↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
56/77

第50話

 弁当の包みが片づけられていくと、工房の中に漂っていた温かな香りは、少しずつ木と鉄の香りへ戻っていった。


 けれど、さっきまで皆で食べていた時間の余韻は、まだ工房の床に残っている。


 未完成の馬力車は、その昼の光の中に静かに立っていた。


 ベルグは空になった弁当箱を見てから、ゆっくりと馬力車へ視線を戻した。


「……食べると、頭の中の線も少し落ち着くのう」


「だから食えって言われたんだろ」


「お前もじゃろうが」


「俺もだな」


 ロクスは短く認めて、空になった包みをそっと籠のそばへ寄せた。


 マーレはそれを受け取りながら、二人を順番に見た。


「分かっているなら、今日はこの後も忘れないことさね」


「分かっとる」


「分かってる」


「食べた。水も飲む。休む時は休む。それから、勝手に作り進めない」


 ベルグとロクスは、工房の真ん中にある馬力車を見た。


 さっきまで二人だけで進めてしまっていた形。


 けれど、今はその横に琥珀とラファお姉ちゃんがいる。


「ここからは、一緒に見る」


「うむ。作る前に確かめる」


 マーレは小さくうなずいた。


「それでいいさね」


 琥珀は、弁当の包みを片づけ終えると、馬力車の横へ歩いた。


 昼食の間も気になっていた、二人分の座席枠。


 まだ板を合わせただけの仮の形で、布も、手すりもない。


 背もたれは形だけあるが、体を預けるにはまだ頼りない。


 それでも、そこには確かに琥珀とラファお姉ちゃんの場所があった。


「ここに、わたしとラファお姉ちゃんが座るんだよね」


「ああ。そのつもりで幅を取ってある」


「まだ仮じゃ。座席の固定も、背もたれの支えも、足元も、ここから見る」


 琥珀は座席の木枠へそっと手を置いた。


 木の表面は、まだ少し硬い。


 削りきれていない角もある。


「まだ、できたばかりって感じがする」


「そうですね。形はありますが、体を預けるにはまだ確認が必要です」


 ラファお姉ちゃんは座席の横へ立ち、幅と背もたれの位置を見比べた。


「二人で座る広さはありそうです。ただ、揺れた時に体を支える場所がありません」


 琥珀は座席の横から中をのぞき込んだ。


「手を置くところ、まだないね」


「足元も、仮だ」


 ロクスが座席の下を指差す。


 そこには、まだ踏み場として決められた板はなかった。


 木枠の一部に足は届きそうだが、安心して体重をかけられる形ではない。


「ここに足を置くの?」


「今は置ける場所を探しているだけじゃ。決めるのは、座って、動かしてからになる」


「じゃあ、今日は見る日なんだね」


「そうじゃ。作る日ではなく、見る日じゃ」


 その言葉に、マーレが少しだけ目を細めた。


「ベルグ、その言葉は覚えておくんだよ」


「……覚えとるわい」


 ロクスは横で小さく息を吐いた。


「俺も聞いたからな」


「お前に言われると、少し腹が立つのう」


「俺も同じこと言われた側だからな」


 琥珀は二人を見て、小さく笑った。


 けれど、その笑いのあと、すぐに座席へ視線を戻す。


 楽しいだけではない。


 ここは、本当に琥珀とラファお姉ちゃんが体を預ける場所になる。


 だから、ちゃんと見なければいけない。


「ベルグじい、座ってみてもいい?」


「まだ大きく揺らすなよ。仮止めじゃからな」


「うん。そっと座る」


 琥珀は木枠へ手をかけ、軽く体を持ち上げた。


 猫のように身軽な琥珀にとって、座席へ上がること自体は難しくない。


 しっぽを横へ逃がしながら、ちょこんと座る。


「座れた」


「琥珀は本当に軽く上がるな」


「猫族だからね」


 ラファお姉ちゃんも、琥珀の隣へゆっくり上がる。


 琥珀ほど軽やかではないが、落ち着いて座席へ腰を下ろした。


「幅は足りています」


「狭くない?」


「はい。琥珀ちゃんと並んで座る分には大丈夫です」


 琥珀は膝の上に手を置き、座席の前を見た。


 足は少し浮く。


 踏ん張る場所はまだない。


 手を伸ばしても、握れるものはない。


「座れるけど、まだ落ち着かないかも」


「どこがじゃ」


「手を置くところがないのと、足がふわっとするところ」


