↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
61/76

第55話

 工房の中では、まだ作業の音が続いていた。


 朝に外へ出した馬力車は、もう一度工房の中へ戻されている。床板の一部は外され、足元には薄い金具や短い軸、いくつもの留め具が並べられていた。


 油の香り。

 木の削れた香り。

 金具を動かしたあとの、少しだけ熱を持ったような空気。


 その中で、ロクスは浅い器の前に腰を下ろしていた。


 器の中には、黒く濁った油が張られている。その中に、朝まで馬力車の床下で眠っていた駆動系ユニットの子が、いくつかの部品に分けられて沈められていた。


 ロクスは、大きな手で歯車をひとつ持ち上げた。


 乱暴な動きではなかった。


 指先は油で光っているのに、歯先へ触れる力は軽い。欠けたところを無理にこじることもなく、布でそっと押さえ、油の中でゆっくり揺らしている。


 言葉だけ聞けば、ロクスは不機嫌そうに見えることが多い。


 けれど、その手は違っていた。


 面倒な荷物を見る手ではない。

 自分を引かせる道具を見る手でもない。


 これから自分の肩と腰を預ける、相棒を見ている手だった。


「……こっちは、まだ噛むな」


 ロクスが低く言った。


 ベルグは、踏み台の横に印をつけていた手を止め、ちらりとそちらを見る。


「どこじゃ」


「この歯だ。汚れが詰まってるだけで、死んじゃいねえ」


 ロクスの耳が、歯車へ向かってぴたりと立っていた。


 ベルグは近づいて、ロクスの手元を覗き込む。二人の顔が、同じ角度で少しだけ傾いた。


「……そうじゃのう。そこはまだ残せる」


「だろ」


 短い言葉だけだった。


 けれど琥珀には、その短さが少し不思議に見えた。説明し合っているというより、同じものを見て、同じところでうなずいているようだった。


 琥珀のしっぽが、ゆっくりと揺れる。


「ロクス、嬉しそう」


「は?」


 ロクスの耳が、歯車から琥珀の方へぴくりと動いた。


「嬉しそうに見えたの」


「油まみれで古い歯車洗って、嬉しいわけねえだろ」


 そう言いながら、ロクスは持っていた歯車を、油の中へ雑には戻さなかった。


 歯先が器の底へ当たらないように、少し斜めにして、ゆっくり沈める。


 琥珀の耳が、ぴんと立った。


「でも、手が嬉しそうだよ」


 ロクスは一瞬、言い返そうと口を開いた。


 けれど、歯車へ向けていた指先を見て、言葉を飲み込む。


「……変なこと言うな」


「変じゃないよ」


 ベルグが、低く笑った。


「わはは。ロクス、おぬしの負けじゃな」


「勝ち負けの話じゃねえよ」


 ロクスはそっぽを向いたが、しっぽの先が一度だけ、ばさりと揺れた。


 ラファお姉ちゃんは、踏み台の動き始める位置を書き留めながら、柔らかく目を細めている。


