第61話
街道の左側へ続く木々を眺めながら、琥珀は時々、座席の横に固定された釣竿へ目を落としていた。
まだ見たことのない小川。
街道の灯りから少し離れたところで見るという星空。
猪族と虎族の炭鉱夫から聞いた話が、頭の中を行ったり来たりしている。
「そういえばさ」
「ん?」
「わたしたちが最初にテント張ったところも、星、すごく綺麗だったよね」
「うん。街道の休憩所だったね」
あの時は、まだロクスたちと出会う前だった。
街道のそばに設けられた休憩所。
近くには街灯もあって、真っ暗だったわけではない。
それでも、二人で見上げた夜空には、たくさんの星が広がっていた。
「でも、あそこは街道のすぐそばだったもんね」
「そうだね。今回は少し外れるって言ってたから、また違って見えるかもしれないね」
「楽しみだなぁ……。まさか街道からちょっと外れたところに、そんな場所があったなんて知らなかったよ」
琥珀のしっぽが、座席の後ろでゆっくり揺れる。
「歩いてた頃は、こういう場所には寄らなかったのか?」
前を向いたまま、ロクスが聞いた。
「うーん……」
琥珀は少し考えてから、困ったように笑う。
「最初の村からリノちゃんの村までのあたりはね、わたし、歩くのでやっとだったから」
「歩くので?」
「最初の風車を直した時に、初めてマナクラフトを使って……その反動がすごくて」
思い出して、琥珀は苦笑した。
「周りも見てたはずなんだけど、今思い出すと、ちょっとうっすらしてるんだよね」
「あの頃は本当に大変だったもんね」
「うん。それからも色々あったし……」
言いながら指を折りかけて、琥珀は途中でやめた。
「……これ、話し始めたら長くなるね」
「だろうな」
「あはは。また今度話すよ」
「おう。その時に聞かせろ」
少しだけ間が空いた。
車輪の音と、ロクスの足音が街道の上で重なる。
今度は琥珀が、前を歩くロクスの背中を見た。
「じゃあ、今度はわたしから聞いていい?」
「なんだ?」
「ロクスって、馬力車を引いてる時、どんな気持ちなの?」
「……なんで突然そんなこと聞くんだ?」
「気になったから!」
琥珀の耳が、ぴんと前へ向く。
ロクスは少しだけ考えるように、街道の先を見た。
「そうだな……引くこと自体は、別に嫌いじゃねえよ」
「そうなの?」
「ああ。重けりゃ重いって分かるし、道が悪けりゃ肩にも腰にも返ってくる。そこは誤魔化せねえけどな」
歩きながら、ロクスは肩を一度だけ軽く動かした。
「でも、俺が引いてるから、後ろにいる奴らが先へ進めるだろ」
「うん」
「急がず、無茶せず、ちゃんと行きたいところまで連れていく。そういうのは……まあ、悪くねえ」
最後だけ、少し照れたような声になった。
「それに今は、ベルグたちが俺の肩だの腰だのまで気にして、馬力車をいじってるしな」
「まかせい」
後ろから、間髪入れずに声が飛んできた。
「……そこがちょっと怖えんだよ」
「なんじゃと?」
「あははっ」
琥珀が笑ってから、ロクスの腰のあたりへ目を向ける。
「でも、まだ腰への返りはちょっとあるんだよね」
「ああ。だが、前の馬力車よりかはましだ」
ロクスは歩調を崩さないまま続ける。
「前みたいに、引く側が全部我慢しときゃいいって感じじゃなくなってきてるのは分かる」
「うん」
「だから今は、引かされてるって感じじゃねえな」
ロクスの耳が、風を受けて小さく動いた。
「俺が引いて、お前らが乗って、それで一緒に先へ行ってる。そんな感じだ」
琥珀は少しだけ目を丸くした。
