↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
64/76

第58話

 風月の鐘亭の窓から、朝の光が差し込んでいた。


 まだ昼のような強さはない。それでも、屋根の向こうから昇ってきた陽は、店先の石畳を端から少しずつ明るく染めている。


 日の当たる場所には、じんわりと温かさが生まれ始めていた。


 けれど、開け放した窓から入ってくる風は軽い。


 店の中を抜け、壁に掛けられた布を揺らし、そのまま反対側の窓へ抜けていく。


 以前、街へまとわりついていた熱とは違う。


 どこへ行っても逃げ場がなく、朝も夜も石や壁の中から染み出してくるようだった、あの熱ではない。


 今朝の温かさは、空から差す光と一緒にやってくる。


 日陰にはまだ涼しさが残り、風もきちんと街の中を歩いていた。


 季節が、少しずつ夏へ近づいている。


 風月の鐘亭の台所では、旅へ持っていく包みが卓上に並べられていた。


 人数分の弁当。


 水を満たした水袋。


 油小瓶と布きれ。


 細い縄と予備の留め具。


 道具を包む布。


 その端には、二枚の板で絵を挟んで守る板挟みと、絵描きさんの画材が置かれている。


 そして琥珀の前には、リノへ持っていく猫型クッキーの包みがあった。


 琥珀は、その包みを両手で持ち上げた。


 潰れていないことを確かめ、そっと卓上へ戻す。


 少し離れたかと思えば、また包みへ戻ってくる。


 耳は朝からぴんと立ったまま。


 しっぽも、琥珀の足元で落ち着きなく右へ左へ揺れていた。


「琥珀ちゃん。猫型クッキーは、さっきから三回確認してるよ」


「よ、四回目かもしれない……」


「増えてるね」


 ラファお姉ちゃんが笑う。


 琥珀は猫型クッキーの包みへ、もう一度だけ指先で触れた。


「だって、途中で割れたらかわいそうだし……。リノちゃんに、ちゃんと猫の形で渡したいもん」


「それなら、手元へ置いておこうか。ほかの荷物の下には入れないようにしよう」


「うん!」


 琥珀のしっぽが、ぱっと持ち上がった。


 そのまま猫型クッキーだけでなく、水袋にも手を伸ばす。


 さらに弁当の包みを持ち、油小瓶の入った布包みまで腕へ抱えようとした。


「琥珀ちゃん」


「まだ持てるよ?」


「持てることと、安全に運べることは別だよ」


 琥珀の腕の中で、水袋と弁当の包みが窮屈そうに押し合っていた。


 猫型クッキーまで一緒に抱えれば、大切に運ぶはずの包みを自分で潰してしまいそうだった。


 琥珀は腕の中を見下ろした。


 耳が少しだけ横へ倒れる。


「……持てる量」


「うん。大切なものほど、持ちすぎないことも準備のうちだよ」


「じゃあ、わたしは猫型クッキーを持つ。水袋は、すぐ取れるところに置く」


「それがよさそうだね」


 琥珀は水袋と弁当を卓上へ戻し、猫型クッキーの包みだけを胸元へ抱えた。


 その隣では、マーレが弁当の包みを一つずつ指で確かめていた。


「こっちがロクスの分。少し多めにしてあるよ。こっちがベルグじいさん。それから絵描きさん。こっちは琥珀たちの分さね」


「五人分、全部あります。水袋も数は合っています」


「数だけじゃなく、中身も飲んだ分だけ減るんだからね。晴れてるからって、水を後回しにするんじゃないよ」


「はい」


「はーい!」


「琥珀は返事だけ元気になってないだろうね」


「だ、大丈夫だよ。ちゃんと飲むもん」


 琥珀の耳が、ほんの少しだけ後ろへ逃げた。


 マーレはそれを見逃さなかったが、それ以上は言わず、最後の弁当を包み布の上へ置いた。


 店先から、風が一つ入ってきた。


 台所に残っていた焼き菓子の香りを揺らし、卓上の包み布の端を小さく持ち上げる。


 マーレはふと顔を上げた。


 そのまま店先へ出ると、朝の空へ鼻先を向ける。


 ひく。


 ひくひく。


 風の向きが変わるたび、マーレの鼻先もわずかに動いた。


 琥珀とラファお姉ちゃんも、荷物を持って店先までついていく。


 空は青く、屋根の向こうには白い雲がゆっくり流れていた。


 木々には濃い葉が茂り、風を受けるたび、陽の光を細かく跳ね返している。


 通りの向こうでは、店先へ日除け布を広げ始めている人がいた。


 別の店では、桶の水が石畳へ撒かれ、朝の光の中で小さく輝いている。


 マーレはしばらく風を確かめたあと、空を見上げた。


「この様子なら、数日は晴れさね」


「香りで分かるの?」


「香りだけじゃないよ。風の湿り方も、草や土の香りも、雲の流れも、みんな少しずつ教えてくれるのさ」


 琥珀は目を丸くした。


 そして、マーレと同じように鼻先を空へ向ける。


 猫の耳をぴんと立て、目を閉じた。


 ひく。


 ひくひく。


 風の中から何かを探すように、もう一度、鼻先を動かす。


 最初に届いたのは、日の当たり始めた石畳の乾いた香りだった。


 その次に、木々の青い香り。


 けれど、それよりもはっきり分かったものがあった。


 包み布の中から漂ってくる弁当の香り。


 そして、胸元に抱えた猫型クッキーの、甘く焼けた香り。


 きゅるるるる。


 琥珀のお腹が、静かな朝の店先で元気よく鳴った。


「ひゃっ……」


 琥珀は両手でお腹を押さえた。


 耳がぺたりと伏せられ、しっぽの毛が恥ずかしそうに少しだけ膨らむ。


 ラファお姉ちゃんは口元へ手を当てた。


 マーレは一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑った。


「はははっ。ちゃんと自然を感じてる証拠さね。お腹が先に返事したよ」


「空のことを感じようとしたのにぃ……」


「弁当もクッキーも、麦や木の実からできてるんだ。間違っちゃいないよ」


「そうなのかな……」


「琥珀ちゃんが最初に感じたものとして、覚えておけばいいよ」


「お腹の音を?」


「石畳の香りと、木の葉の香り。それから、その中でお弁当の香りが一番よく分かったこと」


 琥珀は、もう一度だけ風へ鼻先を向けた。


