第54話
ロクスは、馬力車の前に立った。
肩へ掛ける紐が、胸の前を通る。腰へ回す紐が、体の横へ回される。ベルグは、ロクスの体の横で紐を一度止め、指先で締まり具合を確かめた。
「きつうないか」
「きつくはねえ。けど、昨日より横が少し当たるな」
ロクスはそう言って、耳を少し動かした。
ラファお姉ちゃんは、ロクスの横へ回り、肩紐の高さと腰紐の位置を順に見た。指先で触れることはせず、目で位置を確かめる。
「肩の上ではなく、少し前側に力が乗っています。腰紐は、右側だけ少し食い込みやすい位置です」
「右か」
「歩き出す時に、右腰へ返りが出るかもしれません」
ベルグは、そばに置いていた板へ短く印をつけた。
ロクスは、鼻から息を抜いた。
「まあ、これくらいなら平気だろ」
「その“平気”が一番あてにならないんだよ」
マーレが、腕を組んだままロクスを見た。
ロクスの耳が、ぴくりと後ろへ倒れる。
「まだ何もしてねえだろ」
「何もしてないうちから言っとくのさ。あんたは引き始めたら、途中で止まるのを嫌がるからね」
「嫌がってねえよ」
「嫌がる顔をするんだよ」
ロクスは言い返そうとして、やめた。
琥珀は、そのやり取りを見ながら、胸の前で両手をぎゅっと握った。
床板の下には、朝、琥珀が声をかけた試作の子がいる。古い歯車と、短い筒と、細い軸を持つ子。今は荷台の床板に隠れていて、ロクスからは見えない。
琥珀の耳が、そっと立った。
「琥珀ちゃん」
「うん。分かってる。ちゃんと見る」
ラファお姉ちゃんは、少しだけ目を細めた。
「見るだけではなく、危ないと思ったら止めます」
「うん。止める」
「本当に?」
「……止める。たぶん、すぐには触りに行かない」
「そこは、すぐにはではなく、行かない、です」
琥珀は、耳を少し伏せた。
「行かない」
マーレが、小さく笑った。
「ラファがいると助かるね。琥珀までベルグじいと同じ目になる時があるからさ」
「わしは何も悪いことはしとらんぞ」
「悪いとは言ってないよ。危ない時に止まらない目だって言ってるんだよ」
ベルグは、わははと笑った。
それから、工房の外へつながる壁の方へ目を向けた。
「さて、外へ出せるようにするかのう」
ベルグが一歩動くより早く、琥珀のしっぽがぴんと立った。
「あ」
琥珀は、ぱたぱたと壁際へ駆けた。
工房の壁際には、前にも見た大きな切り替えの取っ手がある。初めて見た時、琥珀の胸をどきどきさせた仕掛けだ。
工房の壁が、ただの壁ではなく、外へ出る道になる。
琥珀は取っ手の前で一度止まり、振り返った。
「ベルグじい、開けてもいい?」
ベルグは、目を丸くしたあと、ひげの奥で笑った。
「おお。先を越されたのう」
「だって、ここが開くところ、好きなんだもん」
「なら、ゆっくりじゃ。最後まで手を離すでないぞ」
「うん!」
琥珀は、両手で取っ手を握った。
ぐ、と重みが返ってくる。小さな体には少し大きい力だったが、ベルグが近くで見守っている。ラファお姉ちゃんも、すぐ横へ来てくれた。
「無理はしないでください」
「大丈夫。ゆっくり」
琥珀が取っ手を押し下げる。
工房の壁の奥で、低い音がした。
ごん、と古い金具が目を覚ます。続いて、ぎい、と太い軸が回る音が広がった。
前に初めて見た時と同じように、壁の下側がゆっくりと動き出す。
重い板が少しずつ下りていき、閉じていた工房の内側に、外の明るさが細く差し込んだ。光の線は床の上を伸び、馬力車の車輪と、ロクスの足元を照らした。
風が入ってくる。
朝の熱を持ちはじめた工房の空気に、外のやわらかな風が混じった。
壁は、急には開かない。
ぎい。
こん。
低く鳴りながら、ゆっくり、ゆっくり下りていく。
やがて、工房の中と外の道がつながった。
琥珀は取っ手を押さえたまま、目を輝かせた。
「開いた……!」
「前にも見ただろ」
「何回見ても、いいものはいいの」
ロクスは、肩紐を掛けたまま、少し笑った。
「楽しそうだな」
「うん。すごく」
「俺はこれから引く側なんだがな」
「だから、ちゃんと見る」
琥珀の声は、さっきより少しだけ真面目になった。
「ロクスが、どこで重いって感じるか。どこで変だって感じるか。ちゃんと見る」
ロクスは、琥珀を見た。
それから、ベルグとラファお姉ちゃんとマーレを順に見る。
「……今日は、やけに見られる日だな」
「見られたくないなら、正直に言うんだよ」
「結局見られるじゃねえか」
「当たり前さね」
ラファお姉ちゃんが、静かにうなずいた。
「止める必要がある時は、止めます。ロクスさん、違和感があれば、言葉にしてください」
「分かってる。今日は、ちゃんと言う」
琥珀は、もう一度開いた壁を見た。
外へ続く道。床に伸びた光。そこに向かって、馬力車が動き出す。
それだけで、胸の奥がそわそわした。
その時、ベルグが琥珀の横を通り過ぎた。
「琥珀」
「なあに?」
「壁だけで満足しとる場合かのう」
「え?」
ベルグは、壁際から少し離れた柱のそばに立った。
そこには、古い丸いハンドルがついていた。木と金具で作られたそれは、壁の取っ手よりも低い位置にあり、今まで道具箱の影に半分隠れていた。
ベルグは、にやりと笑って、そのハンドルへ手を掛けた。
「よく見とれ」
ぐるり。
ベルグがハンドルを回す。
工房の床の下で、何かがかみ合う音がした。
こん。
こくん。
