第57話
朝の風月の鐘亭は、まだ半分だけ眠っているみたいだった。
通りの石畳には、夜のあいだに落ちた葉が、ところどころに散っている。店の戸はまだ開ききっておらず、看板だけが朝の風に小さく揺れていた。
琥珀は両手で箒を持ち、店の前をしゃっ、しゃっと掃いていた。
「ふぁ……」
大きなあくびが出た。
耳がぺたりと寝て、しっぽの先が眠そうに揺れる。それでも手だけは止めないように、琥珀は箒を動かした。
しゃっ。
しゃっ。
箒の先が葉を集める音を聞きながら、琥珀の頭の中には、昨日の工房の音がまだ残っていた。
油の香り。
木の香り。
金具の香り。
床板の下で、小さく働いていた駆動の子。
ロクスが一歩を踏み出すたびに、体へ返ってくる重さを、少しだけ受け止めてくれた。全部を消してくれるわけではない。けれど、歩き出しの角を、そっと丸めてくれるような動きだった。
踏み台の子もいた。
出ると、かちりと噛む。
戻ると、すっと外れる。
乗る人が足を置く、その最初の一歩を守るための小さな子。
大きな声を出すわけでも、目に見えて胸を張るわけでもない。けれど、どちらも、ちゃんと自分の場所で働いていた。
琥珀は箒を止めた。
まだ朝の空気は少し冷たい。通りの向こうから、誰かが戸を開ける音がした。
琥珀は店先に立ったまま、工房の方角へ顔を向けた。
「ロクスのこと、よろしくね」
声は、とても小さかった。
誰かに聞かせるためではなく、昨日の小さな子たちへ届けばいいと思って、琥珀はそっと囁いた。
そのとき、箒の先の近くで、淡い光がふわりと浮いた。
朝の光とは少し違う。
月明かりを細かくほどいたみたいな、小さな粒。
それは一つだけ、琥珀の足元をゆっくり漂って、すぐに朝の空気へ溶けるように消えた。
「……今の」
琥珀は瞬きをした。
耳がぴくりと立つ。けれど、次に風が吹いたときには、そこにはただ、集めかけの葉があるだけだった。
「琥珀ちゃん」
店の中から、ラファお姉ちゃんの声がした。
琥珀ははっとして振り返る。
ラファお姉ちゃんが、入口のそばに立っていた。腕には畳んだ布を抱えている。朝の支度を手伝っていたのか、袖口が少しだけ湿っていた。
「掃き掃除は進んでいますか?」
「あっ」
琥珀は足元を見た。
集めたはずの葉が、しっぽの動きで少し広がっている。
「進んでる……途中、かな」
「途中ですね」
ラファお姉ちゃんは、琥珀のしっぽと葉を順番に見て、少しだけ笑った。
「しっぽが、掃除した場所をもう一度散らしています」
「えっ、ほんと?」
琥珀は慌ててしっぽを押さえた。
その様子を見て、ラファお姉ちゃんの表情がやわらかくなる。
「昨日のことを考えていましたか?」
琥珀は、箒の柄を握り直した。
「うん。駆動の子と、踏み台の子のこと」
「よく働いてくれましたね」
「うん」
琥珀は小さくうなずいた。
「ロクス、少し楽そうだった。まだ全部じゃないけど、でも、最初の一歩が前より軽そうで」
言葉にすると、胸の奥が少し温かくなった。
馬力車は、まだ完成ではない。
幌もない。雨の日も分からない。長い道をずっと走った時のことも、荷物をたくさん積んだ時のことも、まだ確かめていない。
それでも、リノの村までなら、確かめながら進めるかもしれない。
昨日まで紙の上や工房の中にあった道が、少しだけ本当の道に近づいた気がした。
「リノに、会いに行けるかな」
琥珀がぽつりと言うと、ラファお姉ちゃんはすぐには答えなかった。
代わりに、店先に残っていた葉を一枚拾い、琥珀の集めた葉の山へそっと重ねる。
「会いに行くために、今日も準備をしましょう」
「うん」
琥珀の耳が、ゆっくり立ち直った。
楽しみだった。
けれど、胸の奥には、リノの手紙の最後にあった言葉も残っている。
山の方から来る風が、少し冷たい。
朝の風が頬をなでた。
琥珀はもう一度、工房の方角を見た。それから箒を持ち直し、店の前の葉を集め直す。
「よし。まずは、風月の鐘亭の前から」
「はい。今日の最初の準備ですね」
ラファお姉ちゃんの声に、琥珀はこくりとうなずいた。
しゃっ。
しゃっ。
箒の音が、朝の通りに戻っていく。
その音に混じって、店の奥から汁物の温かい香りが流れてきた。パンを焼く香りも、ほんの少し混じっている。
風月の鐘亭の一日が、ゆっくり目を覚まし始めていた。
店先の葉が、ようやく一つの山にまとまったころ、通りの向こうから足音が近づいてきた。
朝の通りに響くには、少しだけゆっくりした足音だった。
琥珀は箒を持ったまま顔を上げる。
