第64話
ころころ、ころころ。
朝の道を、馬力車の車輪が進んでいく。
さっきまで近くに聞こえていた小川の音も、少しずつ遠くなっていた。
琥珀は二人掛けの座席から、もう一度だけ後ろを振り返った。
昨日の夜を過ごした草地。
星空を見上げ、小川で魚を釣り、テントで眠った場所。
けれど、馬力車が進むたび、木々の間に見えていた草地は少しずつ隠れていく。
「……もう、小川の音も聞こえなくなっちゃったね」
「うん。だいぶ離れてきたね」
「ちょっと寂しいけど……また来たいな♪」
「今度来る時は、また違った楽しみ方ができるかもしれないね」
「うん!」
琥珀はもう一度だけ木々の向こうを見て、それから前へ向き直った。
朝の日差しの中を、ロクスが一定の歩調で進んでいる。
その動きに合わせて駆動の子が働き、車輪は変わらず、ころころと道を転がっていた。
しばらく前を眺めていた琥珀の猫耳が、ふいにぴんと立つ。
「あっ、そうだ!」
何かを思い出したように、琥珀は座席に座ったまま身体をくるりと後ろへ向けた。
背もたれの上に両手を置き、そこから顔をのぞかせるようにして、荷台にいる絵描きさんを見る。
その目は、もう見たことのない景色を探しているように輝いていた。
「絵描きさん、聞きたいことがあるんですけど!」
「はい。なんでしょう?」
「絵描きさんって、いろんなところを旅してきたんですよね?」
「ええ。絵を描きながら、いろいろなところを巡ってきました」
「昨日の夜、星空がすっごく綺麗だったじゃないですか」
「綺麗でしたね」
絵描きさんの返事を聞いて、琥珀は背もたれへ置いた両手に少しだけ力を入れた。
「それで気になったんです。絵描きさんが旅した時には、ほかにどんなところがありましたか?」
「…………」
絵描きさんは、すぐには答えなかった。
ほんの少しだけ視線を遠くへ向ける。
何かを思い出そうとしているようにも見えた。
「……そうですね」
やがて、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「いろいろなところがありましたよ」
「どんなところですか?」
「このあたりは最近、緑も多くなりましたが……見渡す限り乾いた土地が続くところもありました」
「ずっと乾いたところ?」
「ええ。砂や乾いた地面がどこまでも続いていて、ところどころに古い石組みのようなものが残っていました」
前を歩いていたロクスの耳が、後ろへぴくりと向いた。
「そりゃ、歩くだけでも骨が折れそうだな」
「風が吹けば砂も舞いますからね。楽な旅ではありませんでした」
「うわぁ……わたし、ちゃんと歩けるかな……」
「まだ行くと決まったわけじゃないよ、琥珀ちゃん」
「あっ、そっか」
荷台から、ベルグの小さな笑い声が聞こえた。
「話を聞いただけで、もう行くつもりになっとるのか」
「だって、どんなところなのか気になるんだもん!」
「ふふ。では、もっと気になる場所もありますよ」
「えっ、まだあるんですか!?」
「もちろんです」
絵描きさんは少し考える。
「反対に、雪の残る場所もありました」
「雪!」
猫耳が、またぴんと立った。
「朝になると、木も道も白くなっていて。歩くと足元から、きゅっ、きゅっと音がするんです」
「雪って、そんな音がするんですか?」
「積もり方によっては、しますよ」
「ほぉ……乾いた土地に雪の土地か。ずいぶん違うもんを見てきたんじゃな」
「旅をしていると、同じ世界なのに、まるで別の場所へ来たように感じることがあります」
「ほかには! ほかにはどんなところがありました?」
琥珀のしっぽが、座席のそばで楽しそうに揺れる。
「そうですね……」
絵描きさんは、馬力車の横を流れていく朝の景色を眺めながら、次の記憶を探すように少し目を細めた。
「とても大きな湖があるところもありましたよ」
