第58話
風月の鐘亭の窓から、朝の光が差し込んでいた。
まだ昼のような強さはない。それでも、屋根の向こうから昇ってきた陽は、店先の石畳を端から少しずつ明るく染めている。
日の当たる場所には、じんわりと温かさが生まれ始めていた。
けれど、開け放した窓から入ってくる風は軽い。
店の中を抜け、壁に掛けられた布を揺らし、そのまま反対側の窓へ抜けていく。
以前、街へまとわりついていた熱とは違う。
どこへ行っても逃げ場がなく、朝も夜も石や壁の中から染み出してくるようだった、あの熱ではない。
今朝の温かさは、空から差す光と一緒にやってくる。
日陰にはまだ涼しさが残り、風もきちんと街の中を歩いていた。
季節が、少しずつ夏へ近づいている。
風月の鐘亭の台所では、旅へ持っていく包みが卓上に並べられていた。
人数分の弁当。
水を満たした水袋。
油小瓶と布きれ。
細い縄と予備の留め具。
道具を包む布。
その端には、二枚の板で絵を挟んで守る板挟みと、絵描きさんの画材が置かれている。
そして琥珀の前には、リノへ持っていく猫型クッキーの包みがあった。
琥珀は、その包みを両手で持ち上げた。
潰れていないことを確かめ、そっと卓上へ戻す。
少し離れたかと思えば、また包みへ戻ってくる。
耳は朝からぴんと立ったまま。
しっぽも、琥珀の足元で落ち着きなく右へ左へ揺れていた。
「琥珀ちゃん。猫型クッキーは、さっきから三回確認してるよ」
「よ、四回目かもしれない……」
「増えてるね」
ラファお姉ちゃんが笑う。
琥珀は猫型クッキーの包みへ、もう一度だけ指先で触れた。
「だって、途中で割れたらかわいそうだし……。リノちゃんに、ちゃんと猫の形で渡したいもん」
「それなら、手元へ置いておこうか。ほかの荷物の下には入れないようにしよう」
「うん!」
琥珀のしっぽが、ぱっと持ち上がった。
そのまま猫型クッキーだけでなく、水袋にも手を伸ばす。
さらに弁当の包みを持ち、油小瓶の入った布包みまで腕へ抱えようとした。
「琥珀ちゃん」
「まだ持てるよ?」
「持てることと、安全に運べることは別だよ」
琥珀の腕の中で、水袋と弁当の包みが窮屈そうに押し合っていた。
猫型クッキーまで一緒に抱えれば、大切に運ぶはずの包みを自分で潰してしまいそうだった。
琥珀は腕の中を見下ろした。
耳が少しだけ横へ倒れる。
「……持てる量」
「うん。大切なものほど、持ちすぎないことも準備のうちだよ」
「じゃあ、わたしは猫型クッキーを持つ。水袋は、すぐ取れるところに置く」
「それがよさそうだね」
琥珀は水袋と弁当を卓上へ戻し、猫型クッキーの包みだけを胸元へ抱えた。
その隣では、マーレが弁当の包みを一つずつ指で確かめていた。
「こっちがロクスの分。少し多めにしてあるよ。こっちがベルグじいさん。それから絵描きさん。こっちは琥珀たちの分さね」
「五人分、全部あります。水袋も数は合っています」
「数だけじゃなく、中身も飲んだ分だけ減るんだからね。晴れてるからって、水を後回しにするんじゃないよ」
「はい」
「はーい!」
「琥珀は返事だけ元気になってないだろうね」
「だ、大丈夫だよ。ちゃんと飲むもん」
琥珀の耳が、ほんの少しだけ後ろへ逃げた。
マーレはそれを見逃さなかったが、それ以上は言わず、最後の弁当を包み布の上へ置いた。
店先から、風が一つ入ってきた。
台所に残っていた焼き菓子の香りを揺らし、卓上の包み布の端を小さく持ち上げる。
マーレはふと顔を上げた。
そのまま店先へ出ると、朝の空へ鼻先を向ける。
ひく。
ひくひく。
風の向きが変わるたび、マーレの鼻先もわずかに動いた。
琥珀とラファお姉ちゃんも、荷物を持って店先までついていく。
空は青く、屋根の向こうには白い雲がゆっくり流れていた。
木々には濃い葉が茂り、風を受けるたび、陽の光を細かく跳ね返している。
通りの向こうでは、店先へ日除け布を広げ始めている人がいた。
別の店では、桶の水が石畳へ撒かれ、朝の光の中で小さく輝いている。
マーレはしばらく風を確かめたあと、空を見上げた。
「この様子なら、数日は晴れさね」
「香りで分かるの?」
「香りだけじゃないよ。風の湿り方も、草や土の香りも、雲の流れも、みんな少しずつ教えてくれるのさ」
琥珀は目を丸くした。
そして、マーレと同じように鼻先を空へ向ける。
猫の耳をぴんと立て、目を閉じた。
ひく。
ひくひく。
風の中から何かを探すように、もう一度、鼻先を動かす。
最初に届いたのは、日の当たり始めた石畳の乾いた香りだった。
その次に、木々の青い香り。
けれど、それよりもはっきり分かったものがあった。
包み布の中から漂ってくる弁当の香り。
そして、胸元に抱えた猫型クッキーの、甘く焼けた香り。
きゅるるるる。
琥珀のお腹が、静かな朝の店先で元気よく鳴った。
「ひゃっ……」
琥珀は両手でお腹を押さえた。
耳がぺたりと伏せられ、しっぽの毛が恥ずかしそうに少しだけ膨らむ。
ラファお姉ちゃんは口元へ手を当てた。
マーレは一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑った。
「はははっ。ちゃんと自然を感じてる証拠さね。お腹が先に返事したよ」
「空のことを感じようとしたのにぃ……」
「弁当もクッキーも、麦や木の実からできてるんだ。間違っちゃいないよ」
「そうなのかな……」
「琥珀ちゃんが最初に感じたものとして、覚えておけばいいよ」
「お腹の音を?」
「石畳の香りと、木の葉の香り。それから、その中でお弁当の香りが一番よく分かったこと」
琥珀は、もう一度だけ風へ鼻先を向けた。
今度は目を閉じず、風に揺れる木の葉を見る。
