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第59話

 金属を打つ音が、馬力車の後ろで鳴っていた。


 かん、かん、と続いていた音は、最初の一歩ではまだ近くにあった。


 ロクスが肩紐を確かめるように息を吐き、ゆっくり足を前へ出す。床下で、駆動の子が小さく応えるように動いた。


 車輪が、石畳の上をころりと回る。


 その音が一つ増えた途端、琥珀の胸の奥まで、ふわりと浮いた。


「動いた……」


「動いたな。だが、立つなよ」


 ロクスの声が、前から飛んできた。


 琥珀は、座席の端に置いた手に力を入れたまま、ぴたりと体を止める。


 立ち上がろうとしたわけではない。


 ただ、少しだけ。ほんの少しだけ、後ろを振り返って、風車の鍛冶場を見たくなっただけだった。


 けれど、その少しを、ロクスはちゃんと見ていた。


「……立たないよ」


「今の間は、立つ奴の間だ」


「うっ」


 琥珀の耳が、帽子の耳穴から少しだけ横へ倒れた。


 隣で、ラファお姉ちゃんが小さく笑う。


「琥珀ちゃん、座ったままでも見えるよ。ほら、こっち」


 ラファお姉ちゃんがそっと示した先で、風車の鍛冶場の屋根が見えた。


 開けた扉の奥には、まだ人の影が動いている。ベルグが残してきた指示を受けて、職人たちが作業を続けているのだろう。


 金属を打つ音は、馬力車の車輪の音に少しずつ混ざっていく。


 かん、かん。


 ころ、ころ。


 その二つが重なって、やがて少しだけ離れていく。


 琥珀は、その音を聞きながら、街の方を見た。


 風月の鐘亭のある通り。水瓶座の風車が見える方角。買い物をした店。何度も通った石畳。朝、掃除をした店先。


 この街に来たのは、本当につい最近のことだった。


 なのに、胸の中で思い返すと、もっと長くここにいたような気がした。


 初めて目を覚ました時のこと。


 ラファお姉ちゃんと一緒に、何も分からないまま街を歩いたこと。


 風月の鐘亭で働いたこと。


 ベルグじいの工房へ通ったこと。


 手紙を書いたこと。


 絵を頼んだこと。


 弁当を包んだこと。


 その一つ一つが、石畳の隙間に少しずつ挟まっているみたいだった。


「……なんだか、変な感じ」


「どうしたの?」


「この街に来たの、つい最近なのに。もう、ずっといたみたい」


 ラファお姉ちゃんは、少しだけ街の方を見てから、琥珀へ視線を戻した。


「それだけ、ここで覚えたことが多かったんだと思う」


「覚えたこと……」


「うん。道の歩き方も、人への頼み方も、働いた後のごはんの香りも。あと、馬力車に乗る時は急に立たないことも」


「最後のは今、覚え直してるところだよ」


「だから、ちょうどいいね」


 琥珀は、むうと頬をふくらませた。


 けれど、ラファお姉ちゃんの言葉は、からかうためだけのものではない。


 座席の横には、手を掛けやすい木の握りが付いていた。


 乗る時にも気づいてはいた。けれど、今、実際に車輪が動き出してみると、その意味がよく分かる。


 揺れた時。


 振り返りたくなった時。


 嬉しくて身を乗り出しそうになった時。


 そこに手を置ける場所があるだけで、体が座席へ戻ってくる。


 琥珀は、その木の握りをそっと撫でた。


 手のひらに、まだ新しい木の感触が返ってくる。


「これ、掴みやすい」


「うん。ベルグさんが最後に足してくれたところだね」


「最後?」


 琥珀が首をかしげると、後ろの座席でベルグが、わざとらしく咳払いをした。


「最初から必要じゃと思っとっただけじゃ」


「本当?」


「本当じゃ。落ち着かん子が乗っても、掴むところくらいは要るからの」


「落ち着かん子って、わたしのこと!?」


「他に誰がおる」


 すぐにロクスが返した。


 琥珀のしっぽが、座席の上で小さく跳ねる。


 ベルグは、喉の奥で愉快そうに笑った。


「図面を見とったらの。ここに一本、握れるものがあった方がよいと、ロクスが言いおったんじゃ」


「俺は言ってねえ」


「しっぽで言っとった」


「言ってねえ」


 ロクスのしっぽが、前で一度だけ横に振れた。


 それが否定なのか、照れ隠しなのか、琥珀には分からなかった。


 けれど、ベルグはますます楽しそうに笑っている。


「職人には、言葉だけが合図ではないからのう」


「勝手に読むな」


「読まれるように振る方が悪い」


 絵描きさんが、板挟みを抱えたまま、くすりと笑った。


「いいですね。道具に、その人のことが入っている感じがします」


 琥珀は、もう一度、座席の横の握りを見た。


 落ち着かない子が乗っても、掴む場所が必要。


 その言い方は少し恥ずかしい。


 けれど、それはつまり、ベルグじいもロクスも、琥珀がどんなふうに喜んで、どんなふうに身を乗り出しそうになるかを知っていたということだった。


 ただ叱るためではなく。


 止めるためだけでもなく。


 それでも一緒に乗れるように、ちゃんと形にしてくれていた。


 琥珀は、木の握りを両手で掴んだ。


「……じゃあ、ちゃんと掴む」


「そうしてくれ。こっちは前を見て歩いてんだ」


「うん」


 返事をすると、ロクスのしっぽが、また一度だけ揺れた。


 馬力車は、街の門へ向かって進んでいく。


 石畳の道はよく整えられていて、車輪は大きく跳ねない。街灯の柱が、道の端に間隔をあけて並んでいる。昼の光の中では火は入っていないけれど、夜になれば、この道を歩く人たちの足元を照らすのだろう。


