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第51話

 こん、こん。


 閉じられたばかりの工房の扉が、もう一度、控えめに叩かれた。


 外の広場へ開いていた可動壁は、すでに閉じられている。


 昼の光の中で動かした未完成の馬力車は、今は工房の灯りの下で静かに立っていた。広げられた図面には、柔らかい外輪や踏み段、座席の固定、手すりの線が書き込まれている。


 ベルグが、図面から顔を上げた。


 ロクスの耳が、ぴくりと扉の方へ向く。


 琥珀も、図面のそばで揺れていたしっぽをぴたりと止めた。


 ラファお姉ちゃんは、琥珀の隣で静かに扉へ視線を向ける。


 マーレが、作業台の上を軽く片づけてから、扉へ歩いていった。


「はいよ。どちらさんだい」


 扉が開く。


 そこに立っていたのは、肩から小さな革袋を下げた運び手だった。


 夕方の道を急いできたのか、少し息が上がっている。額にはうっすら汗がにじみ、肩も小さく上下していた。


 運び手は工房の中を見回すと、丁寧に頭を下げた。


「すみません。こちらに、琥珀さんはいらっしゃいますか?」


「琥珀?」


 ベルグの視線が、自然と琥珀へ向いた。


 ロクスも耳を立てたまま、琥珀を見る。


 琥珀は一瞬だけ目を丸くして、それから自分の胸元に手を当てた。


「わたしが、琥珀です」


 運び手の表情が、ほっと緩んだ。


「ああ、よかった。探しました」


「探した?」


「はい。風月の鐘亭へ行ったところ、琥珀さんは風車の鍛冶場へお弁当を運びに行ったと聞きまして。そちらへ向かったら、今日はベルグ工房にいると教えていただきまして」


「あらまあ。あっちこっち走らせちまったね」


 マーレはすぐに、近くの水差しを手に取った。


 小さな木の杯に水を注ぐと、運び手へそっと差し出す。


「ご苦労さまだね。まず飲みな」


「あ、ありがとうございます」


 運び手は両手で杯を受け取り、一口、水を飲んだ。


 喉が落ち着いたのか、肩の力が少し抜ける。


 その様子を見て、琥珀の耳も少しだけやわらかく傾いた。


「そんなに探してくれたんだ……ありがとうございます」


「いえ。大事な返事だと聞いていましたので」


「返事?」


 琥珀の耳が、ぴんと立った。


 しっぽの先が、ほんの少し跳ねる。


 ラファお姉ちゃんが、琥珀の横で静かにまばたきをした。


「琥珀ちゃん」


「もしかして……」


 運び手は革袋の留め具を外し、中から一通の手紙を取り出した。


 何度も道を揺られてきたはずなのに、手紙は大事に守られていた。角は少しだけ丸くなっているが、破れも汚れもない。


 手紙を包んでいた封筒の表には、少し不慣れな字で、琥珀とラファお姉ちゃんの名が書かれていた。


 琥珀は、その文字を見た瞬間、息を止めた。


「リノちゃん……?」


「リノさんの村から預かってきました。琥珀さんと、ラファさんへ、とのことです」


 工房の中に、昼の作業とは違う静けさが降りた。


 けれど、それは重い静けさではなかった。


 閉じた扉の向こうには、夕方の風がある。


 その風に乗って、遠い村から届いた返事が、今、琥珀の前に差し出されていた。


 琥珀は両手を伸ばした。


 急がず、けれど待ちきれないように、そっと手紙を受け取る。


「ありがとう……ございます」


「確かにお渡ししました」


 運び手はもう一度、丁寧に頭を下げた。


 マーレが杯を受け取りながら、少し笑う。


「本当にご苦労さまだったね。帰りは急がず行きなよ」


「はい。ありがとうございます」


 扉が、静かに閉じられる。


 外の足音が少しずつ遠ざかっていく。


 工房の中には、馬力車と、広げられた図面と、まだ読まれていない一通の手紙が残った。


 琥珀は手紙を胸の前で大事に持ったまま、しばらく動けなかった。


 しっぽは止まっている。


 けれど、耳だけは、隠しきれない期待でぴんと立っていた。


「リノちゃんから……返事、来たんだ」


「はい」


 ラファお姉ちゃんの声は、いつもより少しやわらかかった。


「琥珀ちゃんの手紙が、ちゃんと届いたのですね」