 今度は目を閉じず、風に揺れる木の葉を見る。


 まだ、マーレのように天気までは分からない。


 それでも、いくつもの香りが同じ風の中にあることは、さっきより少しだけ分かる気がした。


「わたしも、いつか分かるようになるかな」


「なるさ。毎日同じように鼻を動かして、それから空がどうなったかを見ておけばね」


「感じたことと、そのあとの変化を一緒に覚えていこう。私も手伝うよ」


「うん。ラファお姉ちゃんと一緒に覚える」


 琥珀の耳が、ゆっくり起き上がった。


 その耳先を、夏へ向かう朝の風が撫でていく。


 マーレはそんな二人を見ながら、今度は馬力車の方角へ目を向けた。


「晴れるのはいいけど、あの馬力車には、まだ幌がないんだったね」


「うん。雨の日も、長い距離も、荷物をいっぱいに積んだときも、まだちゃんと確かめてないの」


「なら、雨だけじゃなく日差しにも気をつけな。昼になれば、朝よりずっと暑くなるよ」


「水袋は手の届く場所へ置きます。日差しの強い時間は無理に進まず、休める場所も確認します」


「それだけじゃ足りないね」


 マーレはそう言うと、二人を店先へ残し、風月の鐘亭の奥へ戻っていった。


 琥珀は首を傾げる。


 しばらくして戻ってきたマーレの両手には、二つの帽子があった。


「わあ……!」


 二つは同じ布で仕立てられ、よく似た形をしていた。


 夏の日差しを遮れるよう、つばは少し広め。


 風にさらわれないよう、留め紐も付いている。


 一つには、琥珀の耳を押さえつけないよう、猫の耳を外へ出せる場所がきちんと作られていた。


「こ、これ……わたしたちに?」


「幌もないのに、そのまま日向へ出すわけにはいかないだろ。使いな」


 琥珀は猫型クッキーの包みをラファお姉ちゃんへ一度預け、帽子を両手で受け取った。


 そっと頭へ載せる。


 猫の耳が、帽子からぴょこんと外へ出た。


 耳を前へ向けても、横へ動かしても邪魔にならない。


 琥珀がその場で一度回ると、帽子のつばが朝の光を柔らかく遮った。


「ラファお姉ちゃん、見て見て! 耳も動くよ!」


「うん。とっても似合ってるよ、琥珀ちゃん」


「ラファお姉ちゃんも!」


 ラファお姉ちゃんも、マーレから帽子を受け取る。


 琥珀のものと同じ布で作られているが、こちらは耳を出す場所のない、少し落ち着いた形だった。


 ラファお姉ちゃんがかぶると、琥珀はすぐそばまで寄って、帽子の向きを確かめる。


「もうちょっと、こっちかな」


 琥珀は帽子のつばへ触れ、ほんの少しだけ向きを直した。


 それから一歩下がり、ラファお姉ちゃんを見上げる。


「うん! ラファお姉ちゃんも可愛い!」


「ありがとう。これでお揃いだね」


「お揃い……」


 琥珀のしっぽが大きく左右へ揺れた。


 帽子の留め紐を結ぼうとして、嬉しさのあまり一度手元を間違える。


 ラファお姉ちゃんが笑いながら、琥珀の顎の下で留め紐を整えた。


 今度は琥珀が、ラファお姉ちゃんの留め紐を確かめる。


 風月の鐘亭の制服に、よく似た二つの夏帽子。


 いつもの格好のはずなのに、それだけで少しだけ旅へ出る姿になったように見えた。


「どう? マーレさん」


「帽子を見せる前に、荷物を忘れてないか見せな」


「もう、マーレさんったら」


「でも、似合ってるよ」


「えへへ……」


 琥珀の耳が、帽子の上で嬉しそうに動いた。


 絵描きさんも、板挟みと画材を抱えて店先へ出てくる。


 二人の帽子を見ると、少し目を細めた。


「出発する前に、もう一枚描きたくなりました」


「まだ描くの?」


「今までとは少し違うお二人ですから」


 琥珀は自分の帽子へ触れ、ラファお姉ちゃんと顔を見合わせた。


 けれど、マーレが弁当の包みを持ち上げたのを見て、慌てて猫型クッキーを受け取り直す。


「絵は馬力車へ乗ってからにしな。出る前に昼になっちまうよ」


「それもそうですね」


 ラファお姉ちゃんが、最後にもう一度荷物を数える。


 弁当。


 水袋。


 猫型クッキー。


 油小瓶。


 布きれ。


 細い縄。


 予備の留め具。


 板挟みと画材。


 日差しを避ける、二つの帽子。


「全部そろっています」


「じゃあ、まずはロクスたちのところへ行こう!」


 琥珀は猫型クッキーの包みを大事に抱え、店先から通りへ踏み出した。


 帽子の上から出た耳が、朝の街の音を拾う。


 風月の鐘亭の前では、夏へ向かう光の中に、ロクスと馬力車が待っていた。


 朝の光を受けた車体には、工房で手を加えた跡が残っている。


 床下には、歩き出しと停止の返りを受け持つ駆動の子。


 乗り降りする足元には、最初の一歩を守る踏み台の子。


 板バネも、折り畳み式の座席も、今日は荷物と同行者を乗せて、街の道へ出ようとしていた。


 ロクスは引き具のそばに立ち、風月の鐘亭から出てきた琥珀たちを見る。


「ロクス、おはよう!」


「ああ。朝からずいぶん元気だな」


「今日は出発する日だもん」


 琥珀のしっぽが、足元で弾む。


 ロクスの目が、琥珀とラファお姉ちゃんの帽子へ止まった。


 馬の耳が片方だけ動く。


「ずいぶんと旅らしい格好になったな」


「マーレさんがくれたの! 幌がないから、日差しに気をつけなさいって」


「耳までちゃんと出るんだよ」


「見りゃ分かる。そこで何度も動かさなくていい」


「だって、見てほしいんだもん」


 琥珀の耳が、帽子の上でぴこぴこと動く。


 ロクスは小さく息を吐いたが、口元は少しだけ緩んでいた。


「よく似合っとるではないか。わはは。二人そろうと、風月の鐘亭の新しい看板娘のようじゃのう」


「ひゃっ!?」


 馬力車の下から声がした。


 琥珀の耳がぴんと立つ。


 車体の陰から、ベルグがひょこっと顔を出した。


「ベルグじい! そんなところにいたの!?」


「おはよう、ベルグさん。もう駆動ユニットの確認をしていたんですね」


「おはようじゃ。これから乗るものを、乗る前に見るのは当たり前じゃからのう」


