第55話
工房の中では、まだ作業の音が続いていた。
朝に外へ出した馬力車は、もう一度工房の中へ戻されている。床板の一部は外され、足元には薄い金具や短い軸、いくつもの留め具が並べられていた。
油の香り。
木の削れた香り。
金具を動かしたあとの、少しだけ熱を持ったような空気。
その中で、ロクスは浅い器の前に腰を下ろしていた。
器の中には、黒く濁った油が張られている。その中に、朝まで馬力車の床下で眠っていた駆動系ユニットの子が、いくつかの部品に分けられて沈められていた。
ロクスは、大きな手で歯車をひとつ持ち上げた。
乱暴な動きではなかった。
指先は油で光っているのに、歯先へ触れる力は軽い。欠けたところを無理にこじることもなく、布でそっと押さえ、油の中でゆっくり揺らしている。
言葉だけ聞けば、ロクスは不機嫌そうに見えることが多い。
けれど、その手は違っていた。
面倒な荷物を見る手ではない。
自分を引かせる道具を見る手でもない。
これから自分の肩と腰を預ける、相棒を見ている手だった。
「……こっちは、まだ噛むな」
ロクスが低く言った。
ベルグは、踏み台の横に印をつけていた手を止め、ちらりとそちらを見る。
「どこじゃ」
「この歯だ。汚れが詰まってるだけで、死んじゃいねえ」
ロクスの耳が、歯車へ向かってぴたりと立っていた。
ベルグは近づいて、ロクスの手元を覗き込む。二人の顔が、同じ角度で少しだけ傾いた。
「……そうじゃのう。そこはまだ残せる」
「だろ」
短い言葉だけだった。
けれど琥珀には、その短さが少し不思議に見えた。説明し合っているというより、同じものを見て、同じところでうなずいているようだった。
琥珀のしっぽが、ゆっくりと揺れる。
「ロクス、嬉しそう」
「は?」
ロクスの耳が、歯車から琥珀の方へぴくりと動いた。
「嬉しそうに見えたの」
「油まみれで古い歯車洗って、嬉しいわけねえだろ」
そう言いながら、ロクスは持っていた歯車を、油の中へ雑には戻さなかった。
歯先が器の底へ当たらないように、少し斜めにして、ゆっくり沈める。
琥珀の耳が、ぴんと立った。
「でも、手が嬉しそうだよ」
ロクスは一瞬、言い返そうと口を開いた。
けれど、歯車へ向けていた指先を見て、言葉を飲み込む。
「……変なこと言うな」
「変じゃないよ」
ベルグが、低く笑った。
「わはは。ロクス、おぬしの負けじゃな」
「勝ち負けの話じゃねえよ」
ロクスはそっぽを向いたが、しっぽの先が一度だけ、ばさりと揺れた。
ラファお姉ちゃんは、踏み台の動き始める位置を書き留めながら、柔らかく目を細めている。
「ロクスさんは、部品の状態をかなり正確に見ています。力で外すのではなく、残せるところを探しているように見えます」
「そう言われると、余計にやりにくいんだが」
「でも、雑ではありません」
「雑にしたら壊れるだろ」
ロクスは、当たり前のことのように言った。
その言葉に、琥珀の胸の奥が少し温かくなる。
昨日まで、床板の下に隠れていた子。
朝、ロクスの体へ返る重さを少しだけ受けてくれた子。
そして今、油の中で、ロクスの手に起こされようとしている子。
本当に、この子はロクスの相棒になっていくのだと思った。
琥珀は浅い器を覗き込んだ。
黒く濁った油の中で、小さな歯車がゆっくり沈んでいる。油に浸かっているのに、洗われているというのが、どうにも不思議だった。
風月の鐘亭では、食器も鍋も、水と泡で洗っている。
油がついた皿も、泡でこすって、水で流す。
汚れを落とすというのは、そういうものだと思っていた。
なのに、ここでは油の中へ入れている。