「ロクスさんは、部品の状態をかなり正確に見ています。力で外すのではなく、残せるところを探しているように見えます」


「そう言われると、余計にやりにくいんだが」


「でも、雑ではありません」


「雑にしたら壊れるだろ」


 ロクスは、当たり前のことのように言った。


 その言葉に、琥珀の胸の奥が少し温かくなる。


 昨日まで、床板の下に隠れていた子。

 朝、ロクスの体へ返る重さを少しだけ受けてくれた子。

 そして今、油の中で、ロクスの手に起こされようとしている子。


 本当に、この子はロクスの相棒になっていくのだと思った。


 琥珀は浅い器を覗き込んだ。


 黒く濁った油の中で、小さな歯車がゆっくり沈んでいる。油に浸かっているのに、洗われているというのが、どうにも不思議だった。


 風月の鐘亭では、食器も鍋も、水と泡で洗っている。


 油がついた皿も、泡でこすって、水で流す。

 汚れを落とすというのは、そういうものだと思っていた。


 なのに、ここでは油の中へ入れている。


「ベルグじい」


「なんじゃ」


「風月では、水と泡で洗うのに、これは油で洗うの?」


 ベルグは、琥珀の方を見たあと、油の器へ目を戻した。


「食器と歯車では、落とすものが違うんじゃ」


「落とすもの?」


「食器は、食べ物の油や汚れを落とす。きれいにして、次に食べるためじゃな」


「うん」


 琥珀はうなずいた。


 風月の鐘亭で、皿を洗った時の手の感触を思い出す。泡が指の間でふくらんで、皿の表面がきゅっと軽くなる感じ。


 ベルグは、油の中の歯車を指で示した。


「じゃが、こやつは動くための油で守られとる。古くなって固まった油を、水でいきなり追い出せば、鉄が裸になる」


「裸に……」


 琥珀の耳が、ぴくんと変な角度で止まった。


 それから、頬がほんの少し赤くなる。


「琥珀ちゃん。たぶん、今想像した裸ではありません」


「わ、分かってるよ。鉄の話だよね」


「分かっとるなら、しっぽをそんなに丸めんでもよかろうに」


「丸まってないよ」


「丸まっとる」


「少しだけ丸まっています」


「ラファお姉ちゃんまで」


 ロクスは油の中の歯車を見たまま、口の端だけを少し上げた。


「鉄が裸で赤くなるやつ、初めて見たな」


「ロクス!」


 その時、工房の戸が開いた。


 外の光と一緒に、昼の香りがふわりと入ってくる。


 包みを腕にかけたマーレが、戸口に立っていた。


「ただいま。……ん? どうして琥珀は顔が赤いんだい?」


 琥珀の耳が、また別の方向へ跳ねた。


「な、なんでもないです」


「鉄が裸になる話をしていました」


「ラファお姉ちゃん、言い方!」


 マーレは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、事情を察したのか、口元を押さえる。押さえたはずなのに、肩が先に揺れた。


