第56話
昼ご飯のあとの工房には、さっきまでとは少し違う静けさが残っていた。
油の香り。
木の香り。
金具の香り。
それから、食べ終えた煮込みと焼いた肉の、温かい香り。
作業台の端には、空になった器がまとめられている。マーレが包みに戻した器のそばでは、ラファお姉ちゃんが布をたたみ、こぼれた米粒が残っていないかを確かめていた。
ベルグは、作業台の中央へ薄い板を並べ直している。
細く、長く、少しだけ反った板。
同じように見えるけれど、重ねられた一枚一枚の厚みは少しずつ違う。
その横には、短い軸と留め具、小さな腕のような金具が置かれていた。
琥珀は、それを見つめながら、自分の手をそっと握った。
さっき、自分で決めたことが、まだ手の中に残っている気がした。
マナクラフトを使わない手。
けれど、何もできない手ではない。
触って、覚えて、誰かと一緒に作る手。
「手で届くところから、だね」
小さくつぶやくと、ベルグが顔を上げた。
「そうじゃ。手で届くところからじゃ」
ベルグは、薄い板を一本持ち上げ、指先で軽く押した。
板はわずかに沈み、手を離すと、ゆっくり戻る。
「こやつを足元へ入れる。馬力車が小石を踏んだ時、いきなり体へ返る角を少し丸めるんじゃ」
「揺れを消すんじゃなくて、角を丸める」
「そうじゃ。よく覚えとるのう」
琥珀の耳が、少しだけ立った。
「うん。消せないものを、無理に消そうとしないんだよね」
「その通りじゃ」
ラファお姉ちゃんが、記録板を手元へ引き寄せた。
「確認する項目は三つです。乗る側へ伝わる上下の揺れ。ロクスさんの肩と腰へ返る衝撃。荷物を載せた時の沈み込み」
「三つもあるの?」
「はい。ひとつだけ良くなっても、別のところへ負担が逃げる可能性があります」
琥珀は、薄い板と馬力車の足元を見比べた。
揺れが消えるわけではない。
痛くなくなる魔法でもない。
でも、角を丸めることはできるかもしれない。
硬い石の角が、少し削れて手に持ちやすくなるみたいに。
ロクスの肩や腰へ返る重さも、少しだけ丸くなるのかもしれない。
工房の奥で、ロクスが低く声を出した。
「ベルグ」
琥珀が振り返る。
ロクスは、油の器の前にしゃがみ込んでいた。昼ご飯の間、布をかけられていた駆動系ユニットの子は、今は油の中から少しずつ引き上げられている。
ロクスの手は、また油で光っていた。
けれど、動きはやはり雑ではない。
歯車を布の上へ置く時も、軸を持ち上げる時も、音を立てないようにしている。
「こっち、汚れが浮いた。さっきより噛みが見える」
ベルグは、板バネを置いてロクスの方へ歩いた。
「見せてみい」
ロクスは歯車を指先で少し回した。
油に濡れた歯先が、鈍く光る。まだ黒く残っているところはあるけれど、朝よりも形が分かるようになっていた。
「この二つは残せる。こっちは、少し噛み跡が深い」
「ふむ」
ベルグは顔を近づけ、目を細める。
琥珀もそっと近づいた。
ロクスの耳は、歯車へ向かってぴたりと立っている。しっぽの先も、床の上でほとんど動いていなかった。
まるで、歯車の小さな声を聞こうとしているみたいだった。
「ロクス、すごく真剣」
「真剣に見ねえと分かんねえだろ」
「うん」
琥珀は、素直にうなずいた。
からかうつもりはなかった。
ロクスの手が嬉しそうだと思った昼前とは、少し違う。
今のロクスの手は、起きようとしている子を置いていかないようにしている手だった。
ラファお姉ちゃんもそばへ来て、記録板に視線を落とす。
「駆動系ユニットの再組み立ては、足回り取り付けの前に行いますか?」
ベルグは、歯車を覗き込んだまま首を横へ振った。
「いや。まずはこの子を無理に閉じ込めん。噛み跡と軸の曲がりを見てからじゃ。足回りは足回りで先に合わせられる」
「同時に進めるんですね」
「同時じゃが、急ぐわけではない。見えるところから順番にじゃ」
マーレが、器を包み終えて腰に手を当てた。
「その言葉、ちゃんと自分にも言い聞かせてるんだろうね?」
ベルグの眉が、ぴくりと動く。
「もちろんじゃ」
「今の間は、少し怪しいねえ」
「わはは。昼を食ったばかりじゃ。無茶はせんよ」
「食べたから無茶しないんじゃなくて、食べたからちゃんと見えるんだよ」
その言葉に、琥珀の耳が動いた。
食べたから、ちゃんと見える。
昼ご飯の時間が、まだ工房の中に残っている。
腹が満ちて、頭が少し落ち着いて、手が焦らなくなる。
そうして初めて、板のしなりも、歯車の噛み跡も、踏み台の危ない位置も見えてくる。
「マーレさん」
「なんだい」
「ご飯のあとって、ただ休むだけじゃないんですね」
マーレは、少しだけ目を細めた。
「そうだよ。休んだあとの目で見るから、気づけることもあるのさ」
琥珀は、作業台の上の板バネを見た。
昼前に見た時よりも、少しだけ違って見える。
ただの薄い板ではない。
ただの部品でもない。
これからロクスの肩を守り、乗る人の体を守り、馬力車が道で跳ねた時に、衝撃の角を丸めるためのもの。
そう思うと、細い板が少し頼もしく見えた。
ロクスが、油のついた布で軸を押さえながら言った。
「ベルグ。こっちの軸、少し曲がってねえか」
ベルグはすぐに近づき、軸を受け取った。
作業台の上で転がすと、軸はほんのわずかに揺れた。
「曲がっとるのう」
「使えねえか?」
「すぐ捨てるほどではない。じゃが、そのまま戻すと、噛みが片側へ寄る」
「直せるか」
「直す。じゃが、叩いて戻すだけでは駄目じゃ。どこで曲がったかを見てからじゃな」
ロクスは短くうなずいた。
その横顔を見て、琥珀は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
ロクスはもう、馬力車に引かされているだけではない。
この子がどう動いて、自分の体へ何を返すのかを、自分で知ろうとしている。
ベルグも、ラファお姉ちゃんも、マーレも、それを急がせない。
みんなで、ひとつずつ見ている。
「琥珀ちゃん」
「ん?」
