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第53話

 朝の風月の鐘亭には、まだ夜の静けさが少しだけ残っていた。


 台所の奥では、かまどに火が入りはじめていた。乾いた薪が小さくはぜる音と、温められた鍋から立つやわらかな香りが、廊下の方までゆっくり流れてくる。


 琥珀は、肩から小さな袋を掛け直し、そっと玄関の方へ歩いた。


 いつもなら、ラファお姉ちゃんと並んで歩く時間だった。けれど、今朝だけは違う。昨日、ベルグが帰り際に小さく耳打ちした言葉が、まだ耳の奥に残っていた。


「明日の朝、来る時はちと早めに来い」


「ロクスにはまだ内緒じゃぞ」


 ロクスには内緒。


 その言葉を思い出すたび、琥珀の耳がぴくりと動いた。


 内緒という響きは少しだけくすぐったい。けれど、それがただの驚かせるための内緒ではないことを、琥珀はなんとなく分かっていた。


 昨日、ロクスが肩や腰に巻く紐の当たりを気にしていた。


 歩き出す時。止まる時。曲がる時。


 馬力車が重くなれば、その重さはどこかへ伝わる。荷台へ。車輪へ。木枠へ。そして、引くロクスの体へ。


 琥珀は、胸の前で袋の紐を軽く握った。


「ロクス、平気って言いそうだもんね」


 小さくつぶやくと、自分でも少し困ったように笑ってしまった。


 ロクスはきっと、痛くてもすぐには言わない。少しぐらいなら大丈夫だと言ってしまう。だから、ベルグも気にしているのだと思った。


 玄関の戸に手をかけたところで、奥からラファお姉ちゃんの声がした。


「琥珀ちゃん、気をつけて行ってきてください」


 琥珀は振り返った。


 ラファお姉ちゃんは、まだ外へ出る支度をしていなかった。今日はあとから来る。そう分かっているのに、少しだけ胸のあたりがそわそわした。


「うん。先に行ってくるね」


「ベルグさんのお話を、ちゃんと聞いてくるんですよ」


「うん。ちゃんと見る」


 そう答えると、ラファお姉ちゃんは静かに微笑んだ。


 ちゃんと見る。


 自分で言ったその言葉が、琥珀の胸の中で小さく鳴った。


 琥珀は戸を開けた。


 朝の空気が、頬と耳の先をそっとなでた。まだ強くない光が、街の屋根の端を淡く照らしている。風月の鐘亭の前には、人の声も足音も少なかった。


 琥珀は一歩外へ出ると、しっぽを軽く揺らしてから、ベルグ工房の方へ歩き出した。


 工房へ向かう道は、もう何度も通った道だった。


 けれど、一人で少し早く歩く朝の道は、いつもより広く感じた。店の戸はまだ半分閉じていて、石畳の上には薄い朝の光が伸びている。どこかの家から、焼いたパンの香りがほんのり漂ってきた。