まだ、マーレのように天気までは分からない。
それでも、いくつもの香りが同じ風の中にあることは、さっきより少しだけ分かる気がした。
「わたしも、いつか分かるようになるかな」
「なるさ。毎日同じように鼻を動かして、それから空がどうなったかを見ておけばね」
「感じたことと、そのあとの変化を一緒に覚えていこう。私も手伝うよ」
「うん。ラファお姉ちゃんと一緒に覚える」
琥珀の耳が、ゆっくり起き上がった。
その耳先を、夏へ向かう朝の風が撫でていく。
マーレはそんな二人を見ながら、今度は馬力車の方角へ目を向けた。
「晴れるのはいいけど、あの馬力車には、まだ幌がないんだったね」
「うん。雨の日も、長い距離も、荷物をいっぱいに積んだときも、まだちゃんと確かめてないの」
「なら、雨だけじゃなく日差しにも気をつけな。昼になれば、朝よりずっと暑くなるよ」
「水袋は手の届く場所へ置きます。日差しの強い時間は無理に進まず、休める場所も確認します」
「それだけじゃ足りないね」
マーレはそう言うと、二人を店先へ残し、風月の鐘亭の奥へ戻っていった。
琥珀は首を傾げる。
しばらくして戻ってきたマーレの両手には、二つの帽子があった。
「わあ……!」
二つは同じ布で仕立てられ、よく似た形をしていた。
夏の日差しを遮れるよう、つばは少し広め。
風にさらわれないよう、留め紐も付いている。
一つには、琥珀の耳を押さえつけないよう、猫の耳を外へ出せる場所がきちんと作られていた。
「こ、これ……わたしたちに?」
「幌もないのに、そのまま日向へ出すわけにはいかないだろ。使いな」
琥珀は猫型クッキーの包みをラファお姉ちゃんへ一度預け、帽子を両手で受け取った。
そっと頭へ載せる。
猫の耳が、帽子からぴょこんと外へ出た。
耳を前へ向けても、横へ動かしても邪魔にならない。
琥珀がその場で一度回ると、帽子のつばが朝の光を柔らかく遮った。
「ラファお姉ちゃん、見て見て! 耳も動くよ!」
「うん。とっても似合ってるよ、琥珀ちゃん」
「ラファお姉ちゃんも!」
ラファお姉ちゃんも、マーレから帽子を受け取る。
琥珀のものと同じ布で作られているが、こちらは耳を出す場所のない、少し落ち着いた形だった。
ラファお姉ちゃんがかぶると、琥珀はすぐそばまで寄って、帽子の向きを確かめる。
「もうちょっと、こっちかな」
琥珀は帽子のつばへ触れ、ほんの少しだけ向きを直した。
それから一歩下がり、ラファお姉ちゃんを見上げる。
「うん! ラファお姉ちゃんも可愛い!」
「ありがとう。これでお揃いだね」
「お揃い……」
琥珀のしっぽが大きく左右へ揺れた。
帽子の留め紐を結ぼうとして、嬉しさのあまり一度手元を間違える。
ラファお姉ちゃんが笑いながら、琥珀の顎の下で留め紐を整えた。
今度は琥珀が、ラファお姉ちゃんの留め紐を確かめる。
風月の鐘亭の制服に、よく似た二つの夏帽子。
いつもの格好のはずなのに、それだけで少しだけ旅へ出る姿になったように見えた。
「どう? マーレさん」
「帽子を見せる前に、荷物を忘れてないか見せな」
「もう、マーレさんったら」
「でも、似合ってるよ」
「えへへ……」
琥珀の耳が、帽子の上で嬉しそうに動いた。
絵描きさんも、板挟みと画材を抱えて店先へ出てくる。
二人の帽子を見ると、少し目を細めた。
「出発する前に、もう一枚描きたくなりました」
「まだ描くの?」
「今までとは少し違うお二人ですから」
琥珀は自分の帽子へ触れ、ラファお姉ちゃんと顔を見合わせた。
けれど、マーレが弁当の包みを持ち上げたのを見て、慌てて猫型クッキーを受け取り直す。
「絵は馬力車へ乗ってからにしな。出る前に昼になっちまうよ」
「それもそうですね」
ラファお姉ちゃんが、最後にもう一度荷物を数える。
弁当。
水袋。
猫型クッキー。
油小瓶。
布きれ。
細い縄。
予備の留め具。
板挟みと画材。
日差しを避ける、二つの帽子。
「全部そろっています」
「じゃあ、まずはロクスたちのところへ行こう!」
琥珀は猫型クッキーの包みを大事に抱え、店先から通りへ踏み出した。
帽子の上から出た耳が、朝の街の音を拾う。
風月の鐘亭の前では、夏へ向かう光の中に、ロクスと馬力車が待っていた。
朝の光を受けた車体には、工房で手を加えた跡が残っている。
床下には、歩き出しと停止の返りを受け持つ駆動の子。
乗り降りする足元には、最初の一歩を守る踏み台の子。
板バネも、折り畳み式の座席も、今日は荷物と同行者を乗せて、街の道へ出ようとしていた。
ロクスは引き具のそばに立ち、風月の鐘亭から出てきた琥珀たちを見る。
「ロクス、おはよう!」
「ああ。朝からずいぶん元気だな」
「今日は出発する日だもん」
琥珀のしっぽが、足元で弾む。
ロクスの目が、琥珀とラファお姉ちゃんの帽子へ止まった。
馬の耳が片方だけ動く。
「ずいぶんと旅らしい格好になったな」
「マーレさんがくれたの! 幌がないから、日差しに気をつけなさいって」
「耳までちゃんと出るんだよ」
「見りゃ分かる。そこで何度も動かさなくていい」
「だって、見てほしいんだもん」
琥珀の耳が、帽子の上でぴこぴこと動く。
ロクスは小さく息を吐いたが、口元は少しだけ緩んでいた。
「よく似合っとるではないか。わはは。二人そろうと、風月の鐘亭の新しい看板娘のようじゃのう」
「ひゃっ!?」
馬力車の下から声がした。
琥珀の耳がぴんと立つ。
車体の陰から、ベルグがひょこっと顔を出した。
「ベルグじい! そんなところにいたの!?」
「おはよう、ベルグさん。もう駆動ユニットの確認をしていたんですね」
「おはようじゃ。これから乗るものを、乗る前に見るのは当たり前じゃからのう」