 その言葉を聞いた途端、琥珀の胸の奥に、温かいものがふわりと広がった。


 読んでくれたかな。


 絵を見てくれたかな。


 笑ってくれたかな。


 胸の中で何度も浮かんでは消えていた小さな心配が、手紙の重さと一緒に、少しずつほどけていく。


 ベルグが、作業台の上を軽く空けた。


「ここで読むとええ」


 ロクスも、馬力車のそばから一歩引いた。


「作業は終わりだ。今は、そっちが先だろ」


 マーレは腕を組み、けれど口元をやわらかくしてうなずいた。


「そうさね。手紙は、届いた時にちゃんと受け取ってやるもんだよ」


 琥珀は、皆を見回した。


 それから、手紙へ視線を落とす。


 指先が少しだけ震えていた。


 ラファお姉ちゃんが、そっと隣に寄り添う。


「一緒に読みましょう、琥珀ちゃん」


「うん」


 琥珀は小さくうなずいた。


 夕方の光が、工房の窓から細く差し込んでいる。


 馬力車の影と、図面の線と、手紙が、同じ作業台の上に並んだ。


 琥珀はその手紙を、両手で大事に開き始めた。


 破らないように。


 折らないように。


 中に入っている言葉まで傷つけてしまわないように、ゆっくりと封筒を開いていく。


 紙のこすれる音が、工房の中に小さく響いた。


 さっきまで木と金具の音で満ちていた場所が、今は一通の手紙を待つ静けさに変わっている。


 ラファお姉ちゃんは、琥珀のすぐ隣に立っていた。


 ベルグは作業台の端に手を置き、ロクスは馬力車のそばで腕を組んでいる。


 マーレは少し離れた場所で、急かすでもなく、けれど目をそらすでもなく、琥珀を見守っていた。


 封筒の中には、丁寧に折られた紙が入っていた。


 琥珀はそれを両手で取り出し、そっと開く。


 少し不慣れで、ところどころ大きさの違う字。


 けれど、一文字ずつを大事に置いたような字だった。


「リノちゃんの字だ……」


 琥珀の耳が、ぴんと立つ。


 しっぽの先が、待ちきれないようにふわりと揺れた。


「ゆっくりで大丈夫です」


「うん」


 琥珀は小さく息を吸った。


 そして、手紙の最初の行へ目を落とす。


『琥珀お姉ちゃん、ラファお姉ちゃんへ』


 その最初の言葉だけで、琥珀の声が少し弾んだ。


 ラファお姉ちゃんの表情も、やわらかくなる。


『手紙、届きました。絵も、ちゃんと届きました』


 琥珀の耳が、さらにぴんと立つ。


 胸の奥にあった小さな心配が、ひとつ、ほどけた。


「届いてた……!」


「はい」


 琥珀はうなずき、また手紙へ目を戻した。


『琥珀お姉ちゃんと、ラファお姉ちゃんの絵を見て、母ちゃんが笑いました。わたしも、何度も見ました』


「ノーラさんも……」


 琥珀の声が、ふわりと明るくなる。


 しっぽが大きく揺れた。


「笑ってくれたんだ……!」


「よかったじゃねえか」


 ロクスの耳も、その声につられるように少し揺れた。


 マーレが、口元をやわらかくした。


「手紙ってのは、届くだけじゃないからね。読んだ相手の顔まで、ちゃんと連れてくるもんさ」


「うん……本当に、顔が見えるみたい」


 琥珀は、紙を持つ指に少しだけ力を込めた。


 リノが、ノーラのそばで手紙を広げている姿。


 ノーラが、絵を見て笑っている姿。


 リノが、その隣で何度も絵を見返している姿。


 それが、文字の向こうからふわりと浮かんでくるようだった。


 琥珀はまた、続きを読んだ。


『絵の中の琥珀お姉ちゃんは、耳がぴんとしていて、少し得意そうに見えました』


「あ……わたし、得意そうだったんだ」


「琥珀ちゃんらしいです」


「え、そうかな」


 琥珀は照れたように笑いながら、自分の耳にそっと触れた。


 その耳は、手紙を読んでいる間ずっと、隠しきれない喜びでぴんと立っている。


 琥珀は、少しだけ頬をゆるめて、続きを読んだ。


『ラファお姉ちゃんは、とてもやさしそうでした』


「ラファお姉ちゃん、やさしそうって」


「そう見えていたのなら、うれしいです」


 ラファお姉ちゃんは、静かにまばたきをした。


 その表情は大きく変わらない。


 けれど、琥珀には分かった。


 今のラファお姉ちゃんは、少しだけ照れている。


