第52話
ベルグ工房の作業台の上に、小さな金属片がいくつも並べられていた。
そのいくつかは、昼前に鍛冶場で短く火を入れ、考えるためだけに打ってきた試しの形だった。
丸いもの。
細長いもの。
まだ歯車と呼ぶには、形の途中で止まっているもの。
その隣には、昨日ベルグが作業台に残した、斜めの印があった。
昼を少し過ぎた工房には、外から柔らかい光が差し込んでいる。風が入るたび、吊るしてある薄い木板が、かすかに鳴った。
未完成の馬力車は、工房の奥で静かに待っていた。
昨日よりも少しだけ片づけられた座席まわり。
まだ固定されていない踏み段の材料。
外輪のそばに置かれた、柔らかい繊維の束。
どれも、次に触れられる時を待っているようだった。
ベルグは、作業台に肘を置き、斜めの印をじっと見つめていた。
「……ただ噛ませるだけなら、丸い歯車で足りる」
低くつぶやいた声に、ラファお姉ちゃんが顔を上げる。
ラファお姉ちゃんは、作業台の端に広げられた記録紙へ視線を落としていた。
そこには、前にグランと一緒に行った、あの山の奥の風車で見た歯車の位置や、軸の向きが、覚えている範囲で描き直されている。
「風車側から受けた力を、下へ渡すだけなら、ですね」
「そうじゃ。じゃが、お前さんの話を聞く限り、それだけでは済まん気がする」
ベルグは、指先で斜めの印をなぞった。
「この図だけで考えるなら、下へ落とす力だけでは話が合わん。奥へ押すような流れも、どこかに混じっておるかもしれん」
ラファお姉ちゃんは、少しだけ目を細めた。
記録の奥に残っている、山の奥の風車。
扉の紋章が最後まではっきり見えなかった場所。
止まりかけていたものを、どうにか止めないようにつないだ、あの時の音。
ラファお姉ちゃんは、その記録を言葉にしすぎないようにしながら、そっと紙の上へ指を置いた。
「はい。私の記録でも、力の向きが一方向だけだったとは言い切れません。ただ、現地で確かめなければ断定はできません」
「ふむ。見ておらん者が決めつけるのは危ない、ということじゃな」
「はい。けれど、何も考えずに向かうのも危険です」
「だから、答えではなく、問いを持っていく」
ベルグは、丸い金属片をひとつつまみ上げた。
それを机の上で少し回し、斜めの印の上に置く。
丸い形は、当然のように印からはみ出した。
「丸い歯車は、回すには強い。じゃが、受ける向きがずれた時、どこまで逃がせるか」
「無理に受ければ、軸に負担がかかります」
「そうじゃ。力を受ける面そのものを、少し変える必要があるのかもしれん」
ベルグは、今度は細長い金属片を置いた。
それから、二つの端を指で押さえる。
「ひし形、と琥珀は言っておったな」
その名前が出た瞬間、ラファお姉ちゃんの表情が少しだけ柔らかくなった。
「はい。形だけで言えば、近いかもしれません」
「形だけで言えば、か」
「琥珀ちゃんの言葉は、入口としてはとても良いです。ただ、ひし形なら正解、というわけではありません。どこから力を受けて、どこへ渡すのか。それを見ないまま、形だけを決めるのは危険です」
ベルグは、楽しそうに鼻を鳴らした。
「まったく、その通りじゃ」
作業台の上で、金属片がかちりと小さく鳴った。
「じゃが、入口は大事じゃ。丸ではなく、四角でもなく、ひし形と言った。あの子は、力が真っ直ぐではないことを、感覚で拾ったのかもしれん」
「琥珀ちゃんは、見たものをそのまま図にするのは苦手ですが、違和感を拾うのは上手です」
「耳としっぽだけで拾っておるわけでもなさそうじゃな」
ベルグがからりと笑う。
ラファお姉ちゃんも、小さく笑った。
「耳としっぽも、かなり優秀です」
「それは否定できんのう」
けれど、作業台に置かれた金属片を見つめるベルグの目は、すぐに職人のものへ戻った。
「今日は、完成形を作る日ではない。考えるための形を打つ日じゃ」
「はい。現地へ持っていくための答えではなく、現地で比べるための問いですね」
「問い、か。いい言い方をする」
ベルグは、紙の端に新しい線を引いた。
小さなひし形。
その中心を通る軸。
片側から斜めに入る線。
もう片側へ抜ける線。
それはまだ、歯車には見えなかった。
けれど、ただの図でもなかった。
「こう受けたら、こう逃がす。こっちから来たら、こっちへ渡す」
ベルグの指が、紙の上を何度も行き来する。
「しかし、これを金属で作るとなると、噛み合わせが問題じゃな。角を立てすぎれば欠ける。丸めすぎれば、ただ滑る」
「歯を作る位置も変わります。通常の歯車と同じ間隔では、途中で詰まるかもしれません」
「となると、歯車というより、受け金具に近いか」
「あるいは、歯車と受け金具の間です」
ベルグは、にやりと笑った。
「中途半端なものは、嫌いではない」
「完成前提で見なければ、試作としては価値があります」
「お前さんもなかなか言うようになったのう」
ラファお姉ちゃんは、少しだけ首をかしげた。
「琥珀ちゃんと一緒にいると、試す前に決めつけないことの大切さを学びます」
ベルグは、しばらく黙った。
それから、作業台の端に置かれていた馬力車の図面へ目を向ける。
座席。
踏み段。
手すり。
柔らかい外輪。
荷物の位置。