「大きな湖……?」
「ええ。向こう側を見ようとしても、水がずっと先まで続いているように見えるくらい、大きな湖でした」
「そんなに大きいの!?」
琥珀の目が、さらに輝いた。
小川なら、昨日も見た。
魚が泳いでいるところも見た。
けれど、向こう側が見えないほど水が広がっている場所など、琥珀にはまだ想像することしかできない。
「じゃあ……端っこに立ったら、前がずーっと水なの?」
「ええ。場所によっては、本当にそんなふうに見えますよ」
「わぁ……!」
絵描きさんは、もう一つ思い出したように続けた。
「それと……湖の沖の方に、風車が一基だけ、ぽつんと立っていました」
「湖の中に、風車があるの!?」
「ええ。岸から見ると、水の向こうに小さく見えるんです。周りには何もなくて、そこだけに風車が立っているように見えました」
「どうやってそこまで行くんだろう……」
「私が見た場所からでは、そこまでは分かりませんでした」
「ほう……水の中に風車が一基、か」
ベルグも少しだけ興味を引かれたように、目を細めた。
けれど、それ以上は何も言わない。
琥珀は背もたれに両手を置いたまま、どこか遠くを見るように目を細めた。
朝の光をきらきらと返す水面。
その先にも、さらにその先にも水が続いている。
そして、そのずっと沖に、ぽつんと立つ一基の風車。
小さな魚だけではなく、もっとたくさんの魚が泳いでいるのだろうか。
水の中は、どんなふうになっているのだろう。
「魚も、いっぱいいるのかな……」
「いましたよ。岸から見える魚もいましたし、水の澄んでいるところでは、少し深いところまで見える場所もありました」
「水の中まで!?」
琥珀のしっぽが、さっきより大きく揺れる。
「ねえ、ラファお姉ちゃん。そんな湖、いつか行ってみたいね!」
「ふふ、そうだね。琥珀ちゃん、今度は湖で何を見つけるのかな」
「いっぱい探したい! 魚も見たいし、水の中も見てみたいし……それに、あの風車も近くで見てみたいな♪」
「それは、実際に行った時のお楽しみですね」
「うん!」
まだ見たこともない大きな湖。
けれど琥珀の中にはもう、きらきらと光る水面と、その下を泳ぐ魚たち。
そして遠い沖に、ひとりで立っているような風車の景色が広がり始めていた。
ころころ、ころころ。
馬力車は、琥珀の知らない景色の話を乗せながら、朝の道をゆっくりと先へ進んでいった。
大きな湖の話を聞き終えても、琥珀の目から輝きは消えていなかった。
背もたれに置いた両手も、そのまま。
むしろ、まだ何かあるのではないかと待っているようだった。
「……ほかにも、あるんですよね?」
「ふふ。ありますよ」
「やっぱり!」
「まったく、話を聞くたびに元気になっとるのう」
「だって、知らないところがいっぱいあるんだもん♪」
絵描きさんは、少し考えるように視線を上げた。
「大きな渓谷の間に、街があるところもありましたね」
「渓谷の間に……街?」
「ええ。両側に高い岩壁があって、その間を川が流れているんです。その岩壁に沿うように、建物が並んでいました」
「そんなところに、お家があるの!?」
「ありますよ。向こう側へ渡るための橋も、いくつも架かっていました」
「ほぉ……崖の間に街を作っとるのか」
ベルグの目が、少しだけ細くなる。
「足場ひとつ作るにも苦労しそうじゃな」
「そうかもしれませんね。でも、あそこで暮らしている方々にとっては、それがいつもの街なんでしょう」
「橋の上から下を見たら、すっごく高そう……」
「高かったですよ。本当に」
絵描きさんの笑みが、ほんの少しだけ苦いものへ変わった。
「それと、渓谷の間には、二基の風車も立っていました」
「二基も?」
「ええ。両側の岩壁に囲まれた街と、そこへ架かる橋。その向こうに、二基の風車が見えるんです」
「わぁ……それも見てみたいなぁ」