次の瞬間、ロクスの足元と馬力車を載せている床板の縁が、わずかに震えた。
「え?」
床板が、ゆっくりと回りはじめた。
馬力車そのものが勝手に走り出したわけではない。ロクスの足元と馬力車を載せている工房の床板が、丸い台のように少しずつ向きを変えている。
車輪の前後には、床から出た固定ストッパーが噛んでいた。床と車輪の間へしっかり入り込み、馬力車が床板の上で転がらないよう押さえている。
馬力車は動かない。
けれど、床板ごと向きが変わる。
出口へ向かって、ゆっくり、ゆっくり。
琥珀の耳が、ぴんと立った。
「え!!!!!」
しっぽが、ぶわっと膨らむ。
「なにそれ!!!!!」
ロクスも、目を丸くした。
「おい、待て。今、床が回ったよな」
「回っとるのう」
「馬力車じゃなくて、床が回ったよな」
「そうじゃのう」
「この工房はなんでもありかよ」
ベルグは、ハンドルを回しながら、わははと笑った。
「中へしまったあと、また出す時に、後ろ向きで下がるのは大変じゃろうが。これくらいの仕組みなら朝飯前じゃ」
「朝飯前の幅が広すぎるだろ」
マーレが、こらえきれずに笑った。
「いちいち驚いてたら、この工房じゃ昼になっちまうよ」
「もう昼になっていいから、先に説明しろ」
床板が、出口へまっすぐ向いた。
ベルグが最後にハンドルを少しだけ戻す。
かしゃん。
車輪を押さえていた固定ストッパーが外れ、床の中へ収まった。
床板は止まった。馬力車は、工房の外へ向けてまっすぐ立っている。
琥珀は、取っ手から手を離し、頬をふくらませた。
「ベルグじい、ずるい」
「ずるい?」
「わたし、壁を開けるのですごく楽しかったのに。そのあとに、もっとすごいの出すの、ずるい」
ベルグは、ひげの奥で満足そうに笑った。
「わはは。工房は、開けるだけでは終わらんのじゃ」
「ずるい」
「二回言ったのう」
「二回言うくらい、ずるい」
マーレが、肩を揺らして笑った。
「あんたたち、張り合うところが似てきたねえ」
ラファお姉ちゃんも、口元に小さな笑みを浮かべていた。
「琥珀ちゃん、そこを悔しがるんですね」
「だって、床が回るんだよ?」
「はい。そこは、私も少し驚きました」
琥珀は、少しだけ目を丸くした。
「ラファお姉ちゃんも?」
「はい。少しだけ」
「少しだけ?」
「琥珀ちゃんほどではありません」
琥珀は、また頬をふくらませた。
けれど、すぐに笑ってしまった。
工房の中に、短い笑い声が広がる。
ロクスは肩紐を掛けたまま、半分あきれたように息を吐いた。
「……この工房、床まで信用ならねえな」
「床は信用してええぞ。わしが作っとるからのう」
「それが一番不安なんだよ」
「聞こえとるぞ」
「聞こえるように言った」
マーレが、ぴしゃりと言った。
「口が動くなら、足も動くだろ。無理はするんじゃないよ」
「分かってるって」
ラファお姉ちゃんは、まだ少し笑みを残したまま、ロクスの足元へ視線を戻した。
車輪を止めていた床の固定ストッパーは、もう収まっている。出口は開き、進む先には何もない。
ラファお姉ちゃんは、静かに言った。
「ロクスさん、足元を確認してください。進む先は開いています」
ラファお姉ちゃんの声に、ロクスは足元を見た。
工房の床の固定ストッパーは、もう床の中へ収まっている。馬力車の前には、開いた壁の向こうへ続く道があった。
琥珀たちは、確認した通りの位置へ乗った。
マーレは、昨日と同じように馬力車の内側へ腰を下ろす。ラファお姉ちゃんは、座る位置と足元を確かめてから、片手で仮の手すりを持った。琥珀も、その隣で両手を膝の上に置き、すぐに動きたくなるしっぽを押さえた。
今は、触りに行く時ではない。
見る時だ。
「いいかい、ロクス。少しでも変だと思ったら止まりな」
「分かってるって」
「返事が軽いね」
「重く返事すりゃいいのかよ」
「そういう口が動くなら、ちゃんと体の方も言うんだよ」
ロクスは、口を閉じた。
ベルグは馬力車の横に立ち、車輪の向きとロクスの足元を見ている。ロクスへ余計なことは言わない。ただ、片手を軽く上げた。
「ゆっくりじゃ」
「おう」
ロクスは、息を吸った。
肩紐が張る。
腰紐が、体の横で静かに力を受ける。
ロクスは、いつものように足裏を地面へ置き、体を前へ預けた。
一歩目。
車輪が、ころりと動いた。
その瞬間、ロクスの耳がぴくりと動いた。
「んん?」
小さな声だった。
昨日と同じように引いたはずだった。力の入れ方も、足の出し方も、大きく変えていない。
けれど、肩へ来るはずの重さが、少し違った。
どん、とそのまま乗ってくるのではない。いったんどこかへ受け止められたように、重さの角が丸くなっている。
ロクスは、耳を片方だけ動かした。
「どうしたんだい」
「いや……」
ロクスは首をひねった。
「今、なんか……」
言い切る前に、二歩目を出す。
二歩目。
今度は、体の方が先に気づいた。
肩に返る重さが、遅れてくる。
腰へ押し返す力も、昨日とは違う。なくなったわけではない。けれど、真っすぐぶつかってくる感じではなく、少し横へ逃げたような感触があった。
ロクスのしっぽが、ばさりと跳ねた。
「おい」
ロクスは、もう一歩出す。
三歩目。
馬力車が、工房の外へ出た。
朝の光の中へ、車輪が転がる。工房の中に残っていた熱が後ろへ下がり、外の風がロクスの耳をなでた。
その瞬間、ロクスの声が弾けた。
「ぬぁあああ!! なんだこれーーーー!」