画材の入った鞄を肩にかけた絵描きさんが、風月の鐘亭の前で足を止めた。まだ朝の光が浅いせいか、帽子のつばの影が目元に落ちている。
「おはようございます」
絵描きさんは、いつものように穏やかに頭を下げた。
「あっ、おはようございます」
琥珀も慌てて頭を下げる。
以前、絵をお願いした人だ。
リノのことや、届けたい絵のことを話した相手でもある。
だから、風月の鐘亭へ来たこと自体は不思議ではなかった。
ラファお姉ちゃんも入口のそばで軽く会釈する。
「おはようございます。朝早いですね」
「ええ。少し、気になりまして」
絵描きさんはそう言って、風月の鐘亭の看板を見上げた。
風が吹き、看板が小さく揺れる。
「リノさんの村へ向かう日取りを、そろそろ伺えればと思ったんです」
琥珀の耳が、ぴくりと動いた。
「日取り……」
「はい。馬力車が、リノさんの村までなら向かえそうな形になったと……」
そこまで言って、絵描きさんは言葉を止めた。
琥珀も、ラファお姉ちゃんも、すぐには返事をしなかった。
朝の通りの音だけが、ほんの少し遠くなった気がした。
昨日のことは、まだ風月の鐘亭の外には話していない。
工房で確かめたこと。
駆動の子が働いたこと。
踏み台の子が、かちりと噛んだこと。
リノの村までなら、確かめながら進めるかもしれないと思えたこと。
それは、まだ昨日の工房と、風月の鐘亭の中にしかないはずだった。
「……誰から、聞いたんですか?」
琥珀は、箒の柄を握ったまま尋ねた。
声が少し小さくなった。
絵描きさんは、困ったように眉を下げる。
「誰から、というわけではないんです」
「え?」
「すみません。変な言い方になりますが……昨日の夕方から、そんな気がしていました」
絵描きさんは、自分でもうまく説明できないという顔をした。
「リノさんの村へ向かう道を、今なら描けるような気がしたんです。馬力車の車輪が、その道へ向いているような……」
朝の光が、雲の隙間から細く差した。
その光が、絵描きさんの瞳に触れる。
瞳の奥で、横に細い光が一瞬だけ揺れた。
それは、まばたきよりも短い間だった。
琥珀は気づかなかった。
ラファお姉ちゃんも、その瞬間は絵描きさんの鞄の方を見ていた。
絵描きさん自身も、何かに気づいた様子はなかった。
「……そんな気がした、ですか」
ラファお姉ちゃんが静かに言った。
「はい。おかしな話ですよね」
絵描きさんは小さく笑った。けれど、その笑い方には、少しだけ戸惑いが混じっていた。
琥珀は胸の奥が、ほんの少し冷えるのを感じた。
怖い、とは違う。
逃げたい、でもない。
朝の風向きが、急に一つだけ変わったような感じだった。
「それで、あの……」
絵描きさんは鞄の紐を握り直した。
「もしリノさんの村へ向かうのでしたら、私も同行させていただけないでしょうか」
「同行?」
琥珀の耳が立つ。
「はい。道を描きたいんです。馬力車が進む道や、朝の光や、風の中の表情を。リノさんに会いに行く、その途中の景色を」
絵描きさんの声は、今度はいつもの絵描きさんの声だった。
何かに押されているというより、自分の言葉を探しながら話している。
「それに、前にお願いされた絵のこともあります。届けるものがあるなら、私もその道を見ておきたいんです」
琥珀は、箒を胸の前で抱えるように持った。
リノの村へ向かう道。
馬力車の車輪。
朝の光。
描かれる景色。
その言葉は少し不思議で、少し怖くて、でも、どこか嬉しくもあった。
「ラファお姉ちゃん」
琥珀が小さく呼ぶと、ラファお姉ちゃんは絵描きさんを見たまま、ゆっくりうなずいた。
「同行者が増えるなら、確認することも増えます。座席、荷物、食事、水、休憩の場所。絵の道具をどう守るかも考える必要があります」
「はい。ご迷惑にならないようにします」
「迷惑かどうかではなく、安全の確認です」
ラファお姉ちゃんの声は柔らかいけれど、はっきりしていた。
絵描きさんは真剣な顔でうなずく。
そのとき、店の奥からマーレの声が飛んできた。
「朝っぱらから店先で旅の人数を増やしてるのは、誰だい」
琥珀の耳がぴんと立った。
マーレが布巾を手に、入口から顔を出す。目は少し細められているけれど、怒っているわけではなかった。
「マーレさん」
「聞こえてるよ。同行したいだの、道を描きたいだの」
マーレは絵描きさんを見る。
「行きたいなら、まず弁当と水だよ。気がしただけで旅の人数が増えるなら、弁当の数も増えるさね」
その言葉に、さっきまで少し冷えていた空気が、ふっと台所の方へ引き戻された。