「……なんか、いいね。それ」
「そうか?」
「うん!」
琥珀のしっぽが、嬉しそうに揺れた。
「わたしがこっちに来る前にいたところだと、お馬さんは言葉を話さなかったんだよ」
「そうなのか?」
「うん。だから、こういう気持ちも聞けなかったの」
琥珀は少し考えてから笑った。
「それに馬車って、わたしにはテレビとかで見るものだったし」
「てれび?」
「あっ……えっと、遠くの出来事とか、お話とかを映して見るもの」
「相変わらず、お前のいたところは変わったもんがあるな」
「だからね、馬車って聞くと、わたしの中では――」
琥珀は胸の前で両手を合わせる。
「綺麗な服を着たお姫様とか、お嬢様が優雅に乗ってる感じ!」
一拍。
ロクスの耳が、ぴくりと動いた。
「なるほどな」
その声が、急に妙にかしこまる。
「ではお嬢様。これから、こちらの馬力車の優雅な旅路をご満喫くださいませ」
「えっ?」
琥珀が目を丸くする。
隣でラファお姉ちゃんの肩が小さく震えた。
「あははっ! ロクス、なにそれ!」
「自分で言ってて似合わねえと思った」
「あはははっ」
つられてロクスも笑い出す。
三人の笑い声が、街道の上へ重なった。
琥珀は笑いながら、もう一度左側へ顔を向ける。
その時だった。
「あれ?」
笑っていた耳が、ふっと前へ向く。
少し先。
ずっと並んでいた木々の間が、そこだけ少し広く開いている。
「ラファお姉ちゃん」
「うん?」
「あそこ……じゃない?」
ラファお姉ちゃんも、琥珀が見ている方へ目を向ける。
ロクスの耳も動いた。
「左の、開けてるところか?」
「うん。炭鉱夫さんたちが言ってたの、あんな感じじゃなかった?」
「……一回、見てみるか」
ロクスの歩幅が、少しずつ狭くなっていった。
木々の開けた場所が近づくにつれ、街道の端から細い道が奥へ続いているのが見えてきた。
ロクスは、その手前で馬力車を止めた。
「ここか?」
「たぶん。左側の木が開けたところって言ってたよね」
「うん。場所は合ってそうだね」
街道から奥へ続く地面には、ところどころ芝が生えていた。
その真ん中を、二本の浅い筋が伸びている。
「あっ」
琥珀が座席から少し身を乗り出す。
「車輪の跡がある」
「荷馬車じゃろうな」
ベルグは目を細め、その跡が続く先を見た。
「炭鉱夫さんたち、ほんとにここ通ってたんだね」
「話だけじゃなかったってことだな」
ロクスが足元を確かめるように、一歩だけ草道へ入る。
街道ほど締まった地面ではない。
芝の下には小さな凹凸もあり、荷馬車の車輪が通ったところだけが、少し沈んでいる。
「真っ平らじゃねえな」
「でも、いきなり沈むような地面ではなさそうだね」
「ゆっくりじゃな」
「俺もそのつもりだ」
ベルグが馬力車の足元へ目を落とした。
「無理ならすぐ止めるぞ」
「うん」
ロクスがもう一度地面を確かめてから、ゆっくりと歩き出した。
街道を外れると、車輪の音が少し柔らかくなった。
芝と土の上を、
ころ、ころ。
ころ、ころ。
馬力車は、荷馬車の跡をなぞるように進んでいく。
ロクスの足音と重なったその音は、いつの間にか心地よいリズムになっていた。
小さな凹凸を越えるたび、車体がゆらりと揺れる。
けれど、板バネがその揺れを受け、角を丸めながら車体へ伝えていく。
床下では、駆動の子がロクスの歩みに合わせて働いていた。
「ロクス、腰どう?」
「少し返ってくる。でも、まだ大丈夫だ」
「無理はしないでね」
「分かってる」
その時、ふわりと風が通り抜けた。
「わっ」