 街の中の音が、少しずつ後ろへ下がっていく。


 鍛冶場の音。


 店先の声。


 水を運ぶ音。


 遠くの風車が回る音。


 その全部が、琥珀たちの背中側へ流れていく。


 前には、街道が伸びていた。


 リノちゃんと別れた時に歩いた道。


 その先へ、今度は馬力車で向かっている。


 琥珀は座席の横の握りを掴んだまま、帽子の下で耳をぴんと立てた。


 胸の奥は、まだ落ち着かない。


 けれど、それは怖いからではなかった。


 本当に、出発したのだ。


 リノちゃんのところへ。


 馬力車の車輪が、整えられた石畳の上を、ゆっくりと回っていった。


 街道の石畳は、街の外へ出ても、しばらくまっすぐ続いていた。


 道の両側には、低い石垣がところどころに残っている。崩れたところもあるけれど、人の手で積み直された場所には、新しい石の色が混じっていた。


 その向こうに広がる土は、まだ少し乾いている。


 けれど、琥珀はすぐに気づいた。


 前にこの道を歩いた時とは、見える色が少し違う。


「……あれ?」


「どうしたの、琥珀ちゃん」


「ここ、少し変わった?」


 琥珀は、座席の横の握りをちゃんと掴んだまま、道の脇へ視線を向けた。


 石垣の下。


 乾いた土の割れ目。


 小さな石の陰。


 そこに、細い草が出ていた。


 まだ背は低い。風に揺れるほど大きくもない。けれど、土の色だけだった場所に、緑が点々と混じっている。


 琥珀の耳が、帽子の耳穴からぴんと立った。


「前は、もっと茶色ばっかりだった気がする」


 ラファお姉ちゃんも、道の外へ目を向けた。


 すぐに答えず、街道の先と、石垣の下と、少し遠くの斜面を順に見る。


「うん。少し、緑が増えてる」


「やっぱり?」


「まだ全部じゃないけどね。土が乾いたままのところもある。でも、前より流れが戻ってきているのかもしれない」


 流れ。


 その言葉を聞くと、琥珀の胸の奥に、風車の音がよみがえった。


 止まりかけていた風車。


 うまく巡らなくなっていたマナ。


 枯れた土。


 石のように固くなった大地。


 あの時、琥珀とラファお姉ちゃんは、自分たちにできることを一つずつ重ねた。


 壊れたものを全部直せたわけではない。


 遠くの山まで、一度に緑を戻せたわけでもない。


 それでも、見えない流れが少し安定して、止まっていたものがまた動き始めた。


 その答えが今、道の脇に小さく出ている。


「……芽だ」


 琥珀は、ぽつりと言った。


 小さすぎて、馬力車の上から見落としてしまいそうな芽だった。


 けれど、一度気づくと、あちらにも、こちらにもある。


 石垣の隙間から伸びる細い葉。


 土の割れ目に沿って並ぶ緑。


 風に揺れるにはまだ早い、小さな命。


「ちゃんと、出てきてるんだね」


「うん。すぐに森になるわけじゃないけど、戻ろうとしてる」


 その言い方が、琥珀には少し嬉しかった。


 直った、ではない。


 戻ろうとしている。


 まるで大地も、少しずつ起き上がろうとしているみたいだった。


 前の方で、ロクスが道の端を見ながら鼻を鳴らした。


「草が増えると、土も少し締まり方が変わる」


「分かるの?」


「歩けばな。乾ききった土は、足の下で崩れる。少し草がある場所は、踏んだ時の返りが違う」


 ロクスは、速度を変えずに歩いている。