琥珀は思わず息を吐く。
「弁当……」
「そうさ。絵を描く人の分もいる。手を汚さず食べられるものも考えなきゃならない。ロクスの分は多め。あんたたちは、浮かれて食べ忘れないようにする」
「食べ忘れないよ」
「昨日までの工房を思い出してから言いな」
マーレに言われて、琥珀は言葉に詰まった。
ラファお姉ちゃんが小さく笑う。
「まずは人数と持ち物を整理しましょう。マーレさん、台所をお借りしても?」
「もちろんだよ。話だけで旅は進まないからね」
マーレは布巾を肩にかけ直し、店の中へ顎をしゃくった。
「ほら、入った入った。日取りを決める前に、腹と荷物の話だよ」
絵描きさんは少しだけ驚いた顔をしたあと、ほっとしたように笑った。
「ありがとうございます」
琥珀は箒を店の脇に立てかけた。
店先の葉は、今度こそ一つにまとまっている。
通りには、朝の人の声が少しずつ増え始めていた。
琥珀は一度だけ、絵描きさんの横顔を見た。
穏やかな顔だった。
いつもの、絵を描く人の顔だった。
けれど胸の奥には、さっきの言葉が小さく残っている。
そんな気がした。
琥珀はその言葉を抱えたまま、ラファお姉ちゃんたちの後を追って、風月の鐘亭の中へ入った。
風月の鐘亭の台所は、店先よりもずっと早く目を覚ましていた。
鍋の中では、朝の汁物が小さく音を立てている。焼き上がったパンは布の上に並べられ、香ばしい香りが台所いっぱいに広がっていた。
マーレは作業台の端に布巾を置くと、琥珀たちを順番に見た。
「さて。まずは人数だよ」
「人数?」
「そうさ。誰が行く。誰が食べる。誰が歩く。誰が荷物を持つ。そこをあやふやにしたまま、弁当なんか作れないよ」
マーレの声に、さっきまで胸の奥に残っていた冷たさが、少しずつ薄れていく。
絵描きさんの「そんな気がした」という言葉は、まだ気になっていた。けれど、台所には湯気があり、パンの香りがあり、マーレの声があった。
ここでは、まず食べる人のことを考える。
それが風月の鐘亭のやり方なのだと、琥珀は思った。
「えっと、わたしと、ラファお姉ちゃんと、ロクスと、絵描きさん……それから、ベルグじい」
「ベルグさんも同行ですね」
「うん。山の方の風車を見に行くなら、ベルグじいがいないと分からないことが多いと思う。仕組みとか、荷物を上げる方法とか、現地で見ないと決められないこともあるだろうし」
琥珀が答えると、ラファお姉ちゃんは小さくうなずいた。
「琥珀ちゃん、私、ロクスさん、ベルグさん、絵描きさん。基本は五人分ですね」
「五人分か。なら、ロクスの分は多めだね」
マーレは迷わず言った。
「歩いて引くんだ。しかも試しながら進むなら、腹が減ったままじゃ体がもたないよ」
「ロクスは、硬めのおにぎりが好きだったよね」
「塩も少し強めさね。汗をかくなら、なおさらだよ」
琥珀は以前のお弁当のことを思い出した。
硬めに握った三角。
少し塩を強くしたもの。
ロクスが黙って食べて、それでもちゃんと気に入ってくれたお弁当。
あのときは、食べてもらうためのお弁当だった。
今度は、進むためのお弁当になる。
「じゃあ、ロクスのは大きめで、塩強め。具は崩れにくいもの」
「いいね。魚をほぐしたものか、焼いた肉を細かくしたもの。汁気は少なめだよ」
「茸は?」
「入れるなら炒めて水気を飛ばす。包んだ中でべちゃっとしたら、食べにくいからね」
琥珀は真剣にうなずいた。
ラファお姉ちゃんは、作業台の端に置かれた小さな板を借り、そこへ指で順番をなぞるようにしながら整理していく。
「ロクスさん用。量は多め。塩気はやや強め。形は崩れにくく。具は水分を抑える」
「うん」
「ベルグさん用はどうしましょう」
「ベルグじいは、工房だと食べるの忘れそう」
「それは、あんたも人のことを言えないよ」
「うっ」
マーレは少し笑ってから、棚に置かれた籠を引き寄せた。
「ベルグには、食べやすくて腹持ちするものだね。噛みやすくて、冷めても固くなりすぎないもの。職人は考え始めると、食べる手が止まるからね」
「小さめに分けて包むのはどうでしょう。一度に全部食べなくても、休憩ごとに手を伸ばせます」
「いいね。あの爺さんなら、工具の横に置いても食べられる形がいい」
「ベルグじい、工具の横に食べ物置きそう」
「置くね」
「置きますね」
三人の声が重なって、琥珀は思わず笑った。
絵描きさんも、少しだけ肩の力を抜いたように笑う。
「次に絵描きさん用です」
急に話が自分へ向いて、絵描きさんは少し背筋を伸ばした。