まだ未完成の線が、いくつも残っている。
「……そうじゃな。あの馬力車も、最初から今の形ではなかった」
「はい」
「乗る者がいて、引く者がいて、荷を積む者がいて、止める者がいて。そこで初めて、形が決まっていく」
ベルグは、ひし形の小さな線へ視線を戻した。
「あの山の奥の風車も、同じかもしれん。わしはまだ見ておらん。じゃが、お前さんの記録を見る限り、外から形を決めるだけでは足りん気がする」
「はい。あの場所で何を支えているのか、現地で確かめる必要があります」
「だから、行く前に準備はする。じゃが、答えは持っていかん」
「持っていくのは、問いと道具です」
「それと、無理をしない判断じゃな」
その言葉に、工房の入口近くで作業していたロクスが、顔を上げた。
ロクスは馬力車の引き具を手に持っていた。
昨日の試し走りで肩にかかった位置を思い出すように、革の帯を何度も指で押している。
「無理をしない判断なら、マーレが一番強いぞ。俺は、そこだけは絶対に逆らわない」
ちょうどその時、工房の外から足音が近づいてきた。
「呼んだ?」
入口に立っていたマーレが、腕を組んでロクスを見る。
ロクスの耳が、ぴくりと動いた。
「いや、褒めた」
「本当に?」
「本当だ。俺は嘘は言ってない」
マーレは、少し疑わしそうに目を細めたあと、作業台の上を見た。
「また難しそうなものを広げてるねえ」
「難しいから広げておる」
「それで、今から完成させるとか言わないだろうね?」
マーレの声が、少しだけ低くなる。
ベルグは、すぐに両手を上げた。
「言わん言わん。今日は試しの形じゃ。火を入れるとしても、試しに少し打つだけじゃ。完成形にはせん」
「試しに少し、だね」
「本当じゃ」
マーレは、今度はラファお姉ちゃんを見る。
「ラファさん、見張っててくれる?」
「はい。完成形だと言い出したら止めます」
「助かるよ。あたし一人だと、また二人まとめて正座させることになるからね」
「おい、信用がないのう」
「昨日までの積み重ねさね」
マーレが言うと、ロクスは小さく咳払いをした。
ベルグも、それ以上は言い返さなかった。
工房の中に、少しだけ穏やかな笑いが広がる。
その笑いの中で、ラファお姉ちゃんはふと入口の方を見た。
いつもなら、そこで琥珀の耳が揺れている。
作業台の図面をのぞき込み、分からないところは分からないまま、けれど大切なところだけは不思議と拾ってくれる琥珀。
けれど今、そこに琥珀はいない。
マーレが、ラファお姉ちゃんの視線に気づいた。
「琥珀は?」
「別件で出ています」
「別件?」
ロクスが首をかしげる。
ラファお姉ちゃんは、琥珀が出かける前の様子を思い出した。
少しだけそわそわした耳。
いつもより丁寧に結ばれたリボン。
大切そうに抱えていた小さな布袋。
「……大切な用事だそうです」
「ほう。それは聞かん方がよさそうじゃな」
「はい。今は、そっとしておくのが良いと思います」
マーレは、少しだけ笑った。
「なら、帰ってきた時にお腹が鳴らないように、何か用意しておこうかねえ」
「それは助かるかもしれません」
ラファお姉ちゃんの声にも、少しだけ笑みが混じった。
ベルグは、作業台の上の小さなひし形を、もう一度見下ろす。
琥珀はここにいない。
けれど、琥珀が残した一言は、ちゃんと作業台の上にある。
ひし形、みたいなもの。
その言葉から始まった線が、今、少しずつ形を探し始めていた。
「さて。答えではなく、問いを打つとするか」
ラファお姉ちゃんは、記録紙の端を押さえながらうなずいた。
「はい。現地で確かめるための、最初の形を」
工房の奥で、未完成の馬力車が静かに光を受けていた。
まだ道には出ていない。
けれど、次に向かうための準備は、もう始まっていた。
◇
街の通りには、昼を過ぎた柔らかい光が落ちていた。
風月の鐘亭へ向かう人。
市場から荷を抱えて戻る人。
焼き菓子の香りをのせた風。
昨日、リノからの手紙を読んだ時とは違う、いつもの街の音が、琥珀の耳にいくつも届いてくる。
けれど、琥珀の耳は、いつもより少し忙しなく動いていた。
右へ。
左へ。
それから、自分の足音に合わせるように、ぴくりと跳ねる。
琥珀は、胸元に抱えた小さな布袋を、両手でそっと押さえた。
中には、リノから届いた手紙そのものは入っていない。
大切な手紙は、風月の鐘亭でラファお姉ちゃんと一緒に、ちゃんと包んである。
けれど、琥珀はその言葉を、何度も思い出していた。
おそろいのリボンがかわいい。
リノも、あんなリボンをつけてみたい。
その一文を思い出すたび、琥珀のしっぽは、ふわりと持ち上がりそうになって、慌てて下がる。
「……同じものは、作れないけど」
小さくつぶやいて、琥珀は自分のリボンに触れた。
琥珀とラファお姉ちゃんのリボンは、ふたりにとって特別なものだ。
同じ形を、そのまま誰かに渡すことはできない。
けれど。
「近いものなら、探せるかもしれないよね」
それは、まったく同じではない。
でも、少しだけ似ていて。
リノに似合いそうで。
リノがつけたら、きっと笑ってくれそうなもの。
琥珀は、胸の中でその形を探しながら、絵描きさんの作業場へ向かった。
絵描きさんの作業場は、通りから少し奥へ入った場所にある。