 けれど、その足取りはただ前へ進むだけではない。石畳の端、道の継ぎ目、土の色、車輪の音を確かめながら進んでいる。


 ベルグが腕を組んだまま、満足そうにうなずいた。


「道も生きとる、ということじゃな」


「道も?」


「使う者がおって、直す者がおって、水が通り、草が生える。そうなれば、ただの土や石ではなくなる」


 ベルグは、石垣の方を見た。


「風車が止まれば、流れも鈍る。流れが鈍れば、土も痩せる。じゃが、流れが戻れば、こうして少しずつ顔を出すものもある」


 琥珀は、道の脇に目を凝らした。


 小さな緑は、誰かに見てもらうために出てきたわけではない。


 けれど、それを見つけた瞬間、胸の奥があたたかくなる。


 自分たちがしたことは、本当にこの世界のどこかへ届いていたのだと、そう思えた。


「ラファお姉ちゃん」


「なあに?」


「わたしたちがやったこと、少しは届いてたんだね」


 ラファお姉ちゃんは、やわらかく目を細めた。


「うん。届いてたんだと思う」


 絵描きさんが、板挟みを膝の上で押さえながら、道の脇を眺めていた。


 紙はまだ大きく広げていない。揺れる車内で無理をしないように、角だけを指で留めている。


「最近、このあたりも緑が増えてきましたね」


「絵描きさんも、気づいてたの?」


「ええ。前に通った時より、少しずつ色が増えています。土の色だけだった場所に、薄い緑が入るようになりました」


 絵描きさんは、鞄の中から小さな絵の具入れを取り出した。


 蓋は開けない。ただ、指先でそっと撫でる。


「私の絵の具も、少し色鮮やかになってきていますよ」


「絵の具も?」


「はい。景色に色が戻ると、使いたくなる色も増えますから」


 琥珀は、目を丸くした。


 草が増える。


 土の色が変わる。


 風景が変わる。


 すると、絵描きさんの絵の具まで色鮮やかになる。


 それは不思議だけれど、なんだかとても分かる気がした。


 ラファお姉ちゃんが、絵描きさんの手元を見て言った。


「描くのは、止まってからの方が安全ですね」


「ええ。今は目で覚えておきます」


 絵描きさんは、街道の先へ視線を向けた。


 その横顔は、いつもの穏やかなものだった。


 けれど、一瞬だけ、琥珀には、その人が景色を見るだけでなく、景色の奥にある何かを確かめているようにも見えた。


 風の向き。


 土の色。


 戻り始めた緑。


 その全部を、紙に写す前に、心の中でそっと並べているようだった。


 琥珀は、もう一度、道の脇の芽を見た。


 小さな緑は、石畳のそばで静かに続いている。


 まだ弱い。


 まだまばら。


 けれど、確かにそこにある。


 馬力車は、その緑の横を、ゆっくり進んでいった。


 石畳の街道は、ゆるやかに続いていた。


 街灯の柱が少しずつ間隔を広げ、道の両側に見える家や畑も、いつの間にか少なくなっている。


 代わりに、低い丘と、遠くへ伸びる道と、空の広さが目に入るようになってきた。


 琥珀は、座席の横の握りを掴んだまま、前の景色を見ていた。


 この道を、前にも通ったことがある。


 けれど、その時は馬力車ではなかった。


 ラファお姉ちゃんと二人で歩いていた。


 荷物を抱えて、足元を確かめながら、どこまで続くのか分からない道を進んだ。街道から外れた後は、土の道がずっと続いていた。歩いても歩いても景色がなかなか近づいてこなくて、遠くに見えるものが、本当に近づいているのか分からなくなった。