琥珀の耳が、ぴんと立った。
ベルグのひげが、わずかに揺れた。
マーレは、手すりを握ったまま目を細める。
「叫ぶ元気はあるようだね」
「いや、待て! 待て待て待て!」
ロクスは止まらない。
いや、止まれないほど速いわけではない。むしろ足取りは安定している。だが、驚きが足より先に走っていた。
馬力車は、工房の前の広い場所をゆっくり進む。
ロクスは、何度も肩を動かした。腰紐の当たりを確かめるように、体を小さくひねる。
「昨日と違うぞ、これ!」
「何が違うんだい」
「重さの来方だよ!」
ロクスは一度、足を強く踏み込みかけて、すぐに力を抜いた。
「いや、違う。軽いってだけじゃねえ。軽いんだが、車体が軽くなったわけじゃねえ。足の下にはちゃんと重さがある。なのに、肩に来るやつが……なんだこれ、言いにくいな!」
ラファお姉ちゃんは、手すりを持ったまま、ロクスの肩と腰の動きを見ていた。
「言葉にしにくい場合は、場所で言ってください。肩、腰、脚、どこが昨日と違いますか」
「肩だ。最初に肩へどんと来るやつが、今は少し遅い」
「腰は?」
「腰は来る。来るんだが、まっすぐ押される感じが少ねえ」
「脚は?」
「脚は……まだ分からねえ。今は、歩き出しに気を取られてる」
ベルグは、馬力車の横を少し離れて歩きながら、その言葉を聞いていた。
すぐには説明しない。
ただ、板へ短く印を入れる。
琥珀は、膝の上の手をぎゅっと握った。
ロクスが、ちゃんと言っている。
大丈夫、ではなく、どこがどう違うのかを探しながら言っている。
それだけで、琥珀の胸の奥が少し熱くなった。
馬力車は、工房の前の土を踏みながら、ゆっくり進んだ。
車輪が小さな石を踏む。
ごとん。
荷台が、思ったより強く跳ねた。
「わっ」
琥珀の体が、ほんの少し浮く。しっぽが慌てて膝の横で跳ねた。
ラファお姉ちゃんは、仮の手すりを握り直す。マーレも、腰を少し落として体を支えた。
「今のは硬いね」
「はい。乗る側への衝撃が強いです」
ロクスの耳も、同時に動いていた。
「待て。今の、こっちにも来たぞ」
ベルグの目が細くなる。
「どこへ来た」
「肩紐だ。荷台が跳ねた瞬間、後ろから引っ張られたみてえに来た。腰にも少し返った」
ロクスは、足を止めずに続けた。
「歩き出しは楽になってる。けど、地面のごつごつはそのまま来るんだな。乗ってる方が跳ねると、こっちにも返る」
ラファお姉ちゃんが、荷台の床と車輪のあたりを見た。
「足回りで揺れを逃がす仕組みが、まだ足りていません。車輪から荷台へ入った衝撃が、引き具にも戻っています」
「ふむ」
ベルグは、板へ新しい印を書き込んだ。
「肩腰の返りだけ見とっても足らんのう。乗る者の揺れが、引く者にも戻るか」
琥珀は、手すりを持ったまま、ロクスの背中を見た。
「乗る方が揺れると、ロクスにも返るんだ……」
「そういうことじゃ」
マーレが、荷台の中で姿勢を戻しながら言う。
「人を乗せて運ぶってのは、引く方だけの話じゃないってことだね」
琥珀は、小さくうなずいた。
馬力車は、進んでいる。
けれど、ただ進めばいいわけではない。
乗る人が跳ねれば、引くロクスにも返る。ロクスが無理をすれば、乗る人にも揺れが返る。
馬力車は、ロクスだけの道具ではない。
乗る人と、引く人の間にある道具なのだ。
「でもよ、妙だぞ」
ロクスは、工房の周りを回るように進む。
「昨日はマーレ一人を乗せただけでも、車体が地面に食い込むみてえな重さがあったんだ。正直、声には出さなかったが、かなり重かった」
「へえ」
マーレの声が低くなる。
ロクスは気づかず続けた。
「昨日の寝る前の筋トレが効いたのかと思ったが、いや、一晩でそんなことはねえ。しかも今回は三人だぞ。マーレ一人の重……」
ロクスの言葉が止まった。
マーレが、ひどく静かな目でロクスを見ていた。
琥珀は息を止めた。
ラファお姉ちゃんは、ほんの少しだけ視線を横へ外した。
ロクスの耳が、すっと後ろへ倒れる。
「……車体の話だ」
マーレは何も言わない。
「車体の話だぞ」
まだ何も言わない。
「車体と、地面と、車輪の話だ」
「そうかい」
「そうだ」
「なら、続けな」
「おう」
ロクスは、前を向いた。
その足取りは、さっきより少しだけ慎重になっていた。
琥珀は、こらえきれずに小さく笑った。
「笑うなよ、琥珀」
「笑ってない」
「しっぽが笑ってる」
琥珀は、慌ててしっぽを押さえた。
ラファお姉ちゃんの口元にも、まだ小さな笑みが残っている。
「ラファまで笑ってるじゃねえか」
「少しだけです」
「少しだけならいいのかよ」
「今は、ロクスさんが正直に言ってくれていることの方が大事です」
ロクスは、一瞬だけ黙った。
それから、鼻から息を抜いた。
「……なら、言うぞ」
「はい」
「引き出しは、昨日よりかなり違う。肩が楽だ。腰も、最初の返りは少ねえ。けど、車体が軽いわけじゃない。荷台の中に三人いる重さは分かる。そこは消えてねえ」
「はい」
「それと、今みたいに石を踏むと、揺れはかなり来る。乗ってる方も跳ねるし、その跳ねた分がこっちにも戻る。肩紐と腰紐が、一瞬だけ後ろへ引かれる」
「はい」
「だから、調子に乗って走るもんじゃねえな。軽く感じるからって、車体まで軽くなったと思うと危ねえ。足元が悪い道なら、もっと来るぞ」
マーレが、目を細めた。
「そこが分かってるならいいよ」