「足回りの取り付け位置を確認します。乗る側から見た高さも必要です」
「わたしも見るの?」
「はい。琥珀ちゃんが乗る場所でもありますから」
その言葉に、琥珀のしっぽがぴんと立った。
自分が乗る場所。
リノの村へ向かう時、座るかもしれない場所。
そして、前にリノの家でお世話になった時とは違う姿で、もう一度あの場所へ戻るための場所。
まだ出発するわけではない。
まだ完成したわけでもない。
けれど、道は少しずつ近づいている。
「うん。見る」
琥珀は大きくうなずいた。
ベルグが、板バネを持ち上げる。
「では、午後の作業を始めるかのう」
マーレがすぐに指を一本立てた。
「焦らない」
「分かっとる」
「手を挟まない」
「分かっとる」
「分かってる顔をして、分かってないことをしない」
「それは誰に言っとるんじゃ」
「ベルグとロクス、両方だよ」
「俺もかよ」
「もちろんだよ」
琥珀は思わず笑った。
ラファお姉ちゃんも、ほんの少しだけ口元を緩める。
工房の中に、また作業の空気が戻ってくる。
けれど、それは昼前のように熱だけで前へ進む空気ではなかった。
食べて、休んで、見直して。
手で届くところから、ひとつずつ。
馬力車の足元を見る午後が、ゆっくり始まろうとしていた。
ベルグが持ち上げた板バネは、思っていたよりも軽い音を立てた。
薄い板が何枚か重ねられ、端の方で留め具に挟まれている。一本の板に見えるのに、よく見ると、少しずつ長さの違う板が寄り添うように並んでいた。
琥珀は、作業台の横から首を伸ばす。
「一枚じゃないんだね」
「一枚では、強く受けすぎることがある」
ベルグは、板バネを作業台の上へ置き、指先で順番に板の端を押した。
一枚目が少し沈む。
その下の板が受ける。
さらに下の板が、戻る力を支える。
琥珀の耳が、ぴんと立った。
「みんなで受けてる」
「そうじゃ。ひとりで抱え込ませんようにする」
その言葉に、琥珀は少しだけ瞬きをした。
板の話なのに、板だけの話ではない気がした。
ロクスが、油を拭いた手で腕を組む。
「それを足元に入れると、跳ね方が変わるのか」
「変わる。ただし、なくなるわけではない」
「なくならなくていい。いきなり腰に来るのが減るなら、それでいい」
ロクスの耳は、板バネへ向いていた。
昼前に駆動系ユニットの子を見ていた時と、少し似ている。けれど今は、もっと自分の体の奥を確かめるような目をしていた。
ラファお姉ちゃんが記録板に線を引く。
「最初の確認は、取り付け位置です。車体側で受ける位置、車輪側から力が上がる位置、乗る側の床板へ伝わる位置を分けて見ます」
「分けるの?」
「はい。同じ揺れに見えても、伝わる場所が違います。床へ来る揺れと、ロクスさんの肩へ返る衝撃は、同じではありません」
「そっか。乗ってるわたしが楽でも、ロクスがつらかったら駄目だもんね」
「その逆も同じです」
ロクスが、少しだけ顔をそむけた。
「……別に、俺だけ楽ならいいとは言ってねえだろ」
「言ってないよ」
「顔が言ってた」
「顔、そんなこと言ってないよ」
マーレが作業台の端から笑った。
「顔より先に、しっぽが言ってたねえ」
琥珀は慌てて自分のしっぽを見る。
しっぽは、少しだけ嬉しそうに揺れていた。
「これは、違うの」
「何が違うんだい」
「えっと、ロクスも乗る人も、どっちも大事だなって思ったしっぽ」
「忙しいしっぽだねえ」
工房の中に、小さな笑いが広がった。
けれどベルグの手は、もう馬力車の足元へ向かっていた。
馬力車は工房の中央に置かれている。床板の一部は外され、車輪の上、木枠の下、引き具へつながる金具の奥が見えるようになっていた。
ベルグは板バネをその下へ差し入れる前に、手で木枠を叩いた。
「ここで受ける」
次に、車輪の近くの金具を指で示す。
「ここから上がる」
最後に、床板の支えへ指を置く。
「ここへ伝わる」
琥珀は、ベルグの指の動きを目で追った。
上から見ると、ただ馬力車の足元に部品を入れるだけに見える。
けれど、下から見ると違った。
石を踏んだ時の力。
車輪から上がる衝撃。
床へ伝わる揺れ。
引き具を通ってロクスの体へ返る重さ。
それぞれが、別々の道を通っている。
「道があるんだ」
「ん?」
「揺れにも、道があるんだね」
ベルグは、嬉しそうに目を細めた。
「そうじゃ。よい見方じゃのう」
ラファお姉ちゃんが、静かにうなずく。
「力の通り道、と言ってもよいと思います」
「力の通り道……」
琥珀は、その言葉を小さく繰り返した。
目には見えない。
けれど、そこにある。
風車の中を通る風の道。
マナの流れ。
ロクスの肩へ返る重さ。
乗る人の膝へ来る揺れ。
見えないからこそ、手で触って、ひとつずつ確かめる。
ベルグは板バネを仮の位置へ差し入れた。
「ロクス、そっちを少し持て」
「分かった」
ロクスが馬力車の横へ回り、木枠を押さえる。
大きな手が、車体を雑に掴まず、支える場所を選んで添えられた。
ベルグは留め具を合わせ、短い軸を差し込む。
金具が小さく鳴った。
琥珀の耳が、その音を拾う。
かちり。
こつん。
すり、と板が木枠の下へ滑り込む音。
工房の音が、また作業の音へ変わっていく。
マーレが少し離れた場所から声をかけた。
「指、挟んでないかい」
「大丈夫じゃ」
「ロクスもだよ」
「分かってる」
「分かってる時ほど返事が早いねえ」
「じゃあ何て言えばいいんだよ」
「ゆっくりでいいんだよ」
ロクスは少しだけ眉を寄せた。
けれど、次に木枠を持ち直す時、さっきよりもゆっくり動いた。
琥珀は、それを見て小さく笑う。
「今、ちゃんとゆっくりだった」
「見なくていい」
「見るよ。乗る側だから」
ロクスは言い返そうとして、口を閉じた。
それから、少しだけ耳を伏せる。
「……それなら見ろ」
ぶっきらぼうな言い方だった。
でも、拒んではいなかった。
琥珀は大きくうなずく。
「うん。見る」
ベルグが、仮止めの金具を締めた。
「よし。一度、床板を戻す前に沈みを見よう」
「乗るの?」
「まだ乗らん。まずは押して見る」