「あはははは。そっちに想像するって、あははは。琥珀、あんたは本当に忙しい子だねえ」


「マーレさんまで!」


 マーレは笑いすぎてにじんだ涙を、指の背でぬぐった。


 工房の中に、油と金具の香りだけではないものが広がっていく。包みの中からこぼれる、焼いた肉と温かい野菜の香り。風月の鐘亭から運ばれてきた、昼の時間の香りだった。


 マーレは、まだ少し笑いながら、包みを作業台の端へそっと置いた。


「楽しくなったところで、みんなご飯にするよ」


 その声が、工房の空気をやわらかく丸めた。


 ベルグが、印をつけていた金具を置く。


「もう少しで、この位置が見えそうなんじゃがのう」


「見えそうな時ほど、手を止めるんだよ」


 マーレは笑い涙の残る目で、ベルグを見た。


「腹が空いた手で締めた金具なんて、信用できないからね」


「むう。それを言われると、返す言葉がないのう」


「ロクスもだよ」


「俺は油の中のやつを見てただけだ」


「油を触った手で食べる気かい?」


「……洗ってくる」


 ロクスは、器の中の歯車をもう一度だけ見た。


 それから、布をかぶせるようにそっと置き、腰を上げる。


 その動きもやはり、雑ではなかった。


「ベルグ、ロクス、琥珀。先に手を洗っておいで」


「わしもかのう」


「当たり前だよ。いちばん油の香りがする手をしてるじゃないか」


 ベルグが、わははと笑って立ち上がる。


 琥珀も、まだ少し熱の残る頬を両手で押さえながら、ロクスの後に続いた。


「鉄の話だったのに……」


「鉄の話でしたね」


「ラファお姉ちゃん、ちょっと楽しんでるよね」


「少しだけ」


 ラファお姉ちゃんが、ほんの少しだけ笑った。


 琥珀のしっぽが、恥ずかしそうに揺れる。


 洗い場へ向かう途中、琥珀は一度だけ振り返った。


 油の器の中で、駆動系ユニットの子は静かに沈んでいる。


 さっきまで、それは古い部品に見えていた。


 けれど今は、少し違って見えた。


 水で一気に洗い流すのではなく、油の中でゆっくり時間をほどく。

 叩き起こすのではなく、まだ動きたいところを傷つけないように起こす。


 ロクスがあの子を見る目も、きっと同じだった。


 琥珀は小さく息を吸って、手を洗うために前を向いた。


 少しして、先に手を洗って戻ってきたラファお姉ちゃんへ、マーレが包みを開きながら声をかける。


「ラファ、悪いけど、器を並べるのを手伝ってくれるかい」


「はい、マーレさん」


 包みが開かれると、工房の中に昼食の香りが広がった。


 油の中で眠る歯車。

 印をつけられた踏み台の金具。

 まだ組み込まれていない足回りの部品。


 その全部の真ん中に、風月の鐘亭の昼ご飯が並んでいく。


 作る手を止める時間が、工房の中にやってきた。


 包みの中から出てきたのは、丸く握られたおにぎりと、焼いた肉を挟んだ小さなパン。それから、木の器に入った温かい野菜の煮込みだった。


 ふわりと立つ湯気に、琥珀の耳がぴんと立つ。


 油の香り。

 木の香り。

 金具の香り。


 その真ん中に、焼いた肉と野菜の甘い香りが入ってくるだけで、工房の空気が少し変わった。


 さっきまで動いていた手が止まり、並んでいた金具の音も静かになる。


 作る場所に、ご飯の時間がやってきたのだと思った。


「器はこれで足りますか?」


「十分だよ。ラファ、そっちの煮込みを少しずつ分けてくれるかい」


「はい、マーレさん」


 ラファお姉ちゃんは、器の大きさを見ながら煮込みを分けていく。具の量が偏らないように、芋と野菜と肉を少しずつ入れていた。


 マーレはそれを見て、満足そうにうなずく。


「上手いもんだねえ。もう風月の手伝いにもだいぶ慣れたじゃないか」


「マーレさんに教えていただいたことを、覚えているだけです」


「それができれば十分だよ。覚えたことを、ちゃんと手に乗せられるのが大事なのさ」


 琥珀は手を洗って戻りながら、その言葉に耳を動かした。


 覚えたことを、手に乗せる。


 それは、工房でベルグとロクスがしていることにも似ている気がした。


 ロクスは油を落とした手を布で拭きながら、作業台の端へ戻ってきた。手は洗っているのに、耳の向きだけは、まだ油の器の方へ残っている。


 それに気づいたマーレが、少し笑った。


「ロクス。ご飯の間くらい、あの子から目を離しても逃げやしないよ」