扉の横には、小さな木の看板がかかっていた。看板には、筆と額縁の絵が描かれている。
琥珀は、その前で足を止めた。
耳が、ぴんと立つ。
しっぽの先が、小さく揺れる。
それから、琥珀は扉の前で一度だけ深呼吸をした。
「だ、大丈夫。お願いするだけ。ちゃんと、お願いするだけ」
そう言ってから、扉を軽く叩く。
こん、こん。
「はい、どうぞ」
中から声が返ってきた。
琥珀は、そっと扉を開ける。
作業場の中には、紙と絵の具の香りがあった。
壁には、街の風景や、家族の肖像、店の看板用の下絵が並んでいる。机の上には、乾かしている途中の絵と、細い筆が何本も置かれていた。
絵描きさんは、窓際の席で筆を洗っていた。
「あら。琥珀さん」
「こんにちは」
「この前の絵のことでしょうか。何か気になるところがありましたか?」
「違うんです。あの絵は、ちゃんと届きました」
琥珀は、そう言ってから、少しだけ頬を緩めた。
「リノが、すごく喜んでくれて。ノーラさんも笑ってくれたって、手紙に書いてありました」
絵描きさんの表情が、ふっと柔らかくなる。
「それはよかった。遠くに届いた絵が、ちゃんと笑顔になったのなら、絵描きとしては嬉しいです」
「はい。それで……今日は、もうひとつお願いがあって来ました」
琥珀の耳が、ほんの少しだけ前へ傾く。
絵描きさんは筆を置き、琥珀の方へ体を向けた。
「どんなお願いでしょう」
「今度、リノの村の方へ行くことになるかもしれないんです」
「リノさんの村へ?」
「はい。まだ、いつになるかは、ちゃんと決まっていません。馬力車も、これからもっと確かめないといけないし、道のこともあります」
そこまで言って、琥珀は布袋をぎゅっと握った。
「でも、もし行ける日が決まったら……その時に、絵描きさんにも一緒に来てもらえないかなって」
絵描きさんは、少し驚いたように目を開いた。
「私も、ですか?」
「はい。リノの絵を、描いてもらいたいんです」
その言葉を言い切ったあと、琥珀のしっぽが緊張したように止まった。
「リノは、わたしたちの絵を見て、何度も見てくれたって書いてくれました。今度は、自分も絵を描いて送りたいって」
「ええ」
「だから、リノ自身の絵もあったらいいなって思ったんです。リノが、自分の絵を見て、こんなふうに笑ってるんだって思えるような……そういう絵を」
絵描きさんは、すぐには答えなかった。
窓の外から、街の声が小さく流れ込んでくる。
琥珀は、少し焦って言葉を足した。
「あ、でも、無理にじゃないです。遠いし、道もまだ確かめてないし、危ないならだめです。お仕事もあると思いますし、リノが嫌だったら、もちろん描かなくていいです」
「琥珀さん」
「はい」
「とても大切に考えているんですね」
琥珀の耳が、ぴくりと動いた。
「……はい。リノが喜んでくれたのが、嬉しかったので」
絵描きさんは、机の端に置かれていた小さな予定帳を手に取った。
「すぐに約束はできません。村までの道、日数、持っていく道具、天気。考えることはいくつもあります」
「はい」
「でも、行ける形が整うなら、相談には乗れます」
琥珀の耳が、ぱっと立った。
「本当ですか?」
「ええ。ただし、絵は贈り物である前に、その人の姿です。リノさんが描かれたくないと言ったら、私は描きません」
「はい。それは、絶対にそうしてください」
琥珀は、何度も頷いた。
「リノが嫌なのに、びっくりさせたいわけじゃないんです。喜んでくれたらいいなって思うだけで……でも、嫌だったら、ちゃんとやめます」
「なら、大丈夫そうですね」
絵描きさんは、少し笑った。
「その時は、まずリノさんに聞きましょう。描いてもいいか。どんなふうに描かれたいか。どこで描きたいか」
「どんなふうに……」
「ええ。立っているところでも、座っているところでも。お母さんと一緒でも。大切にしているものと一緒でも。その人が、その人らしくいられる形が一番です」
琥珀は、目を丸くした。
それから、ゆっくりと笑った。
「リノなら……最初は隠れちゃうかもしれません」
「それも、その子らしさかもしれませんね」
「でも、ノーラさんの後ろから、そっと顔を出してくれるかも」
「いい絵になりそうです」
琥珀のしっぽが、今度は隠しきれないくらい、ふわりと揺れた。
「あの、お代は、どれくらいになりますか?」
「まだ正式な依頼ではありませんから、今日は決めなくて大丈夫です」
「でも、わたし、自分のお給金でお願いしたいんです」
絵描きさんは、少しだけ目を細めた。
「自分のお給金で?」
「はい。自分で働いて受け取ったお給金で、リノに何かしたいんです」
絵描きさんは、しばらく琥珀を見ていた。
それから、予定帳の白いページに小さく印をつけた。
「では、仮の相談として預かっておきます。道が決まり、日が決まり、リノさんが描いてもいいと言ってくれたら、その時に正式な依頼にしましょう」
「ありがとうございます」
琥珀は、深く頭を下げた。
その拍子に、耳がぴょこんと前へ倒れる。
絵描きさんは、少し楽しそうに笑った。
「それと、琥珀さん」
「はい?」
「今日は、それだけではなさそうですね」
「えっ」
琥珀のしっぽが、ぴたりと止まった。