 夕方には、二人でテントを張った。


 慣れない手つきで布を広げ、風にあおられないように押さえ、何度も紐を結び直した。


 夜になると、空には星が出た。


 知らない世界の星空だった。


 けれど、隣にはラファお姉ちゃんがいた。


 だから、怖さだけではなかった。


 琥珀は、その時の空の広さを思い出して、少しだけ息を吐いた。


「ここ、前にも通ったよね」


 ラファお姉ちゃんが、琥珀の視線を追う。


「うん。二人で歩いた道だね」


「歩くと、すごく遠かったよね」


「遠かったね。途中で何度も休んだし、テントも張った」


「星、すごかった」


「うん。よく覚えてる」


 ラファお姉ちゃんの声は、静かだった。


 あの時の星空を、同じように思い出しているのだと分かる。


 琥珀は、馬力車の上から道の先を見た。


 同じ道なのに、今は少し違って見える。


 足で一歩ずつ進んだ時には、道の長さばかりが分かった。


 今は、車輪の音と、ロクスの足音と、板のきしむ小さな音が一緒に進んでいる。


 二人で歩いた道を、今はみんなで進んでいる。


「なんだか、不思議」


「なにが?」


「前は、ラファお姉ちゃんと二人だったでしょ。今は、ロクスも、ベルグじいも、絵描きさんもいて、馬力車まである」


「うん」


「同じ道なのに、増えたね」


 ラファお姉ちゃんが、やわらかく笑った。


「うん。増えたね」


 その言葉だけで、琥珀の胸は少しあたたかくなった。


 増えた。


 荷物だけではない。


 道具だけでもない。


 名前を呼べる人が増えた。


 一緒に進んでくれる足音が増えた。


 見送ってくれる街も、帰る場所も、会いに行きたい相手も増えた。


 琥珀は、帽子の下で耳をぴこりと動かした。


 その時、ふと、別の記憶が浮かんだ。


 同じ道。


 遠くから聞こえてきた、ものすごい音。


 そして、風を切るように現れた馬力車。


 馬力車、のはずだった。


 けれど、あれは本当に馬力車と呼んでよかったのだろうか。


 琥珀は、思い出した瞬間、口元を押さえた。


「……ふふっ」


「琥珀ちゃん?」


「ごめん。思い出しちゃった」


「何をだ」


 前から、ロクスの低い声が飛んできた。


 琥珀は、口元を押さえたまま、しっぽを小さく揺らす。


「初めて会った時のこと」


 ロクスの足音が、ほんの少しだけ重くなった。


「思い出すな」


「まだ何も言ってないよ」


「言う前から分かる」


 ベルグが、隣で大きく笑った。


「はっはっは。あれは見事な走りじゃったのう」


「どこがだ」


「道の石も、風も、人も、全部まとめて驚かせたではないか」


「驚かせるために走ってたんじゃねえ」


 琥珀は、もう耐えきれずに笑った。


 あの時、遠くから聞こえたのは、車輪の音というより、何かが大急ぎで迫ってくる音だった。


 ベルグじいの声が響いた。


 どけどけーー。


 ロクスは、馬力車を引いているというより、馬力車にしがみついていた。


 風をまとって走るその姿に、琥珀は本気で驚いた。


 ラファお姉ちゃんも、あの時はすぐに琥珀を守れるように動いた。


 今思い出すと笑える。


 けれど、その時は本当に、何が来たのか分からなかった。


「あの時の馬力車、すごかったよね」


「すごいの言い方に、いろいろ混じってる気がするんだが」


「だって、ロクス、引いてるっていうより、しがみついてたから」


「しがみついてねえ。止めようとしてたんだ」


「止めようとして、あの速さだったの?」


「だから思い出すなと言った」


 ベルグは、目じりにしわを寄せて笑っていた。