「背もたれも、今のままでは体を預けきれません」


「曲がった時と止まった時に、前へ動くかもしれません」


 ベルグは座席の横で膝をつき、琥珀とラファお姉ちゃんの位置を確認した。


「手すり。足元。背もたれの支え。座席の固定」


 ベルグは短く言いながら、近くの板切れに炭で印をつける。


 まだ図面へ大きく書き足すのではなく、まず聞いたことを忘れないための印だった。


「今は決めないの?」


「決めつけん。止まったまま分かることと、動かして分かることは違う」


「まずは少しだけ動かす」


 ロクスは馬力車の前側へ回り、仮の引き具を手に取った。


 革と木で組まれたその引き具も、まだ完成品ではない。


 ロクスは肩に当たる位置を確かめ、引く高さを見た。


「ロクス、痛くない?」


「痛くはねえ。ただ、力のかかり方は引いてみないと分からねえな」


「そこも見るところ?」


「ああ。俺が引きにくい形なら、長い道では使えねえ」


 ラファお姉ちゃんは、座席からロクスの背中と引き具の位置を見た。


「ロクスさんが無理なく引けることも、安全の一部ですね」


「そういうことじゃ」


 ベルグは車輪のそばへ移動し、軸と仮の留め具をもう一度確かめた。


 手で押し、耳を近づけ、わずかな遊びを見る。


 今にも作り込みたそうな目をしていたが、すぐに手は止めた。


「今日は見る日、じゃったな」


 マーレがすぐに返す。


「そうさね」


 ベルグは小さく咳払いした。


「分かっとる」


 琥珀はその様子を見て、耳をぴくりと動かした。


 ベルグが作りたくてうずうずしているのは分かる。


 ロクスも、引いて確かめたくて前を見ている。


 ラファお姉ちゃんは静かに座席を確認し、マーレは少し離れた場所から皆を見守っている。


 さっきまでの昼食の場所が、そのまま確認の場所になっていた。


 誰か一人が決めるのではない。


 皆で見て、皆で言葉にしていく。


「なんだか、本当にここから始まるんだね」


「ええ。形になったものを、ここから道具にしていく時間ですね」


 ロクスが引き具を持ったまま振り返る。


「工房の前を少しだけだ。長くは走らねえ」


「うん」


「揺れたら、すぐ言ってください」


「ラファお姉ちゃんもね」


 ベルグは車輪の横に立ち、工房の扉へ目を向けた。


「外へ出して、日の下で見る。影の中では分からん歪みもある」


「じゃあ、扉を開けるよ」


「琥珀ちゃん、座席から降りてからにしましょう」


「あ、そうだった」


 琥珀は少し照れたように耳を伏せ、ラファお姉ちゃんに支えられながら座席から降りた。


 座る時よりも、降りる時の方が少し慎重になる。


 足元の支えがまだないことを、琥珀はそこで改めて感じた。


「降りる時も、ちゃんと見た方がいいね」


「はい。乗る時と降りる時は、別の危なさがあります」


 ベルグはその言葉も板切れへ書きつけた。


「乗る時。降りる時。どちらも見る」


 マーレは満足そうにうなずいた。


「そうやって、一つずつ言葉にしていけばいいさね」


 琥珀は工房の扉へ歩き、両手で押した。


 扉がゆっくり開く。


 午後の光が、工房の床へすっと伸びてきた。


 未完成の馬力車の影が、木の床の上に長く落ちる。


 ロクスは引き具を構え、ベルグは車輪の横へ立つ。


 ラファお姉ちゃんは琥珀の隣へ戻り、マーレは籠を抱えたまま入口の近くで見守っていた。


 作る者。


 引く者。


 乗る者。


 そして、暮らしの中で見守る者。


 昼の工房で同じ弁当を食べた皆が、今度は同じ馬力車を囲んでいた。


 午後の光が、開いた工房の入口から床へ伸びていた。


 ロクスは仮の引き具を持ったまま、馬力車の前へ立つ。


 ベルグは車輪の横に立ち、最後に軸と留め具を見ていた。


 琥珀は工房の外へ目を向け、それから未完成の馬力車を見上げる。


「ねえ、ベルグじい」


「なんじゃ」


「これ、入り口から出られるの?」


 ロクスが馬力車と工房の入口を見比べた。


「……あ」


 ラファお姉ちゃんも、入口の幅と車体の横幅を見た。


「言われてみれば、ぎりぎりというより、少し難しそうですね」


 マーレが籠を抱えたまま、小さく肩を揺らす。


「そこを忘れて作っていたら、お間抜けだったさね」


 ベルグは、ふふんと鼻を鳴らした。


「誰の工房だと思っとる」