「さっきから、何度もご自分のリボンを触っています」
「あっ」
琥珀は慌てて手を下ろした。
「そ、その、リノが……わたしとラファお姉ちゃんのリボンを見て、かわいいって書いてくれて」
「ええ」
「リノも、あんなリボンをつけてみたいって」
琥珀は、自分のリボンをそっと見た。
「でも、これは、わたしとラファお姉ちゃんの大切なリボンだから。同じものを作るんじゃなくて……リノに似合う、近い感じのものを探したいんです」
「なるほど」
絵描きさんは、作業場の棚から、小さな紙片を一枚取った。
「それなら、布小物を扱っている店へ行ってみるといいでしょう。通りを抜けた先に、リボンや髪飾りを置いている店があります」
「そこにありますか?」
「あるかもしれません。ただ、同じものを探すより、リノさんに似合うものを探した方がいいと思います」
「リノに似合うもの……」
「ええ。おそろいに近い。でも、リノさんのためのもの。そういう選び方が、きっといいです」
琥珀は、その言葉を胸の中で繰り返した。
おそろいに近い。
でも、リノのためのもの。
「はい。探してみます」
「いいものが見つかるといいですね」
「はいっ」
琥珀はもう一度頭を下げ、絵描きさんの作業場を出た。
外へ出ると、街の光が少しだけ傾き始めていた。
琥珀は、教えてもらった通りを歩く。
パン屋の前を通り、木工細工の店を過ぎ、布を干している家の横を抜ける。
その先に、小さな布小物の店があった。
入口の横には、色とりどりの布紐やリボンが、風に揺れないように細い棒へ結ばれている。
赤。
青。
淡い黄色。
若草色。
白に近い薄桃色。
琥珀は、店先で足を止めた。
「わぁ……」
思わず声が出る。
琥珀のしっぽが、今度こそ隠しきれずに、ふわりと揺れた。
「いらっしゃい。髪飾りを探しているのかい?」
店の中から、店主が顔を出した。
「はい。リボンを探しています」
「自分用?」
「いえ。贈り物です」
「それなら、相手の髪の色や雰囲気は分かるかい?」
琥珀は、少し考えた。
リノの姿を思い浮かべる。
ノーラの後ろに隠れていた、小さな女の子。
腕に描かれていた王冠の絵。
こちらを見たいのに、すぐに隠れてしまう目。
けれど、手紙には自分の言葉をちゃんと書いてくれた子。
「少し恥ずかしがり屋で、でも、とても優しい子です」
店主は、ふっと笑った。
「髪の色より先に、性格が出てきたね」
「あっ」
「いいよ。贈り物を選ぶ時には、それも大切だ」
琥珀は、少し照れたように耳を伏せた。
「その子が、わたしとラファお姉ちゃんのリボンを見て、かわいいって言ってくれたんです。おそろいみたいなリボンをつけてみたいって」
「なら、同じ色を探すのかい?」
琥珀は、自分のリボンに触れた。
それから、ゆっくり首を振った。
「同じものじゃなくていいんです。同じものには、できないと思うから。でも、少しだけ近くて、その子に似合うものがいいです」
「なるほどね」
店主は、棚の奥からいくつかのリボンを取り出した。
まず、琥珀のリボンに近い色のもの。
次に、少し柔らかい色のもの。
それから、小さな縁取りの入ったもの。
「まったく同じに寄せるなら、これだね」
店主が最初のリボンを見せる。
琥珀は、それをじっと見た。
綺麗だった。
でも、何かが少し違った。
「……これは、近いけど、近すぎる気がします」
「近すぎる?」
「はい。リノのものというより、わたしたちの真似になっちゃう気がして」
店主は、少し感心したように頷いた。
「なら、これはどうだい?」
次に出されたのは、少し柔らかい色のリボンだった。
光に当たると、ほんの少しだけ色が変わる。
派手ではない。
けれど、近くで見ると、縁に細い模様が入っている。
琥珀は、そっと手を伸ばした。
「これ……優しい感じがします」
「恥ずかしがり屋の子なら、強すぎる色より、こういう方がつけやすいかもしれないね」
「でも、ちゃんとかわいいです」
「もちろん。控えめなものは、かわいくないという意味ではないよ」
琥珀は、リボンを手のひらに乗せた。
リノがそれをつけたところを想像する。
ノーラの後ろから、そっと顔を出すリノ。
少し照れながら、リボンに触れるリノ。
それから、もしかしたら、小さく笑ってくれるリノ。
琥珀の胸が、じんわりと温かくなった。
「……これ、いいかもしれません」
「決めるかい?」
琥珀は、すぐには頷かなかった。
棚に並ぶ他のリボンも、ひとつずつ見る。
似ているもの。
華やかなもの。
小さな鈴のついたもの。
花の刺繍があるもの。
けれど、どれを見ても、琥珀の手は、最初に選んだ柔らかい色のリボンへ戻っていった。
「これにします」
「贈り物用に包むかい?」
「お願いします」
店主は、薄い布でリボンを包み、小さな紐で結んだ。
「相手の子が、喜んでくれるといいね」
「はい」
琥珀は、お給金の入った小さな袋から、慎重に硬貨を取り出した。
自分で働いて受け取ったお給金。
それを、誰かのために使う。
硬貨が店主の手に渡る音が、いつもより少しだけ大きく聞こえた。
「大切な贈り物なんだね」
「はい。とても」
包まれたリボンを受け取ると、琥珀はそれを胸元に抱いた。
自分のものではない。
でも、もう大切なものだった。