「ふふ」


「琥珀ちゃん?」


「なんでもない」


 琥珀は小さく笑って、また手紙へ視線を落とした。


『二人のおそろいのリボンも、かわいかったです。わたしも、あんなリボンをつけてみたいです』


「リノちゃん……」


 琥珀の声が、今度は少し小さくなる。


 でも、それは悲しい声ではなかった。


 うれしさが胸いっぱいに広がって、声の出し方を少し忘れてしまったみたいな声だった。


「おそろい、いいですね」


「うん。いつか、リノちゃんにも似合うリボンを探したい」


「きっと喜びます」


 ベルグが、ひげの奥でほっほっと笑った。


「絵というのは、描いた者だけでなく、見た者の目も残すんじゃな」


「見た人の目も?」


「そうじゃ。リノはその絵の中に、自分も近づきたいものを見つけたんじゃろう」


 琥珀は、手紙の文字を見つめた。


 絵描きさんに描いてもらった、自分とラファお姉ちゃんの絵。


 それを見たリノが、絵の中の耳や表情やリボンを見つけて、言葉にして返してくれた。


 同じ絵なのに、リノの手紙になると、また少し違うものになって戻ってくる。


 それが、なんだか不思議で、うれしかった。


 琥珀は、続きを読んだ。


『絵は、大事にしまっています。母ちゃんが、なくさないように布を出してくれました。折れないように、その布に包んでいます』


「そんなに……!」


 琥珀のしっぽが、ぱっと大きく揺れた。


 胸の奥に、温かいものが一気に広がっていく。


「大切にしてくれているのですね」


「うん、うん!」


 琥珀は、こぼれる喜びを抑えきれないまま、何度もうなずいた。


 読んでくれたかな。


 絵を見てくれたかな。


 笑ってくれたかな。


 胸の中で何度も浮かんでは消えていた小さな心配が、手紙の文字と一緒に、ひとつずつ明るい答えへ変わっていく。


 マーレは腕を組んだまま、静かに目を細めていた。


「ちゃんと届いたね」


「はい……ちゃんと届いてました」


「だったら、今度はちゃんと返事を考えないとね」


「うん。返事、書きたい」


「急がなくていいさ。うれしい言葉ほど、ちゃんと座って書くもんだよ」


「はい」


 琥珀は、手紙を胸の近くへ寄せかけた。


 けれど、折れそうになったことに気づいて、慌てて作業台の上へ戻す。


「あ、だめだめ。大事にしなきゃ」


「琥珀ちゃんも、布に包みますか?」


「包む。絶対包む」


 マーレが、小さく笑った。


「なら、あとで薄い布を出してやるよ。手紙も、絵と同じようにしまっておきな」


「ありがとうございます、マーレさん!」


 琥珀はうれしそうにうなずき、また手紙を手に取った。


 文字はまだ続いている。


 そこには、少しだけ力の入った字で、こう書かれていた。


『手紙をくれて、ありがとう。絵を送ってくれて、ありがとう。わたしも、今度は絵を描いて送りたいです』


 琥珀は、声を少しだけ詰まらせた。


 けれど、すぐに笑顔へ戻る。


「リノちゃんの絵……見たい」


「はい。きっと、とても大切な絵になります」


「うん。届いたら、わたしも布に包む」


「では、その布も用意しておかないといけませんね」


 琥珀は、くすっと笑った。


 さっきまで、馬力車の図面が広げられていた作業台。


 そこには今、遠い村から届いた手紙が置かれている。


 木と金具の線で埋まっていた場所に、リノの文字が並んでいる。


 ベルグが、作業台の端に置かれた図面と手紙を見比べるように眺めていた。


「道具も、手紙も、使って終わりではないんじゃな」


「どういうこと?」


「渡したら、返ってくる。返ってきたら、また次を考える。そうやって育つものもある、ということじゃ」


 琥珀は、作業台の上にある馬力車の図面を見た。


 今日、皆で見て、言葉へ残した線。


 そして今、遠い村から返ってきた文字。


 どちらも、ひとりでは終わらないものだった。


「そっか……手紙も、育つんだ」


 琥珀は、そっと手紙を撫でた。


 紙の上にある文字は、少しだけ不揃いだった。


 でも、その不揃いさが、リノが一生懸命書いてくれた証のように見えた。


 琥珀は、読み終えた手紙を、大事に作業台の上へ置いた。