 ベルグは床下から身体を起こし、手にしていた布で指先を拭った。


「おぬしたちが弁当の香りに引かれておる間に、こちらは一通り見終わったところじゃ」


「な、なんで知ってるの?」


「鐘亭の中から、元気のよい腹の音が聞こえたからのう」


「外まで聞こえてたの!?」


「わははは!」


 琥珀の耳が、帽子ごと伏せそうになる。


 ラファお姉ちゃんは笑いをこらえながら、持ってきた荷物を馬力車の横へ並べた。


「お話は積み終わってからにしましょう。まず、重いものから中央へ置きますね」


「ああ。片側に寄せるな。走り出してから動かないように、全部留める」


 ベルグの工具は、馬力車の中央寄りへ。


 油小瓶は布で包み、倒れないよう道具袋の間へ収める。


 細い縄と予備の留め具も、必要なときに取り出せる位置へまとめた。


 弁当は押し潰されないよう、工具とは離して置く。


 水袋は、座ったままでも手が届く場所へ分ける。


「ロクスの弁当は、こっちに置くね」


「勝手に食うなよ」


「食べないよ!」


「さっき腹を鳴らしてたやつの言葉は、半分だけ信じる」


「もう、みんな知ってる……」


 琥珀のしっぽが、力なく地面へ垂れた。


 それでも、猫型クッキーの包みだけは胸元から離さない。


 ラファお姉ちゃんは荷物の左右を見比べ、片側へ寄っていた水袋を少し中央へ戻した。


「ベルグさんが左側、絵描きさんが右側に座るので、このくらいで釣り合いそうです」


「俺が曲がるたびに人も荷物も動いたら、駆動のやつがどれだけ働いても意味がない。座ったら、勝手に身を乗り出すな」


「はい。画材も板挟みに固定しておきます」


 絵描きさんは、二枚の板の間に紙を挟み、留め紐を確かめた。


 画材は使う分だけを手元へ。


 残りは小さな道具袋へ入れ、右側の座席のそばへ固定する。


「走っている途中で何か落としても、急に降りようとするな。先に俺へ言え」


「分かりました」


「琥珀、おまえもだ」


「分かってるよぉ」


「返事が軽い」


「分かりました!」


 琥珀は背筋を伸ばした。


 その頭の上で、帽子から出た耳まで真っすぐ立つ。


 ロクスは全員の荷物をもう一度見回したあと、馬力車の前方へ手を掛けた。


 収納されていた板を引き出す。


 かたん。


 折り畳まれていた支えが開き、二人掛けの座席が前方へ飛び出した。


 ロクスが座面を押し下げると、左右の留め具が噛み合う。


 続いて背もたれが起き上がり、小さな音を立てて固定された。


「わあ……!」


「前にも見ただろ」


「でも、乗るために開くところは、何度見てもわくわくするもん」


「眺めるのはあとだ。まず留め具を見ろ」


 琥珀は座席へ近づき、左右の留め具へ目を向けた。


 ラファお姉ちゃんも隣へしゃがみ、座面と支えの間に緩みがないか確かめる。


「左右とも固定されています。背もたれも動きません」


 ロクスは馬力車の前へ回り、引き具を握った。


 片足を石畳へ踏ん張り、肩と腰で馬力車を押さえる。


「琥珀、踏み台だ」


「はい!」


 琥珀は猫型クッキーの包みをラファお姉ちゃんへ預けた。


「踏み台、出します!」


 琥珀が踏み台の子を引き出す。


 車体の下から踏み台が開き、最後まで出たところで支えが噛み合った。


 続いて床下から、留め具の動く音がする。


 がちり。


 車輪を押さえる留め具が噛み合った。


 琥珀は踏み台が最後まで開いていることを確認し、左右の車輪へ目を向ける。


「車輪のロック、完了。よし!」


 ロクスは馬力車を支える力を少しずつ緩めた。


 車輪は前にも後ろにも動かない。


 引き具を軽く押し、固定が続いていることを確かめる。


「固定を確認した。乗っていいぞ」


 ベルグは後方左側の座席へ上がった。


 そこは、床下の駆動ユニットへ目を向けやすい位置だった。


 ベルグは工具を手元へ置き、座ったまま身体を少し傾けて、留め具と駆動の子の位置を確かめる。


「ここなら音も動きも見やすいのう」


「落ちるほど覗き込むなよ」


「おぬしに言われんでも分かっとるわい」


「身を乗り出すなって話をしたばかりだ」


「見るために乗ったんじゃぞ」


「見るなとは言ってない。落ちるなと言ってる」


 ベルグは何か言い返そうとしたが、やがて鼻を鳴らし、座席へ腰を戻した。


 反対側の後方右側には、絵描きさんが座る。


 板挟みを膝へ置き、留め紐を外せばすぐ描ける状態にする。


 琥珀は踏み台へ片足を置いた。


 体重を掛けても、馬力車は前にも後ろにも逃げない。


「踏み台の子、お願いね」


 琥珀は前方座席へ上がった。


 続いてラファお姉ちゃんも乗り込み、琥珀の隣へ腰を下ろす。


 ラファお姉ちゃんは、預かっていた猫型クッキーの包みを琥珀へ返した。


「はい。猫型クッキーも無事だよ」


「ありがとう、ラファお姉ちゃん」


 座面には二人分の余裕があり、足元も荷物に塞がれていない。


「琥珀ちゃん、帽子の留め紐は苦しくない?」


「うん、大丈夫。ラファお姉ちゃんのも、ちゃんと留まってるよ」


 二人はお互いの帽子を確かめる。


 風月の鐘亭の制服に、よく似た夏帽子。


 前方の二人掛け座席へ並んで座ると、琥珀のしっぽが嬉しそうに座席の端を叩いた。


「全員乗ったな。琥珀、踏み台を戻せ」


「はい!」


 琥珀は猫型クッキーの包みを膝の上へ置いた。


「踏み台、収納します!」


 琥珀が踏み台の子を収納する。


 踏み台が車体の下へ戻り、最後まで収まったところで、車輪を押さえていた留め具が外れた。


 かちり。


 琥珀は踏み台が収まったことと、車輪の留め具が外れたことを確認する。


「車輪のロック解除、よし!」


 琥珀は操作していた場所から身体を戻し、ラファお姉ちゃんの隣へきちんと腰を下ろした。


 猫型クッキーの包みを膝へ置き、両足も座席の内側へそろえる。


 ロクスはすぐには歩き出さなかった。


 肩越しに振り返り、琥珀が座ったことを自分の目で確かめる。