「逃げるとは思ってねえよ」


「じゃあ、何を見てるんだい」


「……汚れがどこまで浮いたか、あとで見る」


 ロクスはぶっきらぼうに言った。


 けれど、その声は嫌そうではなかった。むしろ、少しだけ待ちきれないようにも聞こえる。


 ベルグが、手を拭きながらわははと笑った。


「ほれ見い。すっかり気になっとるではないか」


「気にしねえ方がおかしいだろ。俺の肩と腰に関わるんだぞ」


「そうじゃのう。そこまで言うなら、きちんと食ってから見ねばならん」


「なんでそうなる」


「腹が空いた目で見ると、残せる歯まで捨てたくなるからじゃ」


「ならねえよ」


「なるかもしれないねえ」


 マーレが笑いながら、ロクスの前へ器を置いた。


「さっきも言っただろ。腹が空いた手で締めた金具なんて、信用できない。腹が空いた目で見た歯車だって、あたしは信用しないよ」


 ロクスは言い返しかけて、器から立つ香りに口を閉じた。


 焼いた肉の香りが、湯気に混じっている。


「……食えばいいんだろ」


「そういうことだよ」


 マーレはにこりと笑った。


 ベルグも腰を下ろし、琥珀とラファお姉ちゃんも作業台のそばへ座る。


 金具や図面が置かれていた工房の真ん中に、ご飯の器が並んだ。


 琥珀はおにぎりを両手で持った。


 温かい。


 指先に伝わるその温かさに、朝から動いていた体が、少しだけほっとする。


「いただきます」


「いただきます」


「はい、しっかりお食べ」


 琥珀がひと口かじると、中にはほぐした焼き魚が入っていた。塩気がちょうどよくて、米の甘さと一緒に広がる。


 隣では、ロクスが肉を挟んだパンを手に取っていた。


「ロクスのは硬めにしてあるよ」


「分かってるじゃねえか」


「前に柔らかいのを出したら、食った気がしねえって顔をしてたからね」


「顔に出てたか?」


「出てたよ」


「出ていました」


「ラファまで言うな」


 琥珀は笑いそうになって、おにぎりを口元で止めた。


 ロクスはぶつぶつ言いながらも、硬めのパンを満足そうに噛んでいる。耳の先が少しだけゆるんでいた。


 ベルグは野菜の煮込みをすすり、深く息を吐いた。


「うむ。やはり温かいもんはよいのう」


「油の香りだけで昼を越そうとしたら、また怒るところだったよ」


「わしは何も言うとらんぞ」


「顔に出てたよ。あと、手も止める気がなかった」


「手まで読まれるとはのう」


「何年見てると思ってるんだい」


 マーレの声に、工房の中がまた少し笑った。


 琥珀はそのやり取りを聞きながら、ゆっくりおにぎりを食べる。


 少し前、工房でマーレが二人を正座させた日のことを思い出した。


 あの時は、ベルグもロクスも、食べることや休むことをすっかり忘れていた。馬力車を作ることに夢中になって、風月の鐘亭へ弁当を頼むことさえ抜け落ちていた。


 けれど今は、違う。


 まだ作りたい。

 まだ見たい。

 まだ触りたい。


 そういう気持ちは、きっと残っている。


 それでも、マーレが昼ご飯を持ってくると、みんな手を洗い、作業台の前に座った。


 少しずつ、工房の中にも根づいているのだと思った。


 食べること。

 休むこと。

 手を止めること。


 それも、作ることの中にあるのだと。


「琥珀ちゃん」


「ん?」


「おにぎり、頬についています」


「えっ、どこ?」


 琥珀が頬を触ると、米粒がひとつ指にくっついた。


 ラファお姉ちゃんが、小さく笑う。


「右です」


「こっち?」


「それは左です」


「むう」


 マーレが、それを見てまた笑った。


「琥珀は忙しいねえ。耳もしっぽも頬も、みんなよく働く」


「頬は働いてないです」


「食べるのに働いてるだろう?」


「それは、そうかも」


 琥珀が米粒を食べると、ロクスが口の端を少し上げた。


「食うのも仕事なら、琥珀はよく働いてるな」


「ロクスもよく食べてるよ」


「俺は体がでかいからな」


「しっぽも大きいもんね」


「しっぽは関係ねえだろ」


 ロクスのしっぽが、パンを持つ手の後ろで軽く揺れた。


 ラファお姉ちゃんが、それを見て言った。


「関係ないと言いながら、動いています」


「見なくていい」


 小さな笑いが、また工房に広がる。


 けれど、その笑いは作業を邪魔するものではなかった。


 むしろ、朝から張りつめていた体の力を、少しずつほどいていくものだった。