「遠くから眺めている分には、とても綺麗なところでしたよ」
「遠くからなら?」
琥珀の猫耳が、ぴくっと動いた。
「……実際に橋を渡るまでは、私もそう思っていたんです」
「えっ?」
絵描きさんは、少し困ったように笑う。
「その頃は、私も高いところはそれほど苦手ではありませんでした」
「じゃあ、その橋も普通に渡ったんですか?」
「ええ。最初は」
「最初は……?」
「橋の途中で、下を見てしまいまして」
「あ……」
「ずっと下を流れている川が見えて、そこへ風まで吹いてきて……橋も少し揺れたんです」
「うわぁ……」
琥珀の猫耳が、少し横へ向く。
「もちろん、橋が壊れたわけではありませんよ。ちゃんと向こう側まで渡れました」
「でも、怖かったんですね」
「ええ。それはもう」
絵描きさんは苦笑した。
「それ以来、高いところへ行くと、あの橋を思い出してしまうようになりまして」
「旅をしてても、そういうことってあるんだ……」
「ありますよ。旅先で出会うのは、綺麗な景色ばかりではありませんから」
「でも、その橋は渡ったんですよね?」
「はい。怖かったですけどね」
「すごいなぁ……」
「怖くても渡らにゃならん時はあるからのう」
「俺なら、下を見ねえでさっさと渡る」
「それができれば苦労しないんですよ」
「あはは!」
馬力車の荷台に、小さな笑い声が広がった。
ころころ、ころころ。
車輪の音は変わらず続いている。
「ほかには! まだあります?」
「ありますよ」
絵描きさんが少し笑った。
「これは……琥珀さんなら、特に興味を持つかもしれませんね」
「なにそれ! 気になる!」
琥珀の身体が、ほんの少しだけ背もたれの方へ寄る。
「とても大きな森があるんです」
「森?」
「ええ。それだけなら珍しくはないんですが……その森の上に、島が浮いていました」
「…………」
一瞬。
琥珀の動きが止まった。
「……浮いてる?」
「浮いています」
「島が!?」
「ええ」
「空に!?」
「空に」
「浮島だー!」
琥珀のしっぽが、ぶんっと大きく揺れた。
「おいおい、落ちるなよ」
前を歩いたまま、ロクスが声だけを後ろへ返す。
「あっ……はい!」
琥珀は少しだけ身体を戻す。
けれど、背もたれに置いた両手はそのままだった。
「でも……」
琥珀は少し考える。
「ライブラリーで見た本の浮遊船とは、また違うのかな?」
「浮遊船、ですか?」
「うん。空を飛ぶ大きな船が載ってたの」
「なるほど……」
絵描きさんは、記憶の中の景色を確かめるように少し目を細めた。
「私が見たものは、船というより、本当に大きな島そのものに見えましたね」
「そっかぁ……じゃあ、また違うのかな」
「どうでしょう。私は遠くから見ただけですから、そこまでは分かりません」
「うーん……気になる!」
答えが分からないことすら楽しむように、琥珀の目がまた輝く。
「それで!? その浮島、どんなところだったんですか?」
「かなり大きな島でしたよ。そして、島から水が滝のように下へ流れ落ちていました」
「空から滝が!?」
「ええ。でも、不思議なのはそこからなんです」
「そこから?」
「水が、そのままずっと滝になって森まで落ちていくわけではありませんでした」
絵描きさんは、ゆっくりと片手を下へ動かす。
「途中から、きらきらと光り始めるんです」
「きらきら……?」
「ええ。それから水の形が少しずつほどけるように、細かな光の粒になって……下に広がる森へ降り注いでいました」
「わぁ……!」
琥珀の声が、思わず漏れる。
「それって……」
何かに気づいたように、猫耳がぴんと立つ。
「わたしたちがマナクラフトで氷を作った時、きらきらってしてたでしょう? あれみたいな感じ?」
「そうです」
絵描きさんが頷いた。
「琥珀さんたちが氷を作った時の光を見て、私もあの場所を思い出したんです」
「じゃあ、あの光もマナなのかな?」