店を出る頃には、街の光はさらに少し傾いていた。
琥珀は、絵描きさんの作業場でもらった紙片と、包まれたリボンを、布袋の中へ丁寧にしまった。
それから、風月の鐘亭の方角と、ベルグ工房の方角を見比べる。
工房ではきっと、ラファお姉ちゃんとベルグが、難しい歯車の話をしている。
ロクスは引き具を確かめているかもしれない。
マーレは、また無理をしないように見張っているかもしれない。
みんな、それぞれの準備をしている。
琥珀も、琥珀の準備をしている。
「……喜んでくれるかな」
小さくつぶやくと、琥珀の耳が少しだけ伏せた。
でも、すぐにぴんと立ち直る。
「ううん。喜んでくれるかどうかは、ちゃんとリノに聞かなきゃ」
押しつけるためではない。
驚かせたいだけでもない。
ただ、リノがくれた言葉に、琥珀なりの形で返したかった。
琥珀は、布袋を大切に抱え直した。
リボンの包みは、小さくて軽い。
けれど、胸の中では、手紙よりも少し近い場所へ進んだような気がした。
「ラファお姉ちゃんに、見せたら……すぐ気づかれちゃうかな」
そう言って、琥珀は少しだけ笑った。
夕方に向かう街の中を、琥珀はベルグ工房の方へ歩き出した。
耳はまだ少しそわそわしている。
しっぽの先も、何かを隠しきれないように揺れている。
けれど、その足取りは、来た時よりも少しだけ軽かった。
まだ、誰にも全部は話さない。
でも、届けたいものは、確かにひとつ形になっていた。
◇
夕方の光が、ベルグ工房の床に長く伸びていた。
外から入る風はやわらかいけれど、作業台の上の金具には、昼に火を入れた時の焼け色が、まだわずかに残っていた。木材の乾いた香りも、工房の奥に静かに漂っている。
作業台の上には、小さな金具がひとつ置かれていた。
歯車、と呼ぶにはまだ少し違う。
受け金具、と呼ぶにも、まだ少し足りない。
丸でもなく、四角でもなく、ほんの少し斜めに力を受けるような形。
ベルグはそれを指先で持ち上げ、光にかざした。
「……ふむ。やはり、ただのひし形ではないのう」
ラファお姉ちゃんは、記録紙と金具を見比べていた。
「はい。ひし形に近い形ではありますが、これはまだ歯車ではありません」
「歯をつけるには、まだ怖い。角を立てれば欠ける。丸めすぎれば逃げる。どちらにも寄せきれん」
「現地で見れば、どちらへ寄せるべきか判断できるかもしれません」
「つまり、こいつは答えではなく、問いじゃな」
ベルグは、金具を作業台へ戻した。
小さな音が、かちりと鳴る。
「問いとしては、悪くありません」
「お前さんにそう言われるなら、今日の仕事としては十分じゃ」
その横で、ロクスは馬力車の引き具を肩に当てていた。
革の帯の位置を少しずつ変え、何度も首を回す。
「俺の方は、こっちが少し気になる」
ロクスは、肩に当たる部分を指で押した。
「昨日は広場だけだったからよかったが、長い道だとここが擦れそうだ」
マーレが腕を組んで近づく。
「それは昨日のうちに言うもんだよ」
「昨日は腹が減っていた」
「理由になってないねえ」
「今日は言った」
「そこは偉いねえ」
マーレはそう言いながら、引き具の帯を横から見た。
「ここに当て布を足した方がよさそうだね。あと、引く時に少し下へずれてないかい?」
「ずれる。止まる時は特にずれる」
「なら、明日はそこも見るさね。座席だけじゃなくて、引く側も大切なんだからね」
「分かってる。俺の肩が壊れたら、馬力車は動かん」
「分かってるなら、もっと早く休みな」
ロクスの耳が、少しだけ横へ倒れた。
「それは、ベルグにも言ってくれ」
「もちろん言うさね」
ベルグは、小さな金具から目をそらした。
「わしは今日は止め時を守ったぞ」
「ラファさんがいたからだろう」
「それも準備のうちじゃ」
「言い方だけは上手いねえ」
工房の中に、穏やかな笑いが広がった。
その時、入口の外で、小さな足音が止まった。
こん、こん。
扉ではなく、開いた入口の木枠が、控えめに叩かれる。
ラファお姉ちゃんが顔を上げた。
「琥珀ちゃん」
「ただいま戻りました」
入口に立っていた琥珀は、胸元に小さな布袋を抱えていた。
耳は少しそわそわしている。
しっぽの先も、何かを隠しきれないように、ゆっくり揺れていた。
けれど顔は、来る前よりも少しだけ明るい。
「おかえり、琥珀」
「おかえり。腹は鳴っていないか?」
「まだ鳴ってないよ」
「まだ、なんだね」
マーレが笑うと、琥珀の耳が少しだけ伏せた。
「だって、ちょっと歩いたから……」
「ほら、用意しておいて正解だったねえ」
マーレは、作業台とは別の小さな台へ手を伸ばした。
布をめくると、焼き菓子がいくつか並んでいる。
甘い香りが、ふわりと工房に広がった。
琥珀の耳が、ぴんと立つ。
「わ……」
「帰ってきた時にお腹が鳴らないように、って思ってね」
「ありがとうございます」
琥珀は焼き菓子をひとつ受け取り、両手で持った。
けれど食べる前に、作業台の上の小さな金具に気づく。
「それが、ひし形の……?」
「ひし形、みたいなものから始まった、まだ名前のないものじゃ」
「名前のないもの」
「歯車と呼ぶには早い。受け金具と呼ぶにも、まだ足りん。現地で比べるための問いじゃ」