 そう言うと、工房の壁際へ歩いていく。


 そこには、壁へ埋め込まれた丸い押し金具があった。


 ベルグは慣れた手つきで、丸い押し金具をぐっと押し込んだ。


 ごご……っ。


 低い音がして、工房の横壁の一面がゆっくりと下がり始める。


 木と金具で組まれた壁は、そのまま外の地面へつながるように開いていき、工房の横に広がる広場とひと続きになった。


「わあっ!」


 琥珀の耳がぴんと立つ。


 しっぽがぶわっと大きく揺れた。


「壁が開いた!」


「大物を出し入れする工房に、小さい入口だけで足りるか」


「相変わらず、変な工房だな」


「便利な工房、と言え」


 ラファお姉ちゃんが、下がった壁と広場を見比べる。


「大型の部品を運ぶ時にも使えるのですね」


「歯車も、長い木材も、まとめて外へ出せるさね」


「そうじゃ。昨日の大きな歯車の時にも、こういう仕掛けがあると何かと楽じゃからのう」


 琥珀は下がった壁の端まで駆け寄った。


 工房の中だった場所が、そのまま広場へつながっている。


 閉じていた時にはただの壁に見えたのに、開くと工房そのものが大きく広がったみたいだった。


「すごい……飛び出す絵本みたい」


 ベルグがひげの下で少し笑う。


「琥珀、お前はそういう仕掛けが好きそうじゃのう」


「好きだよ。だって、閉じてる時は分からないのに、開くと急に道になるんだもん」


「工房の壁にわくわくしてないで、馬力車も見ろよ」


「あ、うん!」


 琥珀は笑いながら、ラファお姉ちゃんの隣へ戻った。


 広場は、工房前の狭い道よりも少し広く、地面も完全に平らではない。


 踏み固められた土の上に、小石があり、ところどころ浅いくぼみもある。


 仮組みの馬力車を試すにはちょうどよさそうだった。


「ここなら、少し回しても危なくないさね」


「うむ。まずはこの広場で十分じゃ」


「長い道に出す前に、見ることがあるからな」


 ロクスは仮の引き具を肩へ合わせ、広場の中央へ向く。


 ベルグは車輪の横へつく。


 琥珀とラファお姉ちゃんは、最初は馬力車の横に立って見守っていた。


「行くぞ」


「ゆっくりだよ」


「最初は、動き出しを見る」


「分かってる」


 ロクスが一歩踏み出した。


 革と木の引き具が、ゆっくり張る。


 馬力車の木枠が、わずかに沈んだ。


 車輪が回る。


 未完成の馬力車が、広場の土をきしりと踏みしめて前へ出た。


「……動く」


 次の瞬間、琥珀の目がぱっと輝いた。


「動いた!」


 耳がぴんと立ち、しっぽが大きく揺れる。


 ラファお姉ちゃんも、やわらかく目を細めた。


「ええ。本当に、動きましたね」


 ベルグは怖そうな顔のまま、車輪の動きから目を離さない。


 けれど、その声には少し弾みがあった。


「まだ始まっただけじゃ」


「分かってる。でも、うれしいよ」


「そういうのは、後でいくらでも喜べ。今は見るぞ」


「うん!」


 ロクスは広場をゆっくり進む。


 最初の数歩は、大きな問題なく動いた。


 引き具の当たりを確かめるように、ロクスが肩を少し動かす。


「どう?」


「最初に重さが少し強く来る。肩へ乗る前に、一度胸の方へ引っかかる感じだ」


「引き始めに癖があるか」


「まだ分からねえ。もう少し見る」


 ベルグがうなずく。


「次は、二人で座ってみるかの」


「うん」


「はい」


 琥珀は身軽に座席へ上がる。


 ラファお姉ちゃんも、その隣へ慎重に腰を下ろした。


 ベルグが横から仮止めの座席を見て、ロクスへ合図する。


「さらにゆっくりじゃ」


「ああ」


 ロクスが、もう一度歩き始める。


 座席から見る広場は、立っている時より少し高い。


 琥珀は、その見え方の違いに一瞬だけ目を丸くした。


「ちょっと高いね」


「見え方が変わりますね」


「景色は後だ。揺れを見ろ」


「あ、そうだった」


 その直後、車輪が小さな石を踏んだ。


 こつん。


 小さな音だった。


 けれど、座席へは思ったより硬い揺れが伝わる。


「ひゃっ」


 耳がぴくっと跳ねた。


 しっぽも少し浮く。


 ラファお姉ちゃんがすぐに琥珀の肩へ手を添える。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫。でも、今の、思ったよりこんって来た」