「私ですか?」
「はい。絵を描くなら、手を汚しにくい食べものが必要です」
「ああ……たしかに。油や汁がついた手で紙を触るわけにはいきませんね」
「絵の具も紙も、濡れたり汚れたりすると困ります」
絵描きさんは、自分の鞄を見下ろした。
中には筆や紙、道具が入っている。旅の途中で絵を描くなら、それらを守ることも準備のうちだった。
「私の分は、簡単なもので大丈夫です」
「簡単と雑は違うよ」
マーレがすぐに言った。
絵描きさんは、はっと顔を上げる。
「絵を描く手なら、なおさら食べなきゃならない。手が震えたら線も揺れるだろう?」
「……はい。たしかに」
「だから、手が汚れにくくて、片手でも食べやすいもの。包みを開いて、すぐ食べられるものがいい」
「薄く焼いたパンに挟むのはどうでしょう」
「いいね。汁気を切った具を挟んで、布か紙で巻けば食べやすい」
「絵描きさん用は、包みを開きやすいように印を付けますか?」
「それは助かります」
絵描きさんは、少し照れたように笑った。
その顔は、店先で見たときよりもずっと普通の絵描きさんに見えた。
琥珀の胸に残っていた小さな冷たさが、また少しだけ溶ける。
「琥珀ちゃんたちの分はどうしますか?」
「わたしたちは、普通のおにぎりで大丈夫じゃない?」
「普通、で済ませる子が一番あぶないんだよ」
「えっ」
マーレは琥珀を見て、目を細めた。
「あんたは楽しみなことがあると、食べるのを後回しにする顔をしてる」
「してないよ」
「してるね」
「しています」
「ラファお姉ちゃんまで」
琥珀が耳を倒すと、ラファお姉ちゃんは少しだけ笑った。
「食べ忘れないために、小さめで食べやすいものも入れましょう。休憩の時に一つずつ食べられる形が良いと思います」
「休憩の時に……」
「はい。食事は、止まる合図にもなります」
その言葉に、琥珀ははっとした。
工房で作っていたときも、止まることが大事だった。
踏み台の子は、乗る人の最初の一歩を守る。
板バネは、揺れの角を丸める。
駆動の子は、ロクスの歩き出しを少し助ける。
それと同じように、弁当も、無理に進み続けないための仕組みになるのかもしれない。
「弁当も、止まるための道具なんだね」
琥珀が言うと、マーレは満足そうにうなずいた。
「そうさ。腹が減ったまま進む旅は、ろくなことにならないよ」
「食べることも準備、ですね」
「そういうこと」
マーレは作業台の上に、空の包み布を一枚広げた。
「ただ、今ある布だけじゃ足りないね」
「足りない?」
「ロクス用、ベルグ用、あんたたち用、絵描きさん用。分けて包むなら布がいる。水袋も一つじゃ心もとない。絵描きさんの紙を守る筒か板挟みも必要だね」
絵描きさんが、鞄をそっと抱え直した。
「紙を守るものは、用意した方がよさそうですね」
「雨が降らなくても、道中で水はある。風もある。荷物同士が擦れることもある」
「それに、油小瓶と布きれもいるよね。馬力車を見ながら進むなら」
「分かってきたじゃないか」
マーレはにやりと笑った。
琥珀の耳が少し得意げに立つ。
「じゃあ、買い出し?」
「昼の忙しい時間が終わってからだよ」
「今すぐじゃないの?」
「店の仕事が先」
きっぱり言われて、琥珀は肩を落とした。
ラファお姉ちゃんが、そっと琥珀の肩に手を置く。
「日常も旅支度の一部です」
琥珀は少し口を尖らせてから、すぐに笑った。
「うん。じゃあ、お昼までちゃんと働いてから、買い出しだね」
「その返事ならよし」
マーレは布を畳み直し、台所の棚へ目を向けた。
「包み布、水袋、紙を守る筒、油小瓶、布きれ。あと、忘れちゃいけないのは、持てる量だよ」
「持てる量?」
「買ったはいいけど持てません、じゃ旅の前から荷崩れだよ」
琥珀は思わず、自分の両手を見た。
リノへ持っていきたいものは、たくさんある。
けれど、全部を抱えて歩けるわけではない。
持っていくものを選ぶことも、準備なのだ。
「分かった。ちゃんと選ぶ」
「ラファ、見張っておくれ」
「はい。買いすぎないよう確認します」
「見張りなの?」
「確認です」
ラファお姉ちゃんが真面目な顔で言うので、琥珀は少しだけ笑ってしまった。
台所の外では、店の戸が開く音がした。
風月の鐘亭の朝が、いよいよ忙しくなり始める。
琥珀は箒の次に、今度は台所の手伝いへ向かうため、袖を少しだけまくった。
買い出しは、お昼過ぎ。
それまでに、やることはまだたくさんあった。
昼の忙しさが一段落した風月の鐘亭は、朝とは違うにぎやかさの余韻を残していた。