琥珀は、金具をじっと見つめた。
小さな金属の形は、昨日、琥珀が言った言葉よりもずっと難しそうだった。
けれど、どこかに、あの時思い浮かべたひし形の影が残っている。
「……わたしの言ったのと、ちょっと違う」
「違って当然じゃ。お前さんの言葉は、入口じゃからな」
「入口?」
「そうじゃ。そこから職人が考える。記録を持つ者が確かめる。引く者が道具として使えるかを見る。乗る者が怖くないか見る。そうやって形になる」
琥珀は、金具を見つめたまま、ゆっくり頷いた。
「じゃあ、まだ途中なんだね」
「もちろんじゃ」
「途中なら、怖くないかも」
ラファお姉ちゃんが、琥珀を見る。
「怖くない、ですか?」
「うん。完成って言われたら、間違ってたらどうしようって思うけど……途中なら、見に行って、違ったら直せるから」
ベルグは、満足そうに笑った。
「それじゃ。それが大切なんじゃ」
ラファお姉ちゃんも、静かに頷く。
「だから、明日は馬力車をもう一度確かめます」
「うん。明日、ちゃんと見る日だね」
「はい。足元、座席、手すり、荷物の置き方、引き具。昨日見えた課題を、ひとつずつ確かめます」
「道に出る前の準備だね」
「そうです」
ロクスは、肩に当てていた引き具を外した。
「俺は引く側で気になるところをまとめる。肩、腰、止まる時のずれ。それと、曲がる時の引き幅だな」
「わたしは、乗る側だね。踏み段と、座るところと、手すりと……あと、止まった時に前へ動く感じ」
「荷物も忘れないんだよ」
「はい」
「人だけなら動いても、荷物を積んだら違うさね。お弁当も、道具も、あとは……誰かを乗せることになった時の荷物も、揺れたら困るからね」
その言葉に、琥珀の耳がぴくりと動いた。
ラファお姉ちゃんは、その動きを見逃さなかった。
「誰かを乗せることになった時の荷物、ですか」
「そうさね。道に出るなら、乗るのが琥珀たちだけとは限らないだろう?」
「あっ、うん。そうだよね」
琥珀は、焼き菓子を持ったまま、少しだけ目を泳がせた。
しっぽの先が、ゆらりと揺れる。
マーレが首をかしげる。
「琥珀、絵描きさんの所へ行っていたのかい?」
「えっと……相談に行ってました」
「何の相談?」
「リノの絵を、描いてもらえないかなって」
工房の空気が、少しだけ柔らかくなった。
ベルグが目を細める。
「ほう」
「リノが、わたしたちの絵を見て喜んでくれたから。今度は、リノ自身の絵もあったらいいなって思って」
「それで絵描きさんに?」
「はい。でも、まだ正式なお願いじゃないです。道も決まってないし、リノが嫌だったら描かないって、ちゃんと話しました」
ラファお姉ちゃんの表情が、ゆっくり柔らかくなる。
「琥珀ちゃんらしい相談ですね」
「そ、そうかな」
「はい。驚かせたい気持ちと、相手が嫌がらないこと。その両方を考えています」
琥珀の耳が、照れたように少し伏せた。
「リノが喜んでくれたらいいなって思っただけだよ」
「それが一番大切さね」
マーレは、琥珀の手元の布袋に目を向けた。
「それで、その布袋は?」
琥珀のしっぽが、ぴたりと止まった。
「こ、これは……その……」
ラファお姉ちゃんは、琥珀のリボンと、布袋と、そわそわした耳を順番に見た。
それから、何も言わずに微笑んだ。
「琥珀ちゃんが話したくなった時で大丈夫です」
「……うん」
琥珀は、布袋を大切に抱え直した。
「まだ、ちゃんと決めてから話したい」
「分かりました」
ベルグは、にやにやしながら口を開きかけた。
その前に、マーレがベルグを見る。
「聞かない」
「まだ何も言っておらん」
「言いそうだったよ」
「職人の勘じゃ」
「そういう勘はしまっておきな」
ロクスが焼き菓子を見ながら、ぼそりと言った。
「聞かない方が、あとで面白いこともある」
「ロクスが一番分かってるみたいに言ってる」
「俺は待つのは得意だ。腹以外は」
琥珀は、思わず笑った。
それから、ようやく焼き菓子をひと口食べる。
甘い香りが、口の中に広がった。
少し緊張していた肩の力が、ふっと抜ける。
「おいしい」
「よかった」
工房の外では、夕方の光が少しずつ薄くなっていた。
作業台には、名前のない小さな金具。
床には、明日もう一度確かめる馬力車。
琥珀の布袋には、まだ誰にも全部は話していない小さな包み。
それぞれ形は違う。
けれど、どれも同じ方へ向かっている。
ベルグは、作業台の上を片づけながら言った。
「明日は、馬力車の日じゃな」
「はい。足元と座席まわりを中心に見ます」
「俺は引き具を見る」
「あたしは荷物と止め時を見るさね」
「わたしは、乗る側で怖くないか、ちゃんと見ます」
ラファお姉ちゃんが、琥珀の方を見た。
「それと、無理をしないこともです」
「うん。無理はしない」
「本当に?」
「本当です」
「琥珀も、少し怪しい時があるからね」
「えっ」
「誰かのためになると、急に前へ出るからね」
琥珀の耳が、ぴんと立ってから、少しだけ伏せた。
「……気をつけます」
ラファお姉ちゃんは、追い打ちをかけず、そっと微笑んだ。
「一緒に確かめましょう」
「うん」
マーレは、工房の奥の灯りをひとつ落とした。
「今日はここまで。試しの金具も、馬力車も、琥珀の秘密も、これ以上は進めない」