ベルグは床下から身体を起こし、手にしていた布で指先を拭った。
「おぬしたちが弁当の香りに引かれておる間に、こちらは一通り見終わったところじゃ」
「な、なんで知ってるの?」
「鐘亭の中から、元気のよい腹の音が聞こえたからのう」
「外まで聞こえてたの!?」
「わははは!」
琥珀の耳が、帽子ごと伏せそうになる。
ラファお姉ちゃんは笑いをこらえながら、持ってきた荷物を馬力車の横へ並べた。
「お話は積み終わってからにしましょう。まず、重いものから中央へ置きますね」
「ああ。片側に寄せるな。走り出してから動かないように、全部留める」
ベルグの工具は、馬力車の中央寄りへ。
油小瓶は布で包み、倒れないよう道具袋の間へ収める。
細い縄と予備の留め具も、必要なときに取り出せる位置へまとめた。
弁当は押し潰されないよう、工具とは離して置く。
水袋は、座ったままでも手が届く場所へ分ける。
「ロクスの弁当は、こっちに置くね」
「勝手に食うなよ」
「食べないよ!」
「さっき腹を鳴らしてたやつの言葉は、半分だけ信じる」
「もう、みんな知ってる……」
琥珀のしっぽが、力なく地面へ垂れた。
それでも、猫型クッキーの包みだけは胸元から離さない。
ラファお姉ちゃんは荷物の左右を見比べ、片側へ寄っていた水袋を少し中央へ戻した。
「ベルグさんが左側、絵描きさんが右側に座るので、このくらいで釣り合いそうです」
「俺が曲がるたびに人も荷物も動いたら、駆動のやつがどれだけ働いても意味がない。座ったら、勝手に身を乗り出すな」
「はい。画材も板挟みに固定しておきます」
絵描きさんは、二枚の板の間に紙を挟み、留め紐を確かめた。
画材は使う分だけを手元へ。
残りは小さな道具袋へ入れ、右側の座席のそばへ固定する。
「走っている途中で何か落としても、急に降りようとするな。先に俺へ言え」
「分かりました」
「琥珀、おまえもだ」
「分かってるよぉ」
「返事が軽い」
「分かりました!」
琥珀は背筋を伸ばした。
その頭の上で、帽子から出た耳まで真っすぐ立つ。
ロクスは全員の荷物をもう一度見回したあと、馬力車の前方へ手を掛けた。
収納されていた板を引き出す。
かたん。
折り畳まれていた支えが開き、二人掛けの座席が前方へ飛び出した。
ロクスが座面を押し下げると、左右の留め具が噛み合う。
続いて背もたれが起き上がり、小さな音を立てて固定された。
「わあ……!」
「前にも見ただろ」
「でも、乗るために開くところは、何度見てもわくわくするもん」
「眺めるのはあとだ。まず留め具を見ろ」
琥珀は座席へ近づき、左右の留め具へ目を向けた。
ラファお姉ちゃんも隣へしゃがみ、座面と支えの間に緩みがないか確かめる。
「左右とも固定されています。背もたれも動きません」
ロクスは馬力車の前へ回り、引き具を握った。
片足を石畳へ踏ん張り、肩と腰で馬力車を押さえる。
「琥珀、踏み台だ」
「はい!」
琥珀は猫型クッキーの包みをラファお姉ちゃんへ預けた。
「踏み台、出します!」
琥珀が踏み台の子を引き出す。
車体の下から踏み台が開き、最後まで出たところで支えが噛み合った。
続いて床下から、留め具の動く音がする。
がちり。
車輪を押さえる留め具が噛み合った。
琥珀は踏み台が最後まで開いていることを確認し、左右の車輪へ目を向ける。
「車輪のロック、完了。よし!」
ロクスは馬力車を支える力を少しずつ緩めた。
車輪は前にも後ろにも動かない。
引き具を軽く押し、固定が続いていることを確かめる。
「固定を確認した。乗っていいぞ」
ベルグは後方左側の座席へ上がった。
そこは、床下の駆動ユニットへ目を向けやすい位置だった。
ベルグは工具を手元へ置き、座ったまま身体を少し傾けて、留め具と駆動の子の位置を確かめる。
「ここなら音も動きも見やすいのう」
「落ちるほど覗き込むなよ」
「おぬしに言われんでも分かっとるわい」
「身を乗り出すなって話をしたばかりだ」
「見るために乗ったんじゃぞ」
「見るなとは言ってない。落ちるなと言ってる」
ベルグは何か言い返そうとしたが、やがて鼻を鳴らし、座席へ腰を戻した。
反対側の後方右側には、絵描きさんが座る。
板挟みを膝へ置き、留め紐を外せばすぐ描ける状態にする。
琥珀は踏み台へ片足を置いた。
体重を掛けても、馬力車は前にも後ろにも逃げない。
「踏み台の子、お願いね」
琥珀は前方座席へ上がった。
続いてラファお姉ちゃんも乗り込み、琥珀の隣へ腰を下ろす。
ラファお姉ちゃんは、預かっていた猫型クッキーの包みを琥珀へ返した。
「はい。猫型クッキーも無事だよ」
「ありがとう、ラファお姉ちゃん」
座面には二人分の余裕があり、足元も荷物に塞がれていない。
「琥珀ちゃん、帽子の留め紐は苦しくない?」
「うん、大丈夫。ラファお姉ちゃんのも、ちゃんと留まってるよ」
二人はお互いの帽子を確かめる。
風月の鐘亭の制服に、よく似た夏帽子。
前方の二人掛け座席へ並んで座ると、琥珀のしっぽが嬉しそうに座席の端を叩いた。
「全員乗ったな。琥珀、踏み台を戻せ」
「はい!」
琥珀は猫型クッキーの包みを膝の上へ置いた。
「踏み台、収納します!」
琥珀が踏み台の子を収納する。
踏み台が車体の下へ戻り、最後まで収まったところで、車輪を押さえていた留め具が外れた。
かちり。
琥珀は踏み台が収まったことと、車輪の留め具が外れたことを確認する。
「車輪のロック解除、よし!」
琥珀は操作していた場所から身体を戻し、ラファお姉ちゃんの隣へきちんと腰を下ろした。
猫型クッキーの包みを膝へ置き、両足も座席の内側へそろえる。
ロクスはすぐには歩き出さなかった。
肩越しに振り返り、琥珀が座ったことを自分の目で確かめる。