 琥珀は煮込みをひと口食べた。


 野菜の甘みが、口の中でゆっくり広がる。温かさが喉を通り、胸の奥まで落ちていく。


 朝、ロクスが馬力車を引いた時の音。

 停止した時に返った重さ。

 床板の下から現れた、あの子。

 そして、油の中でゆっくり起こされている歯車。


 どれも大事だった。


 けれど、こうしてご飯を食べている時間も、同じくらい大事なのだと思った。


「マーレさん」


「なんだい」


「作るのって、手を動かしてる時だけじゃないんですね」


 マーレは、少しだけ目を細めた。


「そうだよ」


 短い返事だった。


 けれど、その声はとても柔らかかった。


「手を動かすには、腹がいる。目で見るには、休んだ頭がいる。誰かを乗せるものを作るなら、なおさらさね」


 琥珀は、手元のおにぎりを見つめた。


「食べることも?」


「食べることも」


「休むことも?」


「休むことも」


 マーレは、ロクスとベルグの方をちらりと見た。


「特に、夢中になる二人にはね」


「わしまで一緒にされとるのう」


「ベルグは筆頭だよ」


「俺は巻き込まれただけだ」


「巻き込まれたまま、朝からずっと油の器を見てるじゃないか」


「……見ねえと分かんねえだろ」


 ロクスは小さく言った。


 それは言い訳のようで、言い訳ではなかった。


 見なければ分からない。

 触らなければ分からない。

 引かなければ分からない。


 ロクスの体に返った重さは、ロクスにしか分からない。

 だから、ロクスは見ているのだ。


 琥珀は、油の器の方へ視線を向けた。


 あの子を起こすために。

 自分の体を守るために。

 そして、誰かを乗せて進むために。


 ロクスは、もう巻き込まれているだけではないのだと思った。


 ラファお姉ちゃんが、器をそっと置いた。


「休憩は、作業を止める時間ではなく、次の確認を間違えないための時間でもあります」


 マーレが、うんうんとうなずく。


「そういうことだよ。ラファは言い方が上手いねえ」


「マーレさんの言葉を整理しただけです」


「それでも助かるよ。あたしが言うと、すぐ説教みたいになるからね」


「説教でした」


「ロクス」


「いや、ありがたい説教だった」


 ロクスがすぐに言い直す。


 ベルグが吹き出し、琥珀も笑った。


 マーレは呆れたように息を吐いたが、その顔は怒っていなかった。


「分かってるならいいんだよ」


 昼ご飯は、ゆっくり進んでいった。


 食べ終わった器を端に寄せる頃には、工房の空気が少し軽くなっていた。


 油の器の中では、駆動系ユニットの子が静かに待っている。

 踏み台の横には、ベルグがつけた印が残っている。

 足回りの部品は、まだ組み込まれる時を待っていた。


 けれど、さっきまでとは違う。


 みんなの手は洗われ、腹は満たされ、目の奥にあった焦りも少しだけ薄くなっている。


 マーレが、空いた器をまとめながら言った。


「さて。食べたら、少しだけ座ってからだよ。すぐ立ち上がるんじゃないよ」


「まだ休むのか」


「食べた直後に油へ戻る気かい?」


「……少しだけだ」


「その少しが大事なのさ」


 ベルグは、作業台の上に置かれた薄い板を見た。


「次は足回りじゃな」


 その言葉に、琥珀の耳が動く。


「足回り……昨日、小石で跳ねたところ?」


「そうじゃ。揺れを消すことはできん。じゃが、角を丸めることはできるかもしれん」


 ロクスも、油の器から視線を上げた。


「俺の肩に返ってきたやつもか」


「そこも見る」


 ラファお姉ちゃんが、記録板を手元へ寄せる。


「乗る側の揺れと、引く側へ返る衝撃。両方を確認する必要があります」


 琥珀は、まだ温かさの残る手をそっと握った。


 ご飯を食べて、手を止めて、もう一度見る。


 それは、遠回りではないのだと思った。


 次に触れる部品も、次に締める金具も、きっとその方がちゃんと見える。


 工房の中で、昼の時間が静かに落ち着いていく。


 そして、馬力車の足元を見る時間が、ゆっくり近づいていた。


 昼ご飯のあと、工房には少しだけ静かな時間が流れていた。


 空になった器は作業台の端へまとめられ、マーレとラファお姉ちゃんが布で軽く拭いている。ベルグは腰を下ろしたまま、足回りに使う薄い板を指先で弾き、しなりを確かめていた。