「あれはあれで、わしの技術の結晶じゃったぞ」


「暴れる結晶は結晶って呼ぶのか」


「呼ぶとも。少々元気がよすぎただけじゃ」


「少々で済むか」


 絵描きさんまで、肩を揺らして笑っている。


「見たかったですね、その馬力車」


「見なくていい」


「描いたら、すごい絵になりそうです」


「描くな」


 琥珀は笑いながら、前にいるロクスの背中を見た。


 今のロクスは、あの時とは違う。


 馬力車に振り回されているわけではない。


 急かされて走っているわけでもない。


 肩紐と腰紐を受け止め、自分の歩幅を崩さず、車輪の音を聞きながら進んでいる。


 道の先を見ている。


 乗っている人たちの重さを背中で受けている。


 速く走るためではなく、ちゃんと着くために歩いている。


 その背中は、大きく見えた。


 琥珀は、笑っていた口元を少しずつ閉じた。


 胸の奥に、さっきとは違うあたたかさが広がる。


 前に進むたび、ロクスのしっぽが小さく揺れる。


 足元の石畳を確かめるような歩き方。


 車体が少しきしむたび、すぐに気づく肩の動き。


 ぶっきらぼうな声の奥にある、ちゃんと見ている感じ。


 琥珀は、帽子のつばの下で、少しだけ頬を赤くした。


「……かっこいい」


 声は、とても小さかった。


 自分でも、口からこぼれた後に気づいたくらいだった。


 ラファお姉ちゃんが、隣でそっと琥珀を見る。


 けれど、何も言わなかった。


 ただ、少しだけ目を細める。


 前を歩くロクスは、振り返らない。


 聞こえていなかったのかもしれない。


 けれど、そのしっぽが、一度だけ、ふわりと揺れた。


 琥珀は、あわてて座席の横の握りを掴み直した。


 ベルグが、また小さく笑った。


「今の馬力車も、悪くなかろう」


「うん」


 琥珀は、前を向いたまま答えた。


 昔は、歩くと本当に遠かった道。


 初めて会った馬力車は、何が起きたのか分からないくらいすごかった道。


 その道を、今は新しい馬力車で進んでいる。


 ロクスの背中を見ながら。


 ラファお姉ちゃんと並んで。


 少しずつ、リノちゃんのところへ近づいている。


 街道は、まだ整えられた石畳のまま続いていた。


 街の中ほど人の声は多くない。けれど、道そのものには、人が行き来してきた跡がある。


 端に並ぶ街灯の柱。


 ところどころ積み直された石垣。


 道の脇に残る荷車の車輪跡。


 遠くへ行く人が、夜でも迷わないように整えられた道。


 その上を、馬力車はゆっくり進んでいた。


 街の中で走った時より、道は長い。


 大きく跳ねるような揺れはない。けれど、石畳の継ぎ目を越えるたびに、小さな揺れが同じ調子で座席へ伝わってくる。


 ころ、ころ。


 ことり。


 ころ、ころ。


 ことり。


 その繰り返しを聞いていると、短い試走では分からなかったものが、少しずつ見えてくる気がした。


 ベルグは、腕を組んだまま、車体の下へ目を向けていた。


「ふむ」


「ベルグじい?」


「悪くはない。じゃが、こうして長く進ませると、また見えるものがあるのう」


 琥珀は、座席の横の握りを掴んだまま、足元を見た。


 床下では、駆動の子がロクスの歩きに合わせて動いている。


 街を出る時の一歩。


 石畳の継ぎ目を越える時の少しの沈み。


 ロクスが歩幅をそろえるたびに、床下の動きもそれに合わせて小さく変わる。


 目立つ動きではない。


 けれど、確かに働いている。


「駆動の子、ちゃんと合わせてる?」


「合わせようとはしておる」


「しようとは?」