「そこから立つなよ」
「分かりました!」
「じゃ、行くぞ」
ロクスは前を向き、引き具を肩と腰へ合わせた。
馬の耳が後ろへ向き、車体から聞こえる音を拾う。
しっぽが一度だけ揺れた。
ロクスが最初の一歩を踏み出す。
引き具が張り、馬力車の床下で駆動の子が動き始めた。
車輪が、石畳の上をゆっくり転がる。
ごとり。
最初の小さな段差を越えた。
琥珀は思わず座席の端へ手を置いたが、身体を大きく持ち上げられるような揺れは来なかった。
板バネが沈み、返ってくる。
揺れは消えていない。
ただ、その角が少し丸くなっていた。
「動いた……!」
「動かすために作ったんだ。いちいち驚くな」
「だって、今日は荷物もみんなも乗ってるんだよ」
「だから確認してる」
ロクスはいつもより歩幅を小さくし、石畳の継ぎ目を一つずつ踏み越えていく。
歩き出した直後、腰へ遅れて返ってくる力に、ロクスのしっぽがわずかに張った。
ベルグもその動きを見逃さなかった。
「まだ腰へ少し残るのう」
「ああ。だが、前よりは強くねえ」
「無理に歩幅を広げるでないぞ。今は街の道で見るところじゃ」
「分かってる」
馬力車は、風月の鐘亭の前から通りへ出た。
朝の街には、店を開ける音が重なっている。
木の戸が開く音。
桶の水が石畳へ広がる音。
遠くで回る風車の音。
街の人々が、見慣れない馬力車へ目を向けた。
帽子から猫の耳を出し、前方座席へラファお姉ちゃんと並ぶ琥珀へ手を振る者もいる。
琥珀の耳が右へ向く。
すぐに左から聞こえた呼び声へ向き直る。
前方に並ぶ店先も、通りを横切る荷車も、風に揺れる日除け布も気になる。
琥珀の腰が、座席の上で少しずつ浮き始めた。
「琥珀ちゃん、座ったままね」
「あっ、うん」
琥珀はいったん座り直した。
けれど、今度は通りの向こうから手を振られ、嬉しそうに身体をそちらへ向ける。
「琥珀ちゃん、身体は座席の中へ」
「あっ、そうだった」
琥珀は身を乗り出す前に座り直し、胸元の高さで小さく手を振った。
ロクスは前を向いたまま、馬の耳だけを後ろへ向けていた。
琥珀が座席の上で動く音。
そのたびに、ラファお姉ちゃんが声を掛けるのも聞いている。
左後方のベルグも、駆動の子だけでなく、前方座席の様子へ目を向けていた。
ロクスのしっぽが、車体の側面へ一度触れた。
次に、しっぽの先が座席の上方へ持ち上がる。
そこにまだない何かを示すように、先端が小さく曲がった。
ベルグはしばらくその動きを見ていた。
やがて意味を察し、工具袋から小さな紙と書く物を取り出す。
幌の骨組みを加えるとき。
立ち上がってしまった乗り手でも、すぐ手を伸ばせる高さ。
座席からも掴める横木。
ベルグは短い線と印だけを紙へ残し、誰にも見せずに工具袋へ戻した。
ロクスのしっぽが、今度は一度だけ静かに揺れた。
琥珀は二人のやり取りに気づかない。
帽子のつばを押さえながら、通りの向こうへ小さく手を振っていた。
「今のは、ちゃんとできたな」
「えへへ」
「褒めてはいない。確認しただけだ」
馬力車は最初の曲がり角へ入った。
ロクスが速度を落とし、内側の歩幅を小さくする。
車体がゆっくり向きを変える。
琥珀の身体が外側へ寄りかけると、ラファお姉ちゃんが隣でそっと支えた。
荷物を留めた縄は緩まず、中央の道具袋も動いていない。
ベルグは左後方から床下へ耳を澄ませる。
「曲がりの内側も、今日はついてきておるのう」
「まだ少しだけ遅れる。次の角でも見るぞ」
「うむ。それでよい」
反対側では、絵描きさんが板挟みの留め紐を外していた。
紙を一枚取り出し、膝の上へ固定する。
片手で板の端を支え、もう片方の手で描き始めた。
最初に描いたのは、前方に並ぶ二つの帽子だった。
その向こうにはロクスの背中。
さらに先には、朝の光が伸びる街の道がある。
石畳の継ぎ目を越えるたび、鉛筆の先は小さく揺れた。
それでも、線が紙の上から大きく跳ね出すことはない。
絵描きさんは一度手を止め、今しがた引いた線を眺めた。
「どうじゃ。描けそうかのう」
「はい。揺れないわけではありません。でも、揺れ方が急ではないので、線を追えます」
「板バネの子が、揺れの角を丸めてくれてるんだよ」
「そのようですね。これなら、道の上でも少しずつ描けそうです」
絵描きさんは再び鉛筆を動かした。
琥珀は振り返りたくなったが、ロクスの注意を思い出し、前を向いたまま耳だけを後ろへ向ける。
「何を描いてるの?」
「お二人の帽子と、出発前の街です」
「あとで見せてね」
「もちろんです」
琥珀のしっぽが座席の端で弾んだ。
朝の風が、二人の帽子のつばを撫でていく。
留め紐があるため、帽子は飛ばされない。
日差しは少しずつ強くなっていたが、つばの下には柔らかな影ができていた。
「マーレさんの帽子、ちゃんと役に立ってるね」
「うん。可愛いだけじゃなくて、日差しも防いでくれてる」
「可愛いのも大事だよ」
「うん。それも大事だね」
街の道を進むうちに、風車の鍛冶場の屋根が見えてきた。
金属を打つ音が、通りの向こうから響いてくる。
ロクスは歩幅をさらに小さくした。
「止まるぞ。全員、そのまま座ってろ」
引き具が緩み始める。
駆動の子が、歩き出したときとは反対の動きで返りを受け止める。
ロクスの腰へ、まだわずかな力が残った。
ロクスは片足を踏ん張ったが、姿勢を崩すほどではない。
車輪が一つ、二つと回転を弱め、風車の鍛冶場の前で止まった。
それでも、ロクスは引き具から手を離さない。
片足を石畳へ踏ん張り、肩と腰で馬力車を押さえ続ける。
ベルグは左後方から床下を覗き、駆動の子の止まった位置を確かめた。
絵描きさんは、描きかけの線から鉛筆を離す。