「ベルグじい」
「なんじゃ」
「風月では、水と泡で洗うのに、これは油で洗うの?」
ベルグは、琥珀の方を見たあと、油の器へ目を戻した。
「食器と歯車では、落とすものが違うんじゃ」
「落とすもの?」
「食器は、食べ物の油や汚れを落とす。きれいにして、次に食べるためじゃな」
「うん」
琥珀はうなずいた。
風月の鐘亭で、皿を洗った時の手の感触を思い出す。泡が指の間でふくらんで、皿の表面がきゅっと軽くなる感じ。
ベルグは、油の中の歯車を指で示した。
「じゃが、こやつは動くための油で守られとる。古くなって固まった油を、水でいきなり追い出せば、鉄が裸になる」
「裸に……」
琥珀の耳が、ぴくんと変な角度で止まった。
それから、頬がほんの少し赤くなる。
「琥珀ちゃん。たぶん、今想像した裸ではありません」
「わ、分かってるよ。鉄の話だよね」
「分かっとるなら、しっぽをそんなに丸めんでもよかろうに」
「丸まってないよ」
「丸まっとる」
「少しだけ丸まっています」
「ラファお姉ちゃんまで」
ロクスは油の中の歯車を見たまま、口の端だけを少し上げた。
「鉄が裸で赤くなるやつ、初めて見たな」
「ロクス!」
その時、工房の戸が開いた。
外の光と一緒に、昼の香りがふわりと入ってくる。
包みを腕にかけたマーレが、戸口に立っていた。
「ただいま。……ん? どうして琥珀は顔が赤いんだい?」
琥珀の耳が、また別の方向へ跳ねた。
「な、なんでもないです」
「鉄が裸になる話をしていました」
「ラファお姉ちゃん、言い方!」
マーレは一瞬だけ目を丸くした。
それから、事情を察したのか、口元を押さえる。押さえたはずなのに、肩が先に揺れた。
「あはははは。そっちに想像するって、あははは。琥珀、あんたは本当に忙しい子だねえ」
「マーレさんまで!」
マーレは笑いすぎてにじんだ涙を、指の背でぬぐった。
工房の中に、油と金具の香りだけではないものが広がっていく。包みの中からこぼれる、焼いた肉と温かい野菜の香り。風月の鐘亭から運ばれてきた、昼の時間の香りだった。
マーレは、まだ少し笑いながら、包みを作業台の端へそっと置いた。
「楽しくなったところで、みんなご飯にするよ」
その声が、工房の空気をやわらかく丸めた。
ベルグが、印をつけていた金具を置く。
「もう少しで、この位置が見えそうなんじゃがのう」
「見えそうな時ほど、手を止めるんだよ」
マーレは笑い涙の残る目で、ベルグを見た。
「腹が空いた手で締めた金具なんて、信用できないからね」
「むう。それを言われると、返す言葉がないのう」
「ロクスもだよ」
「俺は油の中のやつを見てただけだ」
「油を触った手で食べる気かい?」
「……洗ってくる」
ロクスは、器の中の歯車をもう一度だけ見た。
それから、布をかぶせるようにそっと置き、腰を上げる。
その動きもやはり、雑ではなかった。
「ベルグ、ロクス、琥珀。先に手を洗っておいで」
「わしもかのう」
「当たり前だよ。いちばん油の香りがする手をしてるじゃないか」
ベルグが、わははと笑って立ち上がる。
琥珀も、まだ少し熱の残る頬を両手で押さえながら、ロクスの後に続いた。
「鉄の話だったのに……」
「鉄の話でしたね」
「ラファお姉ちゃん、ちょっと楽しんでるよね」
「少しだけ」
ラファお姉ちゃんが、ほんの少しだけ笑った。
琥珀のしっぽが、恥ずかしそうに揺れる。
洗い場へ向かう途中、琥珀は一度だけ振り返った。
油の器の中で、駆動系ユニットの子は静かに沈んでいる。
さっきまで、それは古い部品に見えていた。
けれど今は、少し違って見えた。
