第62話
「ふぅ〜……」
琥珀は小川から岸へ上がった。
素足から水が落ち、濡れたロングスカートの裾が脚へ少し張りついている。
「結構濡れちゃったね」
「うん……」
琥珀は自分の膝下を見下ろした。
そして。
ぶるぶるっ。
「わっ」
琥珀が、肩から身体を軽く震わせた。
耳も一緒にぱたぱた。
しっぽも、ぶるん。
「……あれ?」
本人も、どうしてそんなことをしたのか分かっていないようだった。
ラファお姉ちゃんが、思わず口元を緩める。
「ふふっ」
「な、なに?」
「ううん。なんでもないよ」
「もう……」
琥珀は少し頬を膨らませる。
そのまま濡れた手へ目を落とした。
手の甲に残った水。
指先へ流れてきた雫。
琥珀の耳が、ぴくっと動く。
そして――
ぺろ。
「琥珀ちゃん、ストップ!」
「ひゃっ!?」
舌を出しかけた琥珀が、そのまま固まった。
「……だめ?」
「だめ」
ラファお姉ちゃんは琥珀のそばへ来ると、濡れた手をそっと下ろさせた。
「川のお水、すごく綺麗に見えたでしょ?」
「うん。下の石まで見えたよ」
「でもね。見た目が綺麗なのと、そのまま飲んだり舐めたりして大丈夫なのは別なんだよ」
「別……」
「うん。目では見えないものが混じってることもあるからね」
琥珀は自分の濡れた手を、もう一度見る。
「じゃあ、綺麗そうだからって、すぐぺろってしちゃだめなんだ」
「そういうこと」
「……はーい」
琥珀は少しだけ名残惜しそうに舌をしまった。
「猫っぽくなってきたのは分かるけど、何でも舐めなくていいからね」
「わ、わざとじゃないもん!」
「ふふっ。分かってるよ」
琥珀の耳が少し横へ倒れる。
けれど、怒っているわけではない。
自分でも知らないうちにしていたことが、少し恥ずかしかっただけだった。
その時。
ぱちっ。
「ん?」
小さな音が、少し離れたところから聞こえた。
琥珀が振り向く。
炭鉱夫たちが以前使ったらしい、黒ずんだ石のそば。
そこにベルグがしゃがみ込んでいた。
「ベルグじい?」
ベルグの前には、荷物から取り出した小さな道具が並んでいる。
乾いた細い枝。
ほぐした火口。
そして、手のひらほどの金属片と、小さな硬い石。
ベルグはまず、黒ずんだ石の周囲へ目を走らせた。
近くの枯れ草を少し退ける。
風の向きも確認する。
「……よし」
それから金属片を片手に持つ。
もう片方の手には、硬い石。
かちっ。
細かな火花が飛んだ。
「わっ」
かちっ。
もう一度。
火花が、ほぐした火口へ落ちる。
小さく煙が上がった。
ベルグは慌てない。
火口を包むようにして、ふっと息を送る。
赤い点が少しずつ広がっていく。
そこへ細い枝を数本。
ぱち。
ぱちぱち。
やがて、小さな炎が立ち上がった。
「ついた!」
「そりゃつくわい」
「今ので火つけたの?」
「そうじゃ。火を扱うなら、道具も場所も先に見ておくもんじゃ」
ベルグはそう言いながら、炎の様子を見て少し太めの枝を足していく。
火は大きくしすぎない。
黒ずんだ石の内側で、ぱちぱちと静かに燃え始めた。
「ベルグじい、慣れてるね」
「鍛冶屋が火に慣れとらんでどうする」
「あ、そっか」
琥珀が納得したように頷く。
その横で。
「おい」
少し濡れた顔を手で拭いながら、ロクスが焚き火を見た。
「火ぃ起こす前にテントだろ」
「女性が濡れたままの方がいかんじゃろ」
「…………」
ベルグは当然のように答えた。
「一旦、火で温まっておれ」
「うん!」
「ありがとうございます、ベルグさん」
「で、ロクス」
「なんだよ」
「わしらはテントを張るぞ」
「待て待て待て」
ロクスが自分の身体を指差す。
「俺も濡れてるんだぞ!」
ぽふっ。
「ぶっ」
ベルグが投げた布が、ロクスの顔へ乗った。
「それで拭けばよかろ」
「俺は親切に扱われねえのか~~!」
「あはははっ!」
琥珀の耳が楽しそうに立つ。
ラファお姉ちゃんも口元を押さえて笑っていた。
「ほれ」
ベルグはさらに布を二枚取り出す。
一枚を琥珀へ。
もう一枚をラファお姉ちゃんへ。
「琥珀もラファも、とりあえずこれで軽く拭いとれ」
「はーい」
「ありがとうございます」
琥珀は受け取った布で、まず濡れた脚を拭く。
それから、ロングスカートの裾を軽く押さえた。
「うーん……やっぱり結構濡れてる」
「テントが張れたら、琥珀ちゃんは着替えようね」
「うん」
「ラファお姉ちゃんは?」
「私はこれくらいなら大丈夫だよ」
ラファお姉ちゃんは長い髪を布で挟み、軽く水気を取っていく。
「髪と濡れたところを拭けば平気」
「そっか」
焚き火の炎が、ぱちぱちと揺れる。
濡れた身体へ、じんわりと暖かさが届き始めた。
「よし、行くぞロクス」
「分かったよ」
顔を拭き終えたロクスが、布を肩へかける。
「でも次から俺にも普通に渡せよ」
「考えといてやるわい」
「絶対考える気ねえだろ」
ベルグは、わははと笑いながら荷物の方へ歩いていく。
ロクスもその後を追った。
焚き火のそばには、布で身体を拭きながら暖まる琥珀とラファお姉ちゃん。
その向こうでは、ベルグとロクスがテントを張るための荷物へ手を伸ばしていた。
焚き火の暖かさが、濡れた脚へじんわりと戻ってくる。
琥珀は布でロングスカートの裾を押さえながら、少し離れたところを見た。
「ラファお姉ちゃん」