 胸の奥が、まだ温かい。


 リノの字。


 ノーラが笑ってくれたこと。


 絵を布に包んで、大事にしてくれていること。


 その一つひとつが、工房の中に柔らかく広がっていた。


「リノちゃん、ちゃんと読んでくれたんだ……」


「はい」


 ラファお姉ちゃんの声も、少しだけ柔らかかった。


「琥珀ちゃんの言葉も、絵も、ちゃんと届いていました」


「うん……!」


 琥珀は何度もうなずいた。


 しっぽの先が、うれしさを隠しきれないように揺れている。


 マーレは、そんな琥珀を見て、少し笑った。


「よかったねぇ」


「うん!」


 琥珀は、封筒も一緒に布へ包もうとして、指先を止めた。


 封筒の底に、まだ何かが残っている。


「あれ……もう一枚、入ってる」


「追伸、でしょうか」


 琥珀は、そっと封筒の中へ指を入れた。


 出てきたのは、一枚目より少し小さな紙だった。


 折り目が、少しだけ迷ったようにずれている。


 書こうか、書かないでおこうか。


 そんな気持ちが、紙の端に残っているようだった。


 琥珀は、その小さな紙を両手で持った。


『それから、もうひとつだけ書きます』


 声に出した瞬間、工房の空気が、ほんの少し変わった。


 温かさが消えたわけではない。


 ただ、その奥に、細い冷たい糸が一本だけ混じったような気がした。


『このごろ、山の方から来る風が、少しだけ冷たい気がします』


 琥珀の声が止まった。


 しっぽの揺れも、ぴたりと止まる。


 耳が、少しだけ伏せた。


「琥珀ちゃん?」


 琥珀は、すぐには返事をしなかった。


 小さな紙の上の文字を見つめたまま、胸の奥に沈んでいた何かを探す。


『母ちゃんは、季節の風だと言っていました』


 琥珀は、もう一度読み進めた。


『でも、わたしには、山の方で誰かが寒がっているようにも感じます』


 その言葉を読んだ時、琥珀の中で、青い光が静かに揺れた。


 夕方の工房ではない。


 青い月の光。


 冷たい山肌。


 土の重さ。


 ほどけきらない影。


 そして、寒そうにしていた誰か。


「夢……」


 ぽつりと、言葉が落ちた。


「夢、ですか」


「うん。前に、見た気がするの。青い月の光の中で……」


 そこまで言って、琥珀は少しだけ眉を寄せた。


 はっきり思い出せるわけではない。


 けれど、胸の奥に残っている感触がある。


「あたたかい腕があったの。誰かが、包んでくれるみたいな……」


 ラファお姉ちゃんは、静かにうなずいた。


「無理に思い出さなくて大丈夫です」


「うん……でも、他にもいた気がする」


 琥珀は、小さな紙を見つめたまま、言葉を探した。


「引っ込み思案な子。すぐ隠れちゃいそうな子」


 それから、少し間を空ける。


「寒そうな子。山の冷たいところにいて、土の重さみたいなものをまとっていた気がするの」


 琥珀のしっぽが、ゆっくりと下がった。


「その子のこと、この手紙を読んだら……急に思い出した」


 ラファお姉ちゃんは、すぐに答えを返さなかった。


 その沈黙を、急かすためのものにはしない。


 琥珀の言葉が、自分の中で形になるのを待つように、そばにいる。


「同じかどうかは、分からない」


「はい」


「でも、近い気がするの」


 琥珀は、今度は自分の胸元に手を当てた。


「あと、一人で寂しそうな子もいた気がする。赤い玉と話した時の感じに、少し似てる。ひとりで、ずっと待っていたみたいな……」


 ロクスが、作業台の向こうで黙った。


 ベルグも、何も言わない。


 マーレだけが、琥珀の手元に置かれた小さな紙を見て、静かに息を吐いた。


 ラファお姉ちゃんは、琥珀の言葉を聞きながら、静かに目を伏せた。


 あたたかい腕。


 引っ込み思案な子。


 寒そうな子。


 一人で寂しそうな子。


 琥珀が夢の中で見たものが、これまで巡ってきた風車の面影と、ひとつずつ重なりかける。


 けれど、ラファお姉ちゃんは、それを声には出さなかった。


 まだ、決めるには早い。


 琥珀が見た夢を、こちらの答えで縛ってはいけない。