水で一気に洗い流すのではなく、油の中でゆっくり時間をほどく。
叩き起こすのではなく、まだ動きたいところを傷つけないように起こす。
ロクスがあの子を見る目も、きっと同じだった。
琥珀は小さく息を吸って、手を洗うために前を向いた。
少しして、先に手を洗って戻ってきたラファお姉ちゃんへ、マーレが包みを開きながら声をかける。
「ラファ、悪いけど、器を並べるのを手伝ってくれるかい」
「はい、マーレさん」
包みが開かれると、工房の中に昼食の香りが広がった。
油の中で眠る歯車。
印をつけられた踏み台の金具。
まだ組み込まれていない足回りの部品。
その全部の真ん中に、風月の鐘亭の昼ご飯が並んでいく。
作る手を止める時間が、工房の中にやってきた。
包みの中から出てきたのは、丸く握られたおにぎりと、焼いた肉を挟んだ小さなパン。それから、木の器に入った温かい野菜の煮込みだった。
ふわりと立つ湯気に、琥珀の耳がぴんと立つ。
油の香り。
木の香り。
金具の香り。
その真ん中に、焼いた肉と野菜の甘い香りが入ってくるだけで、工房の空気が少し変わった。
さっきまで動いていた手が止まり、並んでいた金具の音も静かになる。
作る場所に、ご飯の時間がやってきたのだと思った。
「器はこれで足りますか?」
「十分だよ。ラファ、そっちの煮込みを少しずつ分けてくれるかい」
「はい、マーレさん」
ラファお姉ちゃんは、器の大きさを見ながら煮込みを分けていく。具の量が偏らないように、芋と野菜と肉を少しずつ入れていた。
マーレはそれを見て、満足そうにうなずく。
「上手いもんだねえ。もう風月の手伝いにもだいぶ慣れたじゃないか」
「マーレさんに教えていただいたことを、覚えているだけです」
「それができれば十分だよ。覚えたことを、ちゃんと手に乗せられるのが大事なのさ」
琥珀は手を洗って戻りながら、その言葉に耳を動かした。
覚えたことを、手に乗せる。
それは、工房でベルグとロクスがしていることにも似ている気がした。
ロクスは油を落とした手を布で拭きながら、作業台の端へ戻ってきた。手は洗っているのに、耳の向きだけは、まだ油の器の方へ残っている。
それに気づいたマーレが、少し笑った。
「ロクス。ご飯の間くらい、あの子から目を離しても逃げやしないよ」
「逃げるとは思ってねえよ」
「じゃあ、何を見てるんだい」
「……汚れがどこまで浮いたか、あとで見る」
ロクスはぶっきらぼうに言った。
けれど、その声は嫌そうではなかった。むしろ、少しだけ待ちきれないようにも聞こえる。
ベルグが、手を拭きながらわははと笑った。
「ほれ見い。すっかり気になっとるではないか」
「気にしねえ方がおかしいだろ。俺の肩と腰に関わるんだぞ」
「そうじゃのう。そこまで言うなら、きちんと食ってから見ねばならん」
「なんでそうなる」
「腹が空いた目で見ると、残せる歯まで捨てたくなるからじゃ」
「ならねえよ」
「なるかもしれないねえ」
マーレが笑いながら、ロクスの前へ器を置いた。
「さっきも言っただろ。腹が空いた手で締めた金具なんて、信用できない。腹が空いた目で見た歯車だって、あたしは信用しないよ」
ロクスは言い返しかけて、器から立つ香りに口を閉じた。
焼いた肉の香りが、湯気に混じっている。
「……食えばいいんだろ」
「そういうことだよ」
マーレはにこりと笑った。
ベルグも腰を下ろし、琥珀とラファお姉ちゃんも作業台のそばへ座る。
金具や図面が置かれていた工房の真ん中に、ご飯の器が並んだ。
琥珀はおにぎりを両手で持った。
温かい。