空になった器が台所へ運ばれ、テーブルの上が拭かれていく。焼いた肉の香りや、汁物の温かい香りはまだ少し残っていたけれど、店の中の声はゆっくり落ち着き始めていた。
琥珀は最後の器を台所へ運ぶと、ふうっと息を吐いた。
「終わった……かな?」
「まだ棚の布巾が残ってるよ」
「終わってなかった」
琥珀の耳がしゅんと寝る。
ラファお姉ちゃんは洗い終わった器を布で拭きながら、少しだけ笑った。
「あと少しです、琥珀ちゃん」
「うん。買い出しのために、あと少し頑張る」
「買い出しのためだけじゃないよ。店の仕事も仕事さね」
「はい」
琥珀は慌てて背筋を伸ばした。
マーレは棚の布巾を取り、手早く畳む。それから作業台の端へ、小さな木札を何枚か並べた。
「よし。行く前にもう一度確認するよ」
琥珀とラファお姉ちゃん、絵描きさんが作業台のそばに集まる。
マーレは木札を指で押しながら、一つずつ読み上げた。
「包み布。水袋。絵を守る筒か板挟み。油小瓶。布きれ。細い縄。予備の留め具」
「予備の留め具は、ベルグじいに聞いた方がいいかな」
「工房に寄るなら聞けばいい。ただ、街でも買えるものは見ておいで」
「はい」
「それから、持てる量」
「それ、朝も言われた」
「大事なことは何度でも言うよ」
マーレは琥珀の顔をじっと見た。
「特に、リノへの手土産を見た時のあんたには言っておく」
「まだ何も買ってないよ?」
「買ってからじゃ遅いさね」
ラファお姉ちゃんが静かにうなずいた。
「私も確認します」
「二人に見張られてる」
「確認です」
「確認さね」
同じように言われて、琥珀は頬をふくらませた。
絵描きさんは、そのやり取りを見て小さく笑った。
「楽しそうですね」
「楽しいだけならいいんだけどね。旅支度は、浮かれた分だけ荷物が増えるんだよ」
「気をつけます」
「あんたもだよ。紙と筆を全部持っていこうなんて考えないこと」
絵描きさんは少しだけ目をそらした。
「……少し、考えていました」
「ほらね」
琥珀は思わず笑った。
買い出しに出るころには、昼の光が通りに広がっていた。
朝より人の声が多く、店の戸が開く音、荷車の車輪の音、布を売る店の呼び声が重なっている。風月の鐘亭の前とは違う、街の真ん中の音だった。
琥珀はラファお姉ちゃんの隣を歩きながら、胸の前で両手を握った。
「なんだか、本当に旅の準備って感じがしてきた」
「はい。朝は食べる準備、今は持っていく準備ですね」
「どっちも準備なんだね」
「どちらも、途中で困らないためのものです」
絵描きさんは少し後ろで、鞄を押さえながら歩いていた。
まず向かったのは、布を扱う店だった。
棚には、厚手の布、薄い布、油をはじきやすい布、包みに向いた柔らかい布が重ねられている。色も手触りも少しずつ違っていて、琥珀は思わず目を輝かせた。
「この布、リノへの包みによさそう」
「用途は何ですか?」
「えっと……かわいい」
「用途ではありません」
琥珀の耳がぴくっと動いた。
「リノに渡す時、かわいい方が嬉しいかなって」
「気持ちとしては分かります。ただ、まずは水に弱くないこと、結びやすいこと、荷物の中でほどけにくいことです」
「うう、正しい」
店の人が、丈夫な包み布を数枚広げてくれた。
ラファお姉ちゃんは手触りと厚みを確かめ、琥珀は結びやすさを試す。絵描きさんは、自分の紙を包める大きさかどうかを見ていた。
「これなら、絵の紙を一度包んでから筒に入れられそうです」
「筒も見に行きましょう」
次に向かった店には、細い筒や板挟み、紐、革の留め具が並んでいた。
絵描きさんはそこへ入った途端、さっきまでより少し真剣な顔になった。
「紙は、丸めても大丈夫なものと、丸めたくないものがあります」
「丸めたくない紙もあるんですか?」
「はい。湿気や折れ目で、線が変わってしまうことがあります」
「線が変わる……」
琥珀は、絵描きさんの鞄を見た。
旅に持っていく絵も、道具も、ただ荷物として積めばいいわけではない。守り方がある。
それは、踏み台の子や駆動の子と同じように、それぞれの役目に合わせて考える必要があるのだと思った。
「じゃあ、絵を守る子も必要だね」
絵描きさんは少し驚いて、それからやわらかく笑った。
「そうですね。絵を守る子です」
絵描きさんは筒と板挟みを比べ、最後に薄い板挟みと、それを包む布を選んだ。
琥珀たちは、水袋と細い縄も選んだ。油小瓶は小さくて口のしっかり閉まるものを、布きれは汚れても惜しくない厚さのものを選ぶ。
「予備の留め具は、これでいいかな」