「そこから立つなよ」


「分かりました!」


「じゃ、行くぞ」


 ロクスは前を向き、引き具を肩と腰へ合わせた。


 馬の耳が後ろへ向き、車体から聞こえる音を拾う。


 しっぽが一度だけ揺れた。


 ロクスが最初の一歩を踏み出す。


 引き具が張り、馬力車の床下で駆動の子が動き始めた。


 車輪が、石畳の上をゆっくり転がる。


 ごとり。


 最初の小さな段差を越えた。


 琥珀は思わず座席の端へ手を置いたが、身体を大きく持ち上げられるような揺れは来なかった。


 板バネが沈み、返ってくる。


 揺れは消えていない。


 ただ、その角が少し丸くなっていた。


「動いた……!」


「動かすために作ったんだ。いちいち驚くな」


「だって、今日は荷物もみんなも乗ってるんだよ」


「だから確認してる」


 ロクスはいつもより歩幅を小さくし、石畳の継ぎ目を一つずつ踏み越えていく。


 歩き出した直後、腰へ遅れて返ってくる力に、ロクスのしっぽがわずかに張った。


 ベルグもその動きを見逃さなかった。


「まだ腰へ少し残るのう」


「ああ。だが、前よりは強くねえ」


「無理に歩幅を広げるでないぞ。今は街の道で見るところじゃ」


「分かってる」


 馬力車は、風月の鐘亭の前から通りへ出た。


 朝の街には、店を開ける音が重なっている。


 木の戸が開く音。


 桶の水が石畳へ広がる音。


 遠くで回る風車の音。


 街の人々が、見慣れない馬力車へ目を向けた。


 帽子から猫の耳を出し、前方座席へラファお姉ちゃんと並ぶ琥珀へ手を振る者もいる。


 琥珀の耳が右へ向く。


 すぐに左から聞こえた呼び声へ向き直る。


 前方に並ぶ店先も、通りを横切る荷車も、風に揺れる日除け布も気になる。


 琥珀の腰が、座席の上で少しずつ浮き始めた。


「琥珀ちゃん、座ったままね」


「あっ、うん」


 琥珀はいったん座り直した。


 けれど、今度は通りの向こうから手を振られ、嬉しそうに身体をそちらへ向ける。


「琥珀ちゃん、身体は座席の中へ」


「あっ、そうだった」


 琥珀は身を乗り出す前に座り直し、胸元の高さで小さく手を振った。


 ロクスは前を向いたまま、馬の耳だけを後ろへ向けていた。


 琥珀が座席の上で動く音。


 そのたびに、ラファお姉ちゃんが声を掛けるのも聞いている。


 左後方のベルグも、駆動の子だけでなく、前方座席の様子へ目を向けていた。


 ロクスのしっぽが、車体の側面へ一度触れた。


 次に、しっぽの先が座席の上方へ持ち上がる。


 そこにまだない何かを示すように、先端が小さく曲がった。


 ベルグはしばらくその動きを見ていた。


 やがて意味を察し、工具袋から小さな紙と書く物を取り出す。


 幌の骨組みを加えるとき。


 立ち上がってしまった乗り手でも、すぐ手を伸ばせる高さ。


 座席からも掴める横木。


 ベルグは短い線と印だけを紙へ残し、誰にも見せずに工具袋へ戻した。


 ロクスのしっぽが、今度は一度だけ静かに揺れた。


 琥珀は二人のやり取りに気づかない。


 帽子のつばを押さえながら、通りの向こうへ小さく手を振っていた。


「今のは、ちゃんとできたな」


「えへへ」


「褒めてはいない。確認しただけだ」


 馬力車は最初の曲がり角へ入った。


 ロクスが速度を落とし、内側の歩幅を小さくする。


 車体がゆっくり向きを変える。


 琥珀の身体が外側へ寄りかけると、ラファお姉ちゃんが隣でそっと支えた。


 荷物を留めた縄は緩まず、中央の道具袋も動いていない。


 ベルグは左後方から床下へ耳を澄ませる。


「曲がりの内側も、今日はついてきておるのう」


「まだ少しだけ遅れる。次の角でも見るぞ」


「うむ。それでよい」


 反対側では、絵描きさんが板挟みの留め紐を外していた。


 紙を一枚取り出し、膝の上へ固定する。


 片手で板の端を支え、もう片方の手で描き始めた。


 最初に描いたのは、前方に並ぶ二つの帽子だった。


 その向こうにはロクスの背中。


 さらに先には、朝の光が伸びる街の道がある。


 石畳の継ぎ目を越えるたび、鉛筆の先は小さく揺れた。


 それでも、線が紙の上から大きく跳ね出すことはない。


 絵描きさんは一度手を止め、今しがた引いた線を眺めた。


「どうじゃ。描けそうかのう」


「はい。揺れないわけではありません。でも、揺れ方が急ではないので、線を追えます」


「板バネの子が、揺れの角を丸めてくれてるんだよ」


「そのようですね。これなら、道の上でも少しずつ描けそうです」


 絵描きさんは再び鉛筆を動かした。


 琥珀は振り返りたくなったが、ロクスの注意を思い出し、前を向いたまま耳だけを後ろへ向ける。


「何を描いてるの?」


「お二人の帽子と、出発前の街です」


「あとで見せてね」


「もちろんです」


 琥珀のしっぽが座席の端で弾んだ。


 朝の風が、二人の帽子のつばを撫でていく。


 留め紐があるため、帽子は飛ばされない。


 日差しは少しずつ強くなっていたが、つばの下には柔らかな影ができていた。


「マーレさんの帽子、ちゃんと役に立ってるね」


「うん。可愛いだけじゃなくて、日差しも防いでくれてる」


「可愛いのも大事だよ」


「うん。それも大事だね」


 街の道を進むうちに、風車の鍛冶場の屋根が見えてきた。


 金属を打つ音が、通りの向こうから響いてくる。


 ロクスは歩幅をさらに小さくした。


「止まるぞ。全員、そのまま座ってろ」


 引き具が緩み始める。


 駆動の子が、歩き出したときとは反対の動きで返りを受け止める。


 ロクスの腰へ、まだわずかな力が残った。


 ロクスは片足を踏ん張ったが、姿勢を崩すほどではない。


 車輪が一つ、二つと回転を弱め、風車の鍛冶場の前で止まった。


 それでも、ロクスは引き具から手を離さない。


 片足を石畳へ踏ん張り、肩と腰で馬力車を押さえ続ける。


 ベルグは左後方から床下を覗き、駆動の子の止まった位置を確かめた。


 絵描きさんは、描きかけの線から鉛筆を離す。


