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第63話

さらさら……。


 テントの外から、小川の音が聞こえていた。


 時折、遠くの木々から葉の擦れる音が重なる。


 夜はすっかり深くなっていた。


「……ん……」


 琥珀の猫耳が、ぴくりと動いた。


 ゆっくりと目を開ける。


 どうして目が覚めたのかは、自分でも分からなかった。


 テントの中は薄暗い。


 入口から入り込む淡い月明かりが、布の内側をほんの少しだけ照らしている。


 琥珀は犬の着ぐるみの中でもぞりと身体を動かした。


 そのすぐ隣。


 ラファお姉ちゃんが眠っていた。


 規則正しい、小さな寝息。


 いつも自分へ向けられている優しい目は閉じられ、長い髪が寝床の上へ静かに広がっている。


「…………」


 琥珀は何も言わず、その寝顔を見つめた。


 昨日までと同じラファお姉ちゃん。


 いつも自分のそばにいてくれるラファお姉ちゃん。


 けれど、知らない場所で迎える夜だからなのか。


 こうしてすぐ隣にいることが、いつもより少しだけ嬉しく感じた。


 琥珀の口元が、ふっと緩む。


「……えへへ」


 起こさないように、小さく。


 琥珀は身体を少しだけラファお姉ちゃんの方へ寄せた。


 犬の着ぐるみの外側にある尻尾が、


 ふわり。


 寝床の上を動く。


 もう少しだけ。


 琥珀はラファお姉ちゃんの胸元へ顔を寄せた。


 それから、そっと腕を回す。


 ぎゅっ、と強く抱きしめるのではなく。


 そこにいることを確かめるような、小さな抱擁。


「……おやすみ、ラファお姉ちゃん」


 返事はない。


 けれど、それでよかった。


 琥珀は安心したように目を閉じる。


 猫耳からも、少しずつ力が抜けていった。


 やがて。


 琥珀の呼吸が、再びゆっくりとしたものへ変わる。


 そのすぐあと。


「……ふふ」


 閉じていたラファお姉ちゃんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 琥珀が起きた時から、実は目を覚ましていた。