「形は近いですが、ベルグさんに確認してからの方が確実です」
「じゃあ、少しだけ。あとでベルグじいに見てもらう」
「少しだけ、です」
「分かってるよ」
買い物籠の中身が増えていく。
包み布。
水袋。
板挟み。
油小瓶。
布きれ。
細い縄。
予備の留め具。
琥珀は満足そうに眺めたあと、ふと通りの向こうを見た。
甘い香りがした。
焼き菓子の店だった。
小さな丸い菓子や、木の実を混ぜた硬そうな菓子、蜂蜜を塗った薄焼きの菓子が、棚に並んでいる。
琥珀の耳が、ぴんと立った。
「ラファお姉ちゃん」
「はい」
「おやつって、旅の準備に入る?」
ラファお姉ちゃんは少し考えた。
「休憩のきっかけになるなら、入ると思います。ただし、量と持ち運びやすさ次第です」
「じゃあ、入るね」
「今、都合の良い部分だけ受け取りましたね」
琥珀は聞こえなかったふりをして、焼き菓子の棚へ近づいた。
どれもおいしそうだった。
木の実入りのものは腹持ちがよさそうで、薄焼きのものは手が汚れにくそうだった。蜂蜜の香りがするものは、リノに渡したら喜んでくれるかもしれない。
けれど、琥珀は手を伸ばしかけて、止まった。
「どうしました?」
「うん……買うのもいいんだけど」
琥珀は棚に並ぶ焼き菓子を見つめた。
リノに会いに行く。
手紙をくれたリノに、今度は自分の足で向かう。
そのために、馬力車を作った。弁当を考えた。水袋も包み布も選んだ。
それなら、持っていくおやつも、自分の手で作りたい気がした。
「リノには、わたしが作ったものを持っていきたい」
声に出すと、その気持ちは思ったよりはっきりしていた。
ラファお姉ちゃんは、少しだけ目を細める。
「作るなら、持ち運べるものですね」
「うん。崩れにくくて、手が汚れにくくて、冷めてもおいしいもの」
「朝、マーレさんが言っていた条件ですね」
「じゃあ……クッキー?」
言った瞬間、琥珀のしっぽがふわっと揺れた。
「クッキー、いいと思います」
「木の実を入れたら、道中にもよさそうだよね。蜂蜜の香りも少し入れて、でも甘すぎないようにして」
「ロクスさん用には、少し塩気があっても良いかもしれません」
「ベルグじいも食べやすいように、硬すぎない方がいいかな」
「絵描きさん用には、粉が落ちにくい形が良いです」
絵描きさんは、そのやり取りを聞きながら、少し嬉しそうに笑った。
「形は決まっているんですか?」
「形……」
琥珀は自分の耳に触れた。
それから、少し照れたように笑う。
「猫の形にしたら、リノ、笑ってくれるかな」
ラファお姉ちゃんは一瞬だけ琥珀の耳を見て、それから静かにうなずいた。
「きっと、笑ってくれると思います」
「耳がちょこんってあるやつ。丸い顔で。しっぽみたいな細いのも少し作って」
「琥珀ちゃんに似たクッキーですね」
「に、似せるわけじゃないよ」
琥珀の耳が少し赤くなったように感じて、しっぽが足元で小さく跳ねた。
絵描きさんは、鞄から小さな紙を取り出しかけて、すぐに手を止めた。
「描きたくなりますね」
「まだ作ってないよ?」
「作る前の顔も、十分に絵になります」
琥珀はさらに照れて、視線を棚へ戻した。
買うおやつは少しだけ。
でも、リノへ持っていくものは、自分で作る。
そう決めると、材料選びも急に大事な準備になった。
小麦粉。
木の実。
蜂蜜。
少しの塩。
包むための薄い紙。
ラファお姉ちゃんが量を確認し、琥珀が香りを確かめる。絵描きさんは、包み紙の色を見ながら、絵を汚さないものを一緒に選んでくれた。
「これで、持てる量に収まっていますか?」
買い物が一通り終わったところで、ラファお姉ちゃんが尋ねた。
琥珀は両腕に荷物を抱えてみた。
少し重い。
「持てる」
「少し無理をしていますね」
「ちょっとだけ」
「その少しが、道中では大きくなります」
琥珀は荷物を見下ろした。
持っていきたい気持ちは、たくさんある。
けれど、全部を自分で抱えたら、歩く前に疲れてしまう。
琥珀は、包み布を一枚戻し、予備の小物も一つ減らした。
「これなら?」
ラファお姉ちゃんは荷物の重さを確かめて、うなずいた。
「はい。これなら大丈夫です」
「選ぶの、難しいね」
「だから準備なのだと思います」
琥珀は小さくうなずいた。
帰り道、買い物袋の中で水袋がこつんと鳴った。包み布の間から、蜂蜜と木の実の香りがほんの少しだけ漂ってくる。
リノへ持っていく猫の形のクッキーは、まだ形になっていない。
けれど、その材料は、たしかに琥珀の腕の中にあった。