ベルグも、満足そうにうなずいた。
「ふむ」
「ふむ、じゃねえ。なんか知ってる顔だろ、それ」
「顔は生まれつきじゃ」
「便利な言い訳すんな」
ロクスはそう言いながらも、歩くのをやめなかった。
工房の周りを、ゆっくり一周する。
車輪は土の上を転がり、時々小さな石を踏んだ。馬力車の中で、琥珀の体が少し揺れる。ラファお姉ちゃんは手すりを持ち、揺れの大きさを確かめていた。マーレは、ロクスの背中と耳と足元を順に見ている。
ロクスの耳は、まだ落ち着かない。
歩くたびに、ぴくり、ぴくりと動く。
それは驚きだけではなかった。
肩へ返る重さ。腰へ残る力。足裏に伝わる車体の重み。荷台が跳ねた時に引き具へ戻る衝撃。昨日と同じものと、昨日とは違うものを、ロクス自身が探している動きだった。
琥珀は、その耳の動きを見ていた。
そして、床板の下にいる試作の子のことを思った。
見えない場所で、小さな歯車と短い筒が動いているのかもしれない。
今、ロクスの肩へ行くはずだった重さを、少しだけ受け止めているのかもしれない。
でも、地面から来る衝撃までは、まだ受け止めきれていない。
琥珀は床板の下を見ない。
ロクスを見る。
ロクスの体を見る。
ロクスの言葉を聞く。
工房の前へ戻ってくる頃、ロクスの足が少しゆっくりになった。
「そろそろ止まるぞ」
マーレが、すぐに手すりを握り直した。
ラファお姉ちゃんも、琥珀の方へ目を向ける。
「琥珀ちゃん、足元を安定させてください」
「うん」
ロクスは前を向いたまま言った。
「こいつは、引く時は軽い。けど、車体は重たい。おまけに足元が悪いと、跳ねた分がこっちにも返る。止まる時は、ちゃんと踏ん張らないと危ねえぞ」
ベルグと琥珀が、ほとんど同時に顔を上げた。
そして、同じようににやりとした。
ロクスの耳が、ぴたりと止まる。
「……なんだ」
琥珀は、慌てて口元を押さえた。
ベルグは、ひげの奥で笑っている。
「なんだ二人とも。ベルグはともかく、琥珀まで同じ顔になってるじゃねえか」
馬力車は、ゆっくりと進みながら、止まるための姿勢へ入ろうとしていた。
ロクスは、足の置き方を変えた。
引く時よりも、体を少し低くする。肩だけで受けず、腰と脚で車体を押し返す準備をする。
馬力車の中で、マーレが手すりを握り直した。ラファお姉ちゃんも、琥珀の足元を一度見てから、ロクスへ視線を戻す。
「止まるぞ。どこか握っててくれ」
「うん」
「分かってるよ」
ロクスの足が、土を踏んだ。
車輪はまだ前へ行こうとする。
荷台に乗った重さも、急には消えない。
ロクスの肩が、わずかに沈んだ。
「やっぱり、止まる時は来るな」
ロクスは、声には出したが、止まろうとする力を抜かなかった。
「引く時は軽い。けど、止まる時は車体が前に押してくる。脚で受けりゃ止められるが、これを長くやるなら、けっこう来るぞ」
ベルグは、すぐに答えを言わなかった。
ひげの奥で、にやりと笑う。
「ロクスよ」
「なんだ」
「脚で減速する前に、引いとる持ち手に何かあるの、気づいとるじゃろ?」
「持ち手?」
ロクスは、馬力車を引くための持ち手を見下ろした。
肩紐と腰紐に意識が行っていたせいで、手元まではあまり見ていなかった。けれど、よく見ると、持ち手の内側に小さな握りがある。
ただの支えではない。
指を掛けると、少しだけ動きそうな形をしている。
「なんだこれ」
「そこを握ってみろ。ゆっくりじゃ」
「こうか?」
ロクスは、持ち手の内側を軽く握った。
ぎゅ、と力が入る。
その瞬間、馬力車の下で小さな音がした。
こくん。
続いて、かくん、と車体がわずかに沈む。
急に止まったわけではない。
けれど、前へ押してくる力が、少しだけ変わった。ロクスの脚へそのまま来ていた重さが、どこかで一度受け止められ、ゆっくりと抜けていく。
馬力車は、土の上を短く転がりながら、ゆるやかに減速した。
「……は?」
ロクスは、手を少しゆるめた。
すると、持ち手が戻る。車体の重さの返り方も、また少し軽くなった。
ロクスは、もう一度軽く握る。
こくん。
馬力車が、ゆっくり減速する。
離す。
また動きが軽くなる。
ロクスの耳が、ぴんと立った。
「なんだなんだ!! これはよーーーー!」
琥珀は、口元を押さえていた手を離せなくなった。
ベルグは、満足そうにうなずく。
「強く握るでないぞ。まだ仮じゃ。急に止めるためのものではない」
「先に言えよ! なんで俺だけ知らねえんだよ!」
「先に言うたら、おぬしは気にして変な引き方をするじゃろ」
「するか!」
マーレが、すぐに言った。
「するね」
ロクスは、反射で言い返そうとして、口を閉じた。
ラファお姉ちゃんも、やわらかく言う。
「おそらく、少しします」
「ラファまでかよ」
「ロクスさんは、気にしないようにしている時ほど、少し気にします」
「言い方が優しいだけで、内容はマーレと同じじゃねえか」
琥珀は、ついに小さく笑った。
けれどすぐに、笑いをしまう。
今は、ちゃんと話す時だ。
馬力車は、そこで完全に止まった。
ロクスは、持ち手から手を離し、肩紐にかかる力が抜けたことを確かめるように息を吐いた。
ベルグは、荷台の横へ回った。
「一度降りるぞ。床板の下を見る前に、足元を確かめるんじゃ」
「はい。琥珀ちゃん、先に足元を見ます」
「うん」
マーレが先に地面へ降りた。足場を確かめ、手すりに軽く手を添える。
「ゆっくりでいいよ」