「それは私には分かりません」
「そっかぁ……」
「じゃが、自然に水が光の粒へ変わるように見えたっちゅうのは、面白いのう」
「うん! 実際に見てみたい!」
「私も、もう一度見てみたい景色ではありますね」
絵描きさんは続ける。
「それに、島の下にはもう一つ、不思議なものがありました」
「まだあるの!?」
「ええ」
「島の下から、森へ向かって……光る鎖のようなものが伸びていたんです」
「鎖?」
「私には、そう見えました」
「島をつないでるのかな?」
「どうでしょう。それも遠くから見ただけなので」
絵描きさんは少しだけ考える。
「ただ……八本ありました」
「八本?」
「ええ。島の下から、それぞれ違う方向へ伸びて、そのまま深い森の中へ消えていました」
「ほう……八本の光の鎖、か」
ベルグが少し目を細める。
だが、その意味については何も言わない。
琥珀は頭の中で、その景色を一生懸命に組み立てていた。
大きな森。
そのはるか上に浮かぶ島。
島から落ちる水。
途中からきらきらと光る粒になり、森へ降り注いでいく。
そして島の下から八方向へ伸び、深い緑の中へ消えていく光の鎖。
「……すごい」
今度の声は、さっきまでより少し小さかった。
「そんな景色、本当にあるんだ……」
「ありましたよ」
ラファお姉ちゃんも、絵描きさんの話を聞きながら静かに微笑んでいた。
「上から落ちたものが、下の森へ降りていくんだね」
「うん……島と森、離れてるのに繋がってるみたい」
「私にも、そんなふうに見えました」
そこで、前を歩いていたロクスの耳が後ろへ向く。
「そこまで珍しいなら、島にも行ったんだろ?」
「あっ!」
琥珀が再び絵描きさんを見る。
「そうだ! 浮島には行けたんですか?」
「それが……」
絵描きさんは、少し困ったように笑った。
「残念ながら、行っていないんです」
「ええっ!? どうして!?」
「そのあたりには鳥族の方々もいらしたのですが、案内をお願いできるほど親しくなることができませんでした」
「そっかぁ……」
「それに……先ほどお話しした渓谷の橋以来、高いところはどうにも苦手でして」
「あっ……!」
琥珀も、すぐにさっきの話を思い出した。
「浮島って……あの橋より、ずっと高いですよね」
「ええ。そう考えたら、もう足が向きませんでした」
「あはは……それは仕方ないかも」
「俺は地面がありゃ、それでいい」
「わしも好き好んで空から下を見たいとは思わんのう」
「ベルグじいも!?」
「高けりゃ偉いっちゅうもんでもないじゃろ」
「あはは、そっか!」
ラファお姉ちゃんも、口元へ手を添えて小さく笑った。
馬力車の荷台に、また穏やかな笑い声が広がった。
琥珀も笑いながら、それでも頭の中には、まだたくさんの景色が残っていた。
「でも……いつか見てみたいなぁ」
「浮島を?」
「うん。それに大きな湖も、渓谷の街も、雪のところも……全部!」
「全部とは欲張りじゃな」
「だって、聞いたら行きたくなっちゃうよ♪」
絵描きさんは、そんな琥珀を見ながら穏やかに微笑んだ。
「私の旅の目的は、各地を巡りながら絵を描くことですから」
「じゃあ……」
「ええ。今お話しした場所も、いくつか絵に残していますよ」
「ほんと!?」
「街へ戻れば、その時に描いた絵もありますよ」
「見たいです!」
返事は、考えるよりずっと早かった。
「ぜひ見せてください!」
「もちろんです」
「やった♪」
琥珀はようやく身体を前へ戻し、二人掛けの座席へきちんと座り直した。
けれど、その目にはまだ。
沖に風車が立つ大きな湖。
二基の風車がある渓谷の街。
雪の道。
そして。
広大な森の上に浮かぶ島。
そこから落ち、途中できらきらと光の粒になって森へ降り注ぐ水。
島の下から八方向へ伸びる、光の鎖。
まだ見たことのない世界が、次々と浮かんでいるようだった。