「帰ったら、マーレに教えてもらわなきゃ」
「作るのは琥珀ちゃんです」
「分かってる。マーレは先生」
「私は数と大きさを確認します」
「確認係、多くない?」
「必要です」
琥珀は笑いながら、風月の鐘亭へ続く道を歩いた。
朝にはまだ遠くに感じていたリノの村が、買い物袋の重さの分だけ、少し近くなった気がした。
風月の鐘亭へ戻るころには、昼の光が少しやわらかくなっていた。
通りのにぎわいはまだ残っている。けれど、朝のそわそわした空気とは違い、琥珀の腕の中には、ちゃんと選んできた荷物の重さがあった。
包み布。
水袋。
板挟み。
油小瓶。
布きれ。
細い縄。
予備の留め具。
小麦粉、木の実、蜂蜜、少しの塩。
風月の鐘亭の入口をくぐると、マーレが台所から顔を出した。
「おかえり。荷物に負けずに帰ってきたかい」
「負けてないよ」
「ちょっと負けそうでした」
「ラファお姉ちゃん」
琥珀が抗議するように耳を立てると、マーレは声を出して笑った。
「正直でよろしい。で、買いすぎなかったかい?」
「ちゃんと減らした」
「減らした、ね。最初は増やしてたんだね」
琥珀は目をそらした。
ラファお姉ちゃんは買ってきたものを作業台へ並べる。絵描きさんは板挟みを大事そうに置き、その横に包み布を重ねた。
マーレは品物を一つずつ見て、うなずいた。
「包み布はいい。水袋もこれなら使える。油小瓶は口が固いね。布きれも悪くない。留め具はあとでベルグに見せるんだよ」
「うん」
「それで、こっちは?」
マーレの目が、小麦粉と木の実、蜂蜜の小瓶へ移る。
琥珀のしっぽが、ぴんと立った。
「クッキーを作りたい」
「ほう」
「リノに持っていくの。買うのもいいけど、わたしが作ったものを持っていきたくて」
言いながら、琥珀は少しだけ胸の前で手を握った。
リノの手紙。
山の方から来る冷たい風。
それでも会いに行きたい気持ち。
その全部を、ただ荷物にするのではなく、自分の手で形にしたかった。
マーレは琥珀の顔をじっと見たあと、にやりと笑った。
「作るのは、あんただよ」
「うん」
「あたしは見てやる。焦げそうなら止める。生地がだめになりそうなら口を出す。でも、手を動かすのは琥珀だよ」
「うん。お願いします、先生」
「先生って言われるほど優しくはないよ」
そう言いながらも、マーレはすでに袖をまくっていた。
ラファお姉ちゃんが小麦粉の袋を手に取る。
「私は数と大きさを確認します」
「やっぱり確認係」
「必要です。リノさん用、道中用、ロクスさん用、ベルグさん用、絵描きさん用。数が足りないと困ります」
「そんなに作るの?」
「食べる人数を増やしたのは、朝の店先です」
「わたしだけじゃないよ」
琥珀が絵描きさんを見ると、絵描きさんは少し申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。私の分まで」
「違うの。食べてほしいから作るの」
琥珀がそう言うと、絵描きさんは一瞬だけ目を丸くした。
それから、静かに笑う。
「ありがとうございます」
台所に、小麦粉の白い粉がふわりと舞った。
マーレの指示で、琥珀は粉をふるい、木の実を細かく砕き、蜂蜜を少しずつ混ぜていく。最初は力の入れ方が分からず、生地が手にくっついた。
「うわ、くっつく」
「手に全部持っていかれたら、クッキーじゃなくて手袋になるよ」
「手袋は作ってないよ」
「なら、粉を少し足す。少しだよ。どばっと入れない」
「少し」
琥珀は慎重に粉を足した。
ラファお姉ちゃんが横から見て、うなずく。
「今の量は良いと思います」
「確認ありがとう」
「はい」
生地がまとまってくると、蜂蜜と木の実の香りが台所に広がり始めた。
琥珀は丸めた生地を小さく分け、平たくしていく。
「形はどうするんだい?」
「猫の形」
琥珀は自分の耳にそっと触れた。
「耳がちょこんってあるやつ。丸い顔で。しっぽみたいなのも少し」
「なるほどね」
「リノ、笑ってくれるかな」
「笑うかどうかは、渡してからのお楽しみだよ」
琥珀は小さくうなずいて、生地の上に小さな耳を二つ付けた。
けれど、片方の耳が少し大きくなった。
「あ」
「片耳だけ立派ですね」
「直す」
「それはそれで味があるよ」
「味って、形の話?」
「手作りの話さね」
次に作ったものは、顔が少し丸くなりすぎた。その次は耳が横に広がった。しっぽの形にした細い生地は、少し曲がりすぎていた。
琥珀は真剣に直そうとしたけれど、並んでいく形はどれも少しずつ違っていた。