ラファお姉ちゃんが次に降り、琥珀へ手を伸ばした。
「琥珀ちゃん、こちらです」
「ありがとう、ラファお姉ちゃん」
琥珀は、手すりを持ち、ラファお姉ちゃんの手を借りて地面へ降りた。
工房の中で確認した時より、外の土の上では体の向きも変わる。琥珀は、踏み台の高さが少し気になった。
琥珀は地面に足をつけてから、馬力車を見上げた。
ロクスはまだ前にいる。肩紐と腰紐は掛けたままだが、力は抜けている。ベルグは荷台の横で、床板の端へ手を掛けていた。
「ロクス」
ロクスが、琥珀を見た。
琥珀は、胸の前で手を握り直した。
「わたしたちも、ちゃんと話すね。だからロクスも今、肩とか腰とか脚に何が返ってきてるか、正直に教えて」
ロクスは、少しだけ眉を寄せた。
まだ文句を言いたそうだった。
けれど、持ち手をもう一度見て、それから肩紐と腰紐を見た。
歩き出しの違和感。
小石を踏んだ時の衝撃。
止まる時の返り。
持ち手を握った時の、ゆるやかな減速。
ロクスは、息を吐いた。
「……けど、これ。俺の脚を守るためか」
ベルグの顔から、からかうような笑みが少し消えた。
「脚だけではないのう。肩も、腰もじゃ」
ベルグは、荷台の床板を持ち上げた。
「歩き出す時、止まる時、曲がる時。引く者の体には、思ったよりいろんな重さが返る。おぬしはそれを、大丈夫の一言で飲み込みやすい」
「……そんなつもりはねえよ」
「つもりがなくとも、やっとる」
マーレが、静かにうなずいた。
「痛いって言う前に、平気だって言うからね」
ロクスは、少しだけ耳を伏せた。
琥珀は、ロクスのその耳を見ていた。
木の板が、ぎ、と小さく鳴った。
床板の下に、朝の試作の子がいた。
古い歯車。
短い筒。
細い軸。
そのいくつかが、馬力車の下で仮の金具に留められている。
さっきまで見えなかった小さな仕組みが、荷台の下で静かに収まっていた。
ロクスの目が丸くなる。
「……おい」
「朝、試作の山から起こした子じゃ」
「子って言うな。いや、今はそこじゃねえ」
琥珀は、荷台の下をのぞき込んだ。
「あのね、ロクス。速くするためじゃないの」
「速く?」
「うん。馬力車を速く走らせるためじゃなくて、ロクスの肩とか腰に返る重さを、少し逃がすため」
ロクスは、床板の下を見た。
歯車の一つが、動いた後のようにほんの少し傾いている。短い筒の先には、細い棒が入っていた。
「これが、さっきの一歩目か」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「わたしも、ロクスが引いてみないと分からなかったから」
ラファお姉ちゃんが続けた。
「歩き出しでは、肩へ返る重さが遅れました。停止時は、持ち手を握ることで前へ押す力が少し逃げています。ただし、完全には消えていません」
「消えてねえな」
「はい。止まる時の腰と脚への返りは、まだ残っています」
「それに、石を踏んだ時の衝撃も残っていました」
ロクスは、うなずいた。
「あれは来たな。荷台が跳ねた瞬間、肩紐と腰紐にも返った」
「足回りで揺れを逃がす仕組みが、まだ足りていません」
ベルグは、板へ新しい印を書いた。
「ふむ。肩腰を支えるだけでは足らんのう。足回りも見ねばならん」
琥珀は、馬力車の車輪のあたりを見た。
歩き出しは変わった。
止まる時も、少しだけ助けが入った。
けれど、地面から来る衝撃はまだ強い。乗る人が跳ねれば、ロクスにも返る。
馬力車は、まだ全部を受け止められるわけではない。
「……楽をするためじゃねえんだな」
「楽だけなら、たぶんだめ」
「なんでだ」
「楽になったって思って、無理を増やしたら、きっと意味がないから」
ロクスは、何も言わなかった。
マーレが、腕を組んだまま言う。
「そこは覚えときな。楽になったからって、荷を増やしていいわけじゃないよ」
「分かってる」
「本当に?」
「……分かってる。たぶん」
「そこは、たぶんじゃない」
「分かってる」
ベルグは、床板を開けたまま、ロクスを見た。
「ロクス。今のを正直に言え。歩き出し、止まる時、持ち手を握った時。それから、石を踏んだ時じゃ」
ロクスは、少し考えた。
「歩き出しは、肩がかなり違う。どんと来るやつが丸くなった。腰も最初は楽だ」
ベルグが板へ書き込む。
「止まる時は?」
「まだ来る。持ち手を握らなきゃ、脚と腰で受ける感じは昨日と近い。持ち手を握ると、押してくる力が少し抜ける。けど、急に止まるわけじゃねえ。慣れずに強く握ったら、逆に変な動きになりそうだ」
「ふむ」
「それと、止まる直前に腰の横へ少し残る」
「右か、左か」
「右だな。さっきラファが言ったところだ」
ラファお姉ちゃんは、静かにうなずいた。
「右腰への返りは、歩き出しより停止時に残りやすいようです」
「石を踏んだ時は?」
「あれは足回りだな。荷台が跳ねた分が、後ろから引き具へ戻った。肩紐と腰紐が、一瞬だけ引かれる。道が悪いと、そっちの方がきつくなるかもしれねえ」
ベルグは、それも記録した。
琥珀は、ロクスの言葉を聞きながら、少しだけ息を吐いた。
ちゃんと言ってくれた。
ロクスは、大丈夫で終わらせなかった。
床板の下で、試作の子が小さく鳴った。
こん。
それは、古い部品が目を覚ました音のようにも聞こえた。
ロクスは、音のした方を見た。
「こいつ、まだ寝起きみてえな音するな」