「なあに?」
「そろそろ手伝いに行こっか」
「うん。身体も少し温まったしね」
ラファお姉ちゃんは、長い髪を挟んでいた布を外した。
まだ少し湿っている。
けれど、さっきより水気はずいぶん減っていた。
「よし」
琥珀が立ち上がる。
濡れた裾が少し重い。
それでも、耳は元気よく前を向いていた。
二人でテントを張る場所へ向かう。
その途中。
「あれ?」
琥珀の足が止まった。
「どうしたの?」
「絵描きさんのテント……」
少し離れた場所。
小川からも、焚き火からも近すぎないところに、小さな一人用テントが立っていた。
張り綱もきちんと伸びている。
入口の向きも整っている。
その横では、絵描きさんが自分の荷物をまとめていた。
「もうできてる……」
「ほんとだね」
「いつの間に!?」
絵描きさんが顔を上げる。
「一人用ですから、すぐですよ」
「すぐって……」
琥珀は自分たちのまだ袋に入ったままのテントを見る。
それから、もう完成している一人用テントを見る。
「……すごい」
絵描きさんは少しだけ笑うと、また荷物を整え始めた。
「旅が長いと、こういうことだけは早くなります」
「なるほど……」
その時。
「琥珀、こっち持て」
「はーい!」
呼ばれて、琥珀はすぐに走りかける。
「琥珀ちゃん、裾」
「あっ」
濡れたロングスカートを見て、慌てて歩幅を小さくした。
「危ない危ない……」
「さっき一回滑ってるんだからね」
「はーい……」
テントを張る予定の場所では、ベルグとロクスが地面を見ていた。
大きめの石。
少し盛り上がった根。
寝た時に背中へ当たりそうなものを、ひとつずつ避けている。
「ここならええじゃろ」
「小川からも離れてるな」
「火からも近すぎん」
ベルグが地面を一度見渡してから頷く。
「琥珀、そこの石をどけてくれ」
「これ?」
「そう。それじゃ寝た時に当たる」
「はーい」
琥珀はしゃがみ込み、手のひらほどの石をひとつ持ち上げる。
「よいしょ」
少し離れたところへ置く。
ラファお姉ちゃんも、小さな石や落ち枝を拾っていく。
「こっちにもあるね」
「ほんとだ」
二人で地面を見ながら、ひとつずつ取り除いていく。
その様子を見ていたベルグが、荷物の中から何かを抱えて戻ってきた。
「ほれ」
「ん?」
琥珀の腕へ、ふわっと軽いものが渡される。
「わっ」
乾いた藁の束だった。
「これ、どうするの?」
「下に敷け」
「テントの下に?」
「そうじゃ」
ベルグは藁束から少しだけ取ると、手でほぐして地面へ広げてみせる。
「地べたへそのまま布を置くより、こいつを薄く敷いた方がええ」
「なんで?」
「地面の冷たさがそのまま上がりにくくなる。小さい凹凸も少しは和らぐ」
「へぇ……」
「それに、布がずっと地面へ直接当たりっぱなしになるよりはましじゃ」
琥珀は腕の中の藁を見た。
「じゃあ、ふかふかにいっぱい敷く?」
「敷きすぎても邪魔じゃ。薄くでええ」
「なるほど」
琥珀はさっそく藁を少しずつほぐした。
ぱら。
ぱらぱら。
「こんな感じ?」
「そうじゃ」
ラファお姉ちゃんも隣で手伝う。
ロクスも端の方へ藁を広げていく。
さっきまで草と土だけだった場所へ、薄い藁の層ができていった。
琥珀は手のひらで軽く押してみる。
「ほんとだ。ちょっと柔らかい」
「夜になれば地面も冷えるからね」
「これなら少し違いそう」
「よし。これでええじゃろ」
ベルグが全体を見て頷く。
「次、広げるぞ」
「うん!」
琥珀は、いそいそとテントの袋へ手を伸ばした。
「これ、グランさんからもらったやつだよね」
「そうだね」
「前に使った時、ちゃんと二人で入ったもんね」
「うん。張るのはちょっと大変だったけどね」
「……あれは大変だったね」
思い出して、琥珀が苦笑する。
片方を押さえれば、反対側がずれる。
支えようとすれば、今度は布が倒れる。
二人で何度も行ったり来たりした。
「今日はもう少し早くできるといいなぁ」
「今日は手が多いからね」
「よし。開けるよ!」
袋の口を開ける。
中から布を引き出す。
ベルグとロクスも端を持つ。
「せーの」
ばさっ。
藁を敷いた地面の上へ、テントの布が広がった。
琥珀のしっぽが嬉しそうに揺れる。
「よし、これを――」
そこで。
「……あれ?」
動きが止まった。
「どうした?」
「ここ……」
琥珀が指差す。
テントの布。
少し目につきやすいところに、小さな穴が開いていた。
「…………」
「穴だな」
「えええっ!?」
琥珀の耳が一気に立つ。
「グランさんからもらったテントに穴がぁ!?」
「落ち着け」
「でも穴!」
「見りゃ分かる」
琥珀は穴のそばへしゃがみ込む。
指で触ろうとして、途中で手を止めた。
「……破れちゃったのかな」
ベルグも隣へしゃがみ込んだ。
穴の周囲。
布の張り。
少しだけ傷んだ部分。
順番に目を通す。
「琥珀よ」
「な、なに?」
「これを片す時に、ちゃんと拭いたか?」
「……拭く?」
琥珀の耳が少し傾く。
「何を?」
「テントじゃ」
「テントを拭くの?」
「そうじゃ」
ベルグは布の端を持ち上げた。
「外で一晩過ごしゃ、朝には露もつく。湿気も残る」
「朝露……」
「それをそのまま畳んで、ずっと袋へ入れっぱなしにしとったら、布は傷みやすくなる」
「じゃあ、この穴も……」