ラファお姉ちゃんは、それを見ながら小さく首を傾げる。
「同じ大きさにそろえるのは難しいですね」
「ラファお姉ちゃんでも?」
「はい。耳の大きさが、個性を主張しています」
「個性なら仕方ないね」
「仕方ないですね」
マーレが笑いながら、焼き板の上に形を整えた生地を並べていく。
「大きさが違いすぎると焼き加減が変わる。そこだけ気をつけな」
「はい、先生」
「先生って言うなら、次は返事だけじゃなく手も動かす」
「はい」
絵描きさんは、少し離れたところでその様子を見ていた。
鞄から紙を取り出しかけて、また手を止める。
「描かないんですか?」
「描きたいです」
「描かないの?」
「今は、邪魔をしたくないので」
絵描きさんは、焼き板に並ぶ小さな猫の形を見つめた。
「でも、覚えておきます。粉だらけの手で、耳の大きさに悩んでいる顔を」
「それは忘れていいよ」
「忘れるには、少し良い顔でした」
琥珀は耳まで熱くなった気がして、慌てて次の生地を丸めた。
焼き板が火のそばへ運ばれると、台所の空気が少し変わった。
焦げないように、マーレが焼き加減を見ている。琥珀はその横で、そわそわしながら待った。ラファお姉ちゃんは包み紙と布を広げ、数を数える準備をしている。
「まだ?」
「まだ」
「もういい香りするよ」
「香りがしたら完成なら、世の中の料理は半分生焼けだよ」
「うう」
「待つのも作るうちです」
「旅支度って、待つこと多いね」
「急ぐと失敗することが多いからだと思います」
琥珀は焼き板の上を見つめた。
少しずつ、猫の耳の端が色づいていく。丸い顔の表面が、ほんのりと焼き色を帯びる。しっぽみたいな細い形のものは、端が少しだけ濃くなっていた。
やがて、マーレがうなずいた。
「よし。上げるよ」
焼き上がったクッキーが、布の上に並べられた。
木の実と蜂蜜の香りが、ふわりと広がる。
琥珀は息を止めるようにして、それを見た。
耳が少し大きいもの。
顔が丸いもの。
しっぽが曲がったもの。
少しだけ横を向いているように見えるもの。
全部、同じではない。
でも、どれもちゃんと猫の形をしていた。
「できた……」
「できましたね」
「初めてにしては上出来さね」
「本当?」
「焦げてない。割れてもいない。手で持てる。旅のおやつとしては合格だよ」
琥珀のしっぽが、ぱたぱたと揺れた。
ラファお姉ちゃんはクッキーを数え、包み紙を分けていく。
「リノさん用。道中用。ロクスさん用。ベルグさん用。絵描きさん用。予備も少しあります」
「ロクスのは、塩気のある方だね」
「はい。印を付けておきます」
「ベルグじいのは、硬すぎないやつ」
「こちらですね」
琥珀はリノ用の包みを見た。
小さな猫の形のクッキーが、布の上にいくつか並んでいる。耳の形は少しずつ違うけれど、それがかえって、並んでいると楽しそうに見えた。
「リノ、笑ってくれるかな」
朝にも言った言葉が、もう一度口からこぼれた。
今度は、手の中に形があった。
マーレは包み布を差し出す。
「笑うかどうかは分からない。でも、これは琥珀が作ったものだよ。そこはちゃんと伝わるさね」
琥珀は、そっとクッキーを包み布の上へ移した。
ラファお姉ちゃんが端を折り、琥珀が結び目を作る。少し曲がった結び目を、ラファお姉ちゃんが指で整えた。
「これで、持っていけます」
絵描きさんは、その包みを静かに見ていた。
「手紙でつながったものが、今度は包みになったんですね」
琥珀は顔を上げる。
絵描きさんの声は、穏やかだった。
朝の店先で感じた不思議な冷たさは、そこにはなかった。
「うん。会いに行く準備」
琥珀は包みを両手で持った。
馬力車は、まだ幌がない。
雨の日も、長い道も、荷物をたくさん積んだ時のことも、まだ確かめていない。
山の方から来る風の冷たさも、消えたわけではない。
それでも、今日は弁当のことを考えた。
水袋を選んだ。
包み布を選んだ。
絵を守るものを選んだ。
そして、リノへ持っていくクッキーを、自分の手で作った。
琥珀は、包みの上にそっと手を重ねる。
「少しずつ、近づいてるね」
「はい」
ラファお姉ちゃんは、琥珀の隣でうなずいた。
「手で届くところから、一つずつ」
その言葉に、琥珀の耳がゆっくり立った。
台所には、焼き上がったクッキーの香りがまだ残っている。
窓の外では、夕方に向かう光が、風月の鐘亭の壁を淡く照らしていた。
手紙でつながった道は、弁当と水袋と包み布、それから小さな猫の形をしたクッキーになって、琥珀の手の中に少しずつ集まっていた。