ころころ、ころころ。
馬力車は、その全部をいつか見てみたいという琥珀の期待も乗せて、先へ進んでいった。
ころころ、ころころ。
絵描きさんの旅の話が一段落してからも、馬力車は変わらず先へ進んでいた。
草の間に続いていた道は、少しずつ広くなっていく。
その先。
踏み固められた街道が、木々の向こうに見え始めた。
「おっ……そろそろ街道だな」
ロクスが前を見ながら言う。
ここまでの草道には、緩やかな登りも何度かあった。
馬力車が大きくなり、乗る人も荷物も以前より増えている。
それでもロクスの歩みは、大きく乱れることなく続いていた。
やがて草道を抜け。
車輪が、再び街道へ乗る。
ころころ。
ころころ。
踏み固められた道へ出ると、ロクスの足取りがほんの少し軽くなった。
「……やっぱり、街道の方が引く時は楽だな」
「ここまでの登りはどうじゃった?」
荷台からベルグが声を掛ける。
ロクスは歩きながら、一度肩を回した。
続けて腰のあたりへ軽く手を当てる。
「坂は坂だな。脚はちゃんと使うし、楽ってわけじゃねえ」
「腰は?」
琥珀も座席から少し前へ身を寄せる。
「前よりいい」
ロクスは短く答えてから、自分の身体の具合を確かめるようにもう一度歩いた。
「この大きさになった割には、後ろからぐっと返ってくる感じが少ねえ。登りでも、前みてえに腰だけに残る感じはだいぶ減ったな」
「駆動の子も、ちゃんと働いてくれてるんだね♪」
「そうみてえだな」
「歩き出しや坂で返ってくる力を、うまく受けてくれとるようじゃ」
ベルグは荷台の床へ視線を落とす。
「じゃが、坂を平らにしてくれる道具ではないぞ」
「分かってるよ、ベルグじい」
「ならええ」
「坂までなくなったら、俺が歩いてる意味もなくなるだろ」
「あはは、それもそうだね!」
琥珀の笑い声と一緒に、馬力車は街道を進んでいく。
視界も、草道を走っていた時より大きく開けていた。
向こうから、一台の荷馬車がやってくる。
荷台には木箱がいくつも積まれていた。
その後ろからは、大きな袋を背負った旅人が歩いてくる。
少し先には、荷物を抱えた運び手の姿もあった。
「こんにちはー!」
すれ違う旅人へ琥珀が手を振る。
「こんにちは」
向こうも笑って、小さく手を上げた。
荷馬車の御者も、ロクスへ軽く会釈して通り過ぎていく。
ころころ、ころころ。
行く人。
戻ってくる人。
荷物を運ぶ人。
ひとりで歩く人。
馬力車の座席から、その姿を眺めていた琥珀は、ふと思った。
「みんな、どこに行くんだろう」
「それぞれ違うんじゃないかな」
「さっき絵描きさんが話してくれたみたいな、わたしの知らないところへ行く人もいるのかな」
「いるかもしれないね」
「なんか……そう考えると、街道ってすごいね」
「街道が?」
「うん。ここをずっと進んだら、いろんなところにつながってるんだなって」
ラファお姉ちゃんは、そんな琥珀を見て微笑んだ。
「そうだね」
その時だった。
「あっ!」
琥珀の猫耳が、ぴんと立つ。
街道の先。
道の脇から伸びている、見覚えのある土道があった。
琥珀はしばらくそこを見つめる。
「ここ……」
「どうしたの、琥珀ちゃん?」
「覚えてる!」
琥珀が嬉しそうにラファお姉ちゃんを見る。
「最初に街道へ出てきた時、ここで右に行くか左に行くか考えたよね♪」
「あ……」
ラファお姉ちゃんも土道を見て、少し目を細めた。
「そうだったね」
「右と左、どっちに行こうって」
琥珀は、今度は進んでいる街道の先を見る。
「あの時、左にしたんだよね」
「うん」
「それで……」
前を歩くロクスを見る。
荷台に座るベルグを見る。
そして、先ほどまで旅の話をしてくれていた絵描きさんへ視線を向ける。
「ロクスに会って、ベルグじいに会って」
「ん?」
名前を呼ばれたロクスの耳が、後ろを向いた。