「それだけが原因とは限らん」
ベルグはすぐに言った。
「引っかけたのかもしれんし、擦れたのかもしれん。じゃが、手入れをせんまま片すのは、どっちにしろよくない」
「…………」
琥珀は、広げたテントを見る。
前に使ったあと。
楽しかったことは覚えている。
星を見たこと。
ラファお姉ちゃんと一緒に休んだこと。
けれど。
使い終わったテントを、そのあとどうしたか。
「わたし……そのまま畳んだかも」
「次から覚えりゃええ」
「……うん」
少しだけ伏せていた耳が、また持ち上がった。
「使ったあとに、ちゃんと拭いて」
「うむ」
「できたら乾かしてから片す」
「そうじゃ」
「覚えた!」
「ならええ」
ベルグが頷く。
「でも穴はどうする?」
「あっ」
琥珀がまた穴を見る。
「今日、寝られない?」
「それくらいなら大丈夫だよ」
「ラファお姉ちゃん?」
ラファお姉ちゃんが、穴のそばへしゃがんだ。
「小さい穴だから、今のうちに塞いじゃおう」
「できるの?」
「うん。ちょっと待っててね」
ラファお姉ちゃんは荷物の中から、裁縫に使えそうな小さな道具を取り出した。
糸。
針。
そして、何枚かの小さな布。
「…………」
琥珀が覗き込む。
「ラファお姉ちゃん、それ……」
「どうせ直すなら、ちょっと可愛くしようかなって」
ラファお姉ちゃんが手にしていたのは、ただの四角い当て布ではなかった。
小さな花の形をした、可愛らしいアップリケ。
「かわいい!」
しっぽが一気に持ち上がる。
「でしょ?」
「それにする!」
「ふふっ。じゃあ決まり」
ラファお姉ちゃんは穴の位置へアップリケを重ねる。
穴がきちんと隠れる位置。
周囲の布まで押さえられる位置。
そこを確かめてから、針を通していく。
ちく。
ちく。
ちく。
琥珀は、その手元をじっと見ていた。
壊れてしまったと思ったテント。
でも。
少しずつ穴が隠れていく。
代わりに、小さな花がそこへ残っていく。
「…………」
「どう?」
最後の糸を留めて、ラファお姉ちゃんが手を離す。
「直った……」
琥珀がそっとアップリケへ触れる。
「前より可愛くなった」
「穴が開いたのは残念だけどね」
「うん。でも……」
琥珀は少し笑った。
「ちゃんと直せるんだね」
「直せるうちは、直して使えばいいんだよ」
「うん!」
「よし。修理も済んだなら張るぞ」
「おう」
「わたしもやる!」
四人で布を広げ直す。
位置を合わせる。
支柱を通す。
「琥珀、そこ押さえてろ」
「ここ?」
「そう。動かすなよ」
「はーい!」
「ラファ、そっちを頼む」
「はい」
前にラファお姉ちゃんと二人だけで張った時は、片方を押さえれば反対側がずれて、何度も行ったり来たりした。
けれど今回は違う。
ロクスが大きな布を支える。
ベルグが支柱の位置と張り具合を見る。
琥珀が端を押さえる。
ラファお姉ちゃんが反対側を整える。
途中から絵描きさんもやって来て、余った張り綱をひとつ手に取った。
「こちら、押さえておきますね」
「ありがとうございます!」
ひとつの手が増えるたび、作業が止まらない。
布が持ち上がる。
支柱が立つ。
張り綱が伸びる。
「えっ」
琥珀が目を丸くする。
「もうこんなにできたの?」
「人数がいりゃ、こんなもんだ」
「前はもっと時間かかったよね、ラファお姉ちゃん」
「うん。二人であっちへ行ったり、こっちへ戻ったりしてたね」
「あはは……」
思い出せば、今では少し笑える。
その間にも、みんなの手は止まらない。
最後の張り綱が固定される。
ベルグが全体を見回した。
「よし」
風を受けても、大きくたわまない。
入口もきちんと開く。
その側面には、小さな花のアップリケ。
「できたー!」
琥珀の耳としっぽが、同時に嬉しそうに動いた。
「……ほんとに早かった」
「今日はみんながいたからね」
「うん!」
琥珀はテントを見上げる。
以前は二人で苦労して立てたもの。
今日は、みんなの手であっという間に形になった。
その側面には、さっきまでなかった小さな花。
琥珀はそこへもう一度目を向けた。
「次は、片す前にちゃんと拭く」
「うむ」
「それから乾かす!」
「忘れるでないぞ」
「忘れないもん!」
新しく付いた小さな花が、風に揺れるテントの布と一緒に、ほんの少しだけ動いていた。
「琥珀ちゃん、そろそろ着替えようか」
「うん」
琥珀は自分のロングスカートを見る。
火のそばで少し温まったとはいえ、膝下から裾にかけてはまだしっとりと濡れていた。
「このままだと、暗くなってから冷えちゃうもんね」
「そういうこと」
琥珀は立ち上がると、張り終えたばかりのテントへ向かった。
「ラファお姉ちゃんは着替えないの?」
「私はこれくらいなら大丈夫だよ」
ラファお姉ちゃんは、自分の長い髪へ触れる。
さっき布で水気を取ったおかげで、まだ少し湿ってはいるものの、びしょびしょというほどではない。
「服も少し濡れただけだから、このままで平気」
「そっか」
「琥珀ちゃんはちゃんと着替えてね」
「はーい」
琥珀がテントの中へ入る。
少しして。
「ラファお姉ちゃん?」
「なあに?」
「着替えの袋、どれだっけ?」
「ちょっと待ってね」
ラファお姉ちゃんが荷物の中から、見覚えのある袋を取り出した。
「これかな」
口を開く。
中を見る。