ベルグは、馬力車の端を両手で押した。
車体がわずかに沈む。
けれど、ただ硬く落ちるのではなかった。
薄い板が、下で力を受け、少し遅れて戻す。
琥珀の耳が動いた。
「今、ふわってした」
「そう見えたか」
「うん。落ちるんじゃなくて、一回受けてから戻った」
ラファお姉ちゃんが記録板へ書き込む。
「仮押し確認。急な沈み込みは軽減。ただし戻りの速さは要確認」
「戻りが早すぎると、跳ねるのか」
「はい。遅すぎると沈んだままになり、早すぎると上へ返します」
「面倒だな」
「乗り物とは、だいたい面倒なものじゃ」
ベルグは、わははと笑った。
「面倒を見た分だけ、道で助けてくれる」
ロクスは板バネを見下ろした。
「……なら、見てやるしかねえな」
琥珀のしっぽが、また少し揺れた。
ベルグが、今度は車輪の近くを押さえながら言う。
「ロクス、少しだけ引け。ほんの少しじゃ。工房の中で一歩分だけでよい」
「中でか?」
「外へ出す前に、足元の返りを見る」
ロクスはうなずき、引き具の位置へ立った。
肩紐と腰紐は、まだ本格的には締めていない。けれど、手で引き具を持つだけでも、車体の重さがどこへ返るかは分かる。
ラファお姉ちゃんが琥珀の横へ立った。
「琥珀ちゃんは、床板の端を見てください。沈み方と戻り方です」
「うん」
マーレがすぐに声を出す。
「足元、近づきすぎない」
「はい」
琥珀は一歩下がった。
ロクスが、ゆっくり息を吸う。
馬族の耳が前を向き、しっぽが一度だけ床の上で揺れた。
「行くぞ」
ロクスが、ほんの少しだけ引いた。
車輪が、工房の床をこつりと鳴らす。
板バネが沈む。
戻る。
その動きは、とても小さかった。
でも、昼前に見た馬力車の硬い跳ね方とは違っていた。
琥珀は思わず前へ出そうになって、マーレの視線に気づいて止まる。
「今、角が丸かった」
自分でも少し変な言い方だと思った。
けれど、それ以外にぴったりくる言葉がなかった。
ロクスが引き具を持ったまま、肩を少し回す。
「……確かに、さっきより刺さらねえ」
「刺さらない?」
「肩に、がつんと来る感じが減った」
ロクスは、腰の方へ手をやる。
「腰はまだ少し来る。けど、前より角がない」
ベルグの目が細くなる。
「よし。肩は少し丸まった。腰はまだ残るか」
「残る。でも、嫌な残り方じゃねえ」
ラファお姉ちゃんが記録する。
「肩への急な返りは軽減。腰への返りは残るが、衝撃の鋭さは低下。次に、床板を戻した状態で乗る側の確認が必要です」
「もう一回やるか」
ロクスがそう言うと、マーレが即座に手を上げた。
「待つ」
「一歩だけだぞ」
「一歩だけを何回も重ねるから、あとで足腰に来るんだよ」
「そんなに弱くねえよ」
「弱いか強いかの話じゃない。新しい返り方を体がまだ知らないんだよ」
ロクスは、言い返しかけて止まった。
耳が少しだけ横へ向く。
琥珀は、その耳の動きを見ていた。
ロクスも、分かっているのだと思った。
この馬力車は、少しずつ体へ返る重さを変えている。
よくなったからといって、すぐ何度も試せばいいわけではない。
「マーレさんの言う通りです」
ラファお姉ちゃんが静かに続けた。
「ロクスさんの体が新しい動きに慣れていない状態で連続確認をすると、正しい差が分からなくなる可能性があります」
「ほれ見い。ラファもこう言っとる」
「ベルグも止まる側だよ」
「わしもかのう」
「もちろんだよ」
ベルグは肩をすくめた。
「むう。では、一度床板を戻して、乗る側を見る準備をするか」
「それなら動いていいよ」
「許可制になっとるのう」
「今さらだよ」
工房の中に、また笑いがこぼれた。
ベルグとロクスは、仮止めした板バネの位置をもう一度確認し、床板を戻す準備に入る。
琥珀は、馬力車の足元をじっと見つめた。
さっきまでは、ただの足元だった。
けれど今は違う。
車輪が小石を踏む。
力が上がる。
板バネが受ける。
床へ伝わる揺れが少し丸くなる。
ロクスの肩へ返る重さも、少しだけ刺さらなくなる。
見えない力の通り道が、少しだけ見えた気がした。
マナクラフトで一気に形を作っていたら、この小さな動きに気づけただろうか。
琥珀は、自分の手を見た。
何かを光で生み出す手ではなく、今は、板のしなりを見て、音を聞いて、誰かの肩の返りを確かめる手。
それでいいのだと思った。
「琥珀ちゃん、床板を戻したら乗る側の高さを見ます」
「うん」
「無理に乗り込まず、まず足を置く位置からです」
「分かった。踏み台は、まだこれからだもんね」
「はい。踏み台のロックは、このあとです」
踏み台。
前に外で試した時から残っていた、乗り降りの怖さ。
出した時にちゃんと止まり、戻した時にちゃんと解除される仕組み。
足回りの次は、そこを見る。
琥珀のしっぽが、少しだけ緊張して揺れた。
楽しみなのに、怖さもある。
怖いからこそ、ちゃんと見たい。
床板が戻される音が、工房に響く。
馬力車の足元には、もう板バネが入っている。
まだ仮の取り付け。
まだ何度も見直す必要がある。
それでも、馬力車は昼前より少しだけ、道へ近づいていた。
床板が戻されると、馬力車の足元は少しだけ落ち着いて見えた。
板バネはもう下に隠れている。
けれど、さっき見たしなりや戻りは、琥珀の目の奥に残っていた。
見えないところで、衝撃の角を丸める子。
そう思うと、床板の下が少し頼もしい。
ベルグは、次に小さな金具を作業台へ並べた。
短い腕のような部品。
小さな爪。
爪を受けるための受け金具。
それから、細い軸と、戻りを助ける薄いばね。
どれも大きな部品ではない。
けれど、ベルグはそれらを雑に置かなかった。
一つずつ布の上に並べ、向きをそろえ、指先で軽く動きを確かめている。
琥珀の耳が、ぴんと立った。
「それが、踏み台の子?」
ベルグは、少し嬉しそうに笑った。
「そうじゃ。まだ名前をつけるほど大きな仕組みではないがのう」
「でも、子なんだよね」
「試作の子じゃな」
琥珀は、作業台の上の小さな金具たちを覗き込んだ。
大きな駆動系ユニットの子とは違う。