 けれど声はかけなかった。


 胸元へ寄り添う琥珀を起こさないように、ラファお姉ちゃんはそっと腕を動かす。


 犬の着ぐるみ越しの背中へ、軽く添えるだけ。


「おやすみ、琥珀ちゃん」


 囁くような声は、小川の音へ溶けていった。


 テントの外では、夜の風が静かに草を揺らしている。


 その夜。


 二人はもう一度、すぐ隣で眠りについた。


 ちちち……。


 ちゅん。


 小さな鳥の声が、テントの外から聞こえてきた。


「……ん……」


 布の中で、琥珀の猫耳が、


 ぴくっ。


 もう一度。


 ぴく、ぴくっ。


「……朝……?」


 ゆっくりと目を開ける。


 昨夜とは違い、テントの布越しにも淡い明るさが伝わっていた。


 琥珀はまだ半分眠ったまま、顔だけを寝床から出す。


「……さむっ」


 思わず、肩をすくめた。


 朝の空気は少しひんやりしている。


 けれど身体の方は、犬の着ぐるみ寝間着に包まれて、まだぬくぬくしていた。


「…………」


 琥珀は、着ぐるみの胸元を両手でつまむ。


「……これ、脱がなきゃだめだよね……」


 名残惜しそうに呟く。


 ふわりとした寝間着の中は暖かい。


 このままもう少し丸まっていたい。


 そんな気持ちで身体を動かした琥珀は、ふと足元へ目を向けた。


 薄いテント布の向こうにある地面からは、思っていたほど冷たさが上がってきていない。


 昨日、ベルグがほぐして薄く広げてくれた藁のおかげだった。


「……昨日の藁、ちゃんとあったかいんだ」


 琥珀は少し嬉しそうに呟いた。


 そこでようやく、隣が空いていることに気づく。


「……ラファお姉ちゃん?」


 昨夜まで隣にあった温もりは、もうない。


 代わりに。


 テントの端へ、風月の鐘亭の制服が綺麗に畳まれて置かれていた。


「あ……」


 昨夜。


 夜露でまた濡れないよう、寝る前に取り込んでおいた制服。


 琥珀は手を伸ばし、そっと触れてみる。


 昨日のような濡れた感触はない。


「……乾いてる」


 きちんと畳まれた制服を見つめて、琥珀の口元が少し緩んだ。


「ラファお姉ちゃんかな」


 返事はない。


 でも、なんとなく分かる気がした。


 琥珀はもう一度、自分の犬の着ぐるみを見る。


「…………」


 そして制服。


 もう一度、着ぐるみ。


「……むぅ」


 猫耳が少しだけ横へ倒れた。


「暖かいのに……」


 しばらく悩んだあと。


 琥珀はしぶしぶ犬の着ぐるみを脱ぎ始めた。


 中に収まっていた猫のしっぽが、


 するり。


 と外へ出る。


 最後に犬の着ぐるみを抱えるようにして、


「また夜ね」


 小さく言ってから、風月の鐘亭の制服へ着替えた。


 着替えを終えると。


「ふぁ……」


 小さなあくび。


 琥珀は目元をこすりながら、テントの入口を開いた。


 朝の光が、


 ふわっ。


 と入り込んでくる。


「わぁ……」


 外は、昨夜とはまるで違う景色になっていた。


 木々の間から差し込んだ朝日が、細い光の筋になって草地へ落ちている。


 葉と葉の隙間からこぼれる木漏れ日。


 朝露を乗せた草。


 小川の水面には細かな光が揺れていた。


 さらさら……。


 昨日と同じ音なのに、朝に聞くと少し違って聞こえる。


「おう。起きたか」


「あ、おはよう、ロクス」


 声の方を見る。


 馬力車のそばにいたロクスが、軽く肩を回しながらこちらを見ていた。


 その耳も、朝の音を拾うように小さく動いている。


「よく寝てたな」


「うん。……まだちょっと眠いけど」


「顔見りゃ分かる」


「もうっ」


 琥珀の耳が、ぴんっと立った。


 その奥。


 昨夜の焚き火跡の近くでは、ベルグがしゃがみ込んで火の様子を見ている。


 大きな炎はない。


 残していた熾火から、朝に必要な分だけ小さな火を起こしているところだった。


「おはようさん」


「ベルグじい、おはよう」


 そのさらに隣。


 ラファお姉ちゃんが鍋の前に座っていた。


「あっ、ラファお姉ちゃん!」


 琥珀のしっぽが、


 ぴんっ。


 と上がる。


「おはよう、琥珀ちゃん」


「おはよう!」


 ラファお姉ちゃんの前には、二つの水が用意されていた。


 一つは、旅の途中から持ってきていた水袋。


 もう一つは、今朝、小川から汲んできた水。


 小川の水が入った鍋からは、湯気が立ち始めている。


「それ、小川のお水?」


「うん。こっちはちゃんと沸かしてるところ」


「昨日の!」


「覚えてた?」


「見た目が綺麗でも、そのまま飲んでいいとは限らない!」


「正解」


 ラファお姉ちゃんが、嬉しそうに微笑んだ。


「これはしっかり沸かして、冷めてから水袋へ足すつもりだよ」


「じゃあ、いま飲むのは?」


「こっち」


 ラファお姉ちゃんが示したのは、もともと水袋に入っていた水。


 そちらも小さな器へ移され、火のそばで温められている。


「今日は白湯だけだけどね」


「白湯?」


「温めたお水。朝はまだ冷えるから」


 ラファお姉ちゃんが器を一つ差し出した。


「はい。熱いからゆっくりね」


「うん」


 琥珀は両手で器を受け取る。


 じんわり。


 手のひらへ温かさが広がった。


「あったかい……」


 器へ顔を近づける。


 立ち上る湯気が、朝の空気の中でゆらゆらと揺れる。


 琥珀は少しずつ息を吹きかけてから、


 こく。


 と一口。


「……ほぉ……」


 喉を通った温かさが、そのまま身体の中へ落ちていくようだった。


「美味しい?」


「お水なのに、なんか美味しい」