「…………」
少しだけ間が空いた。
「あらま~……」
「なに!?」
テントの入口から琥珀の耳だけが、ぴょこんと出る。
「はい、琥珀ちゃん」
「ん?」
差し出されたものを受け取る。
「…………」
広げる。
ふわり。
垂れ耳のついたフード。
全身を包む、やわらかな布。
そして後ろには、犬の尻尾。
「これ……」
「うん」
「前にマーレさんからもらったやつだ」
「ちゃんと入ってたみたいだね」
「まさか旅先で着ることになるとは思わなかった……」
少し恥ずかしそうに言いながら、琥珀はテントの奥へ引っ込んだ。
ごそごそ。
布が擦れる音。
しばらくして。
「……できた」
テントの入口から、琥珀が顔を出す。
犬の着ぐるみ寝間着。
フードまできちんと被っている。
頭の横には、垂れた犬の耳。
後ろには、犬の尻尾。
「…………」
「な、なに?」
「ううん」
ラファお姉ちゃんが、ふっと笑う。
「似合ってるよ」
「……もう」
琥珀の頬が少し赤くなる。
けれど。
後ろの犬の尻尾が、ふり。
もう一度。
ふりふり。
「……琥珀ちゃん」
「なに?」
「尻尾、動いてるよ」
「えっ」
琥珀が慌てて後ろを見る。
着ぐるみの犬の尻尾。
その中には、琥珀自身のしっぽが収まっていた。
中で本物のしっぽが動くたび、外側の犬の尻尾までつられて揺れる。
「ほんとだ……」
「ふふっ」
「わ、笑わないでよぉ」
「だって」
ラファお姉ちゃんは、揺れている尻尾を見ながら笑う。
「子猫が子犬になったみたい」
「…………」
琥珀の頬が、もう少しだけ赤くなる。
「……もう、ラファお姉ちゃん」
恥ずかしそうに視線を逸らす。
けれど。
ふり。
ふりふり。
尻尾だけは、まったく大人しくならなかった。
「それより、制服乾かさないと」
「そうだね」
二人は濡れた風月の鐘亭の制服を持って外へ出る。
ベルグが少し離れたところでロープを用意していた。
「ベルグじい、それ使うの?」
「うむ」
ベルグは近くの木へロープの片側を結ぶ。
反対側を持って馬力車へ向かう。
車輪。
足回り。
駆動の子。
そこから離れた、動きの邪魔にならない固定部分を確認する。
「ここならええじゃろ」
しっかり結ぶ。
木と馬力車の間へ、一本のロープが張られた。
「焚き火からも離れとる。ここへ掛けい」
「はーい」
琥珀とラファお姉ちゃんで、制服をロープへ掛ける。
布を広げる。
濡れた裾が風に少し揺れた。
ぽた……。
地面へ一滴。
少し間を置いて。
ぽた……。
もう一滴。
「結構濡れてたんだな」
「誰のせいだと思ってるの?」
「俺じゃねえよ!」
「あっ、そうだった」
「忘れんな!」
「あははっ」
ラファお姉ちゃんも小さく笑う。
焚き火の炎が、少し離れたところでぱちぱちと揺れている。
ロープには風月の鐘亭の制服。
その前には、犬の着ぐるみ姿の琥珀。
「…………」
「なに?」
「いや。ずいぶん変わった格好になったなと思って」
「言わないでよぉ……」
また頬を赤くする。
ふりふり。
「尻尾は気に入ってそうだけどな」
「これは勝手に動いてるの!」
「それを気に入ってるって言うんじゃねえのか?」
「もう!」
琥珀がぷいっと横を向く。
けれど、日差しはまだ残っていた。
木々の間から差す光も、まだ十分明るい。
琥珀の耳が、ぴくっと動く。
次に。
視線が馬力車へ。
「……まだ日、あるよね」
「あるね」
「じゃあ……」
しっぽが、ふり。
「もしかして」
ふりふり。
「釣り!」
「ああ、やっぱり」
琥珀はそのまま馬力車へ向かった。
「釣竿、座席の横だったよね」
「走るなよ」
「走ってないもん!」
言いながら、歩幅は少し速い。
馬力車へ着く。
荷物の間を覗き込む。
「どこだっけ……」
がさごそ。
がさごそ。
後ろでは。
ふりふり。
ふりふり。
犬の着ぐるみの尻尾が、荷物を探すたびに嬉しそうに揺れていた。
ラファお姉ちゃんは少し離れたところから、その後ろ姿を見ている。
「ふふっ」
「んー……」
がさごそ。
「あっ」
耳がぴんと立つ。
琥珀が荷物の間から、細い木の竿を引き出した。
「あったー!」
猪族の炭鉱夫からもらった釣竿。
琥珀はそれを両手で嬉しそうに持ち上げる。
着ぐるみの尻尾も、大きくふりふりと揺れた。
「ラファお姉ちゃん、行こ!」
「はいはい」
釣竿を手にした子犬姿の琥珀が、小川の方へ嬉しそうに歩き出した。
「この辺でいいかな?」
琥珀は小川のそばへしゃがみ込んだ。
さっき水へ入った場所より少し下流。
足元は平らで、岸からでも水面がよく見える。
「うん。その辺なら大丈夫そうだね」
「よーし」
琥珀は釣竿を膝の上へ置いた。
猪族の炭鉱夫からもらった、使い込まれた細い木の竿。
派手な飾りはない。
けれど、何度も使われてきたらしい手触りが残っている。
「まず餌だよね」
「そうだね」
琥珀は、釣竿と一緒にもらっていた小さな箱を開けた。
中には、一度試すくらいの釣り餌が、ほんの少しだけ入っている。
「……これくらい?」
「大きすぎると取られやすいかも」
「じゃあ、もうちょっと小さく……」
指先で少しだけ形を整える。
針へつける。
「できた!」
琥珀の耳がぴんと立った。
後ろでは、犬の着ぐるみの尻尾がふりふりと揺れている。
「じゃあ、入れるよ」
「うん」
琥珀は竿をそっと前へ出した。