板バネのように、馬力車の足元で衝撃を受ける子とも違う。
この子は、踏み台のそばで働く。
踏み台を出した時に噛む。
人が足を乗せた時に、勝手に戻らないように支える。
踏み台をしまう時には、ちゃんとほどける。
乗る人の最初の一歩を守る子。
そう思うと、小さな金具が、急に大事なものに見えた。
「小さいけど、大事な子だね」
「小さいものほど、油断すると怖いんだよ」
マーレが、すぐに言った。
「大きな板なら、みんな気をつける。けど、小さな爪や軸は、指を挟んだり、戻りが強すぎたりして、思ったより危ないことがあるからね」
琥珀は、思わず自分の指を握った。
「指、挟むのは嫌です」
「嫌で済めばいいけどね。下手をすると、しばらく物を持てなくなるよ」
「う……気をつけます」
ラファお姉ちゃんが記録板へ線を引いた。
「踏み台ロックの確認順序を整理します」
ラファお姉ちゃんは、ゆっくり指を折る。
「踏み台を出す。爪が噛む。足の重さを受ける。踏み台を戻す。爪がほどける。戻った後、勝手に噛まない」
「いっぱいあるね」
「はい。ひとつでも順番がずれると、危険です」
ロクスが、腕を組んだまま踏み台を見た。
「出したら止まる。戻したら外れる。それだけじゃねえのか」
「それだけに見えるものほど、難しいんじゃ」
ベルグは、小さな爪を持ち上げた。
「浅く噛めば、足を乗せた時に外れる」
次に、受け金具へ爪を深く入れる。
「深く噛ませすぎれば、戻す時にほどけん」
「なるほど。頑張りすぎても駄目なんだ」
「そうじゃ。頑張る場所と、ほどける場所を覚えさせる」
琥珀は、ベルグの手元を見つめた。
覚えさせる。
その言葉が好きだった。
ただ金具を締めるのではない。
ただ動けばいいのでもない。
この小さな試作の子に、仕事を覚えさせる。
踏み台を出した時は、ここで止まる。
人が足を乗せた時は、逃げない。
しまう時は、ちゃんと力を抜く。
まるで、小さな子に「ここで待っててね」と教えるみたいだった。
「この子、ちゃんと待てるようになるかな」
ロクスが、少しだけ眉を寄せる。
「踏み台の金具に待てって言うのかよ」
「だって、乗る人が足を置くまで、ちゃんと待ってくれないと怖いよ」
ロクスは言い返しかけて、踏み台を見た。
それから、短く息を吐く。
「……まあ、それはそうだな」
マーレが口元をゆるめた。
「ロクスも納得したねえ」
「うるせえ」
ベルグは、わははと笑いながら、踏み台の横へしゃがみ込んだ。
「では、この子に仕事を覚えさせるとするかのう」
踏み台は、馬力車の側面に取り付けられている。
前に試した時は、出したり戻したりはできた。
けれど、足を乗せた時に動く怖さが残っていた。
琥珀は、その時の感覚を思い出す。
乗ろうとして、足元が少し頼りない。
手すりを持っていても、踏み台が勝手に動くかもしれないと思うと、体が固くなる。
「動くかもって思うと、足が怖いんだよね」
「足が怖い?」
「うん。頭では大丈夫って思っても、足が乗るのを嫌がるの」
ロクスは、しばらく黙っていた。
馬族の耳が、少しだけ前を向く。
「……それは、引く側からだと分かりにくいな」
「うん。わたしも、引く側の肩の返りは分からないもん」
琥珀がそう言うと、ロクスは踏み台をじっと見た。
「じゃあ、これは乗るやつのための子だな」
「乗る人の最初の一歩を守る子」
「長いな」
「でも、そうだよ」
「……そうだな」
ロクスの声は小さかった。
けれど、踏み台を見る目は、さっきより少し丁寧になっていた。
ベルグが、踏み台の軸の近くへ受け金具を仮で当てる。
「まずは位置じゃ。踏み台を出した時、この角度で爪が受けに入る」
爪をゆっくり動かす。
かち、と小さな音がした。
琥珀の耳が、その音に反応する。
「今、噛んだ?」
「仮じゃ。まだ浅い」
ベルグが踏み台を軽く押す。
踏み台は止まったように見えたが、少し強く押すと、かくんと外れた。
琥珀のしっぽが、びくりと揺れる。
「今のは怖い」
「そうじゃ。浅いとこうなる」
「これで乗ったら?」
「足を乗せた瞬間に、逃げるかもしれん」
琥珀は、思わず踏み台から一歩下がった。
マーレがうなずく。
「今の怖さを覚えておくんだよ。怖いと思ったところは、ちゃんと直すところだからね」
「はい」
ベルグは、受け金具の位置をほんの少しずらした。
今度は、爪がもう少し深く入る。
かちり。
さっきより、音がしっかりしていた。
「もう一度じゃ」
ベルグが踏み台を押す。
踏み台は動かなかった。
ロクスが横から少し力を加える。
それでも止まっている。
「止まるな」
「足を乗せる分には、まだ足りるかもしれん」
琥珀の耳が立つ。
「じゃあ、これでいいの?」
「まだじゃ」
ベルグは、踏み台を戻そうとした。
けれど、爪が受け金具に深く噛み、すぐにはほどけなかった。
ぎし、と小さな音がする。
ロクスの耳がぴくりと動いた。
「固い」
「そうじゃ。深すぎる」
「止まるけど、戻らない」
「それも危ないんですね」
ラファお姉ちゃんが記録板に書き込む。
「浅い場合、足を乗せた時に外れる。深い場合、収納時に解除できない。無理に戻すと、指挟みまたは部品破損の可能性」
マーレがすぐに言った。
「無理に戻すのは禁止だよ」
「分かっとる」
「ロクスもだよ。力で戻そうとしない」
「まだ何もしてねえだろ」
「しそうな顔をしてた」
「顔で怒られるのかよ」
「顔で止めてるんだよ」
琥珀は小さく笑った。
けれど、踏み台から目は離さなかった。
浅いと逃げる。
深いと戻らない。
この子は、まだ仕事を覚えている途中だ。
失敗しているのではない。
どこで頑張って、どこで力を抜けばいいかを、みんなで探している。
「試作の子、難しいね」
「難しいから、試作なんじゃ」
ベルグは、爪を外し、受け金具の位置をまた少し動かした。
ほんの少し。
本当に、爪の先ほどの違い。
それだけで、噛み方が変わる。
琥珀は息を止めて見ていた。
かち。
今度の音は、浅すぎず、強すぎず、少し落ち着いて聞こえた。