 ロクスは馬の耳を後ろへ向け、床下から聞こえていた音が収まったことを確かめた。


「琥珀、踏み台だ」


「はい!」


 琥珀は胸元に抱えていた猫型クッキーの包みを、隣のラファお姉ちゃんへ差し出した。


「ラファお姉ちゃん、ちょっと持ってて」


「うん。大切に持ってるよ」


 包みを預け、琥珀は両手を空ける。


 身体を座席の内側へ残したまま、踏み台の子を動かす場所へ手を伸ばした。


「踏み台、出します!」


 琥珀が力を込める。


 車体の下から、踏み台がゆっくり外へ出てきた。


 かたん。


 最後まで開いたところで、踏み台の支えが噛み合う。


 続いて床下から、もう一つ音がした。


 がちり。


 踏み台の動きとつながった留め具が、車輪を押さえる。


 琥珀は踏み台が最後まで出ていることを確かめた。


 次に、左右の車輪へ目を向ける。


 車輪を押さえた留め具が噛み合っている。


 琥珀の耳が、帽子の上でぴんと立った。


「車輪のロック、完了。よし!」


「ラファ、荷物は」


「動いていません。車体の傾きもありません」


 ロクスは馬力車を押さえていた力を、少しずつ緩めていく。


 肩に掛かっていた重さを引き具へ預け、車輪の様子を見る。


 馬力車は動かない。


 前へ転がることも、後ろへ戻ることもなかった。


 ロクスはもう一度だけ引き具を軽く押し、固定されていることを確かめる。


「固定を確認した。降りていいぞ」


「うむ。では、わしからじゃな」


 ベルグは後方左側の座席から、ゆっくり身体の向きを変えた。


 片手で車体へ触れ、片足を踏み台へ下ろす。


 靴の裏が踏み台へ触れたところで、一度動きを止めた。


 それから、少しずつ体重を預けていく。


 馬力車は逃げない。


 車輪が前へ転がることも、後ろへ戻ることもなかった。


 踏み台もベルグの足を受け止めたまま、ぐらつかない。


「ほう」


 ベルグはもう片方の足も踏み台へ移し、そのまま石畳へ降りた。


 着地したあと、振り返って踏み台と車輪を見る。


「うむ。荷物を積んだままでも、きちんと止めておるのう」


「踏み台の子が、乗る最初の一歩を守ってくれるんだよ」


「降りる最後の一歩も、じゃな」


「あっ、そっか」


 琥珀の耳が、帽子の上でさらに高く立った。


「踏み台の子、ちゃんとベルグじいを守ってくれたね」


「わしだけではないぞ。次は絵描き殿じゃ」


 絵描きさんは、膝の上に置いていた板挟みへ目を落とした。


 描きかけの紙を二枚の板の間へ戻す。


 鉛筆も道具袋へ収め、留め紐を結んだ。


「描いたまま降りようとするなよ」


「はい。紙も私も、落ちないようにします」


 絵描きさんは板挟みを片腕で身体へ寄せ、空いた手で車体を支える。


 踏み台へ片足を下ろし、一段ずつ確かめながら石畳へ降りた。


 踏み台の固定は変わらず、馬力車も動かない。


「板挟みを抱えたままでも、足元を確かめて降りられますね」


「だからって、降りながら描くなよ」


「それはしません」


 絵描きさんは板挟みを抱え直し、少し笑った。


 琥珀も前方座席から立ち上がろうとする。


 けれど、猫型クッキーの包みは、まだラファお姉ちゃんの腕の中にある。


「包みを返して、ラファお姉ちゃん」


「降りてから渡すね」


「持ったままでも降りられるよ?」


「降りられることと、安全に降りることは別だよ」


「……さっきも聞いた気がする」


「大切なものだからこそ、今は両手を空けておこうね」


 琥珀は猫型クッキーの包みと、ラファお姉ちゃんの顔を交互に見る。


 やがて耳を少しだけ伏せ、座席から踏み台へ足を伸ばした。


「お願いね、踏み台の子」


 片手を車体へ添え、踏み台へ体重を預ける。


 足元は動かない。


 琥珀はもう一段降り、石畳へ着いた。


 すぐに振り返り、両手をラファお姉ちゃんへ伸ばす。


「今度こそ、包み!」


「私が降りてからね」


「あっ、そうだった」


 ラファお姉ちゃんは猫型クッキーの包みを片腕へ寄せ、空いた手を車体へ添える。


 踏み台へ足を置き、固定が続いていることを確かめながら降りた。


 石畳へ着くと、琥珀へ包みを返す。


「はい。猫型クッキーも無事だよ」


「ありがとう、ラファお姉ちゃん」


 琥珀は包みを受け取り、両手でそっと抱えた。


 全員が降りたあとも、踏み台の子は出したままにしておく。


 車輪のロックも解除しない。


 風車の鍛冶場にいるあいだ、馬力車が勝手に動かないよう固定しておくためだった。


 ロクスはそこでようやく引き具を外した。


 肩と腰を軽く動かし、停止したときに残った返りを確かめる。


 腰へ手を当てたまま、馬力車の前側へ目を向けた。


「まだ少し残るな」


「痛いの?」


「痛めるほどじゃない。止まったあとに、もう一度だけ押される感じがある」


「街の中では、どの止まり方でも出ていました。強くはありませんが、なくなってはいません」


「ああ。帰ったら、また見る」


 ロクスは短く答え、引き具と腰紐の位置を確かめ始めた。


 旅の荷物は、馬力車へ積んだままにしておく。


 ここで必要なのは、鍛冶場へ渡す物と、ベルグが引き継ぎに使う物だけだった。


 ベルグは中央へ積んでいた道具袋から、小さな工具包みを取り出した。


 その下から、布に包まれた固いものを持ち上げる。


 琥珀の耳が、そちらへ向いた。


「ベルグじい、それが山羊座の風車で使うもの?」


「使うもの、ではない。使うものを作るための見本じゃ」


「見本?」


「詳しい話は、中でじゃ。外で広げて落としたら、ロクスにまた怒られるからのう」


「俺のせいにするな。落とすなって言ってるだけだ」


「ほれ、やはり怒ったではないか」


「まだ怒ってない」


 ベルグは布包みを片腕へ抱え、鍛冶場の入口へ向かった。


 琥珀とラファお姉ちゃんも、そのあとに続く。


 絵描きさんは板挟みを抱えたまま、鍛冶場の前で一度立ち止まった。


 金属を打つ音。