「寒い朝だから余計にじゃろ」


「うん」


 琥珀は白湯の器を両手で包んだまま、キャンプ地を見回した。


 朝日。


 小川。


 馬力車。


 そして。


「あっ」


 視線が止まる。


 昨日張ったテント。


 その布の上に、小さな水滴がいくつも残っていた。


 朝露。


 そして、その中に。


 ラファお姉ちゃんが昨日縫い付けた、小さな花型のアップリケ。


「朝露……」


 琥珀の耳が、ぴんっと立つ。


 昨日ベルグから教えてもらったことが、頭の中へ戻ってきた。


「あっ! 拭かなきゃ!」


 白湯を持ったまま立ち上がりかける。


「待て待て」


「えっ?」


「今はまだええ」


 ベルグは火のそばから、テントの方へちらりと目を向ける。


「でも、昨日ベルグじいが、濡れたまま片づけちゃだめって――」


「覚えとったのはええことじゃ」


 ベルグは頷いた。


「じゃが、まだ朝は冷えとる。日も上がりきっとらん」


「うん……」


「もう少し日が昇って暖こうなってからでええ」


 そして、琥珀の手の中にある器を指さした。


「まずは自分の体をあっためい」


「…………」


 琥珀は白湯を見る。


 それから、朝露のついたテントを見る。


 もう一度、白湯。


「……はーい」


 素直に腰を下ろした。


「ふふ」


「だって、忘れてなかったもん」


「うん。ちゃんと覚えてたね」


 ラファお姉ちゃんの言葉に、琥珀のしっぽが、


 ふりっ。


 と小さく揺れる。


 朝日は、少しずつ高くなっていく。


 急ぐ必要はない。


 小川の音を聞きながら。


 琥珀はもう一口、温かな白湯を飲んだ。


 ちちち……。


 ちゅん。


 少し離れた枝から、また別の小さな声が返ってくる。


 小鳥たちの朝の歌声に、小川をさらさらと流れる水の音が重なっていた。


 その間を、葉を揺らす朝の風が静かに抜けていく。


 街では聞くことのない、柔らかな朝の音色だった。


 琥珀は白湯の器を両手で包んだまま、そっと目を閉じた。


「…………」


 右の耳が、


 ぴくっ。


 左の耳も、


 ぴく、ぴくっ。


 近くの枝から聞こえる高い声。


 少し遠くから返ってくる別の鳥のさえずり。


 その下を流れ続ける小川の音。


 どれか一つだけではない。


 いくつもの音が重なって、それでも不思議とうるさくはなかった。


「……なんか、落ち着く」


「気持ちいい朝だね」


「うん」


 琥珀は目を閉じたまま、もう少しだけその音に耳を傾けた。


 風月の鐘亭で迎える朝なら、先に聞こえてくるのは街を歩く人の足音。


 店の戸が開く音。


 遠くから聞こえる声。


 どこかで始まる朝の仕事。


 それも、琥珀の好きな朝だった。


 けれど。


 ここで聞こえてくるのは、


 鳥の歌声。


 水の流れる音。


 葉を抜ける風。


「街の朝と、全然違うね」


「そうだね。でも、どっちも朝なんだね」


「……うん」


 琥珀はゆっくりと目を開けた。


 木々の向こう。


 朝の光が、さっきより少しだけ強くなっている。


 最初は葉と葉の隙間から細く差し込んでいただけだった光が、ゆっくりと枝の間を抜けていく。


 一本。


 また一本。


 淡い光の筋が、草地へ伸びていった。


 その光が朝露へ触れる。


 きらっ。


「わぁ……」


 一粒だけではない。


 草の先。


 低い葉の上。


 テントの張り綱。


 あちらこちらに残っていた小さな水滴が、次々に光を返し始める。


 風が吹くたび、


 きら。


 きらきら。


 草地のあちこちで、小さな光が揺れた。


「綺麗……」


「うん」


 琥珀はもう一度、白湯を一口飲んだ。


 手のひらから伝わる温かさ。


 身体の中へ落ちていく温かさ。


 そして、少しずつ広がっていく朝の光。


 昨日まで知らなかった場所が、目の前でゆっくりと朝へ変わっていく。


 太陽そのものは、まだ枝や葉の向こうに隠れている。


 けれど、その場所だけ空が明るい。


 やがて。


 葉の隙間から、


 ふわっ。


 ひときわ強い光がこぼれた。


「……あ」


 光が草地を滑るように伸びていく。


 その先。


 小川の水面へ届いた瞬間。


 きらきらっ。


 流れる水が、一斉に朝の光を返した。


「ラファお姉ちゃん、見て!」


「うん。見てるよ」


「昨日と同じ川なのに、全然違う!」


「夜と朝で、こんなに変わるんだね」


 昨夜は二つの月と星を映していた小川。


 いまは朝の光を受けて、細かな輝きを運んでいる。


 どちらも同じ場所。


 それなのに。


 琥珀には、まるで別の景色のように見えた。


「……旅って、こういうのもあるんだね」


「うん」


 ラファお姉ちゃんは、それ以上何も言わなかった。


 二人で少しだけ、その朝を眺める。


 小鳥たちの歌声は、まだ続いていた。


 その声に混じって、小川も変わらず流れている。


 けれど。


 草の上にあった水滴は、一つ、また一つと小さくなり。


 冷たかった朝の空気も、少しずつ柔らかくなっていった。


 琥珀は白湯の器を両手で包んだまま、自分の頬へ片手を当てた。


「……あれ?」


「どうしたの?」


「さっきより、寒くない」


 テントから出たばかりの時には、思わず肩をすくめた朝の空気。


 それが今は、頬に触れても冷たいというより、少し気持ちよく感じる。


「日が当たり始めたからね」


「それと、白湯も飲んだからじゃろ」


「あ、ベルグじい」


 火のそばにいたベルグが立ち上がった。


 空を見上げ。


 次に草地。