「古いからのう。寝起きどころか、長い昼寝明けじゃ」
「そんなの、俺が引く馬力車の下に入れるなよ」
「おぬしを支えとるぞ」
ロクスは、口を閉じた。
少しだけ困ったように、耳を動かす。
それから、床板の下の試作の子を見たまま言った。
「……なら、俺がこの子を起こしてやらないとな」
琥珀の耳が、ぴんと立った。
「ロクスが?」
「俺が引くんだろ。だったら、こいつと一緒に動くのも俺だ」
ベルグは、ひげの奥で静かに笑った。
「そうじゃな。古い部品は、ただ入れればよいわけではない。いったんばらし、油で洗い、噛み跡を見て、軸を確かめる。磨いて、もう一度組み直す。そこまでやって、ようやく仕事じゃ」
「なら、それもやる」
「文句は言わんのか」
「言う」
ベルグが、わははと笑う。
ロクスは、肩をすくめた。
「言うが、やる」
琥珀は、床板の下の試作の子を見た。
朝、試作の山にいた子。
長いあいだ眠っていた子。
今は、ロクスの肩と腰を少しだけ支えている子。
その子を、ロクスが起こしてやると言った。
琥珀の胸が、じんわり温かくなった。
ベルグは、にやりと笑う。
「そのためには、もう一つ見るものがある」
「まだあるのかよ」
「ある」
「なんでそんなに嬉しそうなんだ」
「職人じゃからのう」
その時だった。
工房の奥で、小さく音がした。
カチャリ。
ほんの微かな音だった。
けれど、琥珀の耳は、その音を逃さなかった。
「今、音がした」
琥珀は、工房の奥を見た。
道具箱の横。
布をかけられた小さな棚の下。
そこに、歯のついた留め具と、短い腕のような金具を持つ部品があった。
それは、駆動系ユニットよりもずっと小さい。
けれど、ただの留め具には見えなかった。動きたがっているように、小さな腕の先がわずかに傾いている。
「この子……」
琥珀は、すぐには触らなかった。
ラファお姉ちゃんが隣にいる。マーレも、ロクスも、ベルグも見ている。
「ベルグじい。近くで見てもいい?」
「ええぞ。足元に気をつけるんじゃ」
「うん」
琥珀は、ラファお姉ちゃんと一緒に工房の奥へ歩いた。
土のついた靴音が、工房の床の上で小さく鳴る。
ベルグも、馬力車の横からゆっくり歩いてきた。
琥珀が小さな部品の前でしゃがむと、ベルグもその横へ膝をついた。
「さっき、カチャリって言った」
「出番が近いと、鳴るのかもしれんのう」
「ベルグじい」
「なんじゃ」
琥珀は、小さな部品を見つめたまま言った。
「この子は、どんな役割の子だったの?」
ベルグは、ひげを少しなでた。
「元は、小さな荷台の止め具じゃ。荷を積む時に、台が逃げんよう押さえるための子じゃった」
「荷台を止める子……」
「そうじゃ。じゃが、おぬしが前に言うたじゃろ。踏み段を出した時に、車輪が止まる仕組みが要る、と」
琥珀の目が、少しずつ大きくなった。
前に話したこと。
踏み台を出したら、馬力車が逃げないように車輪が止まる仕組み。
乗る人が片足を掛けた時、車体が前へ逃げないようにする仕組み。
「この子、そのための子になれるの?」
「なれるかもしれん。元から止める役を持っとる。今度は、荷台ではなく、乗る人と降りる人を守る役に回ってもらう」
琥珀は、小さな試作の子へ手を伸ばしかけて、止めた。
ラファお姉ちゃんが、少し笑っている。
「触る前に、ベルグさんに確認です」
「うん。分かってる」
ロクスが、少し離れたところから声を上げた。
「待て。また俺だけ知らねえ仕組みが増えてねえか」
マーレが、すぐに返す。
「今度はあんたも見てるだろ」
「見てるけどよ」
「なら、ちゃんと覚えな」
「俺、今日覚えること多すぎねえか」
「体で覚えるより先に、口で文句を言わない練習もいるね」
「それは別だろ」
ラファお姉ちゃんは、小さな試作の子を見ながら整理した。
「工房の床の固定ストッパーは、工房の中で馬力車を固定するためのものです。ですが、外では使えません。この子は、馬力車の側で乗降時に車輪を止めるための仕組みになる可能性があります」
「つまり、外で足場を出した時に逃げねえようにするやつか」
「はい」
琥珀は、そっと息を吸った。
「前に話した、踏み台を出したら車輪が止まる仕組み……やっぱり必要なんだね」
ラファお姉ちゃんが、うなずく。
「はい。先ほどの乗降確認でも、馬力車は少し前へ逃げました。工房の床では固定できますが、外では別の仕組みが必要です」
ベルグは、小さな試作の子を両手で持ち上げた。
カチャリ。
歯のついた留め具が、小さく鳴った。
「まだ仮じゃ。噛み合わせも、戻りの強さも、これから見る」
「完成じゃねえんだな」
「完成ではありません」
「だろうな。今日ずっと、そればっか聞いてる気がする」
マーレが、ロクスのそばで腕を組んだ。
「完成じゃないうちに無理をしないために、みんなで見てるんだよ」
ロクスは、小さく息を吐いた。
「分かったよ」
ベルグは、小さな試作の子を手にしたまま、馬力車の横へ戻った。
「では、次はこやつの出番じゃ」
琥珀は、ベルグの後ろをついていく。
床板の下では、古い試作の子がロクスを支えている。
そして今度は、乗る人と降りる人を守るための、新しい試作の子が馬力車へ近づいていく。
馬力車は、まだ完成していない。
けれど、支える場所が、また一つ増えようとしていた。
ベルグは、小さな試作の子を持ったまま、馬力車の方へ戻った。
ロクスは、肩紐と腰紐を確かめ、工房の入口へ目を向ける。