 琥珀のお腹が、小さく鳴りかけた。


「……あとで食べるもん」


 誰に言うでもなくつぶやいて、琥珀は少し早足になった。


 ベルグ工房が見えてくると、工房の外に積まれた試作たちが、朝の光を受けていた。


 木枠。歪んだ金具。途中まで組まれた小さな車輪。何かの軸。使い道を待っているような短い棒。油の染みた古い部品。


 それらは、整っているとは言えなかった。けれど、捨てられているようにも見えなかった。


 風が通った。


 試作の山の奥で、金具がかすかに触れ合った。


 ちりん。


 こつん。


 小さな音が、朝の工房前に転がった。


 琥珀の耳がぴんと立った。


 まるで、試作たちが先に挨拶してくれたみたいだった。


 琥珀はそっと近づき、山の端にあった古い部品へ手を伸ばした。


 それは、少し錆び色の残る歯車と、短い筒のようなものが組み合わさった部品だった。木枠に半分埋もれるように置かれていて、昨日までなら見過ごしてしまったかもしれない。


 でも今朝は、不思議とそこへ目が行った。


 琥珀は指先で、歯車の端をそっとなでた。


「おはよう」


 冷たい金属の感触が、指先に返ってきた。


 試作の子は何も答えなかった。けれど、風に押された細い金具が、もう一度だけ小さく鳴った。


 こつん。


 琥珀は笑った。


「何かいいこと、ありそうだね」


「ほう。朝から縁起のええことを言うのう」


 工房の戸口から声がした。


 琥珀が振り向くと、ベルグが腕を組んで立っていた。いつもの作業着の袖をまくり、白い髭の奥で楽しそうに目を細めている。


「ベルグじい、おはよう」


「おはようさん。早かったのう」


「早めに来いって言ったの、ベルグじいだよ」


「そうじゃった。そうじゃった」


 ベルグは、わざとらしくうなずいてから、琥珀のそばまで歩いてきた。


 そして、琥珀が触れていた古い部品を見下ろした。


「……そこへ手が行くか」


「え?」


「お前さんのそういうところ、わしは嫌いではないぞ」


 琥珀は首を傾げた。


 ベルグは笑いながら腰を落とし、試作の山の中から、その部品を両手でつかんだ。木枠に引っかかっていた金具を外し、少し力を入れて引き出す。


 ごとり、と重い音がした。


 朝の光の中へ出てきたその部品は、思っていたよりも大きかった。


 丸い歯車が二つ。短い筒の中を出入りする棒。横に伸びた軸。古い油の跡。何度も調整されたらしい削り跡。


 琥珀の目が、ぱっと輝いた。


「歯車……! ピストンもある……!」


 耳が前へ向き、しっぽの先がふるふると揺れた。


 ベルグはそれを見て、満足そうに笑った。


「お前さんも、こういう仕組みが好きじゃろうと思ったんじゃが……その顔では、言うまでもなかったのう。わはは」


「だって、これ、この前の図面のすみに描いてあったやつに似てる」


「見ておったか」


「気になってた。小さな歯車と、短い棒みたいなの。あれ、何に使うのかなって」


「なら、今朝呼んだかいがあったのう」


 ベルグは、古い駆動系ユニットを作業台へ運ぶため、工房の扉を大きく開けた。


 中から、木材と金属と油の香りが流れてくる。昨日までの作業の名残が、床にも壁にも残っていた。


 琥珀は、駆動系ユニットを見つめたまま、ベルグの後について工房へ入った。


 作業台の上に布が敷かれ、その上へ駆動系ユニットが置かれる。


 ごとん。


 重い音が、工房の中に落ちた。


 ベルグは手のひらで古い油汚れを払うと、歯車の片側をゆっくり回した。ぎ、と小さく鳴ったあと、短い棒がわずかに押し出され、また戻る。


 琥珀は息をのんだ。


「動いた……!」


「まだ寝起きじゃがな」


「寝起き?」


「長いこと外で待たせておった子じゃ。作ったはええが、前の馬力車は小さかったからのう」


 ベルグは、駆動系ユニットの横腹を軽く叩いた。


「こいつを載せると、荷を置く場所がなくなった。重さもある。取り回しも悪い。だから、しまうでもなく、捨てるでもなく、あそこで待たせておった」


 琥珀は、さっき自分が触れた歯車の端を見た。


「待ってた子……」


「そうじゃ。じゃが、今の馬力車なら話が違う」


 ベルグは、作業台の横に広げてあった図面を引き寄せた。


 そこには、少し大きくなった馬力車の骨組みが描かれていた。座席、荷物を置く場所、引き具の位置。その端に、小さな歯車とピストンが書き込まれている。


「荷と人を分けるために、骨を太くした。座る者が怖くないように、踏み段や手すりも考えた。そうすると、前の馬力車にはなかった余白ができた」


「余白……」


「その余白に、こいつが入る」


 琥珀は、もう一度駆動系ユニットを見た。


 胸の中で、わくわくが膨らんだ。


「これを入れたら、馬力車が速くなるの?」


 ベルグは首を横に振った。


「速く走るためのもんではない」


 その声は、さっきまでより少し低く、はっきりしていた。


「引く時、荷の重さがそのまま肩や腰に返る。歩き出しでどんと来る。止まる時に押し返す。曲がる時に片側だけ食う。昨日、ロクスが気にしとったところじゃ」


 琥珀のしっぽの動きが止まった。


 ロクスの肩。腰。巻いた紐の食い込み。


 昨日の言葉が、また胸の中に戻ってきた。


「ロクス、痛いって言わないかもしれない」


「じゃろうな」


 ベルグは歯車を軽く押さえた。


「だから、荷の重さをそのまま返さんようにする。歩き出しの力を一度受ける。止まる時の押し返しを少し逃がす。曲がる時に、片方だけ急に食い込まんようにする。まだ仮じゃがな」