 そして、朝露の残るテントへ目を向ける。


「ふむ」


「なに?」


「そろそろええじゃろ」


「……あっ!」


 琥珀の猫耳が、


 ぴんっ。


 と立った。


「テント!」


「そうじゃ」


 琥珀は慌てて立ち上がりかけて――。


 手の中の器を見る。


「…………」


「先にそれを置いてきた方がいいよ」


「うん!」


 今度はちゃんと器を両手で持ったまま、火のそばへ。


 安全な場所へ置いてから、琥珀はテントの方へ戻ってきた。


「よしっ」


 荷物の中から布きれを一枚取り出す。


「昨日教えてもらったから、今日はちゃんとやる!」


「覚えとったのはええが、慌てるでないぞ」


「大丈夫!」


 そう答えた琥珀のしっぽは、もうやる気満々に揺れていた。


 まず目に入ったのは。


 昨日、ラファお姉ちゃんが縫い付けてくれた小さな花。


 花型のアップリケの上に、朝露が一粒。


 光を受けて、小さく輝いている。


「あ……」


 琥珀は少しだけ動きを止めた。


 それから布きれを当てて、


 そっ。


 水滴を吸い取る。


「昨日より、ちょっとだけ大事にできてるかな」


「昨日知ったばかりなんだから、それで十分だよ」


「えへへ」


 琥珀は嬉しそうに笑うと、そのままテントを拭き始めた。


 朝露の残っているところを見つけては、


 さっ。


 さっ。


 布きれを滑らせていく。


「ここも……」


 張り綱の近く。


「こっちも……」


 布が少したるんでいるところ。


 一つずつ確認しながら、昨日よりは丁寧に。


 やがて。


「よし!」


 琥珀は満足そうに腰へ手を当てた。


「これでもう畳め――」


「まだじゃ」


「ええっ!?」


 琥珀の猫耳が、


 ぺたん。


 と横へ倒れる。


「ちゃんと拭いたよ!?」


「見えるところはな」


「……見えるところ?」


 ベルグが杖の先ではなく、自分の指でテントの裾を示した。


「下を見てみい」


 琥珀はしゃがみ込む。


「下……?」


 テントの裾を少し持ち上げて。


「あ」


 地面に近い側。


 表から見ただけでは乾いているように見えた布の裏に、まだ少し湿り気が残っていた。


「まだ濡れてる……」


「地面に近いところほど、湿りは残りやすいからの」


「じゃあ、ここも拭く!」


「うむ。それから少し日に当てておけばええ」


「拭いたら、すぐ畳んじゃだめ?」


「まだ湿っとるならな」


「むむ……」


 琥珀はテントを見上げる。


「テントって、泊まる時より帰る時の方が大変なんだね」


「使ったあとに手が掛かる道具なんぞ、いくらでもあるわい」


「鍛冶道具も?」


「もちろんじゃ」


「へぇ……」


 琥珀はもう一度しゃがみ込み、今度は下側まで布きれを当てていく。


 昨日なら。


 使い終われば、そのまま畳んで袋へ入れていた。


 けれど今は。


 触って。


 見て。


 湿っている場所を確かめる。


「……ここも」


 さっ。


 もう一か所。


「こっちも」


 さっ。


 その少し向こうでは。


 絵描きさんが、自分の一人用テントを片づけていた。


 布を広げたまま、まず状態を確かめる。


 湿っているところがないかを見る。


 それから張り綱を外し。


 支柱を抜き。


 まとめていく。


 一つ一つの動きに、ほとんど迷いがない。


「……早い」


 絵描きさんが顔を上げた。


「一人用ですから」


「でも、昨日もすぐだったよね」


「旅が長いと、こういうことだけは早くなります」


「わたしも、そのうちあんなふうにできるかなぁ」


「なるんじゃねえか?」


「ロクス?」


 馬力車の方から、ロクスが歩いてきた。


 肩を一度回してから、琥珀の手元を見る。


「昨日教わって、今日もう自分でやってんだろ」


「うん!」


「だったら、そのうち慣れるさ」


「ほんと?」


「俺に聞くなよ。テントはベルグの方が詳しいだろ」


「なんじゃ。言い出したのはおぬしじゃろ」


「慣れるって話だよ!」


「ふふっ」


「えへへ」


 朝の草地に、小さな笑い声が重なった。


 その間にも。


 陽の光は少しずつ広がっていく。


 テントの布へも、今では柔らかな朝日が当たっていた。


 琥珀が拭いた場所から。


 少しずつ。


 湿り気が抜けていく。


「これなら、もう少し待てば畳めそうだね」


「うん!」


 琥珀は頷いてから、ふと自分の足元を見る。


「……あれ?」


 テントの下。


 昨日、ベルグがほぐして薄く広げてくれた藁。


 その藁にも朝の光が差し込んでいた。


「そういえば、この藁はどうするの?」


「それも片すぞ」


「一緒に持って帰る?」


「いや」


 ベルグは、昨夜から使っている焚き火へ目を向けた。


 朝の光の中で。


 小さな炎が、


 ぱち。


 と音を立てる。


「こいつは最後に、火へ返してやる」


「火に?」


「そうじゃ」


 琥珀も焚き火へ目を向けた。


 昨夜、みんなを温めてくれた火。


 今朝は白湯を温め、水を煮沸している火。


 その小さな炎が、


 ぱち、ぱち。


 と静かに揺れていた。


 ぱち。


 ぱち、ぱち。


 小さな炎が朝の空気の中で揺れている。


 琥珀はテントの下から、昨日敷いた藁を少しずつ集めていた。


「これ、全部入れていいの?」


「一気に入れるでないぞ」


「一気に?」


「火が大きゅうなりすぎる」


「あ、そっか」


 琥珀は抱えていた藁を見下ろした。


 それから、ほんの少しだけ。


 ぱら。


 ぱらぱら。