ベルグが踏み台を押す。
止まる。
ロクスが手で押す。
止まる。
ベルグが、踏み台を戻す方向へゆっくり動かす。
かく、と小さく爪がほどけた。
踏み台が、ゆっくり戻る。
勢いよく跳ねることはなかった。
琥珀の耳が、ぴんと立つ。
「今の、よかった?」
ベルグは、少しだけ笑った。
「今のは、よい返事じゃったのう」
「返事?」
「踏み台の子の返事じゃ。ここなら仕事ができる、と言うとる」
琥珀は、踏み台ロックの小さな爪を見た。
金具だから、口はない。
しっぽも耳もない。
けれど、さっきの音は確かに、何かが合った音だった。
「この子、分かったんだ」
「まだ一回じゃ。何度か見る」
「うん。一回できたから終わりじゃないもんね」
「そうじゃ」
ラファお姉ちゃんが、確認順序を読み上げる。
「踏み台を出します」
ベルグが踏み台を出す。
かち。
「爪が噛みます」
ロクスが手で軽く押す。
「足の重さを受ける確認。まだ手押しです」
「手押しで止まる」
「踏み台を戻します」
ベルグがゆっくり戻す。
かく。
「爪がほどけます」
踏み台が戻る。
「戻った後、勝手に噛まないことを確認します」
ベルグが踏み台を少し揺らす。
爪は勝手に噛まなかった。
「よし」
マーレが、腕を組んだまま目を細める。
「戻りの勢いは、今くらいならいいね。けど、子どもが触ったり、慌てて乗ろうとした時は?」
ベルグはうなずいた。
「そこも見る」
「あと、荷物を持ってる時。片手がふさがってると、踏み台を見る余裕が減るよ」
「なるほど」
ラファお姉ちゃんが追加で書き込む。
「荷物を持った状態での乗降確認。視線が足元から外れた時の安全性。急ぎ乗り禁止の声かけ」
ロクスが少しだけ鼻を鳴らした。
「声かけまで決めるのか」
「決めるよ」
「必要です」
「必要じゃな」
ロクスは周りを見て、諦めたように息を吐いた。
「……分かったよ」
琥珀は、そっと踏み台へ近づいた。
「乗ってみてもいい?」
ラファお姉ちゃんがすぐに琥珀の横へ来る。
「まず足を置くだけです。体重を一気にかけないでください」
「うん」
マーレも反対側へ立つ。
「手すりを持って。踏み台だけを信じすぎない」
「はい」
ロクスは引き具側ではなく、馬力車の横へ立った。
もし踏み台が動いた時、車体を支えるためだった。
琥珀はそれに気づいて、少しだけ胸が温かくなった。
「ロクス、そこにいてくれるの?」
「車体が動いたら困るだろ」
「ありがとう」
「まだ何もしてねえ」
「でも、ありがとう」
ロクスは少しだけ耳を伏せた。
「……早く試せ」
琥珀は手すりを持ち、踏み台へ片足を近づけた。
さっきの浅く外れた動きが、頭の中に残っている。
足が少しだけ止まる。
ラファお姉ちゃんの声が、すぐそばで聞こえた。
「ゆっくりで大丈夫です」
琥珀は息を吸った。
足先を踏み台へ乗せる。
踏み台は動かなかった。
少し体重をかける。
踏み台は、待っていた。
逃げない。
跳ねない。
無理に押し返してもこない。
ただ、そこにいてくれる。
琥珀のしっぽが、緊張から少しずつほどけた。
「……待ってくれてる」
小さく言うと、ベルグが笑った。
「そうじゃ。この子は、少し仕事を覚えたようじゃのう」
琥珀は、もう片方の足は乗せず、言われた通り片足だけで確認した。
手すりを握る手に、変な力が入りすぎていない。
足元が逃げる怖さも、さっきより少ない。
「怖くない?」
「怖くない、まではまだ言えないです。でも、さっきより足が嫌がらない」
「それで十分だよ。最初から怖くないと言い切る方が、あたしは怖いね」
琥珀はうなずいた。
「うん。ちゃんと怖いところも見る」
ラファお姉ちゃんが、柔らかく目を細める。
「琥珀ちゃん、とても良い確認です」
琥珀は少し照れて、耳を伏せた。
踏み台から足を下ろす。
ベルグが踏み台をゆっくり戻した。
かく。
爪がほどける。
踏み台が収まる。
その動きは、小さくて、静かだった。
けれど琥珀には、とても大きな一歩に見えた。
この子が待ってくれれば、乗る人は最初の一歩を置ける。
この子がほどけてくれれば、踏み台はちゃんと戻れる。
頑張りすぎず、逃げすぎず。
小さな試作の子が、馬力車の横で仕事を覚え始めていた。
ロクスが、踏み台を見ながら低く言った。
「これなら、乗る時の顔が少し変わるな」
「顔?」
「怖がって足を置く顔と、置けると思って足を置く顔は違うだろ」
琥珀は目を丸くした。
ロクスが、そんなふうに乗る人の顔を見るとは思わなかった。
マーレも少しだけ驚いたようにロクスを見る。
ロクスは気まずそうに耳を動かした。
「……何だよ」
「いや、ロクスもちゃんと見てるんだねえと思ってさ」
「見ねえと分かんねえだろ」
その言葉に、琥珀は笑った。
工房の中で、何度も重なってきた言葉。
見なければ分からない。
触らなければ分からない。
乗らなければ分からない。
引かなければ分からない。
そして、足を置かなければ分からない。
ラファお姉ちゃんが記録板を閉じるように持ち直した。
「踏み台ロック、仮位置は良好です。次は、床板、足回り、踏み台を合わせた状態で、短い確認走行が必要です」
ベルグがうなずく。
「そうじゃな。外で少しだけ見るかのう」
マーレがすぐに言った。
「少しだけだよ」
「分かっとる」
「今度の少しだけは、本当に少しだけ」
「分かっとると言っとるじゃろう」
「ロクスも」
「俺もかよ」
「引くのはあんただろう」
「……分かった」
琥珀は、馬力車の横に収まった踏み台を見た。
小さな試作の子。
最初の一歩を守る子。
まだ仮の子。
でも、ちゃんと仕事を覚え始めた子。
馬力車は、また少しだけ、リノの村へ向かう道に近づいていた。
外へ出す前に、ベルグは馬力車の床板をもう一度外した。
板バネは足元に入っている。
踏み台の子も、まだ仮の位置ではあるけれど、出す、噛む、ほどける、戻るところまで覚え始めている。
けれど、まだ足りないものがあった。
油の器のそばで、ロクスが静かに膝をつく。