 琥珀は、駆動系ユニットを見つめた。


 さっきまで、歯車とピストンが動くことだけで胸が弾んでいた。


 けれど今は、違った。


 この歯車は、ただ回るためにあるのではない。


 このピストンは、ただ動くためにあるのではない。


 ロクスの体へぶつかる重さを、少し受け止めるためにある。


 痛くならないように。


 怖くならないように。


 無理をしなくていいように。


 琥珀の目が、さっきよりも強く輝いた。


「仕組みって……支えることもできるんだね」


 ベルグは、ほんの少しだけ目を細めた。


「そうじゃ。仕組みは、強くするためだけのもんではない」


 琥珀は、そっと駆動系ユニットに触れた。


 今度は、ただ珍しいものを見る手つきではなかった。


 朝、外で触れた時よりも、少しだけ丁寧に。


「さっき、いいことありそうだねって言ったけど……ロクスにいいことがあるんだ」


「そうなるように、これから確かめる」


「うん」


「それでじゃ」


 ベルグは、図面のロクスの引き具のあたりを指で叩いた。


「ロクスには、まだ細かいことを言わん」


「どうして?」


「先に言えば、あやつは身構える。あるいは、楽になったかと聞いても、わしらに気を使って『大丈夫だ』と言う」


「言いそう」


「じゃから、まず引かせる。体がどう感じるか、先に出させる」


 ベルグは琥珀の方を見た。


「お前さんには、それを見てほしかった」


「わたしが?」


「そうじゃ。仕組みを見る目と、ロクスを見る目。どちらもいる」


 琥珀の耳が、小さく揺れた。


 工房の中に、朝の光が少しずつ増えていく。


 作業台の上には、長い間出番を待っていた試作の子がある。外で小さく鳴っていたその子は、今、馬力車の図面のそばに置かれていた。


 琥珀は深くうなずいた。


「ちゃんと見る」


「よし。では、まずはこいつを起こすところからじゃな」


 ベルグが歯車をゆっくり回す。


 ぎ。


 こくん。


 古い駆動系ユニットが、小さく答えるように動いた。


 琥珀は、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 朝、何かいいことがありそうだと思った。


 そのいいことは、きっと、自分だけに起きるものではない。


 誰かの肩が、少し楽になること。


 誰かの腰に、重さがそのまま返らないこと。


 そして、待っていた子に、ようやく出番が来ること。


 琥珀は試作の子にもう一度そっと触れ、小さく微笑んだ。


「よろしくね」


 風月の鐘亭の台所には、朝の香りがゆっくり広がっていた。


 火の入ったかまどのそばで、マーレが鍋をかき混ぜている。湯気の中には、刻んだ野菜と香草の香りが混ざっていた。


 ラファお姉ちゃんは、調理台の上に並べられたパンを見ながら、包丁を手に取った。


 琥珀が先に出ていった玄関の方には、もう足音は残っていない。


「行っちまったねえ」


 マーレが鍋から目を離さずに言った。


「はい。少し緊張していましたが、楽しそうでもありました」


「そりゃそうだろうさ。ベルグが朝早くに呼ぶなんて、何かあるに決まってるからね」


 ラファお姉ちゃんは、小さくうなずいた。


「ベルグさんは、ロクスさんの肩と腰のことを気にされていました」


「昨日のあれかい」


「はい」


 マーレは、鍋を混ぜる手を少しだけ止めた。


 昨日、ロクスが何気なく言った言葉。肩に当たる紐。腰に来る重さ。止まる時の押し返し。


 本人は大したことではないように言っていた。けれど、マーレは聞き逃さなかった。ベルグも、琥珀も、たぶん同じだった。


「ロクスは、痛いって言うのが下手だからねえ」


「我慢してしまう方ですね」


「そうさね。あの子は、運べるなら運ぶ。引けるなら引く。誰かの役に立つと思えば、自分の肩ぐらい後回しにする」