「今度は、どうすりゃいい」
「いったん中へ戻す」
「また引くのか」
「ゆっくりでええ。今度は走らん。工房の中へ戻すだけじゃ」
ロクスは、少しだけ肩を回した。
さっきまでの試走で、歩き出しの重さは違うと分かった。けれど、足元の衝撃や止まる時の返りは、まだ体の中に残っている。
ロクスは、耳を一度動かしてから、短く息を吐いた。
「分かった。中へ入れるぞ」
ラファお姉ちゃんが、馬力車の横に立つ。
「ロクスさん、急がずに。入口の段差を越える時、先ほどと同じ衝撃が出る可能性があります」
「おう。そこも見る」
琥珀は、馬力車の横を歩いた。
さっき見つけた小さな試作の子は、ベルグの手の中にある。床板の下では、古い駆動系ユニットの子が、まだ仮の金具に留められている。
どちらも、まだ馬力車の中で眠りきってはいない。
けれど、もうただの古い部品ではなかった。
ロクスが、ゆっくりと馬力車を引く。
車輪が土の上から、工房の床へ戻った。
ごとん、と小さな段差を越えた時、荷台がわずかに揺れた。
ロクスの耳が動く。
「今のも来たな」
「どこへ来ましたか」
「肩と腰に少し。さっきよりは小さいが、段差はやっぱり拾う」
ベルグは、うなずきながら板へ印を足した。
「足回りは後で見る。先に、下の子を下ろすぞ」
馬力車が工房の中へ収まると、ベルグは壁際の取っ手へ向かった。
琥珀の耳が、少しだけ動く。
けれど、今度は琥珀は走らなかった。
ベルグが取っ手を戻す。
低い音を立てて、工房の壁がゆっくりと上がっていく。外から入っていた光が細くなり、工房の中の空気が落ち着いた熱を取り戻していった。
ぎい。
こん。
最後に、壁の奥で金具が小さく噛み合う。
工房は、また閉じた。
マーレが、腕を組んだまま工房の中を見回す。
「外で見る顔と、中で見る顔じゃ、馬力車も違って見えるね」
「外では道具。中では作りかけじゃ」
「どっちにしても、無茶はしないことだよ」
「分かっとる」
「ベルグじいの“分かっとる”も、ロクスの“平気”くらいには信用してないよ」
ベルグは、わははと笑った。
ロクスがすぐに言う。
「俺と一緒にするなよ」
「同じようなもんさ」
「どこがだ」
「止めないと進みすぎるところだよ」
琥珀は、思わず小さく笑った。
ラファお姉ちゃんも、少しだけ笑みを浮かべていた。
ベルグは、馬力車の下へ低い作業台を差し込んだ。木の台の上には、薄い布が敷かれている。その横には、油を張った浅い桶と、細い刷毛、小さな布、磨き用の石が並べられた。
「ロクス。肩紐を外せ。少し下へ潜るぞ」
「俺もか」
「おぬしが言うたんじゃろ。この子を起こすと」
ロクスは、床板の下を見た。
古い歯車と短い筒を持つ試作の子は、まだ仮の金具に留まっている。さっきまでは、ロクスの体へ返る重さを少し受け止めていた。
その子は、動いた。
けれど、まだ本当に起きたわけではない。
ロクスは、肩紐を外した。
「……この子は、俺が起こしたい」
琥珀の耳が、そっと立った。
ロクスは、言葉を続けた。
「これからも俺が引く。こいつと一緒に動く。だったら、俺が洗って、俺が覚える」
ベルグは、ひげをなでた。
「なら、手を抜くでないぞ」
「抜かねえよ」
「文句は?」
「言う」
「仕事は?」
「やる」
ベルグは、満足そうにうなずいた。
「なら、よし」
ベルグが仮留めの金具を一つずつ外す。
かち。
こん。
小さな音を立てて、駆動系ユニットの子が少しずつ馬力車の下から離れていく。
ロクスは、両手でその重さを受けた。
「思ったより重いな」
「だから前の馬力車には載せられんかった」
「今の馬力車でも、軽くはねえだろ」
「軽くはない。じゃが、載せる余白はできた」
ロクスは、駆動系ユニットの子を作業台へ下ろした。
古い油が固まった部分がある。歯車の間には、細かな土と黒い汚れが入り込んでいた。短い筒の根元には、乾いた筋のような跡も残っている。
ロクスは、それをじっと見た。
「これで、よく動いたな」
「少しだけじゃ。だから、ちゃんと起こす」
ロクスは、浅い桶の前へ座った。
油の表面が、工房の灯りを受けて鈍く光っている。
「まずは浸す。無理にこじるな。固いところは、油を入れて待つんじゃ」
「分かった」
ロクスは、駆動系ユニットの子をそっと油の中へ沈めた。
油が、古い歯車の隙間へゆっくり入っていく。
こぽ、と小さな泡が浮いた。
ロクスの耳が、少し動く。
「本当に寝起きみてえだな」
「起こすなら、叩き起こすでないぞ」
「分かってる」
ロクスは、刷毛を持ち、歯車の間をゆっくり洗い始めた。
強くこすらない。
汚れを浮かせるように、油を含ませる。
固まったところは、ベルグに見せてから、少しずつ外す。
琥珀は、その様子を見ていた。
ロクスの大きな手が、古い小さな部品を思ったより丁寧に扱っている。
さっきまで文句を言っていた口は、今はほとんど動かない。
代わりに、耳が時々動く。
固いところに触れた時。
歯車が少し回った時。
油の中で古い汚れがほどけた時。
ロクスは、そのたびに小さく反応していた。
「琥珀ちゃん」
「うん」
ラファお姉ちゃんの声で、琥珀は顔を上げた。
ベルグは、さっきの小さな試作の子を馬力車の横へ持ってきている。
「こっちは、踏み台と止める子の位置を見る」
「うん」
琥珀は、馬力車の横へ回った。