指先に伝わるその温かさに、朝から動いていた体が、少しだけほっとする。
「いただきます」
「いただきます」
「はい、しっかりお食べ」
琥珀がひと口かじると、中にはほぐした焼き魚が入っていた。塩気がちょうどよくて、米の甘さと一緒に広がる。
隣では、ロクスが肉を挟んだパンを手に取っていた。
「ロクスのは硬めにしてあるよ」
「分かってるじゃねえか」
「前に柔らかいのを出したら、食った気がしねえって顔をしてたからね」
「顔に出てたか?」
「出てたよ」
「出ていました」
「ラファまで言うな」
琥珀は笑いそうになって、おにぎりを口元で止めた。
ロクスはぶつぶつ言いながらも、硬めのパンを満足そうに噛んでいる。耳の先が少しだけゆるんでいた。
ベルグは野菜の煮込みをすすり、深く息を吐いた。
「うむ。やはり温かいもんはよいのう」
「油の香りだけで昼を越そうとしたら、また怒るところだったよ」
「わしは何も言うとらんぞ」
「顔に出てたよ。あと、手も止める気がなかった」
「手まで読まれるとはのう」
「何年見てると思ってるんだい」
マーレの声に、工房の中がまた少し笑った。
琥珀はそのやり取りを聞きながら、ゆっくりおにぎりを食べる。
少し前、工房でマーレが二人を正座させた日のことを思い出した。
あの時は、ベルグもロクスも、食べることや休むことをすっかり忘れていた。馬力車を作ることに夢中になって、風月の鐘亭へ弁当を頼むことさえ抜け落ちていた。
けれど今は、違う。
まだ作りたい。
まだ見たい。
まだ触りたい。
そういう気持ちは、きっと残っている。
それでも、マーレが昼ご飯を持ってくると、みんな手を洗い、作業台の前に座った。
少しずつ、工房の中にも根づいているのだと思った。
食べること。
休むこと。
手を止めること。
それも、作ることの中にあるのだと。
「琥珀ちゃん」
「ん?」
「おにぎり、頬についています」
「えっ、どこ?」
琥珀が頬を触ると、米粒がひとつ指にくっついた。
ラファお姉ちゃんが、小さく笑う。
「右です」
「こっち?」
「それは左です」
「むう」
マーレが、それを見てまた笑った。
「琥珀は忙しいねえ。耳もしっぽも頬も、みんなよく働く」
「頬は働いてないです」
「食べるのに働いてるだろう?」
「それは、そうかも」
琥珀が米粒を食べると、ロクスが口の端を少し上げた。
「食うのも仕事なら、琥珀はよく働いてるな」
「ロクスもよく食べてるよ」
「俺は体がでかいからな」
「しっぽも大きいもんね」
「しっぽは関係ねえだろ」
ロクスのしっぽが、パンを持つ手の後ろで軽く揺れた。
ラファお姉ちゃんが、それを見て言った。
「関係ないと言いながら、動いています」
「見なくていい」
小さな笑いが、また工房に広がる。
けれど、その笑いは作業を邪魔するものではなかった。
むしろ、朝から張りつめていた体の力を、少しずつほどいていくものだった。
琥珀は煮込みをひと口食べた。
野菜の甘みが、口の中でゆっくり広がる。温かさが喉を通り、胸の奥まで落ちていく。
朝、ロクスが馬力車を引いた時の音。
停止した時に返った重さ。
床板の下から現れた、あの子。
そして、油の中でゆっくり起こされている歯車。
どれも大事だった。
けれど、こうしてご飯を食べている時間も、同じくらい大事なのだと思った。
「マーレさん」
「なんだい」
「作るのって、手を動かしてる時だけじゃないんですね」
マーレは、少しだけ目を細めた。
「そうだよ」
短い返事だった。
けれど、その声はとても柔らかかった。
「手を動かすには、腹がいる。目で見るには、休んだ頭がいる。誰かを乗せるものを作るなら、なおさらさね」