幌のない馬力車の中へ、その風がそのまま入り込んでくる。
道の両側に生えていた青い草が、さわさわと同じ方向へなびいた。
その間に咲いていた小さな花も、一緒になって揺れる。
琥珀の鼻先をくすぐったのは、青い草の香り。
そこへ、ほんの少し甘い花の香りが重なった。
「いい香り……」
風に押され、琥珀の帽子の端がぱたぱたと揺れる。
押さえようと手を伸ばした、その隣。
ラファお姉ちゃんの長い髪が、同じ風を受けてふわりと流れた。
草の波と同じ方向へ、さらさらと長い髪がなびいている。
琥珀は帽子を押さえたまま、少しだけその横顔を見つめた。
いつも一緒にいるラファお姉ちゃんが、今日はなんだか、いつもより少しお姉さんらしく見える。
「……長い髪、ちょっといいなぁ」
「ん? 何か言った、琥珀ちゃん?」
「な、なんでもないよ!」
琥珀は慌てて前を向く。
しっぽだけが、座席の後ろで小さく揺れた。
風はそのまま草道を抜け、青い草と花の香りを運んでいく。
みんながその景色へ目を向ける中。
ベルグだけは、少し違うところを見ていた。
草道の凹凸を越える車輪。
上下する足回り。
揺れを受け流す板バネ。
その下で、ロクスの歩みに合わせて動く駆動の子。
ベルグの目が、順番にそれらを追っていく。
やがて懐から小さな紙を取り出すと、何かを確かめるように、さらさらと書き込み始めた。
「…………」
もう一度、足回りを見る。
紙を見る。
そして、ほんの少しだけ口元を持ち上げた。
「……これなら」
ぼそり。
にやり。
何かを思いついたような笑みだった。
けれど、それ以上は何も言わない。
前を歩くロクスも、草花を眺める琥珀とラファお姉ちゃんも、その様子には気づいていなかった。
ただ一人。
画板を抱えていた絵描きさんが、ベルグの紙と、その口元をちらりと見る。
「…………」
それから、少しだけ困ったように苦笑した。
ベルグはその視線にも気づかないまま、紙をしまい、また馬力車の足元へ目を戻した。
馬力車は、そのまま草道を進んでいく。
ころ、ころ。
ころ、ころ。
車輪の音。
ロクスの足音。
風に揺れる草の音。
ときどき届く、小さな花の香り。
誰も急かさない。
誰も先を急がない。
ただその心地よいリズムに揺られながら、街道から離れた草道を進んでいく。
しばらくして。
「……あれ?」
琥珀の耳が、ぴくっと動いた。
「どうしたの、琥珀ちゃん?」
「しーっ」
琥珀は耳を前へ向け、じっと音を探す。
ころころと転がる車輪。
ロクスの足音。
風に揺れる草。
その向こうから――
さらさら。
小さく流れる音が混じっている。
琥珀の耳が、もう一度ぴくっと動いた。
「ラファお姉ちゃん!」
「うん?」
「水の音が聞こえるよ!」
木々の向こうが、少しずつ明るくなっていった。
「あっ……!」
琥珀の耳が、ぴんと立つ。
草道の先。
木々に囲まれていた景色がふっと開け、その向こうに小さな流れが見えた。
まだ高いところに残っている日の光が水面へ落ちて、細かな光をいくつも跳ね返している。
きら、きら。
揺れる水に合わせるように、光も絶えず形を変えていた。
「小川!」
「ちゃんとあったね」
「ほんとだ……!」
開けた場所の一角には、少しだけ草の寝たところがあった。
そのそばには、前に誰かが火を使ったらしい黒ずんだ石が、いくつか丸く残っている。
さらに近くには、荷物を置いた跡のように草が平らになった場所もあった。
「あれ……もしかして」
「炭鉱夫さんたちが前に使った跡かもしれないね」