「石一つでそこまで来るか」


「来ますね。座席まで直接伝わっています」


 ロクスはさらに速度を落とした。


 次に、広場の浅いくぼみへ車輪が落ちる。


 がたん。


 今度は木枠全体が少し沈み、座席が上下に跳ねた。


「わっ」


 ラファお姉ちゃんも体を支えながら、少し前へ傾く。


「今のは大きいです」


「お尻まで、がたんって来た」


「車輪からそのまま入っとるな」


 ベルグは軸と車輪の間を見つめた。


 木製車輪と金属輪が、地面の硬さをそのまま拾っている。


 止まったまま座っているだけでは分からなかった揺れが、動くことで一気に見えていた。


「手を置く場所がないと、ちょっと落ち着かないかも」


「私もそう思います。体を支える場所がありません」


「足元も、まだ踏ん張れねえだろ」


「うん。ちょっとふわふわする」


 ロクスは、広場の中で少しだけ向きを変えた。


 すると、今度は上下ではなく、横へ流れるような揺れが座席へ伝わる。


「おっと」


「横にも来ますね」


「曲がると、後ろが少し外へ振れる」


「こちらも横へ持っていかれる感じがします」


「真っすぐと曲がる時では違うのう」


 ベルグは後ろへ回り、車体の揺れ方を見た。


「荷を積んだ時は、また別の動きになるかもしれん」


「荷物が片寄ったら、もっと揺れる?」


「あり得るのう」


「その辺は、広場だけじゃ全部は分からねえな」


 ロクスは短くうなずき、広場の端で一度止まった。


 止まる時の動きは、進む時より難しかった。


 ロクスが足を止める。


 引き具の張りがゆるむ。


 けれど馬力車は、ほんの少しだけ前へ押すように残った。


「おっ」


「わっ」


 琥珀とラファお姉ちゃんの体が、少し前へ動く。


 ラファお姉ちゃんが琥珀を支えながら、自分も前へ傾いた。


「止まる時も、体が前へ動きます」


「手を置くところがないと、ちょっと怖いかも」


「俺が止まっても、後ろはすぐには止まらねえ」


「車体の重さが残るのですね」


 ベルグは腕を組み、引き具と車輪を交互に見た。


「引く側の止まりと、乗る側の支え。どちらも見る必要があるのう」


 琥珀は広場を見回した。


 動く前には、ただの土の広場に見えた。


 けれど動いてみると、小石も、浅いくぼみも、曲がる角度も、全部が違う問題を見せてくる。


「図面だけじゃ、分からないね」


「はい。実際に動かして初めて見えることが、たくさんあります」


「俺も、引いてみないと分からねえことがあった」


「作っただけでは、まだ道具にはならんということじゃ」


 試走は、広場を短く回るだけで終えた。


 ロクスは馬力車を工房の前まで戻し、そっと引き具をゆるめる。


 琥珀とラファお姉ちゃんも、慎重に座席から降りた。


 降りる時にも、まだ足元の頼りなさが残っている。


「乗る時も、降りる時も、見るところがあるね」


「ええ。短い試走でしたが、十分に見えてきました」


 ロクスは引き具を外しながら肩を回した。


「俺の方も、見ることが多かった」


「どこじゃ」


「引き始め。曲がる時。止まる時。それと、二人が揺れた時の重さの動きだ」


 ベルグは深くうなずいた。


「戻るぞ。忘れんうちに、見えたものを言葉にする」


「その前に水だよ」


「……そうじゃった」


「見る日で、考える日で、水を飲む日さね」


 ロクスが少し笑う。


「ベルグ、今日はちゃんと覚えとけよ」


「お前もじゃ」


 琥珀は、午後の光の中に止まった馬力車を見上げた。


 さっきまで、そこにあるだけだった形。


 けれど今は違う。


 動いた。


 揺れた。


 止まった。


 そして、足りないところがたくさん見えた。


 未完成の馬力車は、広場の光の中で静かに止まっている。


 けれど琥珀には、その姿が、さっきより少しだけ本当の道具に近づいたように見えた。


 広場での短い試走を終えた馬力車は、工房の中へ戻されていた。


 下がっていた壁は、まだ広場へ向けて開いたままだ。


 外から差し込む午後の光が、工房の床へ長く伸びている。


 土の上を少しだけ走った車輪には、細かな砂がついていた。


 ロクスは引き具を外し、肩を軽く回す。


 ベルグは馬力車の横へすぐ向かいかけて、入口のそばから聞こえた声に足を止めた。


「その前に水だよ」


 ベルグは動きを止めたまま、少しだけ肩を落とした。


「……分かっとる」


「今、車輪を見に行こうとしたねえ」


「水を飲んでから見る」


「順番が逆にならなくてよかったさね」


 ロクスが近くの杯を手に取った。


「ベルグ、今日は見る日で、水を飲む日だったな」


「お前も飲め」


「飲んでる」


 マーレは用意していた水を、琥珀とラファお姉ちゃんにも渡した。


 琥珀は両手で杯を受け取り、こくこくと飲む。


 冷たい水が喉を通ると、広場で感じた揺れが、少し遅れて体の奥へ戻ってくるようだった。


「短い距離だったのに、まだ体ががたんって覚えてる」


「ええ。座席まで、衝撃がはっきり伝わっていました」


 ラファお姉ちゃんは杯を置き、馬力車の座席を見た。


「止まっている時と、動いた時では、見えるものが違いましたね」


「そうじゃな」


 ベルグは図面の前へ座った。


 手に取ったのは工具ではなく、炭筆だった。


 ロクスがその手元をじっと見る。


「工具じゃないな」


「見れば分かるじゃろ」


「確認だ」


「書き留めるだけじゃ」


 マーレは少し離れた場所で腕を組む。


「その言葉、聞いたよ」


 ベルグは小さく咳払いして、図面の端に炭筆を置いた。