糸の先が水面へ落ちる。
ぽちゃん。
「…………」
琥珀はじっと水面を見る。
流れに合わせて糸が少し揺れる。
耳も前。
目も前。
しっぽも――
ふり。
ふりふり。
「すぐ釣れるかな」
「どうだろうね」
「炭鉱夫さん、小さい魚いるって言ってたし」
「いるのはさっき見えたもんね」
「うん!」
待つ。
さらさら。
小川の音。
ぱち、ぱち。
少し離れた焚き火の音。
風が草を撫でていく。
「…………」
糸は動かない。
「…………まだかな」
「まだだね」
「魚って、餌見つけるの遅いのかな」
「琥珀ちゃんが見つめすぎて警戒してるのかも」
「えっ」
琥珀は慌てて少しだけ顔を引く。
「じゃあ、見ない方がいい?」
「ふふ。そこまでしなくても大丈夫だよ」
「もう……」
また待つ。
「…………」
しっぽが少しずつ止まっていく。
耳も、さっきより少し横へ。
その時。
ぱしゃん。
「!」
琥珀の耳が一気に跳ねた。
「今の!」
少し離れた水面。
小さな魚が一匹、跳ねたらしい波紋が広がっている。
「いる!」
「いるね」
「でもなんでそっちなの!?」
「魚にも都合があるんじゃない?」
「む~~……」
琥珀が頬を少し膨らませる。
着ぐるみの尻尾が、今度は左右へ小さく揺れた。
「こっちにも来てよぉ……」
糸を見つめる。
動かない。
「…………」
しばらくして。
「場所、変えた方がいいかな」
「もう少し待ってみたら?」
「うん……」
琥珀は竿を握り直す。
少しだけ力を抜く。
水面を眺める。
さらさら。
風。
焚き火。
遠くでベルグとロクスが何か話している声。
そして――
ぐっ。
「……ん?」
竿先が、ほんの少し沈んだ。
「ラファお姉ちゃん」
「うん?」
「今……」
ぐぐっ。
「えっ」
糸が張る。
竿が手の中で引かれる。
「きたかも!」
「落ち着いて、琥珀ちゃん」
ぐぐぐっ!
「わっ!」
琥珀の耳がぴんと立つ。
犬の着ぐるみの尻尾も一気に跳ねた。
そして。
ぐぐぐうっ!!!
「きたーーーー!」
琥珀が立ち上がる。
竿が大きくしなる。
「引っ張られてる! 引っ張られてるよ!」
「慌てないで!」
「どうするの!? このまま引けばいい!?」
「急に強く引かないで!」
「む、難しいよぉ!」
騒ぎを聞きつけ、少し離れていたロクスが振り向いた。
「釣れたのか?」
「たぶん!」
「たぶんってなんだよ!」
「糸がすごいの!」
ベルグも焚き火のそばから目を向ける。
「竿を立てすぎるでないぞ!」
「どれくらい!?」
「ほどほどじゃ!」
「ほどほどが分からないよぉ!」
「ははっ!」
「笑わないで!」
それでも。
琥珀は竿を離さない。
引かれたら少し耐える。
弱まったら少し寄せる。
ラファお姉ちゃんが隣から水面を見ている。
「もう少しだよ」
「ほんと!?」
「見えてきた」
水面の下。
小さな影が揺れる。
「いた!」
しっぽがぶんっと動いた。
「ゆっくりね」
「うん!」
琥珀が少しずつ竿を上げる。
ぱしゃっ。
魚が水面で跳ねる。
「わあっ!」
もう一度。
ぱしゃん。
そして。
「よいしょっ!」
水の中から、小さな魚が上がった。
「釣れたー!」
琥珀の声がキャンプ地へ響く。
「ラファお姉ちゃん! 見て! 釣れたよ!」
「うん。ちゃんと釣れたね」
「あははっ!」
嬉しさを隠せず、犬の尻尾がぶんぶんと揺れる。
少し離れたところでは、絵描きさんがその様子へ顔を向けていた。
やがて画板を手に取り、鉛筆を走らせ始める。
「やった……ほんとに釣れた」
琥珀は嬉しそうに魚を見る。
小さい。
手の中で、ぴくりと身体を動かしている。
「…………」
さっきまで大きく揺れていた尻尾が、少しだけ静かになった。
「生きてる……」
「うん」
琥珀は魚をじっと見つめる。
「これ、どうする?」
「今回はどうしたい?」
「…………」
少し考える。
釣れたことは嬉しい。
自分で初めて釣った魚。
でも。
この小さな魚は、さっきまでこの川を泳いでいた。
「……戻してあげたい」
ラファお姉ちゃんが優しく笑った。
「うん」
「せっかく釣れたけど……」
「食べるために釣ることもあるよ」
「うん」
「でも今日は、遊ばせてもらったんだもんね」
「……うん」
琥珀が小さく頷く。
「じゃあ、元気なうちに帰してあげる」
魚を傷つけないよう、そっと針を外す。
それから小川のそばへしゃがんだ。
水面近くへ手を下ろす。
「ありがとう」
手を開く。
ぱしゃん。
魚が水へ戻った。
一瞬だけ、浅いところで小さな影が見える。
次の瞬間には。
すっ。
流れの中へ消えていった。
「……行っちゃった」
「帰っていったね」
「うん」
琥珀はしばらく、小さな魚が消えた水面を見つめていた。
さらさらと流れる水。
そこにはもう、さっきの魚がどこにいるのか分からない。
それでも。
またどこかで会えそうな。
そんな気が、ほんの少しだけした。
「……お腹すいた」
小川を見つめていた琥珀のお腹が、くぅ、と小さく鳴った。
「ふふっ」
「い、今の聞こえた?」
「うん」
「忘れて!」
「それは難しいかな」
「もう……」
琥珀の耳が少し横へ倒れる。
けれど、しっぽはすぐにまた元気よく揺れ始めた。
「でも、いっぱい動いたもんね」
「うん。水にも入ったし、釣りもしたし!」
「釣れた時の声、すごかったな」