 炉から流れてくる熱。


 開け放された戸の向こうでは、職人たちが朝の作業を進めている。


 絵描きさんはその光景へ目を留めたが、勝手に紙を広げることはせず、板挟みを抱えたまま中へ入った。


 ロクスは馬力車のそばへ残った。


 引き具と腰紐を手に取り、街中で感じた返りを確かめている。


「おう、来たぞ」


「ベルグ親方、本当に今日から留守にするんですか」


「本当に、とはなんじゃ。昨日も言うたじゃろう」


「言ってましたけど、朝になったらもう一つ直してから行く、とか言い出すかと思って」


「わしをなんじゃと思っとる」


 鍛冶場の奥で、細い背中が慌てて振り返った。


 ひょろりは手にしていた金具を作業台へ置き、長い手足を持て余すようにしながら近づいてくる。


「ベルグ親方。おはようございます。出る前に寄ると聞いて、作業台を空けておきました」


「うむ。感心じゃ。何も載っとらんだけ、ということはないじゃろうな」


「ち、違います。ちゃんと片づけました」


「ならよい」


 ひょろりは少しだけ胸を撫で下ろした。


 けれど、ベルグが抱えている布包みを見ると、すぐに背筋を伸ばす。


「それが、昨日言っていた見本ですか」


「そうじゃ。わしらが向こうを見ておるあいだ、おぬしたちには、こちらで進めてもらうことがある」


 鍛冶場にいた職人たちの手が、少しずつ止まる。


 完全に作業をやめるのではなく、金槌を置く者、炉の様子を見ながら耳だけを向ける者、それぞれがベルグの声を聞ける形になった。


 ベルグは空けられた作業台の前まで進む。


 布包みを中央へ置き、結び目をほどいた。


 包み布の中から、完成品よりも小さな、仮歯車のサンプルが姿を見せる。


 ひょろりが作業台の向こうから身を乗り出した。


 ベルグはその顔を見上げ、歯車の縁へ指を置いた。


「まずは、こいつの話からじゃ」


 ベルグの指先が、仮歯車の縁をなぞった。


 ひょろりは作業台の向こうから、歯の一つ一つを覗き込んでいる。


 近くにいた職人たちも、それぞれの位置から作業台へ目を向けた。


「これと同じものを作ればいいんですか」


「違う」


 ベルグは、ひょろりの言葉をすぐに止めた。


「こいつは見本じゃ。山羊座の風車へ、そのまま取り付けるものではない」


「では、歯の形を見るためですか」


「形だけではない。材料を選ぶときも、道具をそろえるときも、何もないところから考えるよりは基準があった方がよいじゃろう」


 ベルグは仮歯車を裏返し、中央の穴をひょろりたちへ見せた。


「向こうで軸と受けを見ねば、本当の大きさは決められん。歯の傷み方も、どこで噛み合わなくなっておるのかも、ここからでは分からんからのう」


「ベルグ親方たちが、直接確かめてくるんですね」


「そのために行くんじゃ」


 ベルグは仮歯車を作業台の中央へ戻した。


 乾いた音が一つ鳴る。


「わしらが向こうを見ておるあいだ、おぬしたちは材料を見ておけ。歯車に使えそうなもの、軸を受けられそうなもの、削るための道具。それから固定具じゃ」


「先に加工はしないんですか」


「決まってもおらん寸法で削って、何に使うつもりじゃ」


「薪にはなります」


「歯車にする材料を、わざわざ薪へ変えるでない」


 鍛冶場の中に、小さな笑いが起こった。


 ベルグは呆れたように眉を下げたが、その口元も少しだけ緩んでいる。


「今は、正しい大きさが分かったときに、すぐ手を動かせるところまででよい。何を使うか。何が足りんか。どの道具を先に整えるか。それを見ておけ」


「完成品を先に作るんじゃなくて、完成品を作れる準備をするんだね」


「そうじゃ。向こうを見てからでなければ決められんものと、ここで先にできることを分けるんじゃよ」


 琥珀は作業台の仮歯車を見つめた。


 ベルグたちが山羊座の風車を見ているあいだも、鍛冶場では材料や道具の準備が進む。


 どちらかが戻ってくるまで、もう片方が何もせず待つわけではない。


「離れていても、一緒に準備できるんだ」


「全部を一つの場所でやる必要はないからね」


「うん。手で届くところから、だね」


「その通りじゃ」


 ベルグはひょろりへ目を向けた。


「ひょろり。この見本は、おぬしに預ける」


「僕に、ですか」


「嫌なら、そこの薪にしようとしたやつへ渡すが」


「い、いえ。僕が預かります」


 ひょろりは慌てて両手を伸ばした。


 けれど、途中で一度止まる。


 作業台の上に敷かれていた布を手元へ寄せ、仮歯車を包むようにして持ち上げた。


 長い指が、歯の部分を傷つけない位置へ添えられる。


「落とすなよ」


「落としません」


「炉のそばにも置くでないぞ」


「置きません」


「歯の間へ金屑を詰まらせるでないぞ」


「それもしません」


「なら、任せた」


「はい」


 ひょろりの返事は、最初より少しだけしっかりしていた。


 仮歯車を受け取った腕は慎重なままだが、細い背中が真っすぐ伸びている。


 ベルグはその様子を確かめ、次に職人たちを見回した。


「予備に使えそうな留め具も分けておけ。大きさごとにな。現地を見たあと、使えるものと足りんものをすぐ比べられるようにするんじゃ」


「細い縄と滑車も見ておいた方がいいですか」


 ひょろりが仮歯車を作業台の安全な場所へ置き、ベルグへ向き直った。


 その言葉に、ベルグの目が少し細くなる。


「昇降機の方か」


「はい。あの壊れかけた昇降機です」


 琥珀の耳が、ぴくりと動いた。


 止まりかけた昇降機。


 軋む音。


 足元が傾いた瞬間。


 そして、ロクスに担ぎ上げられたときのことが、ほんの一瞬だけ頭をよぎる。


 琥珀のしっぽが、少しだけ太くなった。


 ラファお姉ちゃんは、その変化へ気づいた。


「琥珀ちゃん、大丈夫?」


「う、うん。ちょっと思い出しただけ」


「今度は、危ないまま使わないようにするための相談だよ」


「うん」


 琥珀はしっぽを自分の足元へ寄せた。


 ベルグは、ひょろりへ話の続きを促す。


「それで、何を迷っておる」