 火の上へ落とす。


 乾いた藁は、


 ふわっ。


 と一瞬だけ明るくなり。


 すぐに細い炎へ変わった。


「わぁ……」


「近づきすぎるでないぞ」


「うん!」


 琥珀は一歩下がる。


 ベルグは火の様子を見ながら、次に入れる量を指で示した。


「それくらいでええ」


「これくらい?」


「そうじゃ」


 琥珀はまた少しだけ藁を加える。


 ぱち。


 小さな火の粉が上がった。


「昨日、下に敷いてた藁が、最後は火になるんだね」


「使えるところまで使えばええ」


「全部終わったら、捨てるんじゃないんだ」


「灰になれば、また別の使い道もある」


「へぇ……」


 琥珀は火を見つめた。


 けれど、ベルグはすぐに手を振る。


「火の前にずっとおる必要はない」


「え?」


「燃えるには時間が掛かる。待っとる間に、できることをやるんじゃ」


「あ……」


 琥珀は周囲を見る。


 乾かしている途中のテント。


 火のそばに置かれた鍋。


 馬力車。


 朝食の準備。


「旅って、ずっと何か待ちながらなんだね」


「急ぐ旅でないなら、待つのも仕事のうちじゃ」


「うん」


 琥珀は頷いた。


 しばらくすると。


 火のそばへ、今度はフライパンが置かれた。


「今日はこれで朝ごはん?」


「そうしようと思ってるよ」


 ラファお姉ちゃんが、旅用に持ってきた食材を少しずつ並べる。


 豪華なものではない。


 旅の途中でも扱いやすい、簡単なもの。


 フライパンの上で、


 じゅう……。


 と小さな音がした。


「あっ」


 香りがふわっと広がる。


「朝の香りがしてきた」


「さっきまでは森の朝だったけど、今度は私たちの朝だね」


「うん!」


 小鳥の歌声。


 小川の音。


 葉を抜ける風。


 そこへ、


 じゅう……。


 ぱち、ぱち。


 人の暮らしの音が少しずつ混じっていく。


「なんか、いいね」


「何がだ?」


「朝が、みんなの音になってく感じ」


「よく分からねえけど、腹は減った」


「ロクスらしい……」


「悪いか」


「悪くないよ」


「ならいい」


「ふふ」


 ベルグも小さく笑った。


 朝食を食べ終えるころには。


 さっきよりも日が高くなっていた。


 火も少しずつ落ち着いている。


 テントの布も、かなり乾いてきていた。


「ごちそうさまでした」


 琥珀は満足そうに手を合わせる。


 その隣で。


 ベルグが使い終わったフライパンを手に取った。


「洗うの?」


「いや」


「え?」


 ベルグは少し離れたところから、乾いた細かな砂をほんの少し取ってくる。


「砂?」


「そうじゃ」


「フライパンに入れるの?」


「少しだけな」


 乾いた砂を薄く入れる。


 それから布で、


 ざっ。


 ざっ。


 とこする。


 フライパンに残っていた汚れが少しずつ取れていく。


「お水、使わないんだ」


「水を使わんでも落とせるなら、そっちの方がええ」


「でも、砂が残らない?」


「だから最後にきちんと拭く」


 ざっ。


 ざっ。


 汚れを落とし。


 砂を払い。


 乾いた布で何度も拭く。


「旅では、水も大事だからね」


「そっか……」


 琥珀は水袋を見る。


「飲むためにもいるもんね」


「そういうことじゃ」


 ベルグはフライパンの内側を確認する。


 残った砂がないことを見て。


 今度は火のそばへ少し近づける。


「最後は乾かす?」


「うむ」


「それで終わり?」


「道具によっては、薄く油を馴染ませてからしまう」


「テントもフライパンも、使ったあとが大事なんだね」


「使いっぱなしにすれば、次に困るのは自分じゃ」


「なるほど……」


 琥珀は感心したように頷いた。


 その少し向こうでは。


 ラファお姉ちゃんが鍋の様子を確認していた。


 朝から煮沸していた小川の水。


 今は火から下ろされ、少しずつ冷まされている。


「もう水袋に入れる?」


「まだ」


「まだ?」


「熱いまま入れない方がいいから、ちゃんと冷めてからね」


「あ、そっか」


「急がなくて大丈夫。まだ片づけるものもあるし」


「うん」


 琥珀は笑った。


 急がない。


 待っている間に。


 別のことをする。


 それが、旅の朝なのかもしれなかった。


 やがて。


 藁を燃やしていた火も、ほとんど小さくなった。


 ベルグは灰を棒で軽く崩しながら、中に赤い部分が残っていないか確かめる。


「もう消えた?」


「見た目だけでは決めん」


「触るの?」


「いきなり触る馬鹿がおるか」


「しないよ!」


 ベルグは灰の近くへ手を寄せる。


 熱が残っていないか。


 さらに棒で奥を確認する。


「まだ少し温い」


「じゃあ、まだ待つんだ」


「そうじゃ」


「……待つのも仕事」


「覚えたか」


「うん!」


 その間に。


 乾いたテントを畳み。


 支柱をまとめ。


 張り綱を確認し。


 絵描きさんの道具。


 釣竿。


 楽器。


 それぞれを荷物へ戻していく。


 もう一度、火の跡へ戻ったころ。


 灰はすっかり冷えていた。


 ベルグがもう一度確認する。


「今度はええ」


「これ、どうするの?」


「薄う土へ返してやる」


「土に?」


「撒きすぎはよくない。ほんの少しでええ」


 琥珀は灰を見下ろした。


「ここから、また何か生える?」


「すぐには何も起きん」


「そっか」


「雨が降って、日が照って。種があれば芽が出ることもあるじゃろう」


「時間がかかるんだね」