「だって初めて釣れたんだもん!」
「キャンプ地全部に聞こえたんじゃねえか?」
「そこまでじゃないもん!」
「いや、かなり響いとったぞ」
「ベルグじいまで!」
ロクスとベルグが笑う。
ラファお姉ちゃんも、また小さく肩を揺らした。
「よし。食うか」
「うん!」
焚き火から少し離れた草の上へ、包みを広げていく。
旅へ出る前に用意してきた弁当。
包みを開けば、硬めに握られたおにぎりが並んでいた。
「わぁ……」
琥珀の耳がぴんと立つ。
「これ、ちょっと塩強めにしてたやつだよね」
「うん。旅の途中でも食べやすいようにね」
ラファお姉ちゃんが包みを整える。
その隣。
「……俺のだけ多くねえか?」
ロクスの前には、明らかに他より多めのおにぎり。
「ロクスは食べる量多めで用意してたからね」
「まあ、ありがてえけど」
「引く側が腹減らしとったら話にならんからの」
「お前に言われると、なんか餌扱いされてる気がするんだよな」
「気のせいじゃ」
「絶対違うだろ」
「あははっ」
少し離れたところでは、絵描きさんも自分の包みを開いていた。
手で持ちやすく、指先が汚れにくいようにまとめられている。
「こっちは食べやすそう」
「描く時に手が汚れにくいようにしてくれたんですね」
「うん。そう言って準備してたよ」
「ありがたいです」
琥珀も一つおにぎりを手に取る。
「いただきます!」
「いただきます」
「いただくぞ」
「うむ」
「いただきます」
琥珀がおにぎりを口元へ運びかける。
その時。
ふと。
視線が小川へ向いた。
「…………」
さっき小さな魚を返した流れ。
水面は、何事もなかったようにさらさらと流れている。
琥珀はおにぎりを持ったまま、少しだけ目を細めた。
ぱしゃん。
「……あ」
少し離れた水面で、小さな魚が一匹跳ねた。
波紋が広がる。
すぐに水面は、また静かな流れへ戻った。
「どうしたの?」
「今、魚跳ねた」
「うん。見えたよ」
琥珀は、さっき魚が跳ねた場所を見つめる。
「……さっきの子かな」
「どうだろうね」
「分かんないよね」
「うん」
少しだけ間が空く。
琥珀の口元が、ふっと緩んだ。
「……お返事、してくれたのかな」
ラファお姉ちゃんも小川を見る。
「ふふ。そうだったら嬉しいね」
「うん」
琥珀はもう一度だけ水面を見た。
魚の姿はもう見えない。
それでも、どこか嬉しそうに耳を動かす。
「じゃあ改めて……いただきます!」
ぱくっ。
「ん~!」
「どう?」
「おいしい!」
少し強めの塩気。
歩いて、遊んで、釣りまでした身体には、それがちょうどよかった。
「外で食うと、また違うな」
「分かる!」
「さっきまで川で騒いどったから、余計に腹が減っとるだけじゃないか?」
「それもあるかも」
「俺は余計な水まで食らったけどな」
「…………」
「あ」
琥珀の耳が、ぺたん。
「ご、ごめんってば」
「もう怒ってねえよ」
ロクスがおにぎりを一口食べる。
「ただ、次やるならベルグにしろ」
「なんでわしなんじゃ!」
「あはははっ!」
「ふふっ」
絵描きさんも小さく笑った。
「今日は随分にぎやかですね」
「旅って、もっと静かなものだと思ってた?」
「いえ」
絵描きさんは少し考えてから、穏やかに笑う。
「静かな旅もあります。でも、こういう旅もいいものですよ」
「そっか」
おにぎりをもう一口。
焚き火が、ぱち、と鳴る。
「絵描きさんは、今までいろんなところ行ったんだよね」
「そうですね」
「一人で?」
「一人の時もありますし、途中だけ誰かと一緒になることもあります」
「じゃあ、こういうキャンプもいっぱいしたんだ」
「ええ」
「だからテントもあんなに早かったんだね」
「慣れですね」
「わたしもいつか、あれくらい早く張れるかな」
「今日覚えたことを忘れなければ、きっと」
「テント拭くのも!」
「それもですね」
ベルグが満足そうに頷いた。
「忘れたら、また穴が増えるぞ」
「忘れないってば!」
「どうじゃか」
「むー!」
また笑い声が重なる。
食べながら。
今日あったことを話す。
街道で出会った炭鉱夫たちのこと。
初めて草道へ入った時の揺れ。
小川へ着いた時に魚が跳ねたこと。
琥珀がラファお姉ちゃんの胸元へ飛び込んだこと。
「そ、それは言わなくていいの!」
「自分で思い出したんじゃねえか」
「あっ」
「ふふっ」
琥珀の頬がまた赤くなる。
着ぐるみの垂れ耳の下。
本人の耳は見えない。
それでも後ろの犬の尻尾が、恥ずかしそうに小さく動いた。
そんな話をして。
また食べて。
また笑う。
包みの中のおにぎりが、少しずつ減っていった。
やがて。
絵描きさんが食べ終えた包みを丁寧に畳む。
荷物のそばへ手を伸ばした。
「ん?」
取り出したのは、画板ではなかった。
「それ、なに?」
「楽器です」
「楽器!」
琥珀の身体が少し前へ傾く。
「絵だけじゃなくて、音楽もできるの?」
「少しだけですよ」
「聴きたい!」
「では、食事のお邪魔にならないくらいに」
絵描きさんは楽器を手にする。
少しだけ姿勢を整える。
そして。
穏やかな音が、キャンプ地へ流れ始めた。
「……わぁ」
派手な曲ではない。
誰かの会話を止めてしまうほど大きくもない。
ゆっくりとした旋律が、小川の音へ重なる。
さらさら。
水の音。