「元の大きさに戻して、人を上げられるようにするのか。それとも先に、荷物だけでも上げられるようにするのかです」


「人は後じゃ」


 ベルグは迷わず答えた。


「あれへ、すぐ人を乗せることは考えるな。まずは荷を安全に上げる。そこで縄も、滑車も、固定具も、どこまで耐えられるかを見るんじゃ」


「人より、荷物を先に」


「荷なら、少しずつ重さを変えて確かめられる。おかしいと思えば降ろせる。壊れたときに人が中へ乗っておるのとは、わけが違うからのう」


 ひょろりは何度か頷いた。


「では、細い縄、滑車、固定具を分けます。足場材も、傷みのないものから選んでおきます」


「使えるものだけを見るでないぞ。傷んだものも、どこが悪いか分けておけ。現地に残っておるものと比べられる」


「分かりました」


「人を上げる仕組みまで、勝手に組むでないぞ」


「そこまではしません」


「本当かのう」


「ベルグ親方に言われたくありません」


 鍛冶場の中に、また笑いが広がった。


 ベルグは眉を上げたが、怒ることはなかった。


「言うようになったではないか」


「任されたので」


「うむ。それでよい」


 ベルグは作業台へ片手を置き、少しだけ考え込んだ。


 視線は仮歯車ではなく、そこにはない大きな昇降機を見ているようだった。


「あの昇降機の大きさは、これからは大変じゃしのう……」


 声は小さかった。


 すぐそばにいるひょろりには届いたが、少し離れたベルグの背後にいる琥珀までは届かない。


 ベルグの眉が、ゆっくり持ち上がる。


 口元が片側だけ上がった。


「少し手を加えてもいいかのう……くくく」


 ひょろりの長い背中が、ぴたりと固まった。


「ベルグ親方。何を思いついたんですか」


「まだ何も言うておらんぞ」


「今の笑い方で、何もないはずがありません」


「わはは。気にするでない」


「気になります」


 琥珀には、二人が何を話しているのか聞こえていなかった。


 ただ、ベルグが作業台の前で、ひどく楽しそうな顔をしていることだけは見えた。


 琥珀の右耳が横へ傾く。


 少し遅れて、左耳も同じ方向へ傾いた。


 首までこてんと横へ倒れる。


 頭の上には、大きな疑問符でも浮かんでいそうだった。


「ベルグじい、どうしたの?」


「何でもないぞ」


「でも、すっごく怪しい顔してたよ?」


「旅へ出る前の、爽やかな笑顔じゃ」


「爽やか……?」


「爽やかではありませんでした」


「ラファまで何を言うか」


 絵描きさんは板挟みを抱えたまま、ベルグとひょろりの間へ目を向けた。


「今の顔も、残しておいた方がよいでしょうか」


「描かんでよい」


「あとで描きたくなりそうです」


「忘れるんじゃ」


 琥珀はまだ不思議そうにしていたが、ベルグが教える気のないことを察し、しっぽの先だけを曲げた。


 ベルグは小さく咳払いをする。


 それから、ひょろりと職人たちへ向き直った。


「とにかく、わしがおらんからといって全部止めるでないぞ」


「はい」


「現地を見ねば決められんところは待て。じゃが、材料を選ぶことも、道具をそろえることも、縄や滑車を調べることもできる」


 ベルグは作業台の仮歯車を指す。


「手で届くところから、進めておけ」


「分かりました。ベルグ親方が戻ったとき、すぐ次へ進めるようにしておきます」


「うむ。頼んだぞ」


 ひょろりは仮歯車を包み直し、作業台の端ではなく、壁際の棚へ運んだ。


 炉の熱も、飛んでくる金屑も届かない場所。


 そこへ布を敷き、歯車を静かに置く。


 職人たちも動き始めた。


 材料置き場へ向かう者。


 留め具の箱を開く者。


 壁に掛けられていた縄を下ろし、傷みを確かめる者。


 滑車を一つずつ作業台へ並べる者。


 誰か一人がベルグの代わりになるのではない。


 それぞれが、自分の手で届く仕事を受け取っていた。


 琥珀はその様子を見回した。


「もう、始まってる」


「うん。私たちが向こうへ進んでいるあいだも、ここの準備は進んでいくね」


「わたしたちだけが、行くんじゃないんだね」


「そうじゃ。ここに残る手も、同じ先へ向いておる」


 琥珀は帽子から出た耳を、作業を始めた職人たちへ向けた。


 金属の触れ合う音。


 縄を引き出す音。


 箱の中で留め具が重なる音。


 その全部が、これから向かう場所へ続いているように聞こえた。


「では、行ってきます」


「いってらっしゃい。こっちは任せてください」


「仮歯車、落とさないでね」


「落としません」


「炉のそばにも置かないでね」


「置きません」


「歯の間に金屑も――」


「ベルグ親方と同じことを言わないでください」


「えへへ」


 ひょろりは困ったように眉を下げたが、その背中はもう曲がっていなかった。


 ベルグが先に鍛冶場の戸口へ向かう。


 琥珀とラファお姉ちゃん、絵描きさんも、そのあとに続いた。


 外へ出ると、夏へ向かう朝の光が、さっきより少し強くなっていた。


 馬力車のそばでは、ロクスが引き具と腰紐の確認を終え、こちらを待っている。


 踏み台の子は出たまま。


 車輪のロックも、きちんと掛かったままだった。


 琥珀は猫型クッキーの包みを抱え直し、ロクスと馬力車のところへ歩いていった。


 ロクスが、鍛冶場から戻ってきた一行へ目を向けた。


「話は終わったのか」


「うむ。あとは、ひょろりたちへ任せてきた」


 鍛冶場の中では、すでに次の音が始まっている。


 材料を運ぶ音。


 箱の中から留め具を選ぶ音。


 縄を伸ばし、傷んだ場所を確かめる音。


 仮歯車のサンプルは、炉の熱も金屑も届かない棚へ置かれていた。


 ベルグが街を離れても、鍛冶場の手は止まらない。


 琥珀は開け放された戸の向こうを振り返った。


 ひょろりがこちらに気づき、長い腕を上げる。


「いってらっしゃい!」


「行ってきます!」


 琥珀も片手を高く上げた。


 帽子から出た耳が立ち、しっぽが大きく揺れる。