 マーレは苦笑した。


「まったく、困ったもんだよ」


 ラファお姉ちゃんは、パンを切る手を止めて、マーレを見た。


「マーレさん」


「なんだい」


「ロクスさんは、今朝はまだ起こさなくてよいのでしょうか」


 マーレは、台所の奥ではなく、廊下の向こうへ目を向けた。


 その先の部屋では、ロクスが眠っている。


 大きな体を丸めるようにして、毛布を肩までかぶっているはずだった。昨日まで張っていた気が抜けたのか、今朝は起きる気配がまるでない。


 少し離れた部屋から、低い寝息が聞こえた。


「……ぐぅ」


 ラファお姉ちゃんは、ほんの少し目を瞬かせた。


 マーレは肩をすくめた。


「聞こえただろう? あれを起こすのは、もったいないよ」


「よく眠れていますね」


「昨日の分まで寝かせておきな。体を使う者には、飯と休みがいる。そこを抜いたら、道具が良くても続かないからね」


「はい」


 ラファお姉ちゃんは、切ったパンを皿へ移した。


 台所の香りが、少しずつ朝の形になっていく。


 鍋の中では、野菜が柔らかく煮えていた。焼きはじめたパンの香りも混ざり、鐘亭の空気が温まっていく。


 マーレは、再び鍋をかき混ぜながら、少しだけ声を低くした。


「ラファ」


「はい」


「あんたに頼みがある」


 ラファお姉ちゃんは、姿勢を正した。


「何でしょうか」


 マーレは、困ったように笑った。


「琥珀も、ベルグたちと同じようにならないように、見ておいておくれ」


「同じように、ですか」


「そうさね。あの子、仕組みを見ると目が輝くだろう?」


 ラファお姉ちゃんの表情が、少し柔らかくなった。


「はい。かなり輝きます」


「ベルグも、ロクスも、夢中になると止まらない。そこへ琥珀まで加わったら、誰かが飯を持っていくまで、みんな工房から出てこなくなるよ」


 ラファお姉ちゃんは、その光景を想像した。


 作業台に身を乗り出すベルグ。引き具を試すロクス。図面を見つめて耳としっぽを動かす琥珀。


 確かに、放っておけば三人とも時間を忘れそうだった。


「あり得ます」


「だろう?」


 マーレは、鍋の縁を軽く叩いた。


「だから、あんたはあたしと同じ側だよ」


「マーレさんと同じ側」


「止める時は止める。食べさせる時は食べさせる。楽になったと言っても、無理を始めたら引っ張ってでも止める」


 ラファお姉ちゃんは、静かにマーレを見た。


 それは、ただ注意してほしいという頼みではなかった。


 琥珀を信じているからこそ、夢中になりすぎる前に支える。ロクスを信じているからこそ、無理を見逃さない。ベルグを信じているからこそ、仕事の止め時をつくる。


 マーレの言う「止める」は、邪魔をすることではなかった。


 続けるために、守ることだった。


「分かりました」


 ラファお姉ちゃんは、皿にパンを並べながら、やわらかく微笑んだ。


「では、止めるためにも、まずは美味しい朝ごはんを作ってから向かいましょうか」


 マーレは一瞬きょとんとして、それから声を出して笑った。


「ははっ。それが正解さね」


 台所の奥から、また低い寝息が聞こえた。


「……ぐぅ……」


 ラファお姉ちゃんとマーレは、同時に廊下の方を見た。


 マーレが小さく息を吐く。


「まったく、よく寝るねえ」


「安心して眠れているのだと思います」


「そうだといいけどね」


 マーレは、器をいくつか取り出した。


「ロクスには、少し多めに盛るよ。起きたら腹を空かせてるに決まってる」


「琥珀ちゃんの分も、工房へ持っていきますか」


「もちろんだよ。あの子も、今ごろ目を輝かせてるだろうからね」


 ラファお姉ちゃんは、布を広げ、パンと温かな器を包む準備をした。


 琥珀は今ごろ、工房で何を見ているのだろう。


 ベルグが先に見せたいと言ったもの。