布の上には、洗い上げられた歯車と短い軸、小さな部品が順番に並べられていた。黒く濁っていた油は、何度か布でこされ、歯先についた固い汚れも少しずつほどけている。
まだ新品のようにはならない。
欠けた跡も、噛み跡も、古い時間の影も残っている。
けれど、眠ったままの部品ではなくなっていた。
琥珀は、そっとその布のそばへ近づいた。
「この子、起きた?」
ロクスは、歯車を指先で軽く回した。
かすかに油を含んだ音がする。
「まだ寝起きだな」
「寝起き」
「いきなり走れって言ったら、たぶん機嫌が悪い」
琥珀の耳がぴくりと動く。
「ロクス、そういう言い方するんだ」
「何だよ」
「なんか、相棒みたい」
ロクスは一瞬、口を閉じた。
それから、歯車へ視線を戻す。
「……俺の肩と腰に関わるんだ。雑に扱う方がおかしいだろ」
「うん」
琥珀は笑わずにうなずいた。
その言葉が、ロクスなりの大事にする言い方なのだと分かったからだ。
ベルグが、小さな軸を手に取る。
「曲がりは少し戻した。じゃが、無理に真っすぐへ寄せすぎてはおらん」
「真っすぐにしないの?」
「真っすぐに見えることと、噛みが素直に回ることは違うんじゃ」
ベルグは、軸を歯車へ通し、指先で少し回した。
「古い部品は、古い部品同士で覚えとる癖がある。そこを全部消そうとすると、かえって別の場所へ無理が出る」
「癖も残すんだ」
「残してよい癖と、残すと危ない癖を分けるんじゃ」
ラファお姉ちゃんが記録板へ書き込む。
「軸の曲がりは補正済み。ただし、完全修正ではなく、噛み合わせを優先。再組み込み後、低速で動作確認」
マーレが少し離れたところから言った。
「低速って言葉、いいねえ。最初から勢いよく走らせる気はないんだろうね」
「もちろんじゃ」
「ロクスもだよ」
「分かってる」
「分かってるなら、顔もそうしておくれ」
ロクスは、少しだけ顔をしかめた。
「顔まで低速にしろって言うのか」
「そのくらいでちょうどいいよ」
琥珀は小さく笑った。
けれど、ロクスの手元から目は離さなかった。
ロクスは布で歯車を包むように持ち、床板の下へ差し入れる。ベルグが下から受け、軸の向きを合わせた。
かちり、とは鳴らなかった。
こつん、とも違う。
油を含んだ金具が、ゆっくり自分の場所へ戻るような、低い音だった。
ロクスの耳が、その音にぴくりと反応する。
「今のは?」
「悪くねえ」
ベルグも、床下を覗き込みながらうなずいた。
「うむ。噛みが無理をしとらん」
「分かるの?」
「音で少し。手で少し。あとは動かしてみてじゃ」
ロクスは、床下へ手を入れたまま、もう一度歯車を軽く回した。
油が薄くなじむ音。
古い噛み跡を通る、小さな引っかかり。
けれど、途中で止まる感じはない。
琥珀は息をひそめて聞いていた。
歯車の音なんて、前はただの金具の音にしか聞こえなかった。
でも今は、少し違う。
この子が、まだ完全ではない体で、それでも動こうとしている音に聞こえた。
「この子、戻ったんだね」
「戻っただけじゃ。働けるかはこれからじゃ」
「うん。でも、戻れてよかった」
ロクスが、少しだけ目を細めた。
「……まだ礼を言うには早い」
「誰に?」
「こいつにだよ」
ロクスは床下を軽く指で叩いた。
乱暴ではない。
眠る子を起こしすぎないような、小さな合図だった。
「少しだけ働いてもらう」
琥珀のしっぽが、ふわりと揺れた。
ラファお姉ちゃんが、確認項目を読み上げる。
「再組み込み後の確認です。歩き出し。停止。小さな段差。踏み台ロックの振動による外れ。乗る側の揺れ。ロクスさんの肩と腰への返り」
「多いね」
「多いです。ですが、すべて短く確認します」
マーレがすぐに続けた。
「短く、だよ」
「はい」
「ラファは分かってるねえ」
「私は止める側でもありますので」
ベルグがわははと笑う。
「では、止める者が三人もおるなら、外へ出せるのう」
「止められる前提で動くんじゃないよ」
「むう。手厳しいのう」
ロクスは肩紐と腰紐を手に取った。
それをつける動きは、朝よりも少しだけ慎重だった。
自分の体に何が返ってくるか。
駆動系ユニットの子が、床下でどう噛むか。
板バネが、足元でどれだけ衝撃を受けるか。
ロクスは、もうそれを知らないまま引こうとはしていなかった。
「締めるぞ」
「きつうないか」
「まだ大丈夫だ」
「腰は?」
「きつくねえ」
「肩は?」
「少しだけ当たる。けど、前より悪くねえ」
ラファお姉ちゃんが記録する。
琥珀は馬力車の横に立ち、踏み台の子を見る。
今は収まっている。
でも、外へ出れば、この子も一緒に揺れる。
ロックが勝手に外れないか。
戻る時に強すぎないか。
足を置く時、ちゃんと待ってくれるか。
見なければ分からないことは、まだたくさんあった。
ベルグが工房の戸を開ける。
外の光が、工房の床へ伸びた。
夕方にはまだ少し早い。
けれど、昼の強い光は少しだけやわらかくなり、工房前の土の上には、木の影が落ちていた。
馬力車が、ゆっくり外へ出る。
車輪が工房の敷居を越えた時、板バネが小さく沈んだ。
琥珀の耳が、その音を拾う。
前より、音が丸い気がした。
「今の、少し違った」
「敷居の返りじゃな」
「前より、がつんって感じが少ない」
ロクスも肩を少し回した。
「肩にも来た。けど、刺さらねえ」
ラファお姉ちゃんが記録板へ視線を落とす。
「敷居越え。肩への急な返りは軽減。車体沈み込みは許容範囲」
マーレが工房の戸口で腕を組む。
「まずは一つ目だね。調子に乗らない」
「まだ何も言ってねえ」
「言う前に止めたんだよ」
馬力車は、工房前の土の上へ出た。
ロクスが、ゆっくり一歩踏み出す。
車輪が進む。
床下で歯車が小さく噛む。
板バネが、土の小さな凹凸を受ける。
琥珀は馬力車の横を歩きながら、床板と踏み台を見ていた。
踏み台の子は、収まったまま勝手には動かない。
床板も、大きく跳ねない。
ロクスは二歩、三歩と進む。
それから、ベルグの合図で止まった。
「停止」
ロクスが体を止める。
馬力車が一拍遅れて重さを返す。