ロクスは馬の耳を後ろへ向け、床下から聞こえていた音が収まったことを確かめた。
「琥珀、踏み台だ」
「はい!」
琥珀は胸元に抱えていた猫型クッキーの包みを、隣のラファお姉ちゃんへ差し出した。
「ラファお姉ちゃん、ちょっと持ってて」
「うん。大切に持ってるよ」
包みを預け、琥珀は両手を空ける。
身体を座席の内側へ残したまま、踏み台の子を動かす場所へ手を伸ばした。
「踏み台、出します!」
琥珀が力を込める。
車体の下から、踏み台がゆっくり外へ出てきた。
かたん。
最後まで開いたところで、踏み台の支えが噛み合う。
続いて床下から、もう一つ音がした。
がちり。
踏み台の動きとつながった留め具が、車輪を押さえる。
琥珀は踏み台が最後まで出ていることを確かめた。
次に、左右の車輪へ目を向ける。
車輪を押さえた留め具が噛み合っている。
琥珀の耳が、帽子の上でぴんと立った。
「車輪のロック、完了。よし!」
「ラファ、荷物は」
「動いていません。車体の傾きもありません」
ロクスは馬力車を押さえていた力を、少しずつ緩めていく。
肩に掛かっていた重さを引き具へ預け、車輪の様子を見る。
馬力車は動かない。
前へ転がることも、後ろへ戻ることもなかった。
ロクスはもう一度だけ引き具を軽く押し、固定されていることを確かめる。
「固定を確認した。降りていいぞ」
「うむ。では、わしからじゃな」
ベルグは後方左側の座席から、ゆっくり身体の向きを変えた。
片手で車体へ触れ、片足を踏み台へ下ろす。
靴の裏が踏み台へ触れたところで、一度動きを止めた。
それから、少しずつ体重を預けていく。
馬力車は逃げない。
車輪が前へ転がることも、後ろへ戻ることもなかった。
踏み台もベルグの足を受け止めたまま、ぐらつかない。
「ほう」
ベルグはもう片方の足も踏み台へ移し、そのまま石畳へ降りた。
着地したあと、振り返って踏み台と車輪を見る。
「うむ。荷物を積んだままでも、きちんと止めておるのう」
「踏み台の子が、乗る最初の一歩を守ってくれるんだよ」
「降りる最後の一歩も、じゃな」
「あっ、そっか」
琥珀の耳が、帽子の上でさらに高く立った。
「踏み台の子、ちゃんとベルグじいを守ってくれたね」
「わしだけではないぞ。次は絵描き殿じゃ」
絵描きさんは、膝の上に置いていた板挟みへ目を落とした。
描きかけの紙を二枚の板の間へ戻す。
鉛筆も道具袋へ収め、留め紐を結んだ。
「描いたまま降りようとするなよ」
「はい。紙も私も、落ちないようにします」
絵描きさんは板挟みを片腕で身体へ寄せ、空いた手で車体を支える。
踏み台へ片足を下ろし、一段ずつ確かめながら石畳へ降りた。
踏み台の固定は変わらず、馬力車も動かない。
「板挟みを抱えたままでも、足元を確かめて降りられますね」
「だからって、降りながら描くなよ」
「それはしません」
絵描きさんは板挟みを抱え直し、少し笑った。
琥珀も前方座席から立ち上がろうとする。
けれど、猫型クッキーの包みは、まだラファお姉ちゃんの腕の中にある。
「包みを返して、ラファお姉ちゃん」
「降りてから渡すね」
「持ったままでも降りられるよ?」
「降りられることと、安全に降りることは別だよ」
「……さっきも聞いた気がする」
「大切なものだからこそ、今は両手を空けておこうね」
琥珀は猫型クッキーの包みと、ラファお姉ちゃんの顔を交互に見る。
やがて耳を少しだけ伏せ、座席から踏み台へ足を伸ばした。
「お願いね、踏み台の子」
片手を車体へ添え、踏み台へ体重を預ける。
足元は動かない。
琥珀はもう一段降り、石畳へ着いた。
すぐに振り返り、両手をラファお姉ちゃんへ伸ばす。
「今度こそ、包み!」
「私が降りてからね」
「あっ、そうだった」
ラファお姉ちゃんは猫型クッキーの包みを片腕へ寄せ、空いた手を車体へ添える。
踏み台へ足を置き、固定が続いていることを確かめながら降りた。
石畳へ着くと、琥珀へ包みを返す。
「はい。猫型クッキーも無事だよ」
「ありがとう、ラファお姉ちゃん」
琥珀は包みを受け取り、両手でそっと抱えた。
全員が降りたあとも、踏み台の子は出したままにしておく。
車輪のロックも解除しない。
風車の鍛冶場にいるあいだ、馬力車が勝手に動かないよう固定しておくためだった。
ロクスはそこでようやく引き具を外した。
肩と腰を軽く動かし、停止したときに残った返りを確かめる。
腰へ手を当てたまま、馬力車の前側へ目を向けた。
「まだ少し残るな」
「痛いの?」
「痛めるほどじゃない。止まったあとに、もう一度だけ押される感じがある」
「街の中では、どの止まり方でも出ていました。強くはありませんが、なくなってはいません」
「ああ。帰ったら、また見る」
ロクスは短く答え、引き具と腰紐の位置を確かめ始めた。
旅の荷物は、馬力車へ積んだままにしておく。
ここで必要なのは、鍛冶場へ渡す物と、ベルグが引き継ぎに使う物だけだった。
ベルグは中央へ積んでいた道具袋から、小さな工具包みを取り出した。
その下から、布に包まれた固いものを持ち上げる。
琥珀の耳が、そちらへ向いた。
「ベルグじい、それが山羊座の風車で使うもの?」
「使うもの、ではない。使うものを作るための見本じゃ」
「見本?」
「詳しい話は、中でじゃ。外で広げて落としたら、ロクスにまた怒られるからのう」
「俺のせいにするな。落とすなって言ってるだけだ」
「ほれ、やはり怒ったではないか」
「まだ怒ってない」
ベルグは布包みを片腕へ抱え、鍛冶場の入口へ向かった。
琥珀とラファお姉ちゃんも、そのあとに続く。
絵描きさんは板挟みを抱えたまま、鍛冶場の前で一度立ち止まった。
金属を打つ音。
炉から流れてくる熱。