 ロクスにはまだ内緒にしたいもの。


 それが何であれ、琥珀はきっと、ただ驚くだけでは終わらない。


 ちゃんと見る。


 そう言って出ていった琥珀の声を、ラファお姉ちゃんは思い出した。


「マーレさん」


「なんだい」


「私も、ちゃんと見ます」


 マーレは、鍋の火を少し弱めた。


「頼んだよ」


「はい」


 台所に、朝ごはんの香りが満ちていく。


 まだ眠っているロクスの寝息と、鍋の小さな音と、皿にパンを置く音。


 鐘亭の朝は、静かに動き出していた。


 ラファお姉ちゃんは包みを整えながら、工房の方角へ目を向けた。


 琥珀が受け取るもの。


 自分が受け取るもの。


 その二つを持ち寄った時、きっと今日の馬力車は、昨日とは少し違う姿になる。


 ラファお姉ちゃんは、もう一度やわらかく微笑んだ。


 工房の外で、小さな足音が止まった。


 琥珀は作業台のそばから顔を上げた。耳がぴんと立ち、しっぽの先がぱたぱたと揺れる。


 開いた戸口に、布に包んだ朝ごはんを持ったラファお姉ちゃんが立っていた。


「琥珀ちゃん、ベルグさん、お待たせしました」


「ラファお姉ちゃん!」


 琥珀はぱっと駆け寄りかけて、途中で足を止めた。


 作業台の上には、さっき外の試作の山から運び込まれた駆動系ユニットが置かれている。古い歯車と短いピストンは、布で軽く拭かれ、朝の光を受けて鈍く光っていた。


 ラファお姉ちゃんは琥珀の顔を見て、すぐに目を細めた。


「とても良いものを見た顔ですね」


「うん。すごいの。ラファお姉ちゃん、これね、速くするためじゃないんだよ」


 琥珀は作業台の横へ戻ると、駆動系ユニットのそばに立った。


 ベルグは少し離れたところで腕を組み、面白そうに二人を見ていた。


「ロクスの肩と腰に、重さがそのまま来ないようにするんだって」


「肩紐と腰紐への負担を逃がす仕組みですか」


「うん。歩き出す時に、どんって来るのを少し受けて、止まる時に押し返すのも逃がすんだって。曲がる時も、片方だけぎゅってならないようにするって」


 ラファお姉ちゃんは、駆動系ユニットを静かに見つめた。


 歯車。ピストン。軸。油の香り。古いけれど、まだ芯の残っている部品。


 それが、ただ動くためではなく、誰かの体を支えるために使われようとしている。


「琥珀ちゃん、ちゃんと見てきたんですね」


 琥珀の耳が少し照れたように伏せられた。


「ちゃんと、見たかったから」


「はい」


 ラファお姉ちゃんは持ってきた包みを作業台の端に置いた。温かなパンと具の香りが、工房の中の金属と油の香りに混ざる。


 ベルグの鼻が小さく動いた。


「おお、朝飯か」


「はい。マーレさんからです。食べる時間も、確認のうちだそうです」


「わはは。言いそうじゃのう」


「あとで必ず食べてください」


「分かっとる、分かっとる」


 ベルグが言いながらも図面へ目を戻したので、ラファお姉ちゃんはにこりと微笑んだ。


「ベルグさん」


「……先にひと口だけ食う」


 琥珀は思わず笑った。


 ベルグは包みから小さなパンを一つ取り、かじった。噛む間だけ目を閉じ、それから満足そうにうなずく。


「よし。これで手が動く」


「食べたことにするには、少し少ないと思います」


「残りは、こいつを起こしてからじゃ」


 ベルグは作業台の上の駆動系ユニットを軽く叩いた。


 こくん、と中の棒が小さく動く。


 琥珀の耳がまた前へ向いた。


「起こすの?」


「そうじゃ。作業台の上で眺めておるだけでは、道具にはならんからのう」


 ベルグは馬力車の方へ歩いた。


 昨日までに組まれていた骨組みの下には、少し広く空けられた場所があった。荷を置く場所と座席を分けるために太くなった横木。その下に、金具を受けるための穴と、仮の止め棒を通す溝が見える。