「自然はそういうもんじゃ」


 琥珀は小さく頷いた。


 それから。


 冷えた灰を、ごく薄く。


 土の上へ返していく。


 ぱら。


 ぱらぱら。


 何かが起こることはない。


 急に芽が出ることも。


 草が伸びることもない。


 ただ。


 使い終わったものが、静かに土へ戻っていく。


 その時だった。


「……あ」


 琥珀の猫耳が、


 ぴくり。


 と動いた。


 風とは少し違う。


 音とも違う。


 目には見えないけれど。


 灰を返した土のあたりから、


 ふわり。


 ほんのわずかに、マナの流れが揺れたような気がした。


「…………」


 琥珀は静かに、その場所を見つめる。


 強い流れではない。


 何かが起きたと言い切れるほどのものでもない。


 けれど。


 土の奥から、ほんの小さなものが返ってきたような。


 そんな感覚だけがあった。


「……なんか、大地がお返事してくれたみたい♪」


「お返事?」


「うん。そんな感じがしただけだけど」


 ラファお姉ちゃんも、灰を返した場所へ視線を落とす。


 土は土のまま。


 草も、朝の光を受けて揺れているだけ。


 目に見える変化は、何もなかった。


「……また来た時、何か変わってたらいいね」


「どうじゃろうな」


「でも、ちょっと楽しみ」


「ふふ」


 朝の風が、灰を撒いた草地の上を静かに通り抜けた。


 やがて。


 水も十分に冷めた。


 ラファお姉ちゃんが水袋へ補充する。


 荷物も少しずつ馬力車へ戻っていく。


 ロクスはその横で、肩を回した。


 ぐるっ。


 ぐるっ。


「さて」


「次は馬力車?」


「俺も含めてな」


 ベルグも立ち上がり、馬力車の足回りへ目を向ける。


「出る前に、一度見ておくぞ」


「うん!」


 琥珀も馬力車の方へ歩き出した。


 馬力車のそばへ来ると。


 ロクスは、すぐに車体へ手を伸ばさなかった。


「…………」


「ロクス?」


 ロクスは馬力車を見上げる。


 昨日。


 街道から土道へ。


 草の上へ。


 小川のそばまで。


 ずっと自分が引いてきた馬力車。


 そして昨夜は。


 その大きくなった荷台の上で、ベルグと一緒に眠った。


「どうしたの?」


「いや……ちょっとな」


 ロクスは小さく笑う。


 それから、荷台の縁へ手を置いた。


「昨日、ここで寝てた時によ」


「うん?」


「寝る前に、こいつに言ったんだよ」


「馬力車に?」


「ああ」


 ロクスは荷台を軽く、


 ぽん。


 と叩く。


「“明日もよろしくな”ってな」


「ふふ」


「それで?」


「そのあとだったかな」


 ロクスは少し思い出すように目を細めた。


「きん……って鳴ったんだ」


「きん?」


「ああ。金具かどっかが鳴っただけかもしれねえけどな」


 琥珀の猫耳が、


 ぴくっ。


「お返事してくれたみたいだった?」


「……まあな」


 ロクスは照れくさそうに鼻の下を擦る。


「ははは。俺も疲れてたから、そう聞こえただけかもしれねえ」


「でも、ちょっと嬉しかったんでしょ?」


「うるせえ」


「やっぱり!」


「だからうるせえって!」


 琥珀が笑う。


 ラファお姉ちゃんも、隣で小さく笑った。


 ロクスは少しだけ困った顔をしたあと。


 もう一度、馬力車へ目を向けた。


「……昨日も一日、こいつに付き合ってもらったからな」


 荷台から。


 足回りへ。


 ゆっくりと視線を落としていく。


「だったら、こういうのも一つ一つちゃんと見てやらねえとな」


 ロクスはそう言って、


「ははは」


 と笑った。


 ベルグも隣へやってくる。


「ようやく道具を見る目が少し変わってきたか」


「なんだよ、その言い方」


「そのままじゃ」


「俺だって前から見てるっての」


「なら、今日はもっとよう見い」


「分かってるよ」


 言いながら。


 ロクスはまず肩を入れる部分へ手を伸ばした。


 留め具。


 紐。


 身体へ当たる位置。


 一つずつ。


 昨日の状態と比べるように、指で触れていく。


「そこはどう?」


「昨日と変わってねえ」


 次に腰側。


 ロクスは自分の身体を少しひねる。


「……ん」


「痛い?」


「痛いってほどじゃねえ」


 腰をもう一度。


 ゆっくり。


 左右へ。


「昨日の返りが、少し残ってる感じはする」


「やっぱり完全には消えとらんな」


「ああ」


 ロクスは頷く。


「でも、前のよりずっとましだ」


「なら、その“まし”がどこまで続くかを見るんじゃ」


「分かってる」


 ベルグは今度は足回りへしゃがみ込む。


 板バネ。


 固定部。


 留め具。


 昨日、土道や草地を走ったことで緩みが出ていないか。


 一つずつ確認していく。


「板バネさんは?」


「見たところ問題はなさそうじゃ」


「じゃあ、今日もちゃんと揺れの角を丸めてくれそうだね」


「うむ。じゃが、路面が変われば揺れ方も変わる。そこは忘れるでないぞ」


「うん!」


 その隣では。


 ロクスが駆動の子の位置を確かめていた。


 手で触れ。


 少し押し。


 動きに引っかかりがないかを見る。


「こっちも変な感じはしねえな」


「歩き出しと止まりでも、また見るぞ」


「ああ」


 そして。


 停車中の踏み台。


 昨日から出たままの状態で、車輪を固定している。


 琥珀はその前へしゃがみ込んだ。


「踏み台のロック……」


 手を掛け。


 ぐっ。


 動かないことを確かめる。