ぱち、ぱち。
焚き火の音。
その間を縫うように、絵描きさんの奏でる音。
琥珀はおにぎりを持ったまま、しばらく耳を傾けた。
「いいね……」
「うん」
ラファお姉ちゃんの横顔も、どこか穏やかだった。
ロクスは食べながら静かに聴いている。
ベルグも焚き火へ枝を一本足し、そのまま音へ耳を傾けた。
曲が続く間にも、会話はなくならない。
小さな声で話して。
時々笑って。
音楽がその間を流れていく。
最初はまだ木々の間から差し込んでいた日の光が、少しずつ低くなっていった。
青かった空の端へ、淡い橙色が混じり始める。
草の上へ伸びる影も、いつの間にか長くなっていた。
ロープに掛けられた風月の鐘亭の制服が、穏やかな風を受けて揺れる。
さっきまで、
ぽた……。
ぽた……。
と落ちていた雫も、いつの間にか少なくなっていた。
誰も時間を急かさない。
食べて。
話して。
笑って。
音楽を聴いて。
そうしているうちに。
空の橙色は少しずつ深くなり、木々の向こうへ日が傾いていく。
ぱちっ。
焚き火の薪が、小さく弾けた。
昼間は控えめだった炎が、今は少しだけ明るく見えた。
絵描きさんの奏でる音が、少しずつ静かになっていった。
最後のひと音が、小川の流れへ溶けるように消えていく。
「……すごくよかった」
「ありがとうございます」
「なんだか、ずっと聞いていたくなるね」
「旅の途中では、こういう静かな曲の方が似合うこともありますから」
「分かる気がする」
琥珀は焚き火へ目を向けた。
赤い炎が、ぱちぱちと薪の間で揺れている。
少し前まで空に残っていた橙色は、もうずいぶん薄くなっていた。
木々の向こう。
日の光が最後に残っていたところも、少しずつ青みを帯びていく。
草の上に伸びていた影は、いつの間にか周囲の暗さへ溶け始めていた。
「日、沈むね」
「うん」
誰かが立ち上がるわけでもない。
急いで何かを片づけるわけでもない。
みんな、そのまま焚き火の近くで空の変化を眺めていた。
ぱちっ。
薪が小さく弾ける。
炎の明るさが、少しずつ周囲へ広がっていく。
ロープに掛けられている風月の鐘亭の制服も、風を受けてゆっくり揺れていた。
さっきまで残っていた水気も、ずいぶん少なくなっている。
「もうちょっとで乾きそう」
「そうだね」
「明日には着られるかな」
「このままなら大丈夫そうだよ」
琥珀が安心したように頷く。
その時。
「……あ」
耳が、ふっと前へ向いた。
「どうした?」
「月」
琥珀が空の向こうを指差した。
木々の間。
遠くの空から、淡い光が少しずつ顔を出している。
青の月。
まだ低いところにあり、半分ほど光を残した輪郭が静かに見えていた。
「青い方が先に見えたね」
「うん」
少し遅れて。
反対側。
白い光も、ゆっくりと空へ上がってくる。
「白い月も」
二つの月。
一方は淡い青。
一方は柔らかな白。
どちらも満ちきってはいない。
下弦に近く、半分ほど光を残した形。
離れた場所から空へ上がる二つの月は、左右で対になるようにも見えた。
けれど。
高さも。
傾きも。
ほんの少しずつ違う。
まったく同じ形ではない。
だからこそ、自然に夜空の中へ浮かんでいた。
「こうして見ると、やっぱり不思議だね」
「二つあるのが?」
「うん。わたしがいたところは、月は一つだったから」
「そういや前にもそんな話してたな」
「こっちに来てからは、もう見慣れたと思ってたんだけど」
琥珀は二つの月を見上げる。
「こういう場所で見ると、また違って見える」
「街道のそばとは明るさが違うからね」
「うん」
青の月。
白の月。
満月ほど強くない二つの月の光は、夜空の星を隠してしまうほど明るくはなかった。
だから。
「あっ」
一つ。
星が見える。
さらに少し離れて。
もう一つ。
琥珀の耳がぴんと立つ。
「星、出てきた」
「ほんとだね」
空が深い青へ変わるたび、星の数が少しずつ増えていった。
一つ。
二つ。
三つ。
数えようと思っても、すぐに追いつかなくなる。
「炭鉱夫さんたち、ほんとだったんだ……」
「街道の灯りから離れると、空が変わるって話か?」
「うん!」
以前。
街道沿いの休憩所で見た星空も綺麗だった。
ラファお姉ちゃんと二人で見上げた夜空。
けれど。
今は街道の灯りが、ずっと遠い。
木々の間から広がる空には、あの時より細かな星まで浮かび始めていた。
「……すごい」
犬の着ぐるみの尻尾が、ゆっくりと揺れる。
しばらく、みんなで空を見上げていた。
その時。
「星も出始めてきたことじゃし」
ベルグが立ち上がった。
「ロクスよ。ちと馬力車へ行くぞ」
「……なんで俺なんだ?」
「ええから来い」
「また何か思いついたんじゃねえだろうな」
「今日は何もいじらんわい」
「今日は、って言ったな今」
「気のせいじゃ」
「絶対違うだろ」
ベルグは笑いながら、荷物の中から大きめの敷物を取り出した。
「それ何に使うの?」
「あとで分かる」
「えー」
「待っとれ」
ベルグは敷物を抱えたまま馬力車へ向かう。
ロクスも少し不満そうに、その後をついていった。
「何するんだろ」
「さあ?」
「ベルグじいだからなぁ……」
「その言い方、本人に聞かれたら怒られるよ」
「でもラファお姉ちゃんも思ってるでしょ?」
「…………」
「ほら!」
「ふふっ」