 琥珀は目を丸くした。


「ここ、もう場所がある」


「余白は作っておいた。入るかどうかは、今朝こいつを合わせて見るつもりじゃったがな」


「前から考えてたんだ」


「ロクスが肩と腰の話をする前から、気にはなっておった。昨日の話で、早めに見るべきだと決まっただけじゃ」


 ラファお姉ちゃんは、馬力車の下をのぞき込んだ。


「本留めではなく、仮組みですね」


「そうじゃ。受けに差して、止め棒で見る。強く走らせるためのものではない。まずは、入るか。動くか。引き具へどう返るかを見る」


「確認できる範囲を決めておく必要があります」


「分かっとる。今日は、こいつに無茶はさせん」


 ベルグはそこで、ちらりと琥珀を見た。


「琥珀、止め棒を取ってくれ。短い方からじゃ」


「うん」


 琥珀は作業台の上に並んだ止め棒を見た。長いもの、短いもの、先に小さな穴が開いたもの。その中から、ベルグが指した短い止め棒を両手で持ち上げる。


 思ったより重い。


 琥珀は少しだけ踏ん張った。


「これ?」


「それじゃ。落とすでないぞ」


「落とさないよ」


 ラファお姉ちゃんが、そっと横に手を添えた。


「一緒に持ちましょう」


「ありがとう」


 二人で止め棒を運ぶ。


 ベルグは駆動系ユニットの片側を持ち上げ、馬力車の下の受けへ合わせた。古い金属が、木枠の中へゆっくり入っていく。


 ぎ。


 少しだけ渋い音がした。


 ベルグは眉を寄せ、角度を変えた。


「無理に入れない方がよいです」


「分かっとる。こいつも寝起きじゃからな」


「寝起きの子に無理させちゃだめだよ」


「わはは。そうじゃのう」


 ベルグは力を抜き、もう一度ゆっくり合わせた。


 今度は、駆動系ユニットがすっと受けへ入った。


 こくん。


 小さな音が、馬力車の下から返ってきた。


 琥珀の目が輝いた。


「入った」


「まだ入っただけじゃ。ここから留める」


 ラファお姉ちゃんが、止め棒の向きを確認した。


「こちらから通すのですね」


「そうじゃ。奥まで通したら、抜け止めを差す」


 琥珀とラファお姉ちゃんは、ベルグの指示に合わせて止め棒を渡した。


 一本目。


 金具と木枠の穴が重なり、止め棒が通る。


 こん。


 二本目。


 少しだけ引っかかり、ベルグが歯車の位置を指でわずかに動かす。


 こくん。


 止め棒が奥まで入った。


「よし」


 ベルグは手を離し、駆動系ユニットの揺れを確かめた。強くは固定されていない。けれど、簡単に外れるほどでもない。


「本留めではない。今日見るための仮組みじゃ」


「ロクスには、まだ言わないの?」


「細かいことはな」


 ベルグは、馬力車の前へ回り、肩紐と腰紐がつながるあたりを確認した。


「昨日と同じつもりで引いてもらう。体が先に何を感じるか、それを見る」


 琥珀は小さくうなずいた。


 内緒は、驚かせるためだけではない。


 ロクスが気を使わず、自分の体で感じたことを言えるようにするため。


 そう思うと、琥珀の胸が少し引き締まった。


「ロクス、ちゃんと言ってくれるかな」


「言えるように、こちらが聞くんです」


 ラファお姉ちゃんの声は、静かだった。


「楽になったところ。まだきついところ。怖いところ。分からないところ。どれも、ちゃんと聞きましょう」


「うん」


 ベルグは、馬力車の横を軽く叩いた。


 中に入った試作の子が、小さく鳴る。


 こくん。


 昨日までの馬力車にはなかった音だった。


 琥珀はそっと馬力車の側面に手を置いた。


 外の試作の山で、朝の風に鳴っていた子。


 何かいいことがありそうだね、と言った子。


 その子が今、馬力車の中にいる。


「よろしくね」


 琥珀が小さく言うと、ベルグが白い髭の奥で笑った。


「さて。あとは、あやつらが来てからじゃな」


「ロクスさんとマーレさんですね」


「うむ。ロクスには肩と腰を見てもらう。マーレには、無理をしておらんか見てもらう」


「そして、私は止める役ですね」


「おお。マーレに頼まれたか」


 ラファお姉ちゃんは、少しだけ微笑んだ。


「はい。琥珀ちゃんも、ベルグさんたちと同じようになりすぎないように、と」


「わしらと同じように、とは失礼な」


 ベルグはそう言いながら、図面へ目を落とした。


 その顔は、すでに次の確認を考えている顔だった。


 琥珀とラファお姉ちゃんは、同時にベルグを見た。


「ベルグじい」


「ベルグさん」


「……分かっとる。朝飯の続きじゃな」


 ベルグは観念したように、作業台の端へ戻った。


 工房の中に、パンと具の温かな香りが広がる。


 馬力車の下では、仮組みされた試作の子が、静かに収まっていた。


 まだ走ってはいない。


 まだ、本当にロクスを楽にできるかは分からない。


 けれど、昨日まで空いていた余白に、今朝出会った子が入った。


 琥珀はそれだけで、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 朝ごはんを少し食べ終えたころ、作業台の端には、ラファお姉ちゃんが持ってきた包みが開かれていた。温かなパンと具を挟んだ小さな包みを、琥珀は両手で持っていた。