 ロクスは油の器の前には戻らず、少し離れた場所に座っていた。


 けれど、耳だけはそちらを向いている。


 油の中で眠る駆動系ユニットの子。

 踏み台の横につけられた印。

 まだ組み込まれていない足回りの部品。


 食べ終えたあとの工房は、さっきよりも落ち着いて見えた。


 琥珀は、作業台の上に置かれた薄い板と金具を見つめた。


 薄い板。

 留め具。

 短い軸。

 踏み台と車輪止めをつなぐための、小さな腕のような部品。


 どれも、まだただ並べられているだけだ。


 けれど、ベルグが見れば役割が分かる。

 ロクスが見れば、どこに力が返るかを考えられる。

 ラファお姉ちゃんが見れば、動く順番を記録できる。

 マーレが見れば、危ない使い方を止められる。


 琥珀は、自分の手を見下ろした。


 水と泡で食器を洗った手。

 油の器を覗き込んだ手。

 おにぎりを持った手。


 そして、マナクラフトを使った時の、胸の奥が熱くなるような感覚を知っている手。


「マナクラフト……」


 小さな声が、工房の中に落ちた。


 ラファお姉ちゃんが顔を上げる。


 琥珀は、作業台の上に置かれた薄い板と金具を見つめながら、ほんの少しだけ考えた。


 想像したものを、形にする力。

 手の中に流れが集まって、見えないものが見えるようになる感覚。

 うまく使えれば、できることはきっとある。


 けれど。


 琥珀は、すぐに首を横へ振った。


「いや、今回は使わない」


 ベルグの太い眉が、少しだけ上がった。


「ほほう。それはなぜじゃ?」


 琥珀は、自分の手を見下ろしたまま、言葉を探した。


「便利だし、想像したものが形にならないわけじゃないと思うの」


 ラファお姉ちゃんが、静かに琥珀を見る。


「でも、今回の馬力車は、わたしたちの手で作りたい」


 工房の中が、静かにその言葉を受け止めた。


 マーレは何も言わず、器を置いた。

 ベルグも、薄い板を弾く手を止めている。

 ロクスは、腕を組んだまま、琥珀を見ていた。


「マナクラフトだと、わたしの発想とラファお姉ちゃんのサポートで、うまく形にできるかもしれない。でも、中の仕組みをちゃんと説明できない気がするの」


「説明できない?」


「うん」


 琥珀は、薄い板を見た。


「どこが噛んで、どこが逃げて、どこがロクスの肩や腰を守ってるのか。形だけできても、わたしが分かってなかったら、道で困った時に直せないと思う」


 ロクスの耳が、少しだけ前を向いた。


 琥珀は、そこで少しだけ苦笑した。


「それに、使うとわたしの体にも、ものすごく負担が来るし。あはは……」


 笑ったつもりだった。


 けれど、工房の空気は少しだけ静かになる。


 ラファお姉ちゃんの目が、わずかに細くなった。


「琥珀ちゃん」


 その声は責めるものではなかった。


 けれど、軽く流してはいけないものを、ちゃんと拾い上げる声だった。


 琥珀は、慌てて片手を振る。


「大丈夫。だから、ちゃんと必要な時に使いたいの。マナクラフトが悪いってわけじゃないんだよ」


 ラファお姉ちゃんは、すぐには答えなかった。


 それから、ゆっくりとうなずく。


「はい。マナクラフトは悪いものではありません」


 琥珀は、ほっと息を吐いた。


「でも、今はまだ、手で届くところがいっぱいある気がするの」


 琥珀は、油の器の中で眠る駆動系ユニットの子を見た。


 水で洗うのではなく、油の中でゆっくり時間をほどくこと。

 歯車を傷つけないように、ロクスが指先の力を抜いていたこと。

 ベルグが印をつける時、何度も角度を変えていたこと。

 マーレが作業を止め、ご飯を食べさせてくれたこと。

 ラファお姉ちゃんが、動き出すタイミングをひとつずつ記録していたこと。


 そのどれもが、馬力車に入っていく。


「細かく手で作ると、その分だけ、気持ちも注がれる気がするの」


 琥珀は、少し照れたように笑った。


「うまく言えないけど……ベルグじいが印をつけて、ロクスが歯車を洗って、マーレさんがご飯を食べさせてくれて、ラファお姉ちゃんが記録してくれて。そうやって作った子なら、きっとみんなで見られるから」