少し離れた馬力車。
ベルグとロクスが荷台へ上がる。
敷物を広げる。
「そっち持て」
「はいはい」
ばさっ。
大きくなった荷台の上へ敷物が広がった。
端を整える。
しわを伸ばす。
ベルグが一度、空を見上げた。
「よし」
「これだけか?」
「これだけじゃ」
「俺いらなかっただろ」
「一人で広げるより早かったじゃろ」
「それはそうだけどよ」
ベルグが荷台の端から顔を出した。
「琥珀! ラファ! 絵描きさんも来い!」
「なにー?」
「ええから来てみい」
琥珀が立ち上がる。
ラファお姉ちゃんも続く。
絵描きさんは、さっきまで持っていた楽器を大切に片づける。
画板も荷物のそばへ置いた。
今度は何も持たずに、二人と一緒に馬力車へ向かう。
「何するの、ベルグじい?」
「荷台へ上がれ」
「荷台?」
「そうじゃ」
琥珀が首を傾げながら荷台へ上がる。
広げられた敷物。
「ここに?」
「寝てみい」
「えっ」
「横になれっちゅうことじゃ」
「ここで?」
「せっかく大きゅうなった馬力車じゃ。こういう使い方もできる」
「……なるほど」
琥珀の耳が、楽しそうに立つ。
「じゃあ、真ん中!」
「なんで真ん中なんだよ」
「だって一番空見やすそう!」
「どこでも一緒だろ」
「あははっ」
琥珀が敷物の中央へ、ごろんと横になる。
「わっ……」
視界が一気に空でいっぱいになった。
「すごい!」
「私も」
ラファお姉ちゃんが琥珀の右隣へ横になる。
「近いね」
「うん」
さらにラファお姉ちゃんの隣へ、絵描きさん。
「失礼します」
「どうぞどうぞ!」
琥珀の左側にはロクス。
「俺ここか」
「うん!」
「まあいいけどよ」
ロクスも敷物へ横になる。
四人。
並んだ。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
そして。
「ベルグじいは?」
「ここじゃ」
「え?」
ぽすっ。
「ぐっ!?」
ベルグが、ロクスの胸から横腹のあたりへ半分乗るように横になった。
「ちょっ、待て!」
「なんじゃ」
「なんでベルグは俺の上なんだ!」
「仕方がないじゃろ! 荷台は四人しか寝そべれん!」
「だったらお前だけ座ってろよ!」
「わしは小さいからええじゃろ」
「よくねえ!」
「わははは!」
「あはははっ!」
「ふふっ」
絵描きさんも口元を押さえて笑っている。
「人を敷物みたいにするな!」
「敷物ならちゃんと下にあるわい」
「そういう意味じゃねえ!」
「あははははっ!」
馬力車の荷台へ、また笑い声が広がった。
しばらくして。
笑いが少しずつ落ち着いていく。
「……でも」
「ん?」
「ほんとにすごい」
琥珀は、もう一度空を見上げた。
寝転がって見る夜空。
立って見ていた時よりも、ずっと広い。
視界の端まで。
星。
星。
星。
青の月。
白の月。
その間にも、数えきれないほどの光。
「街道の休憩所で見た時も綺麗だったけど……」
「うん」
「こっちは、もっといっぱい見える」
「灯りが少ないからね」
琥珀は少しだけ顔を右へ向けた。
すぐ隣に、ラファお姉ちゃん。
その向こうに、絵描きさん。
今度は左。
ロクス。
その上には――
「……ベルグじい」
「なんじゃ」
「まだそこなの?」
「ここしかないんじゃ」
「重いんだよ」
「しばらく我慢せい」
「なんで俺が我慢するんだよ……」
「ふふっ」
琥珀も小さく笑った。
それから、また空へ顔を戻す。
以前は。
同じように空を見上げた時、隣にはラファお姉ちゃんがいた。
今も、ラファお姉ちゃんはすぐ隣にいる。
でも。
今日は反対側にも誰かがいて。
その向こうにも。
またその向こうにも。
「…………」
琥珀の口元が、少しだけ緩んだ。
「どうしたの?」
「ううん」
「なんでもない?」
「うん」
琥珀は空を見たまま答えた。
「ただ、いいなぁって思って」
「そっか」
「うん」
小川の音が、遠くからさらさらと届く。
焚き火が、ぱち、と鳴る。
風が木々の葉を揺らす。
誰も話さない時間が、少しだけ続いた。
絵描きさんも、今は画板を持っていない。
鉛筆も動かしていない。
ただ他のみんなと同じように、静かに空を見上げていた。
「……綺麗ですね」
「うん」
「こういうのも、旅の楽しみだな」
「お前も分かってきたではないか」
「ベルグが俺の上にいなけりゃもっとな」
「細かいことを気にするでない」
「細かくねえよ」
「ふふっ」
琥珀がまた笑いそうになった。
その時。
夜空の高いところ。
一つの光が――
すっ。
「……あっ」
一本。
星が流れた。
青の月と白の月の間を抜けるように。
ほんの一瞬だけ、細い光の線を残す。
「見た!?」
「うん」
「流れ星だな」
「久しぶりに見たわい」
絵描きさんも、流れていく光を黙って目で追っている。
流れ星はそのまま。
遠く。
中央の山の方角へ向かっていく。
そして。
すっと、夜空の中へ消えた。
「…………」
もう一度は流れない。
空には、いつもの星々。
青の月。
白の月。
流れ星が消えた場所を、琥珀はしばらく見つめていた。
「……見たね」
「うん」
それだけ。
誰も、その流れた先へ意味をつけることはなかった。
小川が流れる。
焚き火が揺れる。
その上に広がる、二つの月と星空。
五人はそのまま。
同じ夜空を見上げていた。