 ベルグも、図面板を横に置きながら、パンを頬ばっている。


 馬力車の下には、仮組みされた試作の子が静かに収まっていた。まだ走ってはいない。けれど、昨日までとは違う小さな音を、馬力車はもう持っている。


 ベルグはパンを頬ばりながら、馬力車の横へ歩いた。


「ベルグじい、食べながらで大丈夫?」


「噛んどる。噛んどるから大丈夫じゃ」


 そう言いながら、ベルグは荷台の床板に手をかけた。持ち上げられていた床板を、ゆっくり元の位置へ戻していく。


 ぱたん。


 木の板が収まると、馬力車の下に入った試作の子は、外からはほとんど見えなくなった。


 琥珀は、思わずベルグを見た。


「隠すの?」


「昨日と同じつもりで見てもらわんと、体の声が聞けんからのう」


 ベルグは、口の中のパンを飲み込んでから、白い髭の奥で小さく笑った。


「まずは、何も知らんロクスがどう感じるかじゃ」


 琥珀は小さくうなずいた。


 馬力車は、見た目だけなら昨日とほとんど変わらない。


 けれど、その床板の下には、今朝出会った試作の子が静かに収まっている。


 その時、工房の外からマーレの声が近づいてきた。


「起こさなかったこちらにも非があるけどねえ、用意した朝ごはんを全部食べちまうんだから!」


「腹が減ってはなんとやらって言うだろ!」


「急ぐからって、飲み込むように食べるんじゃないよ!」


「飲み込んでねえ。ちゃんと噛んだ」


「返事だけは立派だねえ」


 琥珀はパンを持ったまま、思わず笑った。


 ラファお姉ちゃんも、口元を少し緩める。


「ロクスさん、起きたようですね」


「飯で起きたようじゃな」


 ベルグが白い髭を揺らして笑うと、マーレとロクスが戸口に現れた。


 ロクスはしっかり起きていた。けれど、急いで食べてきたせいか、口元に少しだけパンくずがついている。


 マーレはそれを見つけると、布でぴしりと拭った。


「ほら、ついてる」


「子どもじゃねえんだから」


「子どもみたいに食べるからだよ」


 琥珀のしっぽが、くすくす揺れた。


「おはよう、ロクス」


「おう。おはよう。……なんだ、そっちは優雅に食ってたのか」


「優雅ではないと思います」


「ベルグじい、図面見ながら食べてたよ」


「それは優雅ではないねえ」


 ベルグは、残っていたパンを慌てて飲み込まないように、ゆっくり噛んだ。


「食った。ちゃんと食ったぞ」


「よろしい」


 ロクスは、工房の中央に置かれた馬力車を見た。


 座席の枠。荷を置く場所。仮の踏み台。肩紐と腰紐へつながる引き具。


 昨日と大きく変わったようには見えない。


「で、今日はどこを見るんだ?」


「昨日も言ったが、俺は無理してねえぞ。肩紐の当たりとか、腰紐の食い込みとかは話したけどよ」


「そこも見る」


 ベルグは図面板を手に取った。


「じゃが、走る前に、乗るところと止めるところじゃ」


 ロクスは耳を少し動かし、首を傾げた。


「引く前にか?」


「うむ。乗る時に怖ければ、道に出る前に困る」


 マーレが腕を組んでうなずいた。


「それが正解さね。楽に引けても、乗る時に転んだら意味がないよ」


 ラファお姉ちゃんも馬力車の横へ歩いた。


「踏み台の位置、足の置き場、手をかける場所、車輪が動かないこと。この四つは、先に見ておきたいです」


「車輪が動かないこと……」


 琥珀は、馬力車の足元を見た。


 仮の踏み台はある。けれど、踏み台を出した時に車輪を止める仕組みは、まだ付いていない。


 ロクスは前へ回り、引き具の近くに立った。


「じゃあ、俺が支える。乗る形だけ見ればいいんだな?」


「まだ引かん。まずは、乗る時に何が起きるかを見る」


 ベルグはそう言って、ちらりと琥珀を見た。


 琥珀は小さくうなずいた。


 床板の下には、さっき仮組みした試作の子がいる。けれど今見るのは、そこではない。


 乗るところ。


 止めるところ。


 まだ足りていない場所だった。


「琥珀、まずお前さんからじゃ」


「うん」


 琥珀は踏み台の前に立った。


 足を上げる前に、座席の高さを見る。昨日より分かっているはずなのに、実際に一人で上がろうとすると、少しだけ胸がそわっとした。


 ロクスが引き具の前で足を踏ん張る。


「ゆっくりでいいぞ」


「うん。いくね」


 琥珀は踏み台に足を乗せた。


 その瞬間、馬力車がほんの少しだけ前へ逃げるように動いた。


「わっ」


 ロクスがすぐに腰を落とし、引き具を押さえた。


「止めた」


 琥珀は踏み台の上で動きを止めた。耳がぴんと立ち、しっぽが少し固まっている。


「怖かったか?」


「ちょっとだけ。足を乗せた時に、馬力車が先に行っちゃう感じがした」


「なるほど」


 ラファお姉ちゃんは、琥珀の足元を見た。


「踏み台そのものは使えます。ただ、足を乗せた瞬間に車輪が動くと、体が前へ流れます」


「手を置くところも欲しい」


 琥珀は座席の横を見た。


「ここに手をかけられたら、怖くないと思う」


「手すりじゃな」


 ベルグは図面板へ短く線を入れた。


「踏み台の横と、座席の入り口。両方に候補じゃ」


 ロクスは、まだ引き具を支えたまま、少し眉を寄せた。


「……これ、支えるのはきついな」


 マーレがすぐに反応した。


「どこに来るんだい」


「引くっていうより、動かねえように止めてる方だな。乗る間に車輪が行かねえように支えると、腰に来る」