「まず、石を越えた時じゃ」


 琥珀の耳がぴくりと動く。


「あ、こんって来たところ」


「小さい石でしたが、座席まで硬く伝わりました」


「俺の肩にも来た。引き具の張り方が、そこで少し変わった」


 ベルグは、車輪の外側に短い印を足した。


「車輪が拾ったものが、そのまま上がっとる」


 図面の端に、小さく「外輪」「衝撃」と書き添える。


 琥珀はその手元を見つめた。


 木の車輪。


 外側の金属輪。


 硬い地面。


 硬いもの同士がぶつかるから、体にこん、と来る。


 琥珀の頭の中に、元の世界で見た車の車輪がぼんやり浮かんだ。


 黒くて、丸くて、地面に触れるところが少しだけ弾むもの。


 でも、この世界で同じものをそのまま作れるわけではない。


「車輪の外側が……少しだけやわらかかったら、こんっていうの、減るのかな」


 ロクスの耳が、少し前を向いた。


「外側だけか?」


「うん。全部じゃなくて、地面に当たるところだけ」


 ベルグは車輪の外周へ、もう一本細い輪を描き足した。


「木の外へ、何かを重ねるか」


「金属じゃなくて?」


「金属を外すとは限らん。金属は金属で、減りにくい。じゃが硬い」


 ロクスは引き具の革を指で弾いた。


「革を巻くのはどうだ。中に藁か毛を詰めるとか」


「濡れたらどうする」


「そこは困る」


「石で裂けても困る」


 琥珀は少し考えて、車輪の外側を見た。


「油とか、樹脂で水を弾けないかな」


「できるかもしれん。じゃが重くなるかもしれん」


「重くなると、ロクスが大変?」


「ああ。柔らかすぎても、引く力が逃げると思う」


 ラファお姉ちゃんが、静かに図面を見る。


「破れた時に、片側だけ急に沈む可能性もあります」


「道によっては、石や泥の影響も大きそうです」


 ベルグは皆の言葉を聞きながら、図面の端へ短くメモを足していく。


「革。詰め物。水。摩耗。重さ。片側破損」


 炭筆の音は小さい。


 けれど、その音がするたび、さっきの試走で見えたものが、図面の端へ少しずつ残っていった。


「揺れを受け流す仕組み自体は、ないわけじゃない」


 ベルグは、馬力車の床下へ目を向けた。


「じゃが、この大きさになると別じゃ。人を乗せる。荷も積む。ロクスが引く。小さな荷車と同じにはいかん」


 ロクスがうなずく。


「前の荷車より、重さの動きが大きい」


「座席まで揺れが来るのも、そこですね」


 琥珀は馬力車の下をのぞき込んだ。


 車輪。


 軸。


 車体。


 その上に座席。


 地面から来た揺れが、まっすぐ上がってくるように見える。


「車輪の外だけじゃなくて……座るところに来る前に、どこかで受けられたらいいのかな」


 ベルグの炭筆が、床下のあたりへ動く。


「どこで受ける」


「えっと、車輪と座席の間……かな」


 琥珀は少し迷いながら、両手で空中に形を描いた。


「揺れをぎゅっと止めるんじゃなくて、途中で少し逃がすみたいに」


「逃がす、か」


「前に、薄い板で揺れを受ける話をしたよね」


 ベルグは図面の床下に、細い線を一本足した。


 その下へ、もう一本。


 さらにもう一本。


 重ねるように、短い線を置いていく。


「薄板を重ねる」


「鉄か?」


「木では割れが怖い。鉄ならしなる。じゃが、厚すぎれば動かん。薄すぎれば折れる」


「難しいな」


「難しいから、メモを残す」


 ベルグは端へ「重ね薄板」「しなり」「受け流し」と書き添えた。


 ラファお姉ちゃんは、その線の周りを見る。


「しなりすぎると、座席が傾くかもしれません」


「壊れた時に、床が急に落ちるのも危険です」


「左右で動きが違いすぎても、乗る側は怖いと思います」


 ベルグは無言でうなずき、さらに小さな字を足す。


「落下止め。左右差。固定位置」


 ロクスは、図面を見下ろしながら腕を組んだ。


「止まる時の押される感じも、ここに関係するか?」


「全部ではないが、無関係ではない」


「俺が止まっても、後ろの重さが残る」


「乗っている方も、前へ動きました」


「手を置くところがないと、ちょっと怖かった」


 ベルグは座席の横に「手すり」、前側に「停止時の支え」と短く足した。


「座席そのものも、まだ仮じゃ」


「背もたれの固定も必要ですね」


「背中を預けた時に倒れないように、支え方を見たいです」


「足元もいる」


「足がふわってしてた」


 ベルグは、それも小さく書き留めた。


 会話の中で、図面の周りに少しずつ言葉が増えていく。


 大きな発表ではない。


 けれど、一つずつ忘れないように置かれていく。


 琥珀は、その様子を見ながら、自分が座席へ上がった時のことを思い出した。


 自分は、ひょいと上がれた。


 猫族の体は軽く、足もよく動く。


 けれど、それが当たり前ではない。


 琥珀は、工房の入口近くに立っているマーレへ目を向けた。


「マーレさん」


「なんだい?」


「ちょっと、こっちに来てほしい」


 琥珀は馬力車の横へ立ち、マーレへ手を差し出した。


 マーレは少しだけ目を丸くしたあと、やわらかく笑ってその手を取る。


「私が乗るのかい?」


「うん。わたしはこうやって乗れるけど……マーレさんはどうかなって」


 琥珀は座席の横へ手をかけ、軽く体を持ち上げる仕草をして見せた。


 しっぽがふわりと揺れる。


 その動きは、やはりとても軽かった。


「琥珀は本当に身軽だな」


「猫族だからね」


 マーレは琥珀の手を握ったまま、馬力車の端へ手をかけた。