乗り降りするための踏み台は、まだ仮の形だ。出せる。戻せる。けれど、出した時に車輪を止める仕組みは、まだ馬力車本体には入っていない。
ベルグは、小さな試作の子を踏み台の根元へ近づけた。
「踏み台を下ろすと、この腕が動く。腕が動くと、車輪側の止め具へ力が行く。止め具が噛めば、車輪が逃げにくくなる」
「踏み台を戻したら?」
「止め具も戻る。走る時に噛んだままでは困るからのう」
琥珀は、しゃがんで横から見た。
ラファお姉ちゃんも膝を折り、踏み台の出る角度と、車輪までの位置を見ている。
「踏み台を出した状態で、止め具が遅れて動くと危険です」
「そうじゃ。足を掛けた時には、もう止まっとらねばならん」
「戻す時は、逆に早く外れすぎても危険です」
「足が乗っとるうちに外れたら、また逃げるからのう」
琥珀は、踏み台に手を添えた。
「ベルグじい、動かしてもいい?」
「ゆっくりじゃ。ラファも見とってくれ」
「はい」
琥珀は、踏み台を少しだけ下ろした。
ぎ。
踏み台の根元が動く。
ベルグが小さな試作の子を仮の位置で押さえる。
かち。
短い腕のような金具が動いた。
その先で、歯のついた留め具がほんの少し車輪の方へ向く。
「動いた」
「まだ届いとらん」
「少し遠いです」
「なら、ここではないのう」
ベルグは、試作の子の位置を少しずらした。
琥珀がもう一度、踏み台を戻す。
かち。
次に、もう一度下ろす。
かちん。
今度は、さっきよりはっきり音がした。
歯のついた留め具が、車輪の横へ近づく。
ベルグの目が細くなった。
「今の位置は悪くない」
「でも、まだ軽いです」
「戻りが弱い?」
「はい。踏み台を戻した時、止め具が最後まで戻りきっていません」
琥珀は、試作の子をじっと見た。
小さな腕が、少しだけ途中で止まっている。
「この子も、寝起き?」
「かもしれんのう」
ロクスが、油の桶の向こうから言った。
「今日は寝起きばっかりかよ」
「おぬしも朝は寝起きが悪かったじゃろ」
「俺は起きてからは動く」
「なら、この子たちもそうしてやれ」
ロクスは、少しだけ黙った。
それから、また刷毛を動かした。
「分かってる」
マーレは、工房の入口の方を見た。
壁は閉じている。外の光は細い隙間から入るだけになり、工房の中には木と金具と油の静かな気配が満ちていた。
「さて、と」
マーレは、腰に手を当てる。
「あたしは一度、風月の鐘亭へ戻るよ」
「戻るの?」
「昼の仕込みがあるからね。あんたたちはオフ日でも、鐘亭の昼は来るんだよ」
琥珀は、はっとした。
「そっか。ご飯」
「そうさ。ロクスもベルグじいも、作業に入ったら食べるのを忘れるからね」
「俺は忘れねえよ」
「昨日のことをもう忘れたのかい」
ロクスは、油の桶の前で口を閉じた。
ベルグも、少しだけ視線をそらす。
マーレは二人を見て、ため息をついた。
「ほらね」
ラファお姉ちゃんが、静かに頭を下げた。
「マーレさん、ありがとうございます。こちらは無理をしないよう見ています」
「頼んだよ。特に琥珀とベルグじいをね」
「はい」
「わたしも?」
「もちろんだよ」
琥珀は耳を少し伏せた。
マーレは笑い、ロクスの方へも目を向ける。
「あんたもだよ。痛いところが出たら、黙って続けるんじゃないよ」
「分かってる」
「その返事、昼に戻ったらもう一回聞くからね」
「しつこいな」
「しつこくされるだけのことをしてきたんだよ」
ロクスは、何も言い返せなかった。
マーレは、工房の扉へ向かった。
出て行く前に、もう一度だけ馬力車を見る。
「完成じゃないなら、完成みたいに扱うんじゃないよ」
その言葉を残して、マーレは風月の鐘亭へ戻っていった。
工房の中に、少しだけ静けさが残る。
ロクスは、油の中で駆動系ユニットの子を洗っている。
琥珀は、踏み台をゆっくり出し入れしながら、試作の子の腕の動きを見る。
ラファお姉ちゃんは、踏み台が下りる角度、止め具が動き始めるタイミング、戻りきる位置を順に記録する。
ベルグは、何度も位置を変えながら、短く印をつけていく。
まだ、組み込まない。
まだ、完成ではない。
けれど、古い駆動系ユニットの子は、ロクスの手で油の中から少しずつ目を覚ましはじめている。
小さな止め具の子は、踏み台が動くたびに、かちりと役割を思い出そうとしている。
馬力車は、工房の中で静かに待っていた。
支えるための子。
止めるための子。
揺れを逃がすために、これから見直される足回り。
まだ一つも、きちんとは組み込まれていない。
それでも、それぞれが自分の役割へ向かって、少しずつ動き出していた。
同じ頃。
遠く離れた山の奥で、風車が回っていた。
風は吹いている。
羽も、まだ動いている。
けれど、その回り方は、なめらかではなかった。
ぎ。
大きな歯車が、一度だけ鳴る。
少し遅れて、奥の軸が震えた。
こん。
歯と歯が噛み合うはずの場所で、ほんのわずかに音がずれる。
風車は止まらない。
止まらないまま、回り続ける。
ぎぎ。
次の音は、さっきよりも低かった。
古い金具がこすれる音ではない。
ただ重いだけの音でもない。
何かが、正しい場所から少しずつ外れながら、それでも無理に形を保とうとしている音だった。
暗い歯車の奥で、細かな破片が一つ落ちた。
からん。
その音は、風に紛れてすぐに消えた。
風車は、まだ回っている。
まだ、動いている。
けれど、次に同じ音が鳴る時も、同じ形でいられるとは限らなかった。