 ベルグは、すぐには大きく反応しなかった。


 ただ、図面板へ目を落とし、短くうなずいた。


「なるほど。やはり、踏み台と車輪を止める仕組みは早めにつけんといかんのう」


「前に話した、踏み台を出したら車輪が止まる仕組み……やっぱり必要なんだね」


「そうじゃ」


 ベルグは、踏み台の根元を指した。


「乗る者が足をかけた時、車輪が止まる。降りる時も止まる。そこまでできて、踏み台じゃ」


「出したら止まる。しまったら戻る」


「うむ。お前さんが気づいた形じゃな」


 ラファお姉ちゃんは、静かにうなずいた。


「踏み台と車輪止めを別々に扱うと、出し忘れや止め忘れが起きます。連動させた方が、安全です」


「そうさね。楽をするためじゃなく、忘れないために一緒に動くようにするんだよ」


 琥珀はその言葉を胸に入れた。


 楽をするためではない。


 忘れないため。


 怖くないため。


 ロクスに支え続けてもらわなくていいようにするため。


「次は、ラファお姉ちゃん?」


「はい。私も確認します」


 琥珀がゆっくり降りる間、ロクスはまた腰を落として馬力車を支えた。


「ゆっくりでいい」


「ありがとう」


 琥珀が地面へ降りると、ロクスは小さく息を吐いた。


 ラファお姉ちゃんは踏み台の前に立ち、足の位置を確かめてから、ゆっくり乗った。


 馬力車は、また少し揺れた。


 ロクスが支える。


「ラファは、足元どうだ?」


「踏み台の高さは悪くありません。ただ、幅がもう少し欲しいです。足を置き直す余裕がありません」


「幅じゃな」


「それと、踏み台の端が少し分かりにくいです。朝や夕方、暗い時は踏み外すかもしれません」


「目印もいるか」


「はい。色か、手触りか、端が分かる工夫があると安心です」


 マーレが腕を組んだ。


「弁当や荷物を持って乗る時もあるからね。足元ばかり見ていられないよ」


「荷物を持った状態……」


 琥珀は、自分がリノへ持っていくつもりの小さな包みを思い浮かべかけて、慌てて胸の中へしまった。


 まだ言わない。


 けれど、荷物を持って乗る人がいるかもしれないことは、ちゃんと考えたい。


「片手がふさがってても乗れる方がいいね」


「そうです。手すりの位置も、それに合わせましょう」


 ベルグは図面に、踏み台、手すり、車輪止め、目印の印を順に書き込んでいった。


 ロクスは、それを横目で見ながら言った。


「俺が支える前提にしない方がいいな」


「そうだよ。あんたがいる時しか安全じゃない道具なんて、まだ半分だよ」


「半分か」


「半分でも、進んではいるさね。でも、半分だって分かっているうちは、無理しないで済む」


 ロクスは少しだけ考えてから、素直にうなずいた。


「分かった」


 ラファお姉ちゃんが座席から降りる。


 ロクスが支え、琥珀が踏み台の横で見守る。


 ラファお姉ちゃんの足が地面へ戻ると、ロクスは肩の力を抜いた。


「引く前に、けっこう見るところあるんだな」


「ある」


 ベルグは短く答えた。


「馬力車は、走っている時だけが馬力車ではない。乗る時も、降りる時も、止まっている時も、道具じゃ」


 琥珀の耳が、ゆっくり前を向いた。


 走るところばかり見ていたら、見落としてしまうこと。


 止まっている時にも、誰かの体を支える仕組みがいる。


 それを今、みんなで見ている。


「ベルグじい」


「なんじゃ」


「走る前に、止まるところを見るの、大事なんだね」


「そうじゃ」


 ベルグは図面板を軽く叩いた。


「急ぐための馬力車ではない。ちゃんと着くための馬力車じゃからのう」


 工房の中が、少し静かになった。


 リノに会いに行きたい気持ちは、琥珀の胸にちゃんとある。


 けれど、その気持ちを急がせるだけでは、馬力車は道具にならない。


 乗る人が怖くないこと。


 引くロクスが支え続けなくていいこと。


 荷物を持っていても、足元を見失わないこと。


 ひとつずつ見るから、遠くへ行ける。


 マーレが、図面をのぞき込んだ。


「踏み台。車輪止め。手すり。端の目印。まずはそこだね」


「うむ」


 ラファお姉ちゃんは、馬力車の前へ目を向けた。


「次は、引く前の姿勢と、肩紐、腰紐の位置を見ましょう」


 ロクスは、引き具の方へ歩いた。


「分かった。どこに来るか、ちゃんと言う」


「無理するんじゃないよ」


「分かってる。ちゃんと言うって」


 ロクスは肩紐を手に取り、腰紐の位置を確かめた。


 ベルグは図面板を作業台に置き、馬力車の横へ回る。ラファお姉ちゃんはロクスの肩と腰の動きが見える位置に立ち、マーレは少し離れて全体を見る。


 琥珀は、馬力車の下へ目を向けた。


 床板の下で、仮組みされた試作の子は静かに収まっている。


 まだ、走ってはいない。


 まだ、ロクスがその違いを知っているわけでもない。


 けれど、今朝、工房の外で「何かいいことありそうだね」と言った子は、もう馬力車の中にいる。


 琥珀は小さく息を吸った。


「ちゃんと見る」


 ロクスが肩紐を掛ける。


 腰紐が、体の横へ回る。


 工房の空気が、少しだけ引き締まった。


 走る前に、乗るところと止めるところを見た。


 次は、引く者の体に、どんな重さが返るのかを見る番だった。

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