「それからマーレさんにも会って、絵描きさんにも会って……いろんな人に会えたんだよね」
「そう考えると、あそこで曲がった道が今までずっと続いとったようなもんじゃな」
「うん♪」
琥珀は嬉しそうに頷いた。
「左に行ってよかった」
それから。
ほんの少しだけ首を傾げる。
「……でも」
琥珀の視線が、もう一方へ向いた。
あの時、選ばなかった方角。
「右に行ってたら……どこに行ってたんだろう」
「気になる?」
「うん」
迷いのない返事だった。
「後悔してるとかじゃないよ? 左に来たから、みんなに会えたし」
「うん」
「でも、右に行った先にも……知らない街とか、知らない景色とか、誰かとの出会いがあったのかなって」
絵描きさんが穏やかに頷く。
「きっと、何かはあったでしょうね」
「やっぱり?」
「道が続いているなら、その先には何かがありますから」
「そっかぁ……」
琥珀は右へ続く道を眺めた。
今は、そちらへは行かない。
自分たちが進むのは、リノちゃんのところへ続く道。
けれど。
「いつか、あっちにも行ってみたいな」
「行きたきゃ、いつか行けばいいだろ」
「え?」
「道がなくなるわけじゃねえんだから」
ロクスは前を向いたまま言う。
琥珀のしっぽが、ゆっくりと揺れた。
「……うん!」
「今度は右へ、だね」
「うん♪」
馬力車は、その分かれ道を通り過ぎていく。
昔は、どちらへ行けばいいのか分からなかった場所。
今はもう。
自分たちがどちらへ進んできたのかを知っている。
そして。
選ばなかった道にも、まだ知らない何かが待っている。
ころころ、ころころ。
馬力車は、いくつもの道が続いている世界の中を。
今は、リノちゃんのところへ向かって進んでいった。
ころころ、ころころ。
馬力車は、そのまま街道を進んでいた。
朝のうちはまだ柔らかかった日差しも、時間が進むにつれて少しずつ強くなっている。
琥珀は座席から空を見上げた。
雲は少ない。
青い空の高いところから、まっすぐ光が落ちてくる。
「朝より、だいぶ明るくなってきたね」
「うん。そろそろ昼前だからね」
ラファお姉ちゃんは琥珀の顔を見てから、荷物の方へ手を伸ばした。
「琥珀ちゃん、そろそろ帽子をかぶろうか」
「あっ、そうだね」
琥珀は素直に頷く。
幌のない馬力車では、日差しを遮るものがほとんどない。
ラファお姉ちゃんから帽子を受け取ると、琥珀は猫耳の位置を確かめながら頭へ乗せた。
「よし♪」
「耳、窮屈じゃない?」
「大丈夫。ちゃんと出てるよ」
琥珀が帽子のつばを軽く持ち上げる。
前を歩いていたロクスも、少しだけ顔を上げた。
「日差し、強くなってきたな」
「お前さんは水も忘れるでないぞ」
「分かってる」
ロクスは短く返しながら、歩調を崩さず進んでいく。
絵描きさんも自分の帽子へ軽く手を添えた。
旅慣れているせいか、日差しが変わっても動きに迷いはない。
しばらく進むと。
街道の先から、また一本の土道が分かれていた。
「こっちだな」
ロクスがその道へ入る。
馬力車も、その後をついていく。
ころころ。
ころころ。
街道より少し狭く。
両側には草が増え、ところどころ木陰も落ちている。
道そのものは続いているが、行き交う人の姿は少なくなった。
「また、ちょっと雰囲気変わったね」
「街道を外れると、静かになるね」
「うん」
琥珀は帽子のつばの下から、道の先を眺める。
風が草を揺らす。
木の葉も、さわさわと鳴る。
日差しはさっきより強い。
朝の冷たさは、もうほとんど残っていない。
そのはずだった。
ふっ。
風が吹いた。
「……っ」
琥珀の猫耳が、ぴくっと動く。
頬を撫でていった風は。
冷たかった。
ほんの一瞬。
けれど、朝の風とは明らかに違う。
「……今の」
「冷たかったね」
ラファお姉ちゃんも、少しだけ表情を変える。
前を歩くロクスの耳も後ろへ向いていた。
「山の方からだな」