琥珀は、手元のおにぎりを見つめた。
「食べることも?」
「食べることも」
「休むことも?」
「休むことも」
マーレは、ロクスとベルグの方をちらりと見た。
「特に、夢中になる二人にはね」
「わしまで一緒にされとるのう」
「ベルグは筆頭だよ」
「俺は巻き込まれただけだ」
「巻き込まれたまま、朝からずっと油の器を見てるじゃないか」
「……見ねえと分かんねえだろ」
ロクスは小さく言った。
それは言い訳のようで、言い訳ではなかった。
見なければ分からない。
触らなければ分からない。
引かなければ分からない。
ロクスの体に返った重さは、ロクスにしか分からない。
だから、ロクスは見ているのだ。
琥珀は、油の器の方へ視線を向けた。
あの子を起こすために。
自分の体を守るために。
そして、誰かを乗せて進むために。
ロクスは、もう巻き込まれているだけではないのだと思った。
ラファお姉ちゃんが、器をそっと置いた。
「休憩は、作業を止める時間ではなく、次の確認を間違えないための時間でもあります」
マーレが、うんうんとうなずく。
「そういうことだよ。ラファは言い方が上手いねえ」
「マーレさんの言葉を整理しただけです」
「それでも助かるよ。あたしが言うと、すぐ説教みたいになるからね」
「説教でした」
「ロクス」
「いや、ありがたい説教だった」
ロクスがすぐに言い直す。
ベルグが吹き出し、琥珀も笑った。
マーレは呆れたように息を吐いたが、その顔は怒っていなかった。
「分かってるならいいんだよ」
昼ご飯は、ゆっくり進んでいった。
食べ終わった器を端に寄せる頃には、工房の空気が少し軽くなっていた。
油の器の中では、駆動系ユニットの子が静かに待っている。
踏み台の横には、ベルグがつけた印が残っている。
足回りの部品は、まだ組み込まれる時を待っていた。
けれど、さっきまでとは違う。
みんなの手は洗われ、腹は満たされ、目の奥にあった焦りも少しだけ薄くなっている。
マーレが、空いた器をまとめながら言った。
「さて。食べたら、少しだけ座ってからだよ。すぐ立ち上がるんじゃないよ」
「まだ休むのか」
「食べた直後に油へ戻る気かい?」
「……少しだけだ」
「その少しが大事なのさ」
ベルグは、作業台の上に置かれた薄い板を見た。
「次は足回りじゃな」
その言葉に、琥珀の耳が動く。
「足回り……昨日、小石で跳ねたところ?」
「そうじゃ。揺れを消すことはできん。じゃが、角を丸めることはできるかもしれん」
ロクスも、油の器から視線を上げた。
「俺の肩に返ってきたやつもか」
「そこも見る」
ラファお姉ちゃんが、記録板を手元へ寄せる。
「乗る側の揺れと、引く側へ返る衝撃。両方を確認する必要があります」
琥珀は、まだ温かさの残る手をそっと握った。
ご飯を食べて、手を止めて、もう一度見る。
それは、遠回りではないのだと思った。
次に触れる部品も、次に締める金具も、きっとその方がちゃんと見える。
工房の中で、昼の時間が静かに落ち着いていく。
そして、馬力車の足元を見る時間が、ゆっくり近づいていた。
昼ご飯のあと、工房には少しだけ静かな時間が流れていた。
空になった器は作業台の端へまとめられ、マーレとラファお姉ちゃんが布で軽く拭いている。ベルグは腰を下ろしたまま、足回りに使う薄い板を指先で弾き、しなりを確かめていた。
ロクスは油の器の前には戻らず、少し離れた場所に座っていた。
けれど、耳だけはそちらを向いている。
油の中で眠る駆動系ユニットの子。
踏み台の横につけられた印。
まだ組み込まれていない足回りの部品。