「ほんとにここで休んでたんだね」
話で聞いただけだった場所が、少しずつ目の前の景色へ変わっていく。
その時。
ぱしゃっ。
水面の一部が小さく弾けた。
「今の!」
琥珀の耳が、跳ねた場所へ向く。
もう一度。
少し離れた水面で、小さな影がきらりと光った。
ぱしゃっ。
「魚!」
しっぽが一気に大きく揺れる。
「ほんとにいた! ラファお姉ちゃん、魚いたよ!」
「うん。ちゃんと見えたよ」
「炭鉱夫さんの言ってた通りだ!」
琥珀は座席の横へ目を落とす。
そこには、猪族の炭鉱夫からもらった釣竿。
すぐにでも手に取って降りたそうに、琥珀の視線が釣竿と小川を行ったり来たりする。
「まだだぞ」
「わ、分かってるよ!」
「顔がもう川に入ってるぞ」
「入ってないもん!」
その言葉とは反対に、琥珀のしっぽは落ち着きなく左右へ揺れていた。
「そわそわしとるのが、しっぽに出とるぞ。本人は気づいとらんようじゃがの」
「えっ?」
琥珀が慌てて自分の後ろを見る。
しっぽは、まだ嬉しそうに揺れている。
「あははっ」
「も、もう!」
ロクスは開けた場所の端まで進むと、周囲を見渡した。
地面には草が生えているものの、馬力車を止めるには十分な広さがある。
「ここなら止められそうだな」
「傾きも大きくなさそうじゃ」
ベルグが地面と車輪の位置を見比べる。
「よし。ここでええじゃろ」
「じゃあ止めるぞ」
「うん!」
ロクスの歩みが止まる。
車輪の回転も、ゆっくりと収まっていった。
床下で働いていた駆動の子も、ロクスの停止に合わせて動きを止める。
車体が完全に静かになったところで、琥珀の表情が少しだけ変わった。
「じゃあ、わたしのお仕事だね」
さっきまで小川へ向いていた耳が、今度は馬力車の足元へ向く。
琥珀は乗降部分へ身体を寄せた。
「ロック……」
乗降用の仕組みを確認する。
車輪を押さえる留め具は、きちんとかかっている。
「うん。かかってる」
「踏み台、出します!」
琥珀が操作すると、車体の下から踏み台がゆっくり外へ出てきた。
最後まで出たところで、支えが噛み合う。
琥珀は、外へ出た踏み台が最後まで伸びているかを見る。
端へ軽く力をかけ、ぐらつかないことも確認する。
「踏み台もよし。ぐらつきもな~し!」
「よし」
「じゃあ降りようか」
「うん!」
真っ先に返事をした琥珀だったが、ラファお姉ちゃんが先に立ち上がる。
「あ」
「まず私が下に行くね」
「そっか。絵描きさんのお手伝いだね」
「うん」
ラファお姉ちゃんは踏み台へ片足を置き、一段ずつ確かめながら地面へ降りた。
下から振り返り、両手を軽く差し出す。
「大丈夫ですよ。ゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
絵描きさんが画板と道具を抱え直す。
琥珀も上から、荷物が踏み台へ当たらないように支えた。
「ここ、気をつけてください」
「はい」
一段。
もう一段。
最後はラファお姉ちゃんが腕を添え、絵描きさんは無事に草の上へ降りた。
「ありがとうございます」
「いえいえ!」
琥珀は嬉しそうに耳を動かす。
「次、ベルグじい!」
「わしは一人でも降りられるわい」
「でも順番!」
「はいはい」
ベルグは苦笑しながら踏み台へ足を置く。
下ではラファお姉ちゃんが、必要ならすぐ支えられる位置に立っていた。
ベルグも問題なく地面へ降りる。
「よし!」
残るのは琥珀だけ。
琥珀はくるりと座席側を振り返った。
釣竿。
荷物。
座っていた場所。
足元。
順番に目を走らせる。