「秘密まで止められた」
「夜に考えすぎると、寝られなくなるだろう?」
「……ちょっとだけ」
「ほらね」
ベルグは笑いながら、小さな金具を布で包んだ。
「では、問いも今日は休ませるとするか」
「明日、また確かめるために」
工房の中が、少しずつ夜の準備へ変わっていく。
未完成の馬力車は、奥で静かに立っていた。
まだ長い道へは出ていない。
けれど、そこへ向かうための手は、ひとつずつ増えている。
技術を考える手。
荷物を守る手。
引く力を確かめる手。
そして、誰かへ届けたいものを、大切に抱える手。
琥珀は布袋を胸元に抱えたまま、馬力車を見た。
明日、もう一度確かめる。
その先に、まだ見えていない道がある。
琥珀の耳が、小さく前を向いた。
「明日、ちゃんと見ようね」
その言葉に、ラファお姉ちゃんが静かに頷いた。
「はい。ちゃんと、みんなで」
夕方の最後の光が、工房の床からゆっくり消えていった。
◇
工房の灯りが、ひとつ、またひとつと落とされていく。
作業台の上にあった小さな金具は、布に包まれて、ベルグの手元へしまわれた。
未完成の馬力車は、奥で静かに立っている。
明日、もう一度確かめられる時を待っているように。
「それじゃあ、今日は本当にここまでだよ」
「本当に、がつくのか」
「つくさね」
マーレがきっぱり言うと、ロクスは引き具を片づけながら、小さく笑った。
「俺も今日は帰る。腹も減ったし、肩も少し休ませたい」
「それが正解さね」
「明日は、俺の肩が主役だな」
「肩だけじゃないよ。腰も、足も、止まる時の姿勢も見るからね」
「全部か」
「全部見るさね」
ロクスの耳が少しだけ横へ倒れた。
琥珀はそれを見て、思わず小さく笑った。
「ロクス、明日もよろしくね」
「ああ。ちゃんと引く。ちゃんと止まる。ちゃんと休む」
「最後が一番大切さね」
「分かってる」
ベルグ工房の入口へ向かう時、ベルグがふと琥珀を手招きした。
「琥珀、ちとこっちへ来い」
「はい?」
琥珀は首をかしげながら、ベルグのそばへ寄った。
ベルグは、ロクスとマーレの方をちらりと見てから、声を少しだけ落とした。
「明日の朝、来る時はちと早めに来い」
「早めに?」
「そうじゃ。ロクスにはまだ内緒じゃぞ」
琥珀の耳が、ぴんと立った。
「ロクスには、内緒?」
「大したことではない。じゃが、先にお前さんに見てもらいたいものがある」
「わたしに?」
「そうじゃ。乗る側の目で、な」
琥珀は、工房の奥に立つ馬力車を見た。
それから、真剣な顔で頷く。
「分かりました。明日、少し早めに来ます」
「うむ。寝坊はするなよ」
「しません」
少しだけ頬を膨らませると、ベルグはからりと笑った。
ラファお姉ちゃんは、そのやり取りを少し離れた場所から見ていた。
けれど、その場では何も聞かなかった。
工房を出ると、夜の街の風が頬を撫でた。
昼の熱を少しだけ残した石畳の上を、琥珀とラファお姉ちゃんは並んで歩く。
通りの灯りが、ぽつり、ぽつりとともり始めていた。
「このまま風月の鐘亭へ戻りますか?」
「その前に、お風呂に行きたいかも」
琥珀は、自分の腕を軽く伸ばした。
「今日はいっぱい歩いたし、ちょっと緊張したから」
「そうですね。明日に備えて、疲れは取っておいた方が良いです」
「ラファお姉ちゃんも一緒に行こう」
「はい」
街のお風呂は、風月の鐘亭から少し離れた通りにある。
入口には、湯気を表す丸い印の看板がかかっていた。
扉を開けると、あたたかい空気がふわりと流れてくる。
石造りの床。
木で組まれた脱衣棚。
奥から聞こえる湯の音。
今日一日の疲れが、その音だけで少しほどけていくようだった。
湯に肩まで浸かると、琥珀は小さく息を吐いた。
「はぁ……」
「疲れていましたね」
「うん。楽しかったけど、ずっとそわそわしてたかも」
湯気の向こうで、琥珀の耳が少しだけ伏せる。
しっぽは湯に濡れないようにまとめられているけれど、その先まで力が抜けているようだった。
ラファお姉ちゃんは、琥珀の隣で静かに湯に浸かりながら、少しだけ首を傾けた。
「ベルグさんから、何か言われていませんでしたか?」
琥珀の耳が、ぴくりと動いた。
「やっぱり見てた?」
「はい。声は聞こえませんでしたが、内緒のお話をしているように見えました」
「内緒っていうか……ロクスには内緒で、明日の朝、少し早めに来てほしいって、ベルグじいから言われたの」
「ロクスさんには内緒で?」
「うん。乗る側の目で、先に見てもらいたいものがあるって」
ラファお姉ちゃんは、少し考えるように目を伏せた。
「馬力車の座席か、踏み段まわりかもしれませんね」
「やっぱり、そう思う?」
「ベルグさんがロクスさんに内緒にするなら、引く側よりも乗る側の確認でしょう。先に琥珀ちゃんの反応を見たいのだと思います」
「なんだろう。ちょっと楽しみ」
「早起きできますか?」
「できます」
琥珀は胸を張ろうとして、湯の中で少しだけ姿勢を直した。
ラファお姉ちゃんは、ふっと微笑む。
「では、今夜は早めに休みましょう」
「うん」
琥珀は、湯の表面を指先でそっとなぞった。
小さな波が広がって、灯りをゆらゆらと揺らす。