食べ終えたあとの工房は、さっきよりも落ち着いて見えた。
琥珀は、作業台の上に置かれた薄い板と金具を見つめた。
薄い板。
留め具。
短い軸。
踏み台と車輪止めをつなぐための、小さな腕のような部品。
どれも、まだただ並べられているだけだ。
けれど、ベルグが見れば役割が分かる。
ロクスが見れば、どこに力が返るかを考えられる。
ラファお姉ちゃんが見れば、動く順番を記録できる。
マーレが見れば、危ない使い方を止められる。
琥珀は、自分の手を見下ろした。
水と泡で食器を洗った手。
油の器を覗き込んだ手。
おにぎりを持った手。
そして、マナクラフトを使った時の、胸の奥が熱くなるような感覚を知っている手。
「マナクラフト……」
小さな声が、工房の中に落ちた。
ラファお姉ちゃんが顔を上げる。
琥珀は、作業台の上に置かれた薄い板と金具を見つめながら、ほんの少しだけ考えた。
想像したものを、形にする力。
手の中に流れが集まって、見えないものが見えるようになる感覚。
うまく使えれば、できることはきっとある。
けれど。
琥珀は、すぐに首を横へ振った。
「いや、今回は使わない」
ベルグの太い眉が、少しだけ上がった。
「ほほう。それはなぜじゃ?」
琥珀は、自分の手を見下ろしたまま、言葉を探した。
「便利だし、想像したものが形にならないわけじゃないと思うの」
ラファお姉ちゃんが、静かに琥珀を見る。
「でも、今回の馬力車は、わたしたちの手で作りたい」
工房の中が、静かにその言葉を受け止めた。
マーレは何も言わず、器を置いた。
ベルグも、薄い板を弾く手を止めている。
ロクスは、腕を組んだまま、琥珀を見ていた。
「マナクラフトだと、わたしの発想とラファお姉ちゃんのサポートで、うまく形にできるかもしれない。でも、中の仕組みをちゃんと説明できない気がするの」
「説明できない?」
「うん」
琥珀は、薄い板を見た。
「どこが噛んで、どこが逃げて、どこがロクスの肩や腰を守ってるのか。形だけできても、わたしが分かってなかったら、道で困った時に直せないと思う」
ロクスの耳が、少しだけ前を向いた。
琥珀は、そこで少しだけ苦笑した。
「それに、使うとわたしの体にも、ものすごく負担が来るし。あはは……」
笑ったつもりだった。
けれど、工房の空気は少しだけ静かになる。
ラファお姉ちゃんの目が、わずかに細くなった。
「琥珀ちゃん」
その声は責めるものではなかった。
けれど、軽く流してはいけないものを、ちゃんと拾い上げる声だった。
琥珀は、慌てて片手を振る。
「大丈夫。だから、ちゃんと必要な時に使いたいの。マナクラフトが悪いってわけじゃないんだよ」
ラファお姉ちゃんは、すぐには答えなかった。
それから、ゆっくりとうなずく。
「はい。マナクラフトは悪いものではありません」
琥珀は、ほっと息を吐いた。
「でも、今はまだ、手で届くところがいっぱいある気がするの」
琥珀は、油の器の中で眠る駆動系ユニットの子を見た。
水で洗うのではなく、油の中でゆっくり時間をほどくこと。
歯車を傷つけないように、ロクスが指先の力を抜いていたこと。
ベルグが印をつける時、何度も角度を変えていたこと。
マーレが作業を止め、ご飯を食べさせてくれたこと。
ラファお姉ちゃんが、動き出すタイミングをひとつずつ記録していたこと。
そのどれもが、馬力車に入っていく。
「細かく手で作ると、その分だけ、気持ちも注がれる気がするの」
琥珀は、少し照れたように笑った。