 ラファお姉ちゃんの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「琥珀ちゃんが、そこまで考えてくれたことが嬉しいです」


「ラファお姉ちゃん」


「ですが、負担があることを、あはは、で終わらせるのは少し心配です」


「う……」


 琥珀の耳が、少しだけ伏せる。


「そこは、ごめんなさい」


 マーレが、やわらかく息を吐いた。


「ラファの言う通りだよ。痛いことや苦しいことを、笑って済ませるんじゃないよ」


「はい」


「でも、あんたが言いたいことは分かるよ」


 マーレは、空いた器を包みに戻しながら言った。


「便利なものは便利でいい。でもね、誰かを乗せるものなら、便利さより先に、分かることが大事さね。どこが危ないのか、誰が疲れるのか、どこで止めるのか。それを知らないまま走るのは、怖いからね」


 琥珀は、深くうなずいた。


「うん。だから、手で組めるところは、手で組みたい」


 ベルグが、薄い板を作業台へ置いた。


「おぬしは、よいことを言うのう」


「そうかな」


「そうじゃ。力を持つと、つい力で済ませたくなる。じゃが、道具は使う者が知らねばならん。知らん道具は、いざという時に怖い」


 ベルグは、駆動系ユニットの沈む器を見た。


「こやつも同じじゃ。中で何が噛み、どこが逃げ、どこで踏ん張るか。ロクスが知らねば、ロクスの道具にはならん」


 ロクスは、少しだけ眉を寄せた。


「俺が知らねえもんに、俺の腰預けろって言われても困るからな」


「うん」


「手で組んでりゃ、壊れた時にどこを見るか分かる。マナクラフトで一気に形だけできても、道の途中で黙られたら困るだろ」


 ロクスの言い方はぶっきらぼうだった。


 けれど、琥珀にはその言葉がとても分かりやすかった。


「黙られる……」


「動かなくなるってことだ」


「歯車の子が黙っちゃうのは、困るね」


「だから、黙る前に音を聞くんだよ」


 ロクスは、そう言って油の器を見た。


 職人の言葉だった。


 琥珀は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 マナクラフトを使わないことは、力を使えないことではない。