「そうじゃのう」
ベルグが風の来た方へ視線を向ける。
けれど。
琥珀は、すぐにはそちらを見なかった。
「…………」
無意識に。
自分の頬へ手を添える。
「琥珀ちゃん?」
「……なんだろう」
「どうしたの?」
「今の風、冷たかったんだけど……」
琥珀は言葉を探す。
もう一度、自分の頬をそっと撫でる。
「それだけじゃないような……」
「それだけじゃない?」
「うん……」
何かが触れた。
そんな気がした。
もちろん、本当に何かが頬へ触ったわけではない。
風が通っただけ。
なのに。
空気の流れとは少し違うものが、ほんの一瞬だけ頬の近くをかすめていったような。
そんな感覚が残っている。
「なんか……ここが、変な感じする」
琥珀は頬へ指先を添えた。
「痛い?」
「ううん。痛くないよ」
「冷たい?」
「それとも、ちょっと違う……」
琥珀自身にも、うまく説明できない。
猫耳が、もう一度だけ小さく動く。
その様子をベルグが静かに見ていた。
「何か感じたんか?」
「うーん……分かんない」
琥珀は少し困ったように首を傾げる。
「前にも……こんな感じ、あったような……」
その言葉に。
ラファお姉ちゃんの表情が、ほんの少しだけ真剣になる。
「前にも?」
「うん。でも……どこだったかな」
はっきりとは思い出せない。
風。
空気。
何かが少しだけ違う。
そんな感覚。
けれど。
周りの景色は何も変わっていなかった。
草は普通に揺れている。
木々も、風に合わせて葉を鳴らしている。
空も青い。
道も、そのまま先へ続いている。
「……気のせいかな」
「分からない時は、分からないままでいいよ」
ラファお姉ちゃんは穏やかに言う。
「でも、感じたことは覚えておこう」
「うん」
「それでええ」
ベルグも頷いた。
「後になって、つながることもあるからのう」
ロクスは前を向いたまま、もう一度だけ山の方へ耳を向ける。
「……また来るかもしれねえな」
「冷たい風?」
「ああ」
琥珀は帽子のつばを軽く押さえながら、道の先を見る。
さっきまでと同じ道。
同じ空。
同じ草。
なのに。
頬のあたりにはまだ。
ほんの少しだけ。
説明できない感覚が残っていた。
ころころ、ころころ。
馬力車は、その小さな違和感も乗せたまま。
リノちゃんのところへ続く道を、ゆっくりと先へ進んでいった。
ころころ、ころころ。
馬力車は、街道から分かれた土道を進んでいた。
さっきまでの街道とは、やはり走り方が少し違う。
道幅は少し狭く。
土の表面には、小さな窪みや盛り上がりが増えていた。
ころころ。
ことん。
「……あ」
座席の上で、琥珀の身体がふわりと上下する。
けれど。
以前のように、身体が急に持ち上げられるような強い揺れではなかった。
「今の、分かりやすかった」
「うん」
ラファお姉ちゃんも、座席へ伝わってきた揺れを確かめるように身体を少し動かす。
「ちゃんと揺れたけど、どんって来なかったね」
「そうそう!」
琥珀は嬉しそうに頷いた。
「前だったら、もうちょっと身体がぽんってなってた気がする」
ころころ。
また、小さな凹凸を車輪が越える。
今度は細かな揺れが、座席の下から伝わってきた。
揺れはある。
けれど、その一つ一つが身体へ強く当たってくる感じは少ない。
「板バネの子、ちゃんと働いてるんだね」
「そうみたいだね」
ベルグも荷台の上で、小さく身体を揺らしながら足元へ目を向ける。
「うむ。揺れそのものはなくならんが、角はちゃんと丸うなっとるようじゃ」
「街道だと分かりにくかったけど、こっちだとすごく分かるね」
「こういう道を走ってみんと分からんこともあるからのう」
「じゃあ、土道も大事なんだ」
「馬力車にとってはの」
ロクスは前を向いたまま歩いている。
街道よりも地面に細かな凹凸があるぶん、足の運びにも少し気を使っているようだった。
「後ろはどうだ?」