 次に車輪を見る。


「車輪固定も、よし!」


「自分で考えたところじゃ。そこはよう見とけ」


「もちろん!」


 琥珀は踏み台へ足を乗せる。


 ぐっ。


 少し体重を掛ける。


 馬力車は動かない。


「うん。大丈夫」


「なら荷物を戻すぞ」


「はーい!」


 琥珀が先に踏み台へ足を掛けた。


 一段。


 もう一段。


 荷台へ上がる。


「上いいよ!」


「じゃあ、渡すね」


「うん!」


 下にいるラファお姉ちゃんから。


 水袋。


 畳んだテント。


 支柱。


 張り綱。


 布きれ。


 釣竿。


 一つずつ。


「はい」


「よいしょ」


 琥珀が受け取って、荷台へ置いていく。


「次、絵描きさんの荷物だよ」


「お願いします」


「はーい!」


 画材。


 楽器。


 旅道具。


 それぞれを受け取る。


 荷物が上がり終えると。


 今度は絵描きさんが踏み台の前へ立った。


「足元、気をつけてくださいね」


「はい」


 一段目へ足を掛ける。


 下にはラファお姉ちゃん。


 上には琥珀。


 琥珀は、


 すっ。


 と手を差し出した。


「どうぞ!」


 絵描きさんが少し目を丸くする。


 それから。


「ありがとうございます」


 琥珀の手を取った。


 一段。


 もう一段。


 荷台へ上がる。


「大丈夫ですか?」


「ええ。助かりました」


「えへへ」


 次はベルグ。


「ベルグじいも手いる?」


「わしは一人でええ」


「ほんとに?」


「まだそこまで老いぼれとらんわい」


「でも、気をつけてね!」


「分かっとる」


 ベルグも踏み台を使って荷台へ上がった。


 そこから荷物を一つずつ固定していく。


「こっちは締めすぎるな」


「これくらい?」


「もう少しじゃ」


「こう?」


「うむ。それでええ」


 下からラファお姉ちゃんも位置を見る。


「その包み、もう少し内側に寄せた方がよさそう」


「こっち?」


「うん。そこなら動きにくいと思う」


「よしっ」


 絵描きさんも、自分の画材と楽器を確かめる。


「こちらも大丈夫です」


 一通り固定し終えると。


 ベルグがキャンプ地へ目を向けた。


「忘れ物はないな?」


「ない!」


「ほんとか?」


「たぶん!」


「たぶんじゃ困るだろ!」


「あっ」


「もう一回見てこい」


「はーい!」


 琥珀は荷台の端へ近づく。


 下ではラファお姉ちゃんが待っていた。


 けれど。


 琥珀は慌てて飛び降りない。


 まず踏み台を見る。


 出たまま。


 ロックもそのまま効いている。


 足を置く場所を確認して。


「よし」


「ゆっくりでいいよ」


「うん」


 一段。


 もう一段。


 踏み台を使って、地面へ降りる。


 そのままキャンプ地をもう一度見て回った。


 テントを張っていた場所。


 白湯を飲んだ場所。


 焚き火跡。


 灰を薄く返した草地。


 昨日、釣竿を持って座っていた小川のそば。


「……うん」


 何も残っていない。


 琥珀はそこで、少しだけ立ち止まった。


 小川。


 草地。


 黒ずんだ石の焚き火跡。


 昨日とは違って。


 もうテントもない。


 荷物もない。


 来た時に近い景色へ戻っている。


「…………」


「琥珀ちゃん?」


「ううん」


 琥珀は小さく首を振った。


「なんか……昨日はここでいっぱい遊んだなって」


「そうだね」


「釣りもしたし」


「うん」


「星も見たし」


「うん」


 琥珀は小川を見る。


 朝の光を受けて。


 水面がきらきらと揺れている。


「……また来たいね」


「うん。また来よう」


「ほんと?」


「帰り道で、また通れるかもしれないしね」


「あっ」


 琥珀の耳が、


 ぴんっ。


 と立つ。


「じゃあ、その時に大地のお返事も見られるかな」


「どうかな」


「楽しみにしてよっと」


 琥珀は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、戻ろうか」


「うん!」


 二人で馬力車へ戻る。


 琥珀はもう一度、踏み台の状態を目で確認した。


 そのまま一段。


 もう一段。


 先に荷台へ上がる。


 そして振り返った。


 最後に残ったラファお姉ちゃんが、踏み台へ足を掛ける。


「ラファお姉ちゃん!」


 琥珀は荷台の上から、


 ぱっと笑って。


 手を差し出した。


「はい」


 ラファお姉ちゃんも笑う。


 その手を取る。


 一段。


 もう一段。


 琥珀は少しだけ身体を引いて、ラファお姉ちゃんが上がるのを手伝った。


「えへへ」


「ありがとう、琥珀ちゃん」


「どういたしまして!」


 全員が荷台へ上がった。


 けれど、まだ出発ではない。


「あ、椅子!」


 琥珀は荷台の床へ目を落とす。


 昨夜。


 みんなで星を見るために広く空けていた荷台。


 その床には、琥珀とラファお姉ちゃんが座る二人掛けの座席が折り畳まれて収まっている。


「出すね!」


 琥珀は座席の背もたれ部分へ手を掛けた。


 ぐっ。


 と持ち上げる。


 背もたれが起きるのに合わせて。


 収納されていた座面が、


 すっ。


 と前へ開いていく。


「おお」


「何度見ても面白えな、それ」


「でしょ?」


 最後まで開くと。


 かちん。


 固定具が噛み合った。


 琥珀はすぐに座ることはせず。


 まず背もたれを、


 ぐっ。