 職人たちも、作業の手を完全には止めず、それぞれ金槌や縄を持ったまま短く手を上げた。


「帰ってくるまでに、薪を増やしておくなよ」


「歯車の材料を薪にはしません!」


「ならよい」


「まだ気にしてたんだ……」


 鍛冶場の前に、小さな笑いが広がった。


 ラファお姉ちゃんは馬力車のそばへ立ち、積んだ荷物を順番に確かめていく。


 中央の工具袋は動いていない。


 油小瓶は、布に包まれたまま倒れていない。


 弁当の包みも、水袋も、すぐ取り出せる位置にある。


 細い縄と予備の留め具もそろっている。


「人数は五人。弁当、水袋、工具、油小瓶、布きれ、細い縄、予備の留め具。絵描きさんの板挟みと画材もあります」


「猫型クッキーもあるよ!」


 琥珀は包みを少しだけ持ち上げた。


「うん。琥珀ちゃんの手元で確認できています」


 絵描きさんは板挟みの留め紐へ触れた。


 街中で描き始めた絵は、二枚の板の間へきちんと収まっている。


「こちらも大丈夫です」


 ベルグは自分の工具袋を持ち上げ、重さを確かめた。


「わしの工具もある。多すぎも、少なすぎもせん」


「荷物の偏りもありません。ベルグさんが左側、絵描きさんが右側へ座れば、今の配置で大丈夫です」


 ロクスは腰紐を締め直し、引き具を肩へ合わせた。


 金具を一つずつ指で確かめ、留め具が正しく噛み合っていることを見る。


「街の中で腰へ残った返りは、まだある。急に歩幅は広げない。止まるときも声を掛ける」


「はい。こちらも、荷物と座席の様子を見ます」


「幌はないし、雨の日も、長い距離も、荷物をいっぱいに積んだときも、まだ確かめてないんだよね」


「ああ。今日は晴れてるからって、できてないことまでできると思うな」


「うん」


「日差しが強くなったら休憩します。水も、喉が渇く前に飲みましょう」


「帽子もあるよ」


 琥珀は、マーレからもらった帽子のつばへ触れた。


 同じ布で作られたラファお姉ちゃんの帽子も、朝より少し強くなった光を遮っている。


「可愛いからって、帽子だけで全部どうにかなると思うなよ」


「分かってるもん。でも、可愛いのも大事だよ」


「そこは譲らないんだな」


「大事だからね」


 ロクスの馬の耳が、呆れたように横へ開いた。


 それでも、琥珀たちの帽子をもう一度見てから、引き具へ視線を戻す。


「確認は終わりです。乗りましょう」


 踏み台の子は、鍛冶場へ着いたときから出たままだった。


 車輪のロックも掛かったまま。


 ロクスが引き具を握り、馬力車を支えられる姿勢になる。


「乗っていいぞ」


 ベルグが最初に踏み台へ足を掛けた。


 片手を車体へ添え、後方左側の座席へゆっくり上がる。


「乗る方も、きちんと支えておるのう」


「踏み台の子、お願いね」


「任せるだけじゃなく、おぬしも確認するんじゃぞ」


「分かってるよ」


 絵描きさんも、板挟みを身体へ寄せて踏み台へ足を置いた。


 空いた手で車体を支えながら上がり、後方右側の座席へ腰を下ろす。


 板挟みは膝へ。


 画材の道具袋は、座席のそばへ固定する。


 琥珀は猫型クッキーの包みを、ラファお姉ちゃんへ預けた。


 両手を空け、踏み台から前方の二人掛け座席へ上がる。


 続いてラファお姉ちゃんも乗り込み、琥珀の隣へ座った。


「猫型クッキー、返すね」


「もう少しだけ持ってて。踏み台の子を戻すから」


「うん。分かったよ」


 琥珀は身体を座席の内側へ残したまま、踏み台の子を動かす場所へ手を伸ばした。


「踏み台、収納します!」


 踏み台が、ゆっくり車体の下へ戻っていく。


 最後まで収まったところで、車輪を押さえていた留め具が外れた。


 かちり。


 琥珀は、踏み台がきちんと収納されていることを確認する。


 次に、車輪の留め具が外れていることへ目を向ける。


「車輪のロック解除、よし!」


 琥珀は操作していた場所から身体を戻し、ラファお姉ちゃんの隣へきちんと腰を下ろした。


 両足を座席の内側へそろえる。


 ラファお姉ちゃんから猫型クッキーの包みを受け取り、膝の上へ置いた。


「琥珀ちゃん、足元も大丈夫。包みも膝の上にあるね」


「うん。今度は、ちゃんと座ってるよ」


 ロクスは、すぐには動き出さなかった。


 肩越しに振り返る。


 後方左側にはベルグ。


 後方右側には絵描きさん。


 前方の二人掛け座席には、ラファお姉ちゃんと琥珀。


 琥珀の両足も、しっぽも、座席の内側へ収まっている。


「今度こそ、立つなよ」


「分かりました!」


「返事だけじゃないだろうな」


「ちゃんと座ってるもん」


「それならいい」


 琥珀は膝の上の包みへ、そっと手を置いた。


 包み布の中には、猫の形をしたクッキーが眠っている。


 風月の鐘亭で用意した弁当。


 マーレが確かめた夏へ向かう空。


 ロクスが引く馬力車。


 床下の駆動の子。


 乗り降りを守る踏み台の子。


 絵描きさんの板挟み。


 ベルグからひょろりへ託された仮歯車。


 鍛冶場で始まった、材料と道具の準備。


 準備してきたものも、街へ残してきた手も、同じ先へ向いていた。


 目的地は、地図の上にある場所だけではない。


 手紙を書いて待っている、会いたい相手のところ。


 琥珀は顔を上げた。


 帽子から出た耳が前を向く。


 しっぽが、前方座席の内側で嬉しそうに揺れた。


 ロクスは琥珀が座ったことを、もう一度確かめる。


 それから前を向き、引き具を握り直した。


「じゃ、行くぞ」


 琥珀は猫型クッキーの包みをそっと押さえ、街の外へ続く道を見た。


「行こう。リノちゃんのところへ」


 ロクスが最初の一歩を踏み出した。


 床下で駆動の子が動き、馬力車の車輪がゆっくり回り始める。


 背後の鍛冶場からは、金属を打つ音が続いていた。


 街に残る手の音を背中に受けながら、馬力車は、街道へ続く道の方へ動き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。