「道具は、使う者の動きを勝手に全部読めるわけではない。ロクスが歩幅をそろえ、急に力を変えんからこそ、合わせられるんじゃ」


 前を歩くロクスが、鼻を鳴らした。


「急に変えたら、俺の腰にも返るからな」


「腰、大丈夫?」


「大丈夫かどうかで言えば、まだ分からん。道は悪くねえ。だが、同じ返りが長く続くと、少しずつ溜まる」


「溜まる……」


 琥珀は、その言葉を小さく繰り返した。


 大きな衝撃が来ないから大丈夫、というわけではない。


 少しの揺れでも、ずっと続けば体に残る。


 ロクスの肩や腰には、乗っているみんなの重さと、車輪の返りが少しずつ届いている。


 琥珀は、前を歩くロクスの背中を見た。


 さっきまで頼もしく見えていた背中が、今はまた少し違って見える。


 かっこいい。


 それは変わらない。


 けれど、その背中は、ちゃんと負担も受けている。


「……無理しないでね」


「するかよ」


「本当?」


「無理して倒れたら、馬力車ごと止まるだろうが」


「それはそうだけど」


 ベルグが低く笑った。


「その言い方で安心させるのが、ロクスらしいのう」


「安心させるつもりで言ってねえ」


「なら、なおさらじゃ」


 ラファお姉ちゃんは、座席の足元と荷物の位置を確認していた。


 弁当の包み。


 水袋。


 工具袋。


 予備の留め具。


 油小瓶と布きれ。


 絵描きさんの板挟みと画材。


 どれも大きくずれてはいない。


 けれど、同じ調子の小さな揺れで、包みの端や紐の結び目がほんの少しずつ動いている。


「荷物は大きく崩れていません。ただ、長く揺れると、少しずつ紐が緩むところはありそうです」


「短い試走じゃ見えんところじゃな」


「途中で止まって、確認した方がいい?」


「うん。休憩の時に、荷物の位置と紐の緩みを見ようね」


 琥珀はうなずいた。


 その時、膝の上の包みが、小さくかさりと鳴った。


 猫型クッキーの包みだ。


 石畳の継ぎ目を越えた揺れで、膝の上を少しだけ滑りかけていた。


「あっ」


 琥珀は、あわてて包みを抱え直した。


「大丈夫。ちゃんと持ってる」


「大切なものほど、道の上ではちゃんと押さえてあげようね」


「うん。これは絶対守る」


 琥珀は、猫型クッキーの包みを両腕で抱いた。


 ロクスが前を向いたまま言う。


「菓子も乗り手も、油断すると滑るからな」


「わたしは滑ってないよ」


「滑りそうな顔はしてた」


「顔で分かるの?」


「分かる」


 琥珀の耳が、帽子の耳穴から少し横へ倒れた。


 ベルグが、また楽しそうに笑った。


 絵描きさんは、板挟みを膝の上に置いていた。


 街道が整っているおかげで、紙を完全にしまわなくても、手元は大きく乱れない。


 それでも、絵描きさんは紙の端をしっかり押さえ、線を引くたびに車輪の音を聞いていた。


「描けそう?」


「少しだけなら。けれど、思っていたより線が逃げません」


「線が逃げない?」


「はい。車体が跳ねると、線が思わぬ方へ行ってしまうんです。でも、この馬力車は揺れが乱暴ではありません」


 絵描きさんは、短い線を紙の端に置いた。


 街灯の柱。


 遠くの石垣。


 馬力車の影。


 ほんの少しだけなのに、そこには今進んでいる道の感じがあった。


 ベルグが、その手元を見てうなずく。


「描く人の手も、乗り心地を見るよい目安になるのう」


「そうなの?」


「線が大きく暴れるなら、座っとる者の体にも負担が大きい。線が置けるなら、揺れの角はある程度丸まっとるということじゃ」


「では、私も確認係ですね」


「無理をせん確認係じゃな」