その揺れを見ているうちに、琥珀は、さっきまで胸元に抱えていた布袋のことを思い出した。
今は脱衣棚の中に、大切に置いてある。
「ラファお姉ちゃん」
「はい」
「布袋の中のこと、話してもいい?」
「もちろんです」
琥珀は、少しだけ頬を赤くした。
「リノに、リボンを買ったの」
「リボンを」
「うん。わたしとラファお姉ちゃんのリボンと、まったく同じものじゃないよ。同じものにはできないし、同じにしたいわけでもなくて……でも、少しだけ近い感じのもの」
琥珀は、湯気の向こうで小さく笑った。
「リノが、おそろいのリボンがかわいいって書いてくれたから。リノもあんなリボンをつけてみたいって。だから、リノに似合いそうなものを探したの」
ラファお姉ちゃんの目元が、ゆっくり柔らかくなった。
「琥珀ちゃんらしい贈り物ですね」
「そうかな」
「はい。同じものを渡すのではなく、リノさんに似合うものを探したところが、とても琥珀ちゃんらしいです」
琥珀は、少し照れたように視線を落とした。
「喜んでくれるかな」
「喜んでくれると思います。ただ、琥珀ちゃんが言っていた通り、受け取るかどうかはリノさんの気持ちを聞きましょう」
「うん。無理には渡さない」
「それで良いと思います」
湯の音が、静かに響く。
昼間の街の音。
絵描きさんの作業場の紙と絵の具の香り。
布小物の店で見た、色とりどりのリボン。
全部が湯気の中で、少しずつやわらかくなっていく。
「絵描きさんも、行けるなら相談に乗ってくれるって言ってくれた」
「はい。工房で聞いた時、琥珀ちゃんがとても丁寧にお願いしたのだろうと思いました」
「リノが嫌だったら描かないって、ちゃんと話したよ」
「大切なことです」
「うん」
琥珀は、湯の中で膝を少し抱えた。
「早く会いたいな」
小さくこぼれた言葉に、ラファお姉ちゃんはすぐには返事をしなかった。
急かすでもなく、止めるでもなく、琥珀の隣にいる。
それから、静かに頷いた。
「会うのが楽しみですね」
「うん。楽しみ」
琥珀の耳が、湯気の中で少しだけ前を向いた。
「でも、そのためにも、明日はちゃんと馬力車を見ないとね」
「はい。リボンも、絵も、気持ちだけでは運べません。安全に運べる形が必要です」
「うん。ちゃんと確かめる」
その言葉は、湯の中で静かに沈んでいくようだった。
お風呂を出る頃には、夜はすっかり深くなっていた。
温まった体に、夜風が心地よい。
琥珀は布袋を胸元に抱え、ラファお姉ちゃんと並んで通りを歩いた。
街の灯りの上に、夜空が広がっている。
そこには、二つの月が浮かんでいた。
ひとつは、澄んだ光で街を照らしている。
もうひとつは、少しやわらかく、遠くの雲の端を淡く染めていた。
琥珀は足を止め、空を見上げた。
「今日も、二つあるね」
「はい」
「リノの村からも、見えてるかな」
「きっと、見えています」
「ラビィも、見てるかな」
ラファお姉ちゃんは、同じ空を見上げた。
「見ているかもしれません」
夜空の二つの月は、街の上にも、遠い村の上にも、山の奥にも、同じように光を落としている。
琥珀は布袋を大切に抱え直し、もう一度歩き出した。
その同じ二つの月を、ラビィも見ていた。
ラビィの家の窓辺には、小さな灯りがともっている。
夜の空に浮かぶ二つの月。
その下に、水瓶座の風車の光の柱と、牡羊座の風車の光の柱が、遠く静かに立っていた。
さらにその向こう。
山の方には、まだ少し揺れている、細い光がある。
まっすぐ立ちきれない、不安定な光。
ラビィは、その光をしばらく見ていた。
部屋の中では、暖炉の火が小さく揺れている。
暖炉のそばの小さな机には、封を切られた手紙が置かれていた。
琥珀と、ラファお姉ちゃんから届いた手紙。
何度も読み返した跡がある。
その隣には、丁寧に整えられた封筒。
そして、同封されていた絵は、もう封筒の中にはなかった。
絵は、小さな額に入れられて、暖炉の上に飾られている。
琥珀とラファお姉ちゃんが並んで描かれた絵。
そこにいる二人は、こちらを見ているようで、どこか遠くへ歩き出そうとしているようにも見えた。
ラビィは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
長い時間、しまい込むことで守ってきたものがある。
けれど、この絵はしまわなかった。
毎日見える場所に置きたかった。
火のそばに。
家の中で、一番あたたかい場所に。
「……こちらに、あの二人を呼んで正解だったかもね」
ラビィの声は、暖炉の火に溶けるように小さかった。
窓の外では、二つの月が静かに輝いている。
遠くの山の光は、まだ揺れている。
けれど、ラビィの表情に、不安だけはなかった。
ラビィは、暖炉の上の絵を見た。
琥珀の耳。
ラファお姉ちゃんのやさしい目。
二人の間にある、近くて、確かな距離。
「あの二人なら、大丈夫」
そう言って、ラビィは微笑んだ。
それから、夜空の二つの月へ目を向ける。
その名前は、考えて呼んだものではなかった。
長い時間の奥から、ふとこぼれたものだった。
「……アリュー」
暖炉の火が、小さく揺れた。
二つの月の光が、額の中の絵にそっと触れる。
長い時間の奥で、またひとつ、あたたかな灯りがともっていた。