「忘れものなーし!」
そして、ぴしっと片手を上げた。
「では、降ります!」
「はい、どうぞ」
ラファお姉ちゃんが下から笑って見上げる。
琥珀は踏み台へ足を伸ばす。
その時。
ぱしゃっ。
小川で、また小さな魚が跳ねた。
「あっ!」
耳がそちらへ向く。
視線も向く。
足だけが、そのまま下へ――
「琥珀ちゃん!」
「わっ!?」
踏み出した足が、踏み台の端を外した。
身体が前へ傾く。
そのまま――
ぽすっ。
琥珀の身体が、下で待っていたラファお姉ちゃんの胸元へ飛び込んだ。
「……っ」
ラファお姉ちゃんの腕が、反射的に琥珀の身体をしっかり抱き止める。
「大丈夫?」
「…………」
「琥珀ちゃん?」
胸元に顔を埋めたまま、琥珀の耳がゆっくり伏せられていった。
「……だいじょうぶ」
声が少しくぐもっていた。
琥珀はまだ、ラファお姉ちゃんの胸元に顔を埋めたままだった。
「ほんとに?」
「うん……」
ラファお姉ちゃんの腕は、まだ琥珀の身体をしっかり支えている。
片方の手が、そっと琥珀の頭へ添えられた。
「びっくりしたね」
「……うん」
琥珀の耳はぺたんと伏せたまま。
足を踏み外した恥ずかしさで、今すぐ顔を上げる勇気が出てこない。
けれど。
抱き止めてもらった腕の中は、思っていたよりずっと落ち着いた。
「琥珀ちゃん?」
「……もうちょっとだけ、このままでもいい?」
一瞬だけ、ラファお姉ちゃんが目を丸くする。
それから、ふっと優しく笑った。
「うん。いいよ」
「……えへへ」
伏せていた耳が、ほんの少しだけ持ち上がる。
ラファお姉ちゃんの指が、琥珀の髪を撫でるように一度だけ動いた。
ほんの少しだけ、そのまま。
やがて琥珀が、そっと顔を上げる。
すぐ目の前に、ラファお姉ちゃんの顔があった。
「…………」
「…………」
目が合う。
琥珀の耳が、また少し伏せた。
「……ち、近いね」
「琥珀ちゃんが飛び込んできたからね」
「うぅ……」
琥珀が恥ずかしそうに目を逸らす。
その時。
ぱしゃっ。
「!」
さっきまで伏せていた耳が、一瞬で小川へ向いた。
ラファお姉ちゃんが、思わず吹き出す。
「ふふっ」
「い、今、魚跳ねた!」
「うん。見えたよ」
さっきまでの恥ずかしさがどこへ行ったのか。
琥珀の視線は、もうきらきらした水面へ釘付けだった。
「ほれ。暗くなる前にテントを張らんとな」
「そうだな。先に場所を決めるか」
「うん!」
返事だけは、とても元気だった。
けれど視線は小川。
「琥珀ちゃん」
「な、なに?」
「返事しながら、ずっと川見てるよ」
「ちょっとだけだよ?」
「何がじゃ」
「ちょっと見るだけ!」
「その言い方は信用ならねえな」
「大丈夫だもん!」
そう言ったそばから。
琥珀は片方の靴を脱ぐ。
ぽん。
もう片方も。
ぽん。
「琥珀ちゃん?」
「ちょっとだけだから!」
靴を脱いだ琥珀は、ロングスカートの裾を両手で軽く持ち上げる。
しっぽはもう、隠す気もないくらい楽しそうに揺れていた。
「滑らんようにな」
「浅いとこだけにしとけよ」
「はーい!」
琥珀は小川の縁まで行くと、まず足元を覗き込んだ。
水の下には、小さな石。
日の光を受けて、その輪郭までよく見える。
「ここなら浅そう」
「足元、ちゃんと見てね」
「うん!」
琥珀が片足をそっと水へ入れる。
「つめたっ!」
耳がぴんと立つ。
けれど、すぐに笑顔になった。
「でも気持ちいい!」
もう片方の足も水へ。
ぱちゃ。
一歩。
ぱちゃ。
もう一歩。