「うまく言えないけど……ベルグじいが印をつけて、ロクスが歯車を洗って、マーレさんがご飯を食べさせてくれて、ラファお姉ちゃんが記録してくれて。そうやって作った子なら、きっとみんなで見られるから」
ラファお姉ちゃんの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「琥珀ちゃんが、そこまで考えてくれたことが嬉しいです」
「ラファお姉ちゃん」
「ですが、負担があることを、あはは、で終わらせるのは少し心配です」
「う……」
琥珀の耳が、少しだけ伏せる。
「そこは、ごめんなさい」
マーレが、やわらかく息を吐いた。
「ラファの言う通りだよ。痛いことや苦しいことを、笑って済ませるんじゃないよ」
「はい」
「でも、あんたが言いたいことは分かるよ」
マーレは、空いた器を包みに戻しながら言った。
「便利なものは便利でいい。でもね、誰かを乗せるものなら、便利さより先に、分かることが大事さね。どこが危ないのか、誰が疲れるのか、どこで止めるのか。それを知らないまま走るのは、怖いからね」
琥珀は、深くうなずいた。
「うん。だから、手で組めるところは、手で組みたい」
ベルグが、薄い板を作業台へ置いた。
「おぬしは、よいことを言うのう」
「そうかな」
「そうじゃ。力を持つと、つい力で済ませたくなる。じゃが、道具は使う者が知らねばならん。知らん道具は、いざという時に怖い」
ベルグは、駆動系ユニットの沈む器を見た。
「こやつも同じじゃ。中で何が噛み、どこが逃げ、どこで踏ん張るか。ロクスが知らねば、ロクスの道具にはならん」
ロクスは、少しだけ眉を寄せた。
「俺が知らねえもんに、俺の腰預けろって言われても困るからな」
「うん」
「手で組んでりゃ、壊れた時にどこを見るか分かる。マナクラフトで一気に形だけできても、道の途中で黙られたら困るだろ」
ロクスの言い方はぶっきらぼうだった。
けれど、琥珀にはその言葉がとても分かりやすかった。
「黙られる……」
「動かなくなるってことだ」
「歯車の子が黙っちゃうのは、困るね」
「だから、黙る前に音を聞くんだよ」
ロクスは、そう言って油の器を見た。
職人の言葉だった。
琥珀は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
マナクラフトを使わないことは、力を使えないことではない。
手で作ることは、遅いだけでもない。
それは、知ることだった。
覚えることだった。
一緒に直せるようにすることだった。
ラファお姉ちゃんが、琥珀の隣に立った。
「本当に必要な時は、私が止めません」
琥珀は、ラファお姉ちゃんを見上げる。
「ラファお姉ちゃん」
「ですが、必要ではない時に使おうとしたら、止めます」
「うん。止めて」
「はい」
その返事は、いつものように静かだった。
けれど、琥珀にはとても心強かった。
ベルグが、両手を膝に置いて立ち上がる。
「ならば、手で届くところから行くかのう」
ロクスも腰を上げた。
「足回りか」
「そうじゃ。小石で跳ねた時、乗る側にも、おぬしの肩にも返った。まずはそこを丸める」
ベルグは、作業台の上に置いた薄い板を持ち上げた。
細く、長く、少しだけ反った板だった。
琥珀の耳が、ぴんと立つ。
「それが、さっき言ってた足回りの板?」
「板バネじゃ」
「板、ばね」
ベルグは、薄い板を指で軽く押した。
板は少し沈み、手を離すと、ゆっくり元へ戻る。
「揺れを消すものではない。じゃが、角を丸めることはできる」
ロクスの耳が前を向いた。
「俺の肩へ返る前にか」
「そこも見る」
ラファお姉ちゃんが記録板を手に取る。