けれど、前ほど強くぶつかってくる感じではなかった。
ロクスのしっぽが、一度だけ揺れる。
「腰には来る」
「どんなふうに?」
「押される。でも、前みたいに急に噛みつかれる感じじゃねえ」
「押されるが、鋭さは低下」
ラファお姉ちゃんが書き込む。
ベルグはうなずき、足元を覗き込んだ。
「板バネが少し受けとるのう。じゃが、停止の返りはまだ残る」
「残るけど、これなら見ながら使える」
その言葉に、琥珀の耳が立った。
「見ながら使える?」
「完全に任せるには早い。でも、道へ出して確かめるくらいなら、いける」
ベルグは、少しだけ笑った。
「よし。では、小さな石を踏ませる」
「小さな石だけだよ」
「大きな石など選ばんわい」
「ベルグは、時々大きいのも小さいと言うからね」
「信頼が薄いのう」
「積み重ねだよ」
工房前の土の上に、小さな石がひとつ置かれた。
本当に小さな石だった。
琥珀は、ほっと息を吐く。
ロクスがゆっくり進む。
車輪が石に触れる。
こつん。
馬力車が少し持ち上がり、板バネが沈む。
戻る。
床板の揺れはある。
けれど、前に見たような硬い跳ねではなかった。
琥珀のしっぽが、期待で揺れる。
「角、丸い」
「まだ丸め始めじゃ」
「でも、尖ってない」
ロクスも、肩を少し動かした。
「肩は悪くねえ。腰は少し遅れて来る」
「遅れて来る?」
「石を越えた後に、後ろから押される感じだ」
「記録します。段差越え後、腰側に遅れた返りあり」
ベルグは床下を覗き込み、駆動系ユニットの子の音を聞くように顔を近づけた。
「噛みは止まっとらん。よい。無理に走らせなければ、まだついて来られる」
ロクスが床下へ視線を落とす。
「寝起きにしては働くな」
「褒めてる?」
「まあな」
琥珀は、思わず笑った。
駆動系ユニットの子。
板バネの子。
踏み台の試作の子。
それぞれが、まだ完璧ではない。
でも、それぞれの場所で働き始めている。
ラファお姉ちゃんが、馬力車の横へ来た。
「次は踏み台です。出した状態で、軽い振動を確認します」
「乗る?」
「まずは乗りません。踏み台を出して、車体を軽く揺らします」
ベルグが踏み台を出す。
かち。
爪が噛む。
ロクスが馬力車をほんの少し揺らす。
踏み台は外れなかった。
もう一度、少しだけ揺らす。
踏み台の子は、待っていた。
「外れない」
「今の揺れでは良好です」
マーレがすかさず言う。
「今の揺れでは、だよ。道ではもっと変な揺れ方をするからね」
「うん。分かってます」
琥珀は踏み台を見た。
この子は、ちゃんと仕事を覚え始めている。
でも、まだ道の全部を知っているわけではない。
それでいい。
知らないから、見に行くのだ。
ベルグが踏み台を戻す。
かく。
爪がほどけ、踏み台が静かに収まった。
「戻りもよし」
「勢いも強すぎません」
「指を近づけなければね」
「近づけません」
「よろしい」
短い確認が終わる頃には、工房前の空気が少しだけ変わっていた。
馬力車は、まだ幌がない。
雨を防ぐ布も、風を避ける覆いもない。
荷物をいっぱい積んだ時の沈みも、長い道での疲れも、まだ見ていない。
けれど、足元は朝より確かになった。
踏み台は、最初の一歩を待てるようになった。
床下の子も、寝起きの体で少しだけ働いてくれた。
ベルグは、馬力車の横に立って、しばらく黙っていた。
ロクスも引き具を持ったまま、車体を見ている。
マーレは、腕を組んだまま空を見上げた。
ラファお姉ちゃんは記録板を閉じず、最後の行を書き込む準備をしていた。
琥珀は、胸がどきどきしているのを感じた。
まだ完成ではない。
でも、何かがはっきり変わった。
「ベルグじい」
「なんじゃ」
「この子、道に出られる?」
ベルグは、すぐには答えなかった。
馬力車の足元、踏み台、床下、ロクスの肩紐と腰紐を順番に見る。
それから、ゆっくりうなずいた。
「幌はない。雨も長い道も、荷を積んだ時もまだじゃ」
「うん」
「じゃが、見ながら走るなら、リノの村までの道は試せる」
琥珀の耳が、ぴんと立った。
ロクスが、引き具を持ったまま短く言う。
「俺も、そう思う」
その声は、ぶっきらぼうだった。
けれど、どこか誇らしそうでもあった。
ラファお姉ちゃんが記録板へ静かに書き込む。
「幌なし。長距離未確認。荷物満載未確認。雨天未確認。ですが、リノさんの村までの道は、確認しながら進めると判断します」
マーレが、ふうと息を吐いた。
「やっと、そこまで来たんだねえ」
その言葉に、工房前の空気が少しだけやわらかくなった。
馬力車は、静かにそこに立っている。
まだ足りないところはある。
まだ見なければならないところもある。
それでも、馬力車は静かにそこに立ち、次の相談を待っていた。
馬力車は、工房前の土の上で静かに止まっていた。
車輪には、少しだけ土がついている。
床下では、油をなじませた駆動系ユニットの子が、さっきの短い確認を終えて休んでいる。
足元には板バネ。
横には踏み台の試作の子。
どれも、まだ完璧ではない。
けれど、朝とは違う。
昼前とも違う。
この子は、リノの村へ向かう道を、見ながら進めるところまで来た。
琥珀は、馬力車の横に立ったまま、胸の奥がふわふわするのを感じていた。
「リノの村まで……行けるんだね」
「行ける、ではなく、確認しながらなら行ける、です」
ラファお姉ちゃんが、すぐに静かに言い直した。
琥珀は耳を少し伏せ、それから小さく笑う。
「うん。確認しながらなら、行ける」
「はい」
ベルグが、馬力車の足元をもう一度見た。
「幌はまだない。雨が降れば、乗る者も荷も濡れる。荷を多く積めば沈みも変わる。長い道で、ロクスの腰にどう返るかもまだ見とらん」
「分かってる」
ロクスは引き具を外しながら答えた。
「でも、リノの村までなら、道を選んで、止まりながら見るくらいはできる」
「そうじゃな」
マーレが工房の戸口から歩いてきた。
「だったら、出る日を決める前に、食べ物と水と、道で止まった時の道具を考えな」
「弁当も?」