 足を上げようとする。


 けれど、足を置ける場所がはっきりしない。


 手をかける位置も少し遠い。


 体を持ち上げようとすると、思ったより力がいる。


 マーレは途中で動きを止め、馬力車の高さを見上げた。


「これは、少し乗りにくいねえ」


 琥珀の耳が、少しだけ伏せた。


 自分なら乗れる。


 でも、マーレは乗りにくい。


 荷物を持っていたら、もっと大変かもしれない。


 足を痛めていたら。


 病気だったら。


 怪我をしていたら。


 歩くのもつらい人を乗せることになったら。


「……わたしが乗れるから、大丈夫ってわけじゃないんだね」


 ラファお姉ちゃんが、琥珀の横へ静かに立つ。


「そうですね。使う人によって、必要な形は変わります」


「この馬力車、荷物だけじゃなくて、人も乗せるかもしれないよね」


「ああ」


「病気の人とか、怪我をした人とか……歩くのが大変な人を運ぶことも、あるかもしれない」


 マーレは琥珀の手を離さず、ゆっくりうなずいた。


「子どもを抱いた人や、買い物袋を持った人もいるさね」


「片手しか使えない場合もあります」


 琥珀は、馬力車の側面をじっと見た。


 走る時には邪魔にならない。


 でも、乗る時だけ出てきて、足を置けるもの。


 折りたたまれた座席が起き上がる時の、あのわくわくする感じ。


 閉じていたものが開いて、使える形になる感じ。


 琥珀のしっぽが、ゆっくり揺れ始めた。


「乗る時だけ、足を置くところが出てきたらいいのかな」


 ベルグが炭筆を持ったまま、顔を上げる。


「出てくる、か」


「うん。走る時はしまっておいて、乗る時だけ、ここから階段みたいに出るの」


 琥珀は馬力車の横を指差した。


「一段出て、もう一段出て、足を置けるようになったら、マーレさんも乗りやすいかなって」


「踏み段だな」


「うん。でも、ロクス」


「なんだ」


「引く側から見て、どうかな。足を置くところが出たりしまったりするの、困る?」


 ロクスはすぐには答えなかった。


 馬力車の横へ回り、琥珀が指したあたりを見る。


 座席の下。


 車体の横。


 車輪との距離。


 自分が引き具を持つ位置。


 それから、乗る人がそこへ足をかける姿を想像するように目を細めた。


「走ってる時に出てたら、邪魔だ。道の石や草に引っかかるかもしれねえ」


「うん」


「でも、乗る時だけ出るなら助かる。乗る人がふらついた時、俺が前で動かねえようにしていられるからな」


 琥珀はぱっと顔を上げた。


「じゃあ、階段を出した時に、車輪が動かないように止まるのはどうかな」


 ベルグの目が、わずかに細くなる。


「踏み段と車輪止めをつなぐ、ということか」


「うん。階段を出したら、車輪がロックされるの。乗り終わって、階段をしまったら、ロックが外れてまた動けるようにするの」


 琥珀は言ってから、すぐロクスを見る。


「ロクス、それって引く側だと困らない?」


 ロクスは少し考えてから、首を横に振った。


「いや、乗ってる途中で車体が動かないなら助かる。特に怪我人を乗せる時はな」


「本当?」


「ああ。ただ、閉じた時にちゃんと外れないと困る。ロックが半分残ったままだと、俺が引いた時に車輪を傷めるか、俺の足が持っていかれる」


 琥珀の耳がぴんと立ったあと、少し真剣に前を向いた。


「そっか。止まるだけじゃなくて、外れるのも大事なんだ」


「そうだ。動く道具は、止めるより、止めたあとが面倒なこともある」


 ベルグは、図面の側面へ小さな段を描いた。


 座席の下から、外へ伸びる一段。


 その下へ、もう一段。


 そして、車輪の近くへ小さな止め具の印を置いた。


「収納式踏み段。二段。車輪止め連動」


 ラファお姉ちゃんは、そのメモを見つめる。


「階段を出した時に車輪が固定されるなら、乗降中に馬力車が動く危険を減らせます」


「階段が完全にしまわれていない時は動けない、という条件にもできますね」


「解除し忘れと、固定し忘れを減らせるかもしれん」


「ただし、勝手に外れたら駄目だ」


「雨や泥で動かなくなるのも困ります」


「怪我人を支えるなら、横に立つ人の場所も少し欲しいねえ」


 ベルグは、それぞれの言葉を聞きながら、図面の隅へ短い言葉を足していく。


「泥。滑り止め。支える人の立ち位置。固定確認。解除確認」


 琥珀は、足されていく小さな線を見つめた。


 座席。


 手すり。


 足元。


 踏み段。


 車輪止め。


 閉じていたものが開く。


 しまわれていたものが出てくる。


 そして、動いてはいけない時には、ちゃんと止まる。


「折りたたみの椅子だけでも、飛び出す絵本みたいだったのに」


 琥珀のしっぽが、ふりっと揺れた。


「足を置くところまで出てきたら、もっとわくわくするね」


 ベルグは炭筆を止め、琥珀を見た。


 ひげの下で、口元が少しだけ上がる。


「琥珀。お前も、こういう仕掛けをいじるのが好きそうじゃのう」


 琥珀は少し照れながらも、素直にうなずいた。


「好きだよ。閉じてる時は分からないのに、開くとちゃんと使える形になるの、わくわくする」


「でも、楽しいだけじゃ駄目だぞ」


「うん。ちゃんとロクスが使えるようにしないとだよね」


 ロクスは少し驚いたように琥珀を見て、それから小さく息を吐いた。


「……分かってるならいい」


 マーレがくすりと笑う。


「便利な仕掛けはいいさね。だけど、使う人が困らない仕掛けにするんだよ」


「うん」


 ラファお姉ちゃんは、図面の踏み段と車輪止めを見ながら言う。