ロングスカートの裾を持ち上げたまま、琥珀は浅い小川をゆっくり進んでいく。
その後ろ。
岸辺には、さっき脱いだ靴が左右ばらばらに転がっていた。
「もう……」
ラファお姉ちゃんは小さく笑うと、片方ずつ拾い上げる。
つま先の向きを合わせて。
きちんと隣同士に並べた。
「これでよし」
それから川へは入らず、琥珀の近くまで岸沿いに歩いていく。
「琥珀ちゃん、そこから先は少し深そうだよ」
「ほんとだ」
琥珀は足元を見て、浅い方へ進路を変える。
「こっちなら大丈夫!」
「うん。その辺ならよさそう」
ぱちゃ。
ぱちゃ。
琥珀が歩くたび、小さな水しぶきが日の光を受けて跳ねる。
近くで、小さな魚の影がすっと逃げた。
「あっ、いた!」
その声に。
少し離れたところで、絵描きさんが画板を開いた。
鉛筆が紙の上を滑り始める。
きらきらと光る小川。
ロングスカートの裾を持ち上げ、裸足で水の中にいる琥珀。
岸辺に揃えられた靴。
そして、その少しそばで琥珀を見守るラファお姉ちゃん。
鉛筆が、さらさらと動いていく。
琥珀はそれには気づかない。
「ラファお姉ちゃん!」
「なあに?」
「こっち、すっごく冷たいよ!」
「私は岸から見てるよ」
「えー」
「滑った時に助ける人がいなくなっちゃうでしょ?」
「あ、そっか」
琥珀は納得したように頷く。
そしてまた足元へ目を戻す。
ぱちゃ。
ぱちゃ。
冷たい水が足首の周りを流れていく。
草道を進んできた風とは、また違う心地よさだった。
琥珀は楽しそうに笑いながら、小さく水を蹴った。
ぱしゃっ。
日の光の中へ、小さな水しぶきが飛ぶ。
「えへへ」
楽しくなって、もう一度。
ぱしゃっ。
その時だった。
「あっ」
水の下にあった丸い石へ、足の裏が少し滑った。
「琥珀ちゃん!」
琥珀の身体が、ぐらりと横へ傾く。
耳がぴんと立ち、しっぽが大きく反対側へ振れた。
次の瞬間。
琥珀は身体をひねり、反射的にもう片方の足を踏み出す。
転ばない。
そのまま、ぴたりと体勢を戻した。
「ふぅ……!」
けれど。
踏み出した先は、さっきまで遊んでいた場所より少し深かった。
ちゃぷん。
「……あ」
水が膝の下まで上がる。
持ち上げていたロングスカートの裾も、一部が水へ浸かっていた。
ラファお姉ちゃんは岸辺から一歩踏み出しかけたまま、琥珀が立っていることを確かめる。
「大丈夫、琥珀ちゃん?」
「う、うん。転ばなかったよ!」
琥珀は少し得意そうに胸を張る。
そして。
自分の足元を見る。
膝下まで濡れた脚。
水に浸かったロングスカートの裾。
「…………」
琥珀の耳が、ゆっくり横へ倒れた。
「…………」
琥珀は、自分の足元をじっと見つめた。
それから、濡れたロングスカートの裾を少し持ち上げる。
水を含んだ布は、いつもより少し重かった。
「琥珀ちゃん、本当に大丈夫?」
「うん。足は大丈夫」
そう答えてから、もう一度裾を見る。
「でも……濡れちゃった」
「ふふ。ちょっとだけね」
「ちょっとじゃないよー」
耳を横へ倒したまま、琥珀は持ち上げた裾を見つめる。
けれど。
しばらく見ているうちに、その耳がゆっくり持ち上がっていった。
「……まあ」
「ん?」
琥珀の視線が、濡れた自分の足元からラファお姉ちゃんへ移った。
ラファお姉ちゃんは、岸辺でまだ少し心配そうにこちらを見ている。
「わたし、もう濡れちゃったし……」
「うん?」
琥珀の口元が、少しだけ上がる。
「ラファお姉ちゃんだけ濡れてないの、ずるい」
「えっ?」
琥珀が両手を水の中へ入れた。
「あ」
「え〜い!」
ばしゃっ!