「もちろんだよ。道の途中で腹が空いた手になったら困るだろう?」
琥珀は、昼に聞いた言葉を思い出して笑った。
「腹が空いた手で締めた金具なんて、信用できない」
「そういうことさね」
ロクスが、少しだけ顔をそむける。
「俺の弁当は硬めでいい」
「まだ何も聞いてないよ」
「どうせ聞くだろ」
「分かってきたじゃないか」
琥珀のしっぽが、楽しそうに揺れた。
「ロクスのは、硬めで、塩強めで、量多め?」
「量多めは勝手に増やすな」
「でも、ロクス大きいし」
「体がでかいからって、何でも多けりゃいいわけじゃねえ」
「でも食べるよね」
「……食べるけどな」
マーレが声を立てて笑った。
工房前に、夕方へ向かう風が通る。
その風は、まだ冷たくはなかった。
けれど琥珀の胸の奥には、別の風が残っている。
山の方から来る風が少し冷たい。
リノの手紙の最後にあった言葉。
あの短い言葉は、ずっと胸の奥に引っかかっていた。
リノの村へ行ける。
もう一度会いに行ける。
それは嬉しい。
でも、ただ遊びに行くだけではない。
山の奥の風車。
冷たい風。
ラビィが言った、治しに行くという言葉。
その全部が、まだ遠くで小さく揺れている。
琥珀の耳が、少しだけ風の方へ向いた。
ラファお姉ちゃんが、それに気づく。
「琥珀ちゃん」
「ん?」
「手紙の最後のことを考えていますか」
琥珀は、少しだけ驚いてラファお姉ちゃんを見上げた。
「分かる?」
「耳が、山の方を探すように動いていました」
琥珀は、自分の耳にそっと触れた。
「そっか。出てたんだ」
「はい」
琥珀は、馬力車の車輪を見た。
まだ少し土がついている車輪。
この車輪が、あの村へ向かう。
前にリノの家でお世話になった時のことを思い出す。
知らないことばかりだった。
不安もあった。
ラファお姉ちゃんと一緒に、手探りで歩いていた。
リノの家の温かさ。
ノーラの声。
風の通る村。
そこで受け取った優しさ。
今度は、また違う姿で戻る。
ただ助けてもらうだけではない。
手紙をもらって、返事をして、絵とリボンを用意して、馬力車を作って。
ロクスが引く。
ベルグが組んだ。
マーレが食べさせて止めてくれた。
ラファお姉ちゃんが記録して、隣で見てくれた。
みんなの手で、もう一度あの場所へ向かう。
「怖いのか?」
ロクスの声が、横から来た。
琥珀は、少し考えてから首を横に振った。
「怖くない、とは言えない」
マーレが、静かに琥珀を見る。
「でも、怖いだけじゃないの」
琥珀は、馬力車の横へ手を置いた。
木の感触が、手のひらに伝わる。
「前にリノの家へ行った時は、わたし、分からないことばっかりだった。リノにも、ノーラさんにも、たくさんお世話になった」
ラファお姉ちゃんが、静かにうなずく。
「はい」
「でも今度は、少し違うの。ちゃんと会いに行く準備をしてる。手紙の返事だけじゃなくて、足で進んで、またあの家へ行ける」
琥珀のしっぽが、ゆっくり揺れた。
「それが、すごく楽しみ」
言葉にした瞬間、胸の奥のふわふわが、もっと大きくなった。
不安はある。
手紙の最後の冷たい風は、まだ引っかかっている。
けれど、それ以上に。
リノに会える。
リノの家へ、また行ける。
今度は、少し違う自分たちで戻れる。
そのことが、楽しみでたまらなかった。
琥珀の耳が、隠しきれないようにぴんと立つ。
しっぽも、落ち着こうとしているのに、ふわふわと揺れてしまう。
マーレが、それを見て笑った。
「楽しみなのが、全部出てるねえ」
「出てますか」
「耳もしっぽも、忙しいよ」
琥珀は、少し照れて耳を押さえた。
「止められないです」
「止めなくていいさ」
マーレは、馬力車を見た。
「ただし、楽しみだからこそ、準備はちゃんとするんだよ」
「はい」
ラファお姉ちゃんが記録板を抱え直す。
「出発前に確認するものを整理します。天気。弁当。水。予備の留め具。工具。踏み台ロックの再確認。ロクスさんの肩と腰の状態。道の途中で止まる場所」
「たくさんあるね」
「はい。ですが、ひとつずつ準備できます」
ベルグがうなずいた。
「明日は、もう一度軽く締め直しと確認じゃな。勢いで出るものではない」
「買い出しも必要だねえ」
その言葉に、琥珀の耳がまた立った。
「買い出し」
「弁当だけじゃないよ。雨具も、包み布も、道具を入れる袋も、見ておいた方がいい」
「リノに持っていくものも?」
「それもだね」
琥珀の胸が、また高く跳ねた。
リノに持っていくもの。
リボン。
絵。
手紙ではなく、直接渡せるもの。
まだ決めることはたくさんある。
それでも、全部がリノへ会いに行く準備なのだと思うと、ひとつひとつが嬉しかった。
ロクスが引き具を外し終え、馬力車の横を軽く叩いた。
「浮かれすぎて、道具を忘れるなよ」
「忘れないよ」
「弁当で頭いっぱいになりそうだ」
「ならないもん」
「買い出しって聞いた時、耳が跳ねたぞ」
「それは、リノに持っていくものもあるから」
「言い訳が早いな」
琥珀はむっとした顔を作った。
けれど、しっぽはまだ楽しそうに揺れている。
ラファお姉ちゃんが、静かに笑った。
「琥珀ちゃん。楽しみなことは、悪いことではありません」
「うん」
「ただ、楽しみな時ほど、忘れ物をしやすくなります」
「ラファお姉ちゃんまで」
「なので、一緒に確認しましょう」
琥珀は、少し照れながらうなずいた。
「うん。一緒に確認する」
工房前の空は、少しずつ色を変え始めていた。
馬力車は、まだ幌のない体でそこにいる。
完璧ではない。
でも、リノの村まで行ける形になった。
手紙でつながっていた道が、今度は車輪で進む道になろうとしている。
胸の奥には、冷たい風の言葉がまだ残っている。
それでも琥珀は、馬力車の横に立ち、リノの家を思い浮かべた。
前にお世話になった、あの温かい家。
もう一度会いたい人がいる場所。
そして今度は、少し違う自分たちで戻れる場所。
不安はある。
けれど、楽しみでたまらない。
琥珀の耳としっぽは、その気持ちを隠せないまま、夕方へ向かう風の中で揺れていた。