 手で作ることは、遅いだけでもない。


 それは、知ることだった。

 覚えることだった。

 一緒に直せるようにすることだった。


 ラファお姉ちゃんが、琥珀の隣に立った。


「本当に必要な時は、私が止めません」


 琥珀は、ラファお姉ちゃんを見上げる。


「ラファお姉ちゃん」


「ですが、必要ではない時に使おうとしたら、止めます」


「うん。止めて」


「はい」


 その返事は、いつものように静かだった。


 けれど、琥珀にはとても心強かった。


 ベルグが、両手を膝に置いて立ち上がる。


「ならば、手で届くところから行くかのう」


 ロクスも腰を上げた。


「足回りか」


「そうじゃ。小石で跳ねた時、乗る側にも、おぬしの肩にも返った。まずはそこを丸める」


 ベルグは、作業台の上に置いた薄い板を持ち上げた。


 細く、長く、少しだけ反った板だった。


 琥珀の耳が、ぴんと立つ。


「それが、さっき言ってた足回りの板?」


「板バネじゃ」


「板、ばね」


 ベルグは、薄い板を指で軽く押した。


 板は少し沈み、手を離すと、ゆっくり元へ戻る。


「揺れを消すものではない。じゃが、角を丸めることはできる」


 ロクスの耳が前を向いた。


「俺の肩へ返る前にか」


「そこも見る」


 ラファお姉ちゃんが記録板を手に取る。


「乗る側の揺れ、引く側への返り、停止時の沈み。順番に確認しましょう」


 マーレは空いた器を包みに戻しながら、みんなを見た。


「食べた。休んだ。なら、次はちゃんと見る時間だよ」


 琥珀は、自分の手をもう一度見た。


 マナクラフトを使わない手。

 けれど、何もできない手ではない。


 触って、覚えて、誰かと一緒に作る手。


 その手で、次は馬力車の足元を見る。


 工房の中で、昼の空気が少しずつ作業の空気へ戻っていく。


 けれどそれは、食べる前と同じ空気ではなかった。


 腹が満ち、目が落ち着き、手がもう一度確かめる準備をしている。


 馬力車は、まだ完成していない。


 だからこそ、次に見えるところから、手で組んでいく。


 工房には、食べ終えたあとの落ち着きと、次の作業へ向かう静かな熱が残っていた。


 油の中で眠る駆動系ユニットの子。

 作業台の上に置かれた板バネ。

 踏み台の横につけられた印。


 どれもまだ、道具になる途中だった。


 けれど、そこにはもう、誰か一人の手だけではないものが入っている。


 ベルグが見て、ロクスが触れて、マーレが止めて、ラファお姉ちゃんが記録して、琥珀が選んだ。


 手で作れるものは、手で作る。


 その小さな選択が、工房の中に静かに残っていた。


 その頃、遠く離れた場所で、光の柱が強く揺らいだ。


 ラビィは、静かにその光を見上げていた。


 世界の奥を流れるマナの理。

 そこに触れる光の震えが、いつもより少しだけはっきりと届いている。


「あの子も、マナのことを少し理解できているのかねぇ」


 ラビィは、目を細めた。


 光の柱は、静かに強くなり、また弱くなる。

 まるで遠くの呼吸のように、揺れながらそこに立っていた。


「使い方にも、いい使い方と悪い使い方があるからねぇ」


 マナは、形を与える。

 マナは、流れをつなぐ。

 けれど、使う者の思いが急ぎすぎれば、届くはずの手順を飛ばしてしまうこともある。


 作れるから、作る。

 直せるから、直す。

 動かせるから、動かす。


 それだけでは、救えないものもある。


 ラビィは、不安定に揺れる光の柱を眺めた。


 その揺れの向こうに、工房で手を動かす者たちと、その中心にいる二人の気配があるような気がした。


 琥珀。

 ラファ。


 急がず、怖がりすぎず、手で届くものを手で確かめている二人。


「あの二人なら、大丈夫だねぇ」


 ラビィの声は、とても静かだった。


 それでも、その声には、長い時間をひとりで見守ってきた者だけが持つ、深い温かさがあった。


 光の柱が、また少し揺れる。


 その奥で、かすかに震えるものがあった。


 それは風車の音だったのか。

 眠ったままの記録だったのか。

 それとも、かつてこの世界を巡っていた誰かの声だったのか。


 ラビィは、そっと息を吐いた。


「今度は、あの子を、治しに行くんだねぇ」


 ラビィは、直す、とは言わなかった。


 壊れた道具を元に戻す言葉ではなく、傷ついたものへ手を当てるように、治す、と言った。


 光の揺れの中で、戻りゆく記憶が少しだけほどける。


 若い頃のラビィがいた。


 隣には、アリューがいた。


 風の中を歩く足音。

 遠くに回る風車の影。

 まだ何も終わっていないと信じていた頃の、胸の奥の温かさ。


 忘れていたはずの光景が、ほんの少しだけ輪郭を取り戻す。


 ラビィは、その記憶を追いかけようとはしなかった。


 ただ、今戻ってきた分だけを、そっと胸の奥に置いた。


「頼んだよ、二人とも」


 光の柱が、静かに瞬いた。


 工房で手を動かす者たちへ。

 その中心にいる二人へ。

 まだ会えない誰かへ。

 そして、ゆっくり治されるのを待っている、この世界へ。


 ラビィは、祈るように呟いた。


「この世界に幸あらんことを」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。