「乗る側の揺れ、引く側への返り、停止時の沈み。順番に確認しましょう」
マーレは空いた器を包みに戻しながら、みんなを見た。
「食べた。休んだ。なら、次はちゃんと見る時間だよ」
琥珀は、自分の手をもう一度見た。
マナクラフトを使わない手。
けれど、何もできない手ではない。
触って、覚えて、誰かと一緒に作る手。
その手で、次は馬力車の足元を見る。
工房の中で、昼の空気が少しずつ作業の空気へ戻っていく。
けれどそれは、食べる前と同じ空気ではなかった。
腹が満ち、目が落ち着き、手がもう一度確かめる準備をしている。
馬力車は、まだ完成していない。
だからこそ、次に見えるところから、手で組んでいく。
工房には、食べ終えたあとの落ち着きと、次の作業へ向かう静かな熱が残っていた。
油の中で眠る駆動系ユニットの子。
作業台の上に置かれた板バネ。
踏み台の横につけられた印。
どれもまだ、道具になる途中だった。
けれど、そこにはもう、誰か一人の手だけではないものが入っている。
ベルグが見て、ロクスが触れて、マーレが止めて、ラファお姉ちゃんが記録して、琥珀が選んだ。
手で作れるものは、手で作る。
その小さな選択が、工房の中に静かに残っていた。
その頃、遠く離れた場所で、光の柱が強く揺らいだ。
ラビィは、静かにその光を見上げていた。
世界の奥を流れるマナの理。
そこに触れる光の震えが、いつもより少しだけはっきりと届いている。
「あの子も、マナのことを少し理解できているのかねぇ」
ラビィは、目を細めた。
光の柱は、静かに強くなり、また弱くなる。
まるで遠くの呼吸のように、揺れながらそこに立っていた。
「使い方にも、いい使い方と悪い使い方があるからねぇ」
マナは、形を与える。
マナは、流れをつなぐ。
けれど、使う者の思いが急ぎすぎれば、届くはずの手順を飛ばしてしまうこともある。
作れるから、作る。
直せるから、直す。
動かせるから、動かす。
それだけでは、救えないものもある。
ラビィは、不安定に揺れる光の柱を眺めた。
その揺れの向こうに、工房で手を動かす者たちと、その中心にいる二人の気配があるような気がした。
琥珀。
ラファ。
急がず、怖がりすぎず、手で届くものを手で確かめている二人。
「あの二人なら、大丈夫だねぇ」
ラビィの声は、とても静かだった。
それでも、その声には、長い時間をひとりで見守ってきた者だけが持つ、深い温かさがあった。
光の柱が、また少し揺れる。
その奥で、かすかに震えるものがあった。
それは風車の音だったのか。
眠ったままの記録だったのか。
それとも、かつてこの世界を巡っていた誰かの声だったのか。
ラビィは、そっと息を吐いた。
「今度は、あの子を、治しに行くんだねぇ」
ラビィは、直す、とは言わなかった。
壊れた道具を元に戻す言葉ではなく、傷ついたものへ手を当てるように、治す、と言った。
光の揺れの中で、戻りゆく記憶が少しだけほどける。
若い頃のラビィがいた。
隣には、アリューがいた。
風の中を歩く足音。
遠くに回る風車の影。
まだ何も終わっていないと信じていた頃の、胸の奥の温かさ。
忘れていたはずの光景が、ほんの少しだけ輪郭を取り戻す。
ラビィは、その記憶を追いかけようとはしなかった。
ただ、今戻ってきた分だけを、そっと胸の奥に置いた。
「頼んだよ、二人とも」
光の柱が、静かに瞬いた。
工房で手を動かす者たちへ。
その中心にいる二人へ。
まだ会えない誰かへ。
そして、ゆっくり治されるのを待っている、この世界へ。
ラビィは、祈るように呟いた。
「この世界に幸あらんことを」