開け放された戸の向こうでは、職人たちが朝の作業を進めている。
絵描きさんはその光景へ目を留めたが、勝手に紙を広げることはせず、板挟みを抱えたまま中へ入った。
ロクスは馬力車のそばへ残った。
引き具と腰紐を手に取り、街中で感じた返りを確かめている。
「おう、来たぞ」
「ベルグ親方、本当に今日から留守にするんですか」
「本当に、とはなんじゃ。昨日も言うたじゃろう」
「言ってましたけど、朝になったらもう一つ直してから行く、とか言い出すかと思って」
「わしをなんじゃと思っとる」
鍛冶場の奥で、細い背中が慌てて振り返った。
ひょろりは手にしていた金具を作業台へ置き、長い手足を持て余すようにしながら近づいてくる。
「ベルグ親方。おはようございます。出る前に寄ると聞いて、作業台を空けておきました」
「うむ。感心じゃ。何も載っとらんだけ、ということはないじゃろうな」
「ち、違います。ちゃんと片づけました」
「ならよい」
ひょろりは少しだけ胸を撫で下ろした。
けれど、ベルグが抱えている布包みを見ると、すぐに背筋を伸ばす。
「それが、昨日言っていた見本ですか」
「そうじゃ。わしらが向こうを見ておるあいだ、おぬしたちには、こちらで進めてもらうことがある」
鍛冶場にいた職人たちの手が、少しずつ止まる。
完全に作業をやめるのではなく、金槌を置く者、炉の様子を見ながら耳だけを向ける者、それぞれがベルグの声を聞ける形になった。
ベルグは空けられた作業台の前まで進む。
布包みを中央へ置き、結び目をほどいた。
包み布の中から、完成品よりも小さな、仮歯車のサンプルが姿を見せる。
ひょろりが作業台の向こうから身を乗り出した。
ベルグはその顔を見上げ、歯車の縁へ指を置いた。
「まずは、こいつの話からじゃ」
ベルグの指先が、仮歯車の縁をなぞった。
ひょろりは作業台の向こうから、歯の一つ一つを覗き込んでいる。
近くにいた職人たちも、それぞれの位置から作業台へ目を向けた。
「これと同じものを作ればいいんですか」
「違う」
ベルグは、ひょろりの言葉をすぐに止めた。
「こいつは見本じゃ。山羊座の風車へ、そのまま取り付けるものではない」
「では、歯の形を見るためですか」
「形だけではない。材料を選ぶときも、道具をそろえるときも、何もないところから考えるよりは基準があった方がよいじゃろう」
ベルグは仮歯車を裏返し、中央の穴をひょろりたちへ見せた。
「向こうで軸と受けを見ねば、本当の大きさは決められん。歯の傷み方も、どこで噛み合わなくなっておるのかも、ここからでは分からんからのう」
「ベルグ親方たちが、直接確かめてくるんですね」
「そのために行くんじゃ」
ベルグは仮歯車を作業台の中央へ戻した。
乾いた音が一つ鳴る。
「わしらが向こうを見ておるあいだ、おぬしたちは材料を見ておけ。歯車に使えそうなもの、軸を受けられそうなもの、削るための道具。それから固定具じゃ」
「先に加工はしないんですか」
「決まってもおらん寸法で削って、何に使うつもりじゃ」
「薪にはなります」
「歯車にする材料を、わざわざ薪へ変えるでない」
鍛冶場の中に、小さな笑いが起こった。
ベルグは呆れたように眉を下げたが、その口元も少しだけ緩んでいる。
「今は、正しい大きさが分かったときに、すぐ手を動かせるところまででよい。何を使うか。何が足りんか。どの道具を先に整えるか。それを見ておけ」
「完成品を先に作るんじゃなくて、完成品を作れる準備をするんだね」
「そうじゃ。向こうを見てからでなければ決められんものと、ここで先にできることを分けるんじゃよ」
琥珀は作業台の仮歯車を見つめた。
ベルグたちが山羊座の風車を見ているあいだも、鍛冶場では材料や道具の準備が進む。
どちらかが戻ってくるまで、もう片方が何もせず待つわけではない。
「離れていても、一緒に準備できるんだ」
「全部を一つの場所でやる必要はないからね」
「うん。手で届くところから、だね」
「その通りじゃ」
ベルグはひょろりへ目を向けた。
「ひょろり。この見本は、おぬしに預ける」
「僕に、ですか」
「嫌なら、そこの薪にしようとしたやつへ渡すが」
「い、いえ。僕が預かります」
ひょろりは慌てて両手を伸ばした。
けれど、途中で一度止まる。
作業台の上に敷かれていた布を手元へ寄せ、仮歯車を包むようにして持ち上げた。
長い指が、歯の部分を傷つけない位置へ添えられる。
「落とすなよ」
「落としません」
「炉のそばにも置くでないぞ」
「置きません」
「歯の間へ金屑を詰まらせるでないぞ」
「それもしません」
「なら、任せた」
「はい」
ひょろりの返事は、最初より少しだけしっかりしていた。
仮歯車を受け取った腕は慎重なままだが、細い背中が真っすぐ伸びている。
ベルグはその様子を確かめ、次に職人たちを見回した。
「予備に使えそうな留め具も分けておけ。大きさごとにな。現地を見たあと、使えるものと足りんものをすぐ比べられるようにするんじゃ」
「細い縄と滑車も見ておいた方がいいですか」
ひょろりが仮歯車を作業台の安全な場所へ置き、ベルグへ向き直った。
その言葉に、ベルグの目が少し細くなる。
「昇降機の方か」
「はい。あの壊れかけた昇降機です」
琥珀の耳が、ぴくりと動いた。
止まりかけた昇降機。
軋む音。
足元が傾いた瞬間。
そして、ロクスに担ぎ上げられたときのことが、ほんの一瞬だけ頭をよぎる。
琥珀のしっぽが、少しだけ太くなった。
ラファお姉ちゃんは、その変化へ気づいた。
「琥珀ちゃん、大丈夫?」
「う、うん。ちょっと思い出しただけ」
「今度は、危ないまま使わないようにするための相談だよ」
「うん」
琥珀はしっぽを自分の足元へ寄せた。