「はい。ちゃんとした絵は、止まってからにします」


 ラファお姉ちゃんが、やわらかくうなずいた。


「それが安心です」


 馬力車は、同じ速さで進んでいく。


 板バネは、石畳の継ぎ目から来る小さな揺れを受け止めていた。


 揺れを消しているわけではない。


 けれど、体に刺さるような角を、少しずつ丸めている。


 駆動の子も、ロクスの歩きに合わせて働いている。


 勝手に全部を直すのではなく、ロクスの歩き方と一緒に、力の返りを少しずつ逃がしている。


 琥珀は、そのことを思いながら、前を見た。


 街道の先には、まだ石畳が続いている。


 土道へ入る分かれ道は、もっと先だ。


 今日は、まずこの整えられた道を、焦らず進む。


 長く乗って、長く引いて、長く揺られてみる。


 それだけで、分かることがある。


「ベルグじい」


「なんじゃ」


「馬力車って、完成してからも、道の上で育つんだね」


 ベルグは、少しだけ目を細めた。


「よいことを言うのう。道具は、使われてからが本番じゃ」


「本番……」


「図面の上では見えんものが、道にはある。乗る者、引く者、積む物、天気、石の並び。そういうものを一つずつ覚えて、道具は本当に使える形になっていくんじゃ」


 琥珀は、猫型クッキーの包みを抱えたままうなずいた。


 今、この馬力車は走っている。


 でも、すべてが終わったわけではない。


 幌はまだない。


 雨の日も、長い道も、荷物をいっぱいに積んだ時も、まだ確かめていない。


 ロクスの腰への返りも、なくなったわけではない。


 だからこそ、こうして進みながら見ていく。


 それが、リノちゃんのところへ向かう道なのだと思った。


 街灯の柱が、また一つ後ろへ流れていく。


 車輪の音は、整えられた石畳の上で、ゆっくりと続いていた。


 街道は、まだ石畳のまま続いている。


 けれど、街の音はもうほとんど聞こえなかった。


 代わりに聞こえるのは、車輪が石畳を進む音と、ロクスの足音と、時折、荷物の包みが小さく鳴る音だった。


 琥珀は、猫型クッキーの包みを膝の上で抱え直した。


 日差しは、朝より少し強くなっている。


 幌のない馬力車の上では、空が広い。


 帽子のつばがなかったら、きっと何度も目を細めていたと思う。


 琥珀は、帽子の耳穴から出た耳をぴこりと動かした。


「マーレさんの帽子、ちゃんと役に立ってる」


「うん。幌がない分、日差しは直接来るからね」


 ラファお姉ちゃんは、水袋の位置を確かめた。


 座席のすぐそば、手を伸ばせば取れる場所にある。


 第58話で、取り出しやすいように置いたものだ。


「琥珀ちゃん、少し飲んでおこうか」


「まだ喉、からからじゃないよ?」


「からからになる前に飲む方がいいよ。今日は晴れているし、幌もないから」


「そっか」


 琥珀は、水袋を受け取った。


 革の表面は、手のひらに少しひんやりしている。


 口をつけて、少しだけ飲む。


 水が喉を通ると、体の中に残っていた熱が静かに落ち着いた。


「……おいしい」


「よかった」


 ラファお姉ちゃんも、少し飲んだ。


 絵描きさんにも水袋が回る。


 絵描きさんは、板挟みを片手で押さえながら礼を言い、無理のない量だけ口にした。


「ありがとうございます。描くことばかり考えていると、飲むのを忘れそうになりますね」


「忘れる前に飲むのが大事です」


「はい。覚えておきます」


 ロクスが少し足をゆるめたところで、ベルグが別に用意した水袋を手渡した。


 ロクスは立ち止まらず、それを受け取る。


「止まらなくていいの?」


「まだ平気だ。次に広い場所があったら、そこで止まる」