 ただ、一人で寂しそうな子という言葉だけは、赤い玉と交わした記録に、静かに触れていた。


 そして、リノの村の近くで感じられている山の風。


 前にグランと一緒に行った、あの山の奥の風車。


 その二つもまた、ラファお姉ちゃんの記録の奥で、静かに同じ方を向き始めていた。


「ラファお姉ちゃん……?」


 琥珀が、小さく名前を呼ぶ。


 ラファお姉ちゃんは、目を開けた。


「今すぐ、何かを決める必要はありません」


「うん」


「ですが、気になるなら、皆で確かめましょう」


 マーレが、そこで少しだけ強めに声を出した。


「だからって、今から走っていく話じゃないよ」


「う、うん。分かってる」


 琥珀は慌ててうなずいた。


「分かってる……と思う」


「そこは、分かってるって言い切りな」


「分かってます!」


 ロクスが、未完成の馬力車へ目を向けた。


「まあ、急いで出せる足でもねえしな」


 その言葉に、琥珀も工房の奥を見た。


 昼間、広場を動いたばかりの馬力車。


 まだ、足りないところだらけの新しい道具。


 リノの小さな紙が運んできた冷たい風は、その未完成の車体にも、静かに触れているようだった。


 ラファお姉ちゃんは、もう一度、小さな紙を見た。


 それから、作業台の向こうにいるベルグへ視線を向ける。


 まだ、答えではない。


 けれど、話しておくべきことがある。


 工房の外で、夜の青が少しずつ濃くなっていた。


「少しだけ、話しておきたいことがあります」


 ラファお姉ちゃんの視線は、ベルグに向いていた。


 ベルグは作業台の上に置いていた炭筆へ手を伸ばしかけ、それから、まだ何も聞いていないことに気づいたように手を止めた。


「わしに、かの」


「はい」


 琥珀は、小さな紙を両手で持ったまま、ラファお姉ちゃんを見上げる。


「風車のこと?」


「はい。ですが、まだ何かを決められる話ではありません」


 ラファお姉ちゃんは、先にそう言った。


 その声は、急がせるためのものではなかった。


 答えを出すためでもない。


 ただ、忘れたままにはできないものを、そっと作業台の上へ置くような声だった。


「リノちゃんの村の近くで、山の方から冷たい風が来るのなら……前にグランさんと一緒に行った、あの山の奥の風車を思い出します」


「あの、扉の紋章が最後まではっきり出なかった風車……?」


「はい。あの風車です」


 ベルグの眉が、わずかに上がる。


「紋章が最後まで出なかった、とな」


「はい。扉は開きました。ですが、あの場所は、最後まで完全には戻っていません」


 ラファお姉ちゃんは、作業台の端へ指を置いた。


「ベルグさん。あの時、私たちは風車を直したのではありません」


 琥珀の耳が、少しだけ伏せた。


 その言葉は責めるものではない。


 けれど、あの時の手触りを、はっきり思い出させるものだった。


「止まらないように、仮につなぎました。大急ぎの処置でした」


「大急ぎの処置、か」


 ベルグは、今度こそ炭筆を取った。


「どう離れておった」


「風車側の歯車と、軸側の歯車が、うまく噛み合っていませんでした」


 ベルグは、作業台の端に丸を一つ描いた。


「こちらが風車側じゃな」


「はい」


 少し離して、もう一つ丸が描かれる。


「こちらが軸側」


「はい。それに、山の奥へ続くような歯車の列もありました」


 ベルグの炭筆が止まった。


「……山の奥へ」


 ロクスが、黙って作業台をのぞき込む。


 マーレも、口を挟まずに見守っていた。


 ベルグは、二つ目の丸から奥へ伸びる線を引く。


 一本ではない。


 少し迷ってから、線を二本、三本と増やした。


「ただ下へ落とすだけではない、ということかの」


「そう見ても、不思議ではありません」


「言い切らんのう」


「言い切れません。あの時の記録は不完全です」


 ラファお姉ちゃんは、琥珀の手元にある小さな紙へ一度だけ目を向けた。


「扉の紋章も、最後まで完全には戻りませんでした。風車の中の流れも、安定していたとは言えません」


「うん……」


 琥珀は、自分の手を見た。


「あの時は、わたしもマナクラフトがまだうまくできなくて……」