ベルグは、ひょろりへ話の続きを促す。
「それで、何を迷っておる」
「元の大きさに戻して、人を上げられるようにするのか。それとも先に、荷物だけでも上げられるようにするのかです」
「人は後じゃ」
ベルグは迷わず答えた。
「あれへ、すぐ人を乗せることは考えるな。まずは荷を安全に上げる。そこで縄も、滑車も、固定具も、どこまで耐えられるかを見るんじゃ」
「人より、荷物を先に」
「荷なら、少しずつ重さを変えて確かめられる。おかしいと思えば降ろせる。壊れたときに人が中へ乗っておるのとは、わけが違うからのう」
ひょろりは何度か頷いた。
「では、細い縄、滑車、固定具を分けます。足場材も、傷みのないものから選んでおきます」
「使えるものだけを見るでないぞ。傷んだものも、どこが悪いか分けておけ。現地に残っておるものと比べられる」
「分かりました」
「人を上げる仕組みまで、勝手に組むでないぞ」
「そこまではしません」
「本当かのう」
「ベルグ親方に言われたくありません」
鍛冶場の中に、また笑いが広がった。
ベルグは眉を上げたが、怒ることはなかった。
「言うようになったではないか」
「任されたので」
「うむ。それでよい」
ベルグは作業台へ片手を置き、少しだけ考え込んだ。
視線は仮歯車ではなく、そこにはない大きな昇降機を見ているようだった。
「あの昇降機の大きさは、これからは大変じゃしのう……」
声は小さかった。
すぐそばにいるひょろりには届いたが、少し離れたベルグの背後にいる琥珀までは届かない。
ベルグの眉が、ゆっくり持ち上がる。
口元が片側だけ上がった。
「少し手を加えてもいいかのう……くくく」
ひょろりの長い背中が、ぴたりと固まった。
「ベルグ親方。何を思いついたんですか」
「まだ何も言うておらんぞ」
「今の笑い方で、何もないはずがありません」
「わはは。気にするでない」
「気になります」
琥珀には、二人が何を話しているのか聞こえていなかった。
ただ、ベルグが作業台の前で、ひどく楽しそうな顔をしていることだけは見えた。
琥珀の右耳が横へ傾く。
少し遅れて、左耳も同じ方向へ傾いた。
首までこてんと横へ倒れる。
頭の上には、大きな疑問符でも浮かんでいそうだった。
「ベルグじい、どうしたの?」
「何でもないぞ」
「でも、すっごく怪しい顔してたよ?」
「旅へ出る前の、爽やかな笑顔じゃ」
「爽やか……?」
「爽やかではありませんでした」
「ラファまで何を言うか」
絵描きさんは板挟みを抱えたまま、ベルグとひょろりの間へ目を向けた。
「今の顔も、残しておいた方がよいでしょうか」
「描かんでよい」
「あとで描きたくなりそうです」
「忘れるんじゃ」
琥珀はまだ不思議そうにしていたが、ベルグが教える気のないことを察し、しっぽの先だけを曲げた。
ベルグは小さく咳払いをする。
それから、ひょろりと職人たちへ向き直った。
「とにかく、わしがおらんからといって全部止めるでないぞ」
「はい」
「現地を見ねば決められんところは待て。じゃが、材料を選ぶことも、道具をそろえることも、縄や滑車を調べることもできる」
ベルグは作業台の仮歯車を指す。
「手で届くところから、進めておけ」
「分かりました。ベルグ親方が戻ったとき、すぐ次へ進めるようにしておきます」
「うむ。頼んだぞ」
ひょろりは仮歯車を包み直し、作業台の端ではなく、壁際の棚へ運んだ。
炉の熱も、飛んでくる金屑も届かない場所。
そこへ布を敷き、歯車を静かに置く。
職人たちも動き始めた。
材料置き場へ向かう者。
留め具の箱を開く者。
壁に掛けられていた縄を下ろし、傷みを確かめる者。
滑車を一つずつ作業台へ並べる者。
誰か一人がベルグの代わりになるのではない。
それぞれが、自分の手で届く仕事を受け取っていた。
琥珀はその様子を見回した。
「もう、始まってる」
「うん。私たちが向こうへ進んでいるあいだも、ここの準備は進んでいくね」
「わたしたちだけが、行くんじゃないんだね」
「そうじゃ。ここに残る手も、同じ先へ向いておる」
琥珀は帽子から出た耳を、作業を始めた職人たちへ向けた。
金属の触れ合う音。
縄を引き出す音。
箱の中で留め具が重なる音。
その全部が、これから向かう場所へ続いているように聞こえた。
「では、行ってきます」
「いってらっしゃい。こっちは任せてください」
「仮歯車、落とさないでね」
「落としません」
「炉のそばにも置かないでね」
「置きません」
「歯の間に金屑も――」
「ベルグ親方と同じことを言わないでください」
「えへへ」
ひょろりは困ったように眉を下げたが、その背中はもう曲がっていなかった。
ベルグが先に鍛冶場の戸口へ向かう。
琥珀とラファお姉ちゃん、絵描きさんも、そのあとに続いた。
外へ出ると、夏へ向かう朝の光が、さっきより少し強くなっていた。
馬力車のそばでは、ロクスが引き具と腰紐の確認を終え、こちらを待っている。
踏み台の子は出たまま。
車輪のロックも、きちんと掛かったままだった。
琥珀は猫型クッキーの包みを抱え直し、ロクスと馬力車のところへ歩いていった。
ロクスが、鍛冶場から戻ってきた一行へ目を向けた。
「話は終わったのか」
「うむ。あとは、ひょろりたちへ任せてきた」
鍛冶場の中では、すでに次の音が始まっている。
材料を運ぶ音。
箱の中から留め具を選ぶ音。
縄を伸ばし、傷んだ場所を確かめる音。
仮歯車のサンプルは、炉の熱も金屑も届かない棚へ置かれていた。
ベルグが街を離れても、鍛冶場の手は止まらない。
琥珀は開け放された戸の向こうを振り返った。
ひょろりがこちらに気づき、長い腕を上げる。
「いってらっしゃい!」
「行ってきます!」