「無理してない?」


「してねえ」


「本当に?」


「本当だ。水は飲む。速くはしない。それで今は足りる」


 ロクスはそう言って、水を一口飲んだ。


 それから、また同じ歩幅で進む。


 ベルグがその様子を見て、うなずいた。


「よい。休む場所を決めて進むのも、道中のうちじゃ」


「ずっと進むだけじゃないんだね」


「進むために休むんじゃ」


 琥珀は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 進むために休む。


 リノちゃんのところへ早く行きたい気持ちはある。


 けれど、早く行くことだけが大事なのではない。


 ちゃんと着くこと。


 みんなで着くこと。


 持ってきたものを壊さず、ロクスに無理をさせず、道の変化を見ながら進むこと。


 それも、会いに行くための準備の続きなのだと思った。


 街道の先は、ゆるやかに曲がっている。


 曲がり角の向こうには、少し広い休憩場所があるようだった。


 石垣が低く切れ、街灯の柱のそばに、腰を下ろせそうな平たい石が見える。


 ロクスが、そこへ向けて速度を少し落とした。


「次で一度止める」


「荷物の紐も見ようね」


「うん」


 琥珀は、猫型クッキーの包みを抱えたまま、周りを見た。


 道の脇には、戻り始めた緑がまだぽつぽつと続いている。


 乾いた土の色もある。


 けれど、その間に、細い草の線が少しずつ増えている。


 風が吹いた。


 最初は、日差しの下を通ってきた、軽い風だった。


 帽子のつばを揺らし、絵描きさんの紙の端を少しだけ浮かせる。


 琥珀は、猫型クッキーの包みを片手で押さえ、もう片方の手で帽子を押さえた。


 その時だった。


 風の中に、ほんの少しだけ、違うものが混じった。


 冷たい。


 夏へ向かう日差しの中に、細い糸のような冷たさが通っている。


 琥珀の耳が、ぴくりと前を向いた。


「……今の」


 ラファお姉ちゃんも、顔を上げた。


「うん」


 短い返事だった。


 それだけで、ラファお姉ちゃんも気づいたのだと分かった。


 ロクスも足を止めはしなかったけれど、耳の後ろから首筋へかけて、少しだけ力が入ったように見えた。


「風が変わったな」


 ベルグは、遠くの山の方を見た。


 すぐには何も言わない。


 断定するには、まだ早い。


 けれど、気のせいで済ませるには、確かに冷たかった。


 琥珀は、リノちゃんの手紙を思い出した。


 山の方から来る風が、少し冷たい。


 その言葉が、胸の奥でそっと開く。


 怖い、とは違う。


 でも、なんでもない、とも言えない。


 琥珀は、猫型クッキーの包みを抱く腕に、少しだけ力を込めた。


「リノちゃんも、これを感じたのかな」


「そうかもしれないね」


「向こうで確かめるしかないのう」


 ベルグの声は落ち着いていた。


 急がせる声ではない。


 けれど、進む理由を、もう一度確かめる声だった。


 ロクスが、ゆっくり息を吐く。


「なら、なおさら無茶はしねえ。ちゃんと着く」


「うん」


 琥珀は、小さくうなずいた。


 冷たい風は、すぐに通り過ぎた。


 けれど、その感触は、耳の奥と頬の上に少し残っている。


 馬力車は、休憩場所へ向かってゆっくり進む。


 街灯の柱のそばにある平たい石が、少しずつ近づいてきた。


 その時、曲がり角の向こうから声がした。


「おーい!」


 聞き覚えのある声に、琥珀が振り向いた。

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