中へ」


 ノーラが扉を大きく開ける。


「琥珀お姉ちゃん、入ろう!」


「うん!」


 琥珀もそのままリノについて家へ入ろうとして――。


「……あっ!」


 ぴたりと足を止めた。


「どうしたの?」


「忘れてた!」


 琥珀の猫耳がぴんっと立つ。


「リノちゃん、先に入ってて!」


「え?」


「すぐ戻るから!」


 そう言うと。


 琥珀はくるりと向きを変え、馬力車へ駆けていった。


 しっぽが楽しそうに揺れている。


「琥珀ちゃん、慌てなくても大丈夫よ」


「はーい!」


 返事だけは元気よく返しながら。


 琥珀は馬力車の荷物の中を確かめていく。


「えっと……まず、これ」


 取り出したのは。


 リノのために選んできたリボン。


 ラファお姉ちゃんと自分がつけているものと同じではない。


 けれど。


 街で見つけた時に、リノに似合いそうだと思って選んだものだった。


 琥珀は大切そうに手に取る。


「それから……猫型クッキー」


 包みの中には、猫の形をしたクッキー。


 そして。


 もう一つ。


「……あ」


 荷物の中にあった紙袋を見つける。


 琥珀はそれを取り上げて、表に書かれている文字を見た。


「そういえば、マーレさんからこれも預かってたんだ」


 紙袋には。


『リノさんへ』


 と書かれている。


「中は……」


 少しだけ気になって。


 琥珀の指が紙袋へ伸びる。


 けれど、すぐに止まった。


「……ううん。リノちゃん宛てだもんね」


 猫耳を小さく動かして。


「リノちゃんに開けてもらおう」


 リボン。


 猫型クッキー。


 そして、マーレから預かった紙袋。


 琥珀は三つを大切そうに抱えた。


「よしっ」


 馬力車から離れる前に、もう一度だけ止まっている状態を確認する。


 踏み台は出たまま。


 車輪の固定も、そのまま効いている。


 琥珀は小さく頷いた。


 そして。


 荷物を抱えたまま、みんなの待つ家へ戻っていった。


「お待たせー!」


「それ、なあに?」


 リノが興味津々で紙袋や包みを見る。


「えへへ。それは中に入ってからね」


「えー、気になる!」


「ふふっ。ほら、二人とも。今度こそ中へ入りましょう」


「はーい!」


「はーい!」


 二人の声が重なる。


 ノーラが笑いながら扉を押さえ。


 ラファお姉ちゃん。


 ロクス。


 ベルグ。


 絵描きさん。


 そして。


 リボンとクッキーと、まだ中身を知らない紙袋を抱えた琥珀も。


 次々と家の中へ入っていく。


 最後にリノが振り返り。


 嬉しそうに笑った。


「琥珀お姉ちゃん、こっち!」


「うん!」


 会いたかったリノの声を追いかけて。


 琥珀も、懐かしい家の中へ足を踏み入れた。

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