 言葉にすると、胸の奥が少しだけきゅっとした。


 けれど、それも大事な記録だった。


「石とか、欠けたものとかを使って、何とかつないだの。グランさんが重い石を運んでくれて、それを支えにして……やっと少しだけ動いた」


「グランなら運べるじゃろうな」


 ベルグは短くそう言ったあと、すぐに図へ目を戻した。


「じゃが、石で支えたとなると、歯の当たりも、力の向きも、かなり無理をしておったはずじゃ」


「はい」


「止めぬための形であって、長く回すための形ではない」


「その可能性が高いです」


 ベルグは、二つの丸の間に小さな丸を描いた。


 けれど、すぐに首をひねる。


「これでは、ただの中継じゃな」


 炭筆の尻で、その小さな丸がこすられて消える。


「ただの中継じゃ、だめなのか?」


「だめとは言わん。じゃが、話が合わん」


 ベルグは、風車側の丸を指で叩いた。


「ここから力が来る。軸へ渡すだけなら、一つ噛ませればよい。じゃが、山の奥へも列が伸びておったなら、力はそこで終わっておらん」


 今度は、奥へ伸びる線を叩く。


「下へ渡す力。奥へ進む力。その両方を考えねばならん」


 琥珀は、作業台の図をじっと見つめた。


 丸と線だけの簡単な絵なのに、風車の奥にあった暗い空気が、少しだけ戻ってくるような気がした。


「普通の丸い歯車だけじゃ、片方に寄っちゃう……?」


「かもしれん」


 ベルグは、琥珀の言葉を受けて、少しだけ口元を上げた。


「下へ落とそうとすれば奥が弱い。奥へ送ろうとすれば、下が抜ける。なら、力を受ける角度そのものを考えねばならんのう」


「角度……」


 琥珀は、指で空中に小さな形を描いた。


「ひし形、みたいなもの?」


「近いかもしれません」


 ラファお姉ちゃんは、すぐに続けた。


「ですが、形だけで決めるものではありません。どこから受けて、どこへ渡すのか。現地で見なければ、正しい形は分かりません」


「ふむ」


 ベルグは、ひし形に近い小さな印を描きかけた。


 けれど、それも途中で止める。


 今度は消さない。


 完成した形ではなく、考えの途中として、作業台の上に残す。


「難しいのう」


 工房の中に、短い沈黙が落ちる。


 その沈黙のあと、ベルグの目が、少しだけ楽しそうに細くなった。


「じゃが、面白い」


 琥珀の耳が、ぴんと立った。


「ベルグじい、作れるの?」


「今ここで作れると言ったら、マーレに叱られるわい」


「作れる作れないの前に、今から火を入れる気なら叱るよ」


 マーレの声が、すぐに飛んできた。


 ベルグは、わざとらしく肩をすくめる。


「分かっとる。今日は火を入れん」


「今日は?」


「……今夜は火を入れん」


「言い直さない」


「分かっとる、分かっとる。今からはやらん」


 ロクスが、少しだけ鼻で笑った。


「まあ、今から作られても困る。行くなら、こいつも試すことになるからな」


 ロクスは工房の奥に立つ馬力車へ顎を向けた。


 昼間、広場を回ったばかりの未完成の車体。


 まだ幌も、灯りも、足元の支えも、十分ではない。


「馬力車も?」


「広場を回っただけじゃ、長い道のことは分からねえ」


 ロクスの耳が、少しだけ後ろへ動く。


 真剣に考えている時の動きだった。


「荷を積んだ時。坂に入った時。細い道で向きを変える時。止まる場所。山の近くへ行くなら、見ることは増える」


「うん……」


「だが、今のまま急いで出すもんじゃねえ」


 その言葉に、琥珀は素直にうなずいた。


 行きたい気持ちはある。


 確かめたい気持ちもある。


 けれど、リノの手紙を握りしめたまま飛び出すことが、正しいわけではない。


 リノの村。


 山の風。


 寒そうな子。


 山の奥の風車。


 そして、未完成の馬力車。


 全部をちゃんと持っていくためには、準備がいる。


「今日は、行く日じゃなくて……どう確かめるかを決める日、だよね」


「はい」


「いい言い方だね」


 マーレはそう言って、作業台の上を見た。


 そこには、リノの手紙がある。


 小さな紙がある。


 ベルグが描いた、風車側の歯車と、軸側の歯車。