 座面も、


 ぐっ。


 と押して確認する。


「座席固定、よし!」


「そこもちゃんと見るんじゃぞ」


「うん!」


「ラファお姉ちゃん、座ろ!」


「うん」


 二人は並んで腰を下ろす。


 琥珀は一度座面へ体重を預け。


 ラファお姉ちゃんも背もたれの状態を確かめる。


「大丈夫そうだね」


「うん!」


 ベルグも荷物の固定をもう一度見る。


 絵描きさんも自分の位置へ。


 全員が出発できる状態になったところで。


 ロクスが振り返る。


「いいか?」


「いいよ!」


「こっちも大丈夫」


「わしもええぞ」


「大丈夫です」


 琥珀は踏み台へ視線を落とした。


「じゃあ、踏み台しまうね」


「おう」


 踏み台を収納する。


 ことん。


 かちん。


 所定の位置へ収まった。


 それと同時に。


 停車中に効いていた車輪固定も解除される。


「踏み台収納、車輪固定解除。よし!」


「ちゃんと覚えとるな」


「わたしが考えたんだもん!」


「そうじゃったな」


「えへへ」


 ロクスは一度だけ。


 馬力車を振り返った。


「じゃあ、今日もよろしくな」


 少しだけ間があった。


「…………」


 けれど。


 今度は何も鳴らない。


「……今日は返事しないね」


「毎回答えるわけねえだろ」


「ふふっ」


「ほら、行くぞ」


「うん!」


 ロクスが一歩を踏み出す。


 駆動の子が、


 こと。


 と動く。


 車輪が、


 ころ。


 ころころ。


 と回り始める。


 キャンプ地が。


 小川が。


 星を見た場所が。


 少しずつ後ろへ遠ざかっていく。


 琥珀は二人掛けの座席から、もう一度だけ振り返った。


「またね」


 朝の風が。


 草地を静かに揺らした。


 そして五人は。


 もう一度。


 リノちゃんのところへ向けて、旅を始めた。


 小川の音が、少しずつ遠ざかっていく。


 草地に残った焚き火跡も。


 朝の光を受ける小さな水面も。


 馬力車の車輪の音の向こうへ、ゆっくりと離れていった。


 その頃。


 人の気配のない暗い空間で。


 低い駆動音だけが、絶えず響いていた。


 ごう……。


 ごう……。


 壁の一部には、まだ光の戻っていない場所がある。


 かろうじて点いている照明も、


 じ……。


 じじっ。


 と、時折わずかに明滅した。


 その中央。


 いくつもの表示が浮かぶ前に。


 観測者は立っていた。


「…………」


 一つの記録が再生されている。


 映っているのは。


 夜。


 大きくなった馬力車の荷台。


 そこへ敷かれた、大きな敷物。


 そして。


 琥珀。


 ラファ。


 ロクス。


 ベルグ。


 視界の端には、それぞれの姿が見える。


 低い位置から見上げる夜空。


 二つの月。


 その間を埋めるように広がる、無数の星。


 記録の中で。


「ただ、いいなぁって思って」


 琥珀の声。


「そっか」


 それに返す、ラファの声。


 その後ろでは。


 ロクスとベルグが、また何かを言い合っている。


 小川の音。


 遠くで残る、焚き火の音。


 けれど。


 この視界の主は。


 何も描いていない。


 画板も。


 鉛筆も。


 視界の中にはない。


 ただ。


 同じ場所に横になり。


 同じ空を見上げている。


「…………」


 観測者は、その記録を止めなかった。


 視界が。


 ゆっくりと夜空へ向く。


 青の月。


 白の月。


 そして。


 その向こう。


 数えきれない星。


「…………星」


 小さな声だった。


 記録の解析結果を読み上げたものではない。


 問いでもない。


 ただ。


 その一言だけが、静かな施設へ落ちた。


 観測者の視線は、星空の記録から動かなかった。


 何かを探しているわけでもない。


 位置を測っているわけでもない。


 それなのに。


 ほんの少しだけ。


 長く。


 星を見ていた。


 その時。


 ざっ――。


「…………」


 記録が乱れた。


 星空が歪む。


 白い線が走り。


 映像の一部が欠ける。


 じじっ。


 ざ……。


 もう一度。


 映像が戻りかける。


 夜空。


 二つの月。


 星。


 そこまで。


 ぷつっ。


 記録は途切れた。


「…………」


 表示には、


 接続途絶。


 観測不安定。


 欠損記録。


 いくつもの文字が並ぶ。


 観測者は、しばらく何も言わなかった。


 その先に。


 何があったのか。


 記録には残っていない。


 施設の奥で。


 ごう……。


 低い音が一度、大きくなる。


 別の表示が、


 ぴっ。


 と赤く明滅した。


「…………まだ」


 観測者が、そちらへ視線を向ける。


 完全には戻っていない。


 途切れる経路。


 安定しない供給。


 届かない観測。


 それでも。


 もう一度。


 視線が先ほどの記録へ戻った。


 停止した画面。


 そこには。


 流れ星の現れる前の。


 ただ静かな星空だけが残っていた。


「…………」


 観測者は。


 もう一度だけ。


 その星を見つめた。


 何を思ったのか。


 言葉にはならなかった。


 ただ。


 不安定な施設の中で。


 星だけが。


 静かに、記録の向こうで輝いていた。

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