「手順としても、分かりやすくしたいですね」


「手順?」


「階段を出したら止まる。乗り終えたら階段をしまう。しまわれたことを確認してから進む。動きと確認がつながっていれば、失敗を減らせます」


 琥珀の耳が、ぱたっと小さく動いた。


「確認……声に出したら、忘れにくいかな」


「それはよいですね」


 ラファお姉ちゃんは真面目に言った。


 けれど、琥珀の耳としっぽが少し楽しそうに動いたのを見て、口元をほんの少しだけやわらげる。


「良い確認手順になると思います」


「まだ作ってないぞ」


「あ、うん。今はまだ、考えるだけ」


 琥珀は慌ててうなずく。


 ベルグは図面の端に、小さく「確認手順」とだけ書き添えた。


 そのまま、しばらく何も言わなくなる。


 車輪。


 床下。


 座席。


 踏み段。


 車輪止め。


 手すり。


 ロクスの引き具。


 ベルグの目だけが、それぞれの場所を行き来していた。


 やがて、その視線がほんの一瞬だけ、車体の奥へ滑った。


 床板の下。


 まだ何も置かれていない空間。


 さそり座風車の奥で見た、大きな歯車の動き。


 押し、戻り、噛み合い、また進む力。


 それらが、ベルグの頭の中で音もなく重なった。


 けれど、ベルグは何も言わなかった。


 ただ、ひげの下で口元をゆっくりと上げる。


 ニヤリ。


 ロクスの耳が、ぴくりと動いた。


「……ベルグ」


「なんじゃ」


「その顔を見ると、前の馬力車を思い出す」


 ベルグは図面から目を離さないまま、静かに笑った。


「あれは、あれで必要な形じゃった」


「ああ。分かってる」


 ロクスの声は、責めるものではなかった。


 さそり座風車の地下で守り手となった、あの馬力車。


 工房の試作たちの思いを抱え、ロクスを守る形へ進んだ、あの子。


 ロクスは一度だけ目を伏せ、それから今の馬力車へ視線を戻した。


「今回は、俺が着るものじゃないよな」


「今のところはな」


「今のところ、か」


 ロクスは少しだけ眉を寄せた。


 けれどすぐに、馬力車の横へ回る。


 片手で指を立て、親指と人差し指で小さな枠を作るようにして、車体の横を見た。


「……なるほどな」


「何がじゃ」


「踏み段がここから出るなら、俺が前に立った時にも見える。車輪止めは、引き具の張り方でも分かる方がいい」


 ロクスは指で作った枠を、少し上へ動かした。


「支える人が横に立つなら、手すりはここだけじゃ足りねえかもしれない。荷を積んだ時も、片側に重さが寄りすぎると困る」


 ベルグの目が、わずかに楽しそうに細まった。


「お前も、見えてきたか」


「少しな」


 ロクスはもう一度、馬力車の横幅と床下を見た。


「大きくなった分、困ることも増える。でも、入れられるものも増える」


 ベルグは答えず、図面の隅に短く線を引いた。


 工房の奥には、まだ名前のついていない試作の部品がいくつも眠っている。


 階段に使えそうなもの。


 折りたたみに使えそうなもの。


 収納の動きを助けられそうなもの。


 けれど今は、まだそこまで口に出す時ではなかった。


「二人とも」


 マーレの声が、工房の中へまっすぐ落ちた。


 ベルグとロクスが、同時にそちらを見る。


「今日は図面までだよ」


 ベルグは炭筆を持ったまま、少しだけ肩をすくめた。


「分かっとる」


 ロクスも、指で作っていた枠を下ろした。


「……そうだったな」


「そうやって考えるのはいいさね。でも、考えたまま手を動かすと、またご飯も休憩も飛ぶからね」


「今日は飛ばさん」


「飛ばさねえよ」


 マーレは二人を順に見てから、満足そうにうなずいた。


「ならいいさね」


 琥珀は、そのやり取りを見て、胸の奥が少し温かくなった。


 ベルグだけが作るのではない。


 ロクスだけが引くのでもない。


 琥珀だけが思いつくのでもない。


 ラファお姉ちゃんだけが安全を見ているのでもない。


 マーレだけが止めるのでもない。


 それぞれが見たものを出し合って、馬力車は少しずつ形を変えていく。


 ベルグは図面へ視線を戻した。


 今日足した小さな線とメモを、炭筆の先で順番にたどる。


「柔らかい外輪。重ね薄板。手すり。足元。停止時の支え。座席の固定。背もたれの固定。収納式踏み段。車輪止め連動。荷の重心。確認手順」


 ベルグはそう言いながら、図面の隅にもう一つ、小さな丸を描いた。


 丸の縁には、細かな歯のような印が並ぶ。


 その横に、棒が押して戻るような短い線を添える。


 それは、さそり座風車の奥で見た歯車と、ピストンに少し似ていた。


 ロクスは馬力車の横を見ていた。


 マーレは水の杯を片づけていた。


 ラファお姉ちゃんは、図面に書かれた安全確認の言葉を読んでいた。


 けれど、琥珀だけは見ていた。


 ベルグの炭筆が、今の小さな印を描いたところを。


 琥珀の耳が、ぴくりと動く。


 ベルグは、その印については何も言わなかった。


 ただ、何事もなかったように、炭筆を図面の端へ置いた。


 言葉は、まだ短い。


 形も、まだ曖昧だ。


 けれど、広場で見えたものは確かに残った。


 ロクスは図面を見下ろしながら、腕を組む。


「増えたな」


「増えたのではない。見えたんじゃ」


「それ、いい言い方だな」


「事実じゃろうが」


 琥珀は、未完成の馬力車を見た。


 まだ、何も直っていない。


 揺れも消えていない。


 手すりも、踏み段も、柔らかい外輪も、重ね薄板も、車輪止めも、まだ図面の中にあるだけだ。