 山の奥へ伸びる線。


 そして、形になりきらないまま残された、小さな斜めの印。


 答えではない。


 でも、確かめるための手がかりだった。


 ベルグは、炭筆を置かずに、しばらくその印を見つめていた。


「現地で、歯の当たりを見たいのう」


「はい。私も、それが必要だと思います」


「仮の形を打つにしても、何を受け、どこへ渡すかを知らねばならん」


「では、行く準備と、作る準備の両方ですね」


「そうなるのう」


 ベルグはそこで、未完成の馬力車へ目を向けた。


 リノの小さな紙が運んできた冷たい風は、工房の中で不安に変わるのではなく、新しい線になり始めている。


 試すための足。


 確かめるための場所。


 直すかもしれない形。


 その三つが、夜の工房の灯りの下に、静かに並んでいた。


 工房の外は、すっかり夜になっていた。


 窓の向こうには、昼間の熱を手放した空が広がっている。


 作業台の上には、リノの手紙と、小さな紙がある。


 その隣に、ベルグが炭で描いた歯車の線が残っていた。


 丸い歯車。


 離れた軸。


 山の奥へ伸びる線。


 そして、形になりきらないまま残された、小さな斜めの印。


 琥珀は、その印をじっと見つめていた。


 それは答えではない。


 けれど、次に確かめるための手がかりだった。


「琥珀ちゃん」


「うん?」


「手紙を、包みましょう」


「あっ……そうだった」


 琥珀は慌てて、リノの手紙へ手を伸ばした。


 けれど、すぐに動きを止める。


 大事なものほど、慌てて触ると曲げてしまいそうだった。


 それに気づいたマーレが、足元に置いていた籠へ手を伸ばした。


「さっき言った布だよ。ひとまず、これで包んでおきな」


「ひとまず?」


「ここから風月まで、裸のまま持って帰るよりはいいだろう。ちゃんとしまうのは、戻ってからだね」


「うん。ありがとう、マーレさん」


 琥珀は、リノの手紙と小さな紙を、丁寧に重ねた。


 折れないように。


 こすれないように。


 今は仮の布でも、雑に扱っていいわけではない。


 リノの字も、ノーラの笑顔も、山の方から来る冷たい風も、一緒にこぼれ落ちないように。


 布の端を、そっと折る。


「帰ったら、ちゃんとした布に包むね」


「そうしな。折れないように、薄い板も一枚挟むといいよ」


「板も……うん、そうする」


 その言葉に、ラファお姉ちゃんは静かにうなずいた。


「大切に保管しましょう」


「うん」


 ベルグは、まだ作業台の端の図を見ていた。


 炭筆を持つ手が、何度か小さく動きそうになっては止まる。


 マーレの目が、すっと細くなった。


「ベルグ」


「分かっとる」


「まだ何も言ってないよ」


「言われる前に分かっとる」


 ベルグは炭筆を置いた。


 それから、ほんの少しだけ名残惜しそうに、自分の指先を見る。


「今日は、ここまでじゃ」


「うん。それがいい」


 琥珀がそう言うと、ベルグは片眉を上げた。


「琥珀にまで言われるとはのう」


「だって、今から火を入れたら、マーレさんのお説教だもん」


「それだけじゃありません」


「ラファお姉ちゃんも?」


「今の状態で急いで作れば、見落とします。見落としたものは、後で誰かを困らせます」


 ベルグは、その言葉を聞いて、ゆっくりとうなずいた。


「その通りじゃ」


 ロクスが、未完成の馬力車のそばへ歩いていく。


 木の枠に手を置き、昼間の試走で揺れた場所を確かめるように軽く押した。


「こっちも、今日は見るだけにしておく」


「ロクスが素直だねぇ」


「俺まで説教されたくねえだけだ」


 ロクスの耳が、少しだけ横へ逃げる。


 琥珀はそれを見て、小さく笑った。


 夜の工房に、少しだけ温かさが戻る。


 ベルグは、作業台の図と馬力車を交互に見たあと、マーレへ向き直った。


「マーレ」


「何だい」


「明日は、鍛冶場で少し形を打ってみたい」


 マーレの目が細くなる。


「少し?」


「仮の形じゃ。さっきの斜めの印を、そのまま歯車にするわけではない。どこを受け、どこへ渡すかを考えるための、試しの形じゃ」