琥珀も片手を高く上げた。
帽子から出た耳が立ち、しっぽが大きく揺れる。
職人たちも、作業の手を完全には止めず、それぞれ金槌や縄を持ったまま短く手を上げた。
「帰ってくるまでに、薪を増やしておくなよ」
「歯車の材料を薪にはしません!」
「ならよい」
「まだ気にしてたんだ……」
鍛冶場の前に、小さな笑いが広がった。
ラファお姉ちゃんは馬力車のそばへ立ち、積んだ荷物を順番に確かめていく。
中央の工具袋は動いていない。
油小瓶は、布に包まれたまま倒れていない。
弁当の包みも、水袋も、すぐ取り出せる位置にある。
細い縄と予備の留め具もそろっている。
「人数は五人。弁当、水袋、工具、油小瓶、布きれ、細い縄、予備の留め具。絵描きさんの板挟みと画材もあります」
「猫型クッキーもあるよ!」
琥珀は包みを少しだけ持ち上げた。
「うん。琥珀ちゃんの手元で確認できています」
絵描きさんは板挟みの留め紐へ触れた。
街中で描き始めた絵は、二枚の板の間へきちんと収まっている。
「こちらも大丈夫です」
ベルグは自分の工具袋を持ち上げ、重さを確かめた。
「わしの工具もある。多すぎも、少なすぎもせん」
「荷物の偏りもありません。ベルグさんが左側、絵描きさんが右側へ座れば、今の配置で大丈夫です」
ロクスは腰紐を締め直し、引き具を肩へ合わせた。
金具を一つずつ指で確かめ、留め具が正しく噛み合っていることを見る。
「街の中で腰へ残った返りは、まだある。急に歩幅は広げない。止まるときも声を掛ける」
「はい。こちらも、荷物と座席の様子を見ます」
「幌はないし、雨の日も、長い距離も、荷物をいっぱいに積んだときも、まだ確かめてないんだよね」
「ああ。今日は晴れてるからって、できてないことまでできると思うな」
「うん」
「日差しが強くなったら休憩します。水も、喉が渇く前に飲みましょう」
「帽子もあるよ」
琥珀は、マーレからもらった帽子のつばへ触れた。
同じ布で作られたラファお姉ちゃんの帽子も、朝より少し強くなった光を遮っている。
「可愛いからって、帽子だけで全部どうにかなると思うなよ」
「分かってるもん。でも、可愛いのも大事だよ」
「そこは譲らないんだな」
「大事だからね」
ロクスの馬の耳が、呆れたように横へ開いた。
それでも、琥珀たちの帽子をもう一度見てから、引き具へ視線を戻す。
「確認は終わりです。乗りましょう」
踏み台の子は、鍛冶場へ着いたときから出たままだった。
車輪のロックも掛かったまま。
ロクスが引き具を握り、馬力車を支えられる姿勢になる。
「乗っていいぞ」
ベルグが最初に踏み台へ足を掛けた。
片手を車体へ添え、後方左側の座席へゆっくり上がる。
「乗る方も、きちんと支えておるのう」
「踏み台の子、お願いね」
「任せるだけじゃなく、おぬしも確認するんじゃぞ」
「分かってるよ」
絵描きさんも、板挟みを身体へ寄せて踏み台へ足を置いた。
空いた手で車体を支えながら上がり、後方右側の座席へ腰を下ろす。
板挟みは膝へ。
画材の道具袋は、座席のそばへ固定する。
琥珀は猫型クッキーの包みを、ラファお姉ちゃんへ預けた。
両手を空け、踏み台から前方の二人掛け座席へ上がる。
続いてラファお姉ちゃんも乗り込み、琥珀の隣へ座った。
「猫型クッキー、返すね」
「もう少しだけ持ってて。踏み台の子を戻すから」
「うん。分かったよ」
琥珀は身体を座席の内側へ残したまま、踏み台の子を動かす場所へ手を伸ばした。
「踏み台、収納します!」
踏み台が、ゆっくり車体の下へ戻っていく。
最後まで収まったところで、車輪を押さえていた留め具が外れた。
かちり。
琥珀は、踏み台がきちんと収納されていることを確認する。
次に、車輪の留め具が外れていることへ目を向ける。
「車輪のロック解除、よし!」
琥珀は操作していた場所から身体を戻し、ラファお姉ちゃんの隣へきちんと腰を下ろした。
両足を座席の内側へそろえる。
ラファお姉ちゃんから猫型クッキーの包みを受け取り、膝の上へ置いた。
「琥珀ちゃん、足元も大丈夫。包みも膝の上にあるね」
「うん。今度は、ちゃんと座ってるよ」
ロクスは、すぐには動き出さなかった。
肩越しに振り返る。
後方左側にはベルグ。
後方右側には絵描きさん。
前方の二人掛け座席には、ラファお姉ちゃんと琥珀。
琥珀の両足も、しっぽも、座席の内側へ収まっている。
「今度こそ、立つなよ」
「分かりました!」
「返事だけじゃないだろうな」
「ちゃんと座ってるもん」
「それならいい」
琥珀は膝の上の包みへ、そっと手を置いた。
包み布の中には、猫の形をしたクッキーが眠っている。
風月の鐘亭で用意した弁当。
マーレが確かめた夏へ向かう空。
ロクスが引く馬力車。
床下の駆動の子。
乗り降りを守る踏み台の子。
絵描きさんの板挟み。
ベルグからひょろりへ託された仮歯車。
鍛冶場で始まった、材料と道具の準備。
準備してきたものも、街へ残してきた手も、同じ先へ向いていた。
目的地は、地図の上にある場所だけではない。
手紙を書いて待っている、会いたい相手のところ。
琥珀は顔を上げた。
帽子から出た耳が前を向く。
しっぽが、前方座席の内側で嬉しそうに揺れた。
ロクスは琥珀が座ったことを、もう一度確かめる。
それから前を向き、引き具を握り直した。
「じゃ、行くぞ」
琥珀は猫型クッキーの包みをそっと押さえ、街の外へ続く道を見た。
「行こう。リノちゃんのところへ」
ロクスが最初の一歩を踏み出した。
床下で駆動の子が動き、馬力車の車輪がゆっくり回り始める。
背後の鍛冶場からは、金属を打つ音が続いていた。
街に残る手の音を背中に受けながら、馬力車は、街道へ続く道の方へ動き出した。