 それでも、さっきより進んでいる。


 作る前に、皆で見て、言葉にして、残したから。


「すぐ作らなくても、進んでるんだね」


 ベルグは少しだけ目を細めた。


「そうじゃ。作る前に進むこともある」


「引く前に分かることも、引いてから分かることもある。今日は両方あった」


 ラファお姉ちゃんが、琥珀の隣で静かにうなずいた。


「皆で見たから、見えたものですね」


 マーレは、馬力車と図面を見比べて、満足そうに息を吐く。


「そうやって、勝手に形にするんじゃなくて、みんなで育てていくんだよ」


 琥珀は、工房の中に立つ馬力車を見上げた。


 木と金具になった馬力車が、今度は皆の言葉を受け取って、もう一度図面の上で育ち始めている。


 そして、まだ誰も知らない空白が、その車体の奥に静かに残っていた。


 琥珀は、図面の隅をもう一度だけ見た。


 小さな歯車のような丸。


 その横に添えられた、棒が押して戻るような短い印。


 ベルグは、やはり何も説明しなかった。


 ロクスも、まだ気づいていないようだった。


「……よし」


 ベルグは図面の端を軽く押さえ、開いたままの工房の壁へ目を向けた。


 下がった壁の向こうには、さっき馬力車が走った広場が見えていた。


 午後の光は、少しだけ色を変え始めている。


 土の上には、車輪の跡が薄く残っていた。


「壁を閉じるぞ」


「ああ」


 ロクスが立ち上がり、馬力車の引き具を脇へ寄せた。


 琥珀とラファお姉ちゃんも、図面の前から少し下がる。


 マーレは空になった杯をまとめながら、二人をじっと見た。


「閉じたら、今日は本当に終わりだよ」


「分かっとる」


「俺も分かってる」


「二人とも、返事が早い時ほど怪しいからねえ」


 ベルグは少しだけ顔をしかめた。


「信用が薄いのう」


「昨日と今日で、厚くなる理由が少ないさね」


 ロクスが小さく笑い、肩をすくめた。


「それは言い返せねえな」


 ベルグは壁際へ歩き、重いレバーに手をかけた。


 古い金具が、低く鳴る。


 ゆっくりと力を込めると、広場へ向けて下がっていた壁が、ぎい、と音を立てて動き始めた。


 ごご……。


 工房の床と広場をつないでいた大きな面が、少しずつ持ち上がっていく。


 外の光が、床の上からゆっくり細くなった。


 車輪の跡が見えなくなる。


 土の広場が見えなくなる。


 最後に、午後の空の色だけが細い線になって残り、それも壁の向こうへ消えた。


 重い音を残して、壁が閉じる。


 工房の中が、少し静かになった。


 さっきまで外とつながっていた空気が、木と金具と油の香りを含んだ工房の空気へ戻っていく。


 琥珀は、閉じた壁を見上げた。


「なんだか、試走が終わったって感じがするね」


「ええ。区切りがついたように感じます」


「実際、今日はここまでじゃ」


 ベルグは図面の前へ戻り、広げた紙を静かに見下ろした。


「動くことは分かった。動いたからこそ、分かったこともある」


 ロクスは馬力車の横に立ち、車体を軽く見上げる。


「長い道は、まだ分からねえ。荷を積んだ時も、まだだ。だが、今日の広場だけでも十分分かった」


「次に試すことが見えましたね」


「うん。でも、全部いっぺんに作るんじゃなくて、順番にだよね」


 マーレが満足そうにうなずく。


「そうさね。順番に。休みながら。食べながら。乗る人も、引く人も、作る人も、みんな置いてけぼりにしないでね」


 ベルグは図面を見下ろしたまま、少しだけ口元を緩めた。


「……分かっとる」


 ロクスも静かにうなずく。


「今回は、ちゃんと一緒に見る」


 琥珀の耳が、ふわっと立った。


 その言葉が、うれしかった。


 昨日、勝手に進んでいたものが、今日はみんなの前で止まった。


 そして、みんなで見た。


 動いたところも。


 困ったところも。


 まだ分からないところも。


 ちゃんと置いていけた。


「すぐ完成しなくても、いいんだね」


「いいんです」


 ラファお姉ちゃんは、穏やかに答えた。


「安全に使うためには、分かったことを残す時間も必要です」


「作らない時間も、作る時間なんだね」


 ベルグが、少しだけ目を細める。


「いいことを言うようになったのう」


「えへへ」


 琥珀のしっぽが、照れたように小さく揺れた。


 工房の中には、未完成の馬力車。


 広げられた図面。


 飲み終えた杯。


 片づけを待つ道具。


 閉じた壁の向こうには、広場に残った車輪跡。


 今日の作業は、確かにここで終わる。


 けれど、終わったからこそ、次に進むための形が見え始めていた。


 マーレは杯を布で包み、持ち上げた。


「さて。風月の鐘亭に戻ったら、夕方の支度だよ」


「手伝うよ」


「私も行きます」


「その前に、図面をしまうか」


「いや、まだ触るな。炭が擦れる」


「じゃあ、触らねえ」


「珍しく聞き分けがよいのう」


「今日は図面までって言われたからな」


 ロクスがそう言うと、マーレが少しだけ笑った。


 琥珀もつられて笑う。


 工房の中に、柔らかい空気が戻ってきた。


 その時だった。


 こん、こん。


 工房の扉が、外から控えめに叩かれた。


 皆の動きが、ぴたりと止まる。


 ベルグが顔を上げる。


 ロクスの耳が、扉の方へ向く。


 琥珀のしっぽが、小さく揺れを止めた。


 もう一度。


 こん、こん。


 閉じたばかりの工房に、次の知らせが静かに届いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。