両手ですくわれた水が、岸辺のラファお姉ちゃんへ飛んでいく。
けれど。
「わっ」
ラファお姉ちゃんが、ひょいっと身体を横へずらした。
水しぶきが、そのすぐ横を通り過ぎる。
「えっ」
その先。
「――ぶっ!」
ばしゃっ!
水が、ちょうど後ろを通りかかったロクスへまともに当たった。
「…………」
「…………」
一瞬。
小川の水音だけが聞こえた。
ロクスの顔から、水がぽたりと落ちる。
「……おい」
「あっ」
琥珀の耳が、ぺたんと伏せる。
「ご、ごめんロクス! ラファお姉ちゃんにかけようとしたら……!」
「それは分かってる」
ロクスが片手で顔の水を拭う。
「なんで避けるんだよ」
「だって、飛んできたから……」
ラファお姉ちゃんが後ろを振り返る。
びしょっと濡れたロクスを見た。
「…………」
「笑うなよ」
「わ、笑ってないよ」
そう言いながら、ラファお姉ちゃんの肩が小さく震えている。
「絶対笑ってるだろ」
「ふ、ふふっ……」
とうとうこらえきれず、ラファお姉ちゃんが口元を押さえた。
その背中を見て。
琥珀の耳が、ぴくり。
「……今だ」
もう一度、両手を水へ。
ざぶっ。
「え〜い!」
「え?」
ばしゃーーっ!
「きゃっ!」
今度は、背後から。
水しぶきが、ラファお姉ちゃんの背中と長い髪へまともにかかった。
「…………」
水を含んだ長い髪の先から、雫がぽたぽたと落ちる。
ラファお姉ちゃんが、そのままゆっくり振り返った。
「こ〜は〜く〜ちゃ〜ん……?」
「ひゃっ」
琥珀の耳が、ぴくんと跳ねる。
さっきまで水をすくっていた両手を、さっと背中へ隠した。
「な、なあに? ラファお姉ちゃん」
「今、何したのかな〜?」
「…………」
「琥珀ちゃん?」
「……お水を、ちょっと」
「ちょっと?」
琥珀がちらりと、濡れたラファお姉ちゃんを見る。
「……いっぱい」
「ふふっ」
「俺にもそのくらい優しく聞いてくれよ」
「あっ」
琥珀がロクスを見る。
ロクスも琥珀を見る。
次に、二人そろってラファお姉ちゃんを見る。
ラファお姉ちゃんの濡れた長い髪から、また一滴。
ぽたっ。
「…………」
最初に吹き出したのは、誰だったのか。
「あはははっ!」
「もう、琥珀ちゃんったら!」
「ははっ、まったく……!」
三人の笑い声が、小川のそばへ広がっていった。
少し離れたところでは、絵描きさんの鉛筆がまた静かに動き始める。
その向こうでは、ベルグがテントを張る場所を見ながら何やら声を上げていたけれど。
今の琥珀には、ほとんど耳に入っていなかった。
琥珀は、まだ背中に隠していた両手をゆっくり前へ戻す。
そして小川の水面を見る。
「……ぬれちゃったら、しかたな〜い!」
「まだやるの!?」
「今度は俺の方に飛ばすなよ!」
「え〜い!」
ばしゃーーっ!
日の光を受けた水しぶきが、小川の上できらきらと弾ける。
その向こうで、三人の笑い声がいつまでも重なっていた。