 ベルグは、今度はラファお姉ちゃんを見る。


「ラファ。明日、記録を見ながら、少し付き合ってくれるかの」


「はい。ただし、現地の確認なしに完成形とは決めません」


「分かっとる。完成ではなく、考えるための形じゃ」


 マーレは、しばらくベルグを見ていた。


 そして、短く息を吐く。


「明日は、そこまでならいいよ」


 ベルグの目が、少しだけ明るくなった。


「それでじゃな」


「まだあるのかい」


「明後日は、琥珀たちと共に馬力車を作りたい。よいかの」


 琥珀の耳が、ぴんと立った。


 しっぽも、思わず跳ねる。


「明後日……!」


 琥珀は、ぱっとマーレを見た。


 言葉に出す前から、目がお願いをしていた。


 マーレはその顔を見て、呆れたように笑う。


「そのつもりだよ」


「ほんと?」


「ほんとだよ。逆に、明日は馬力車を作る、なんて言っていたらお説教だったよ」


「よかったぁ……」


 琥珀は胸をなで下ろした。


 ベルグも、少しだけ安心したようにひげを揺らす。


「明日は、歯車の仮形状と記録の整理。明後日は、馬力車の足元と座席まわりを見る。そういう段取りでよいかの」


「いいと思います」


「俺は明後日までに、引く側で気になるところをまとめておく」


「無茶な注文はしないでくださいね」


「無茶じゃねえ。使うための注文だ」


「それなら歓迎です」


 琥珀は、仮の布に包んだ手紙を両手で抱えた。


「わたしも、明後日までに、乗る側で気になったところ、もう一回思い出しておく」


「はい。琥珀ちゃんの気づきは大切です」


 マーレが、工房の入り口へ向かいながら言った。


「それじゃ、今日は解散だね。遅くなる前に戻るよ」


「はーい」


「返事がいい時ほど、走り出すからねぇ」


「走らないよ!」


 そう言ってから、琥珀は少しだけ目をそらした。


「……たぶん」


「琥珀」


「走りません!」


 工房に、また小さな笑いが広がった。


 けれど、その笑いの奥には、確かな次の準備がある。


 ベルグは図を消さずに、薄い板をそっと上からかぶせた。


 明日、続きを考えるために。


 ロクスは馬力車の車輪に手を置き、軽く揺れを確かめてから離した。


 明後日、もう一度動かすために。


 ラファお姉ちゃんは、琥珀が抱えた布包みを見つめていた。


 届いた手紙を、次の場所へつなげるために。


 そして琥珀は、その布包みを胸元に寄せた。


 温かい言葉。


 少し冷たい風。


 まだ分からない夢。


 その全部を、今は大事に持って帰る。


 工房の灯りが、一つ、また一つと落とされていく。


 扉が閉まる前、琥珀は振り返った。


 未完成の馬力車が、夜の工房の奥に静かに立っている。


 まだ走るための足ではない。


 でも、誰かのところへ向かうための足になろうとしている。


 琥珀は小さく息を吸った。


「ちゃんと、準備して行こうね」


「はい」


 夜の青が、工房の窓に静かに映っていた。


     ◇


 そのころ、ラビィの家にも、一通の手紙が届けられていた。


 静かな部屋の中で、ラビィは差し出された手紙を見つめた。


 手紙の差出人のところには、琥珀とラファお姉ちゃんの名前があった。


 ラビィは、しばらく何も言わなかった。


 ただ、その文字を見つめている。


 やがて、手紙を受け取り、指先でそっと端をなぞった。


「あの子たちから届くとはね」


 そう言って、ラビィはクスッと微笑んだ。


 手紙は、まだ開かれない。


 けれど、ラビィはすぐに目を離さなかった。


 琥珀の名。


 ラファお姉ちゃんの名。


 遠くから届いた、小さな紙の重み。


 それらが、静かな部屋の中に、ゆっくりと広がっていく。


 ラビィは手紙を胸元に寄せた。


 開ければ、言葉が届く。


 けれど今は、届いたということだけを、もう少しだけ抱いていたかった。


 まだ、読まない。


 けれど、確かに届いている。


 その事実だけで、長い時間の奥に、小さな灯りがともった。

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