「大丈夫ー!」
「ちゃんと揺れるけど、前よりずっと乗りやすいよ」
「そうか」
ロクスの耳が、少しだけ後ろへ向いた。
「なら、あいつもちゃんと仕事してるってことだな」
「うん♪」
ころころ、ころころ。
土道の小さな凹凸を越えながら。
馬力車は、そのたびに少し揺れて。
その揺れを板バネの子が、ひとつずつ柔らかく受けていく。
琥珀はしばらく、座席の下から伝わる感覚を楽しむように確かめていた。
「なんか面白いね」
「面白い?」
「うん。道が変わると、馬力車の感じもちゃんと変わるんだなって」
「そうだね」
「街道ではロクスが引きやすくなって、こっちでは板バネの子が分かりやすく働いて……」
琥珀は座席の横へ手を添えながら笑う。
「みんな、それぞれ得意なところがあるみたい」
「ふふ。そうかもしれないね」
「道具は何でも一人でやる必要はないからのう」
「人と一緒だね」
「そういうこっちゃ」
ベルグは満足そうに髭を撫でた。
それからしばらく。
馬力車は土道を進み続けた。
さっき頬を撫でた冷たい風は、もう吹いていない。
琥珀も時折そのことを思い出しながら。
今は、目の前の道へ視線を戻していた。
昼前の日差しが、帽子のつばへ落ちる。
道の両側に続いていた草や木々も。
少しずつ、その様子を変え始める。
「……あれ?」
琥珀の猫耳が動いた。
「どうしたの?」
「さっきより、道が広くなってきたような……」
ラファお姉ちゃんも前を見る。
たしかに。
細かった土道が、少しずつ歩きやすい幅へ広がっている。
道の端には、人が何度も通った跡。
車輪が通った細い筋も残っていた。
「人がよく通る場所へ近づいてきたんじゃろ」
「じゃあ……」
琥珀のしっぽが、ゆっくりと揺れ始める。
ころころ、ころころ。
さらに進むと。
木々の隙間から、開けた土地が見えた。
「あっ!」
琥珀が座席から少し身を乗り出す。
「畑だ!」
道の向こう。
小さく区切られた土地に、作物が並んでいる。
誰かが手を入れているのが分かる景色だった。
「ほんとだね」
「ってことは……もう近い?」
「たぶんな」
ロクスが前を見たまま答える。
琥珀は思わず帽子のつばを持ち上げた。
畑。
人の通った跡。
道。
どれも少しずつ。
誰かが暮らしている場所へ近づいていることを教えてくれる。
さらに馬力車が進む。
ころころ。
ころころ。
そして。
「…………あ」
琥珀の声が、小さくこぼれた。
道の先。
木々の向こうに。
屋根が見えた。
一つ。
その奥にも、もう一つ。
さらに遠くからは、細い煙が空へ上がっている。
「……見えたね」
「うん……!」
猫耳がぴんと立つ。
しっぽも、さっきより大きく揺れ始めた。
「あそこ……だよね?」
「そうじゃろうな」
「やっと見えてきたな」
絵描きさんも、静かにその景色を眺める。
「人の姿も見えますね」
畑の近く。
小さく動く人影があった。
まだ誰なのかは分からない。
顔も見えない。
けれど。
そこには確かに、人の暮らしがあった。
琥珀はしばらく、その景色を見つめていた。
「……リノちゃんのいるところだ」
街を出て。
馬力車で道を進んで。
炭鉱夫たちと再会して。
キャンプをして。
星空を見て。
朝になって。
また道を進んで。
ようやく。
ここまで来た。
「もう少しだね、琥珀ちゃん」
「うん♪」
「リノちゃん、いるかな」
「いるといいね」
「会ったら何から話そう……」
「今から考えるのか?」
「だって、いっぱいあるんだもん!」
「なら着くまでに決めとけ」
「うーん……無理かも」
「欲張りじゃのう」
「あはは!」
楽しそうな声が、馬力車の上に広がる。
ころころ、ころころ。
遠くに見えていた屋根が、
少しずつ。
少しずつ。
大きくなっていく。
馬力車は、
リノちゃんのいるところへ向かって。
もう少しだけ、その道を進んでいった。




