第49話
大きな歯車が軸にはまった翌日。
風月の鐘亭の厨房には、朝からいつもより少し明るい声が重なっていた。
鍋の湯気が立ち、焼いた肉の香りが奥から流れてくる。
まな板の上では、切られた野菜が小さな山になっていた。
琥珀は、湯気の向こうで耳をぴんと立てながら、包み紙を一枚ずつ広げていた。
昨日、さそり座風車の奥で見た大きな歯車。
重くて、硬くて、何人もの職人が声を合わせなければ動かせなかった歯車。
それが軸にはまり、隣の歯車と噛み合い、ゆっくり回った時の音が、まだ胸の奥に残っている。
ごとり、ではなかった。
ぎしり、でもなかった。
もっと深くて、もっと長い音だった。
ずっと眠っていたものが、もう一度自分の場所を思い出したような音。
琥珀は包み紙の端をそろえながら、自然としっぽを左右に揺らした。
「昨日の歯車、すごかったねえ」
隣で弁当箱を並べていたラファお姉ちゃんが、やわらかく目を細める。
「ええ。あの大きさのものが、ちゃんと噛み合って回るのを見られるとは思いませんでした」
「ベルグじい、すっごくうれしそうだった」
「そうですね。顔はいつも通り怖そうでしたけど」
「あはは。怖そうだったけど、目がきらきらしてたよ」
琥珀がそう言うと、厨房の奥からマーレの笑い声が飛んできた。
「ベルグは昔からそうさね。いい物が形になった時だけ、ああいう顔をするんだよ」
マーレは大きな鍋をかき混ぜながら、肩越しにこちらを見た。
「ただし、いい物が形になりそうな時は、食べることも寝ることも忘れるから困るんだけどねえ」
「えっ、寝ることも?」
「忘れるねえ」
「ご飯も?」
「忘れるねえ」
琥珀は耳を少し横に倒した。
ご飯を忘れる。
それは、琥珀にとってかなり大きな事件だった。
「それはだめだよ。お腹すいたら、元気なくなっちゃう」
「その通りさね。だから、ああいう職人には食べさせる人が必要なんだよ」
マーレはそう言って、鍋の火を少し弱めた。
厨房では、今日も昼の弁当の準備が進んでいく。
風月の鐘亭で出す弁当。
職人たちへ持っていく弁当。
それから、少しだけ数を増やすようになった琥珀ちゃん弁当。
最初は名前を聞くだけで耳まで熱くなったけれど、今は包みをそろえる手も少し慣れてきた。
琥珀は小さな弁当箱におかずを詰めながら、ふと遠くの村を思い浮かべた。
リノは、もう手紙を読んだだろうか。
絵も見ただろうか。
琥珀とラファお姉ちゃんが元気にしていることは、ちゃんと伝わっただろうか。
リノが小さな王冠を見せてくれた日のことを思い出すと、琥珀のしっぽが少しだけ跳ねた。
「リノちゃん、もうお手紙読んでくれたかなあ」
ラファお姉ちゃんが、詰め終わった弁当のふたをそっと閉じた。
「運び手の方が順調なら、そろそろ届いている頃かもしれませんね」
「絵も見てくれたかな」
「きっと、見てくれていますよ」
「びっくりするかな」
「すると思います」
「笑ってくれるかな」
「ええ。きっと」
ラファお姉ちゃんの声は、いつも通り穏やかだった。
それだけで、琥珀の胸の中にあった小さなそわそわが、少し温かいものへ変わっていく。
返事がすぐに来るとは思っていない。
遠い場所へ送った手紙は、すぐに戻ってくるものではない。
それでも、届いたかな、と考えるだけで楽しかった。
自分たちの書いた言葉が、今ごろ誰かの手の中にあるかもしれない。
そう思うと、弁当箱へおかずを詰める手も少し弾んだ。
「琥珀、にんじんが一つ多いですよ」
「あっ」
琥珀は慌てて、隣の弁当箱へにんじんを移した。
マーレが奥でくすくす笑う。
「手紙のことを考えてると、手元がお留守になるさね」
「ちゃんと見てたよ」
「今、にんじんが旅に出かけていたけどねえ」
「にんじんは戻したよ!」
琥珀が胸を張ると、ラファお姉ちゃんが口元に手を当てて笑った。
その時、マーレが作業台の端に置いた注文札へ目を向けた。
指先で札を一枚ずつ動かし、数を確認する。
いつもの職人分。
近くの店へ届ける分。
風月の鐘亭で食べる客の分。
琥珀ちゃん弁当の分。
マーレの手が、そこで止まった。
「……おや」
琥珀の耳がぴくりと動いた。
「どうしたの?」
「ベルグたちの分がないねえ」
「ベルグじいの?」
「そうさね。いつもなら、食べに来るか、来られない時は使いの者を寄こすんだけど」
マーレはもう一度、注文札を確認した。
けれど、やはりそこにベルグたちの分はなかった。
琥珀は首をかしげる。
昨日の大きな歯車の点検なら、さそり座風車にいるのかもしれない。
けれど、あれだけ力仕事が続いた後なら、昼の弁当は必要なはずだった。
「風車にいるのかな」
「昨日の歯車の点検をしている可能性はありますね」
「そうだねえ。念のため、見てきた方がよさそうさね」
マーレは作業台の上に並んだ弁当を見て、それから厨房の外へ目を向けた。
「ここの分を包み終えたら、少し風車まで行ってみようかね」
「わたしも行っていい?」
「もちろんさね。ラファも一緒に頼めるかい?」
「はい。私も同行します」
琥珀の耳が、ぴくりと前を向いた。
昨日、大きな歯車が回った街は、今日も昼へ向かって動いている。
けれど、その昼の弁当を待っているはずの二人だけは、まだ姿を見せていなかった。
風月の鐘亭の弁当を包み終える頃には、昼前の光が店先まで差し込んでいた。
マーレは出来上がった弁当を手早く並べ、届け先ごとに包みを分けていく。
琥珀も、包み紙の端をそろえながら、何度も注文札を見た。
やはり、そこにベルグとロクスの分はない。
いつもなら、どちらかが顔を出す。
それが無理なら、工房の手伝いか、風車で働く職人の誰かが注文を伝えに来る。
けれど今日は、それがなかった。
「じゃあ、まずは風車を見てくるさね」
マーレは弁当の包みを一つ持ち上げた。
「これは、向こうで働いている職人たちの分。ベルグたちがいなくても、他の者はちゃんと食べさせないとね」
「うん!」
「琥珀ちゃん、足元に気をつけてくださいね」
「大丈夫。ちゃんと見るよ」
琥珀はそう言って、耳を前へ向けた。
風月の鐘亭を出ると、街の空気は昨日より少しだけ軽く感じた。
さそり座風車の大きな歯車が回ったことは、もう職人たちの間だけの話ではなくなっている。
通りの端では、荷物を運ぶ人たちが昨日の試運転の話をしていた。
店先では、風車の方を見ながら笑う人もいる。
誰かが直したものは、誰かの暮らしへ少しずつ届いていく。
琥珀はそれを感じながら、しっぽをゆっくり揺らした。
「昨日の音、街の人にも聞こえたのかな」
「近くにいた方には、聞こえていたかもしれませんね」
「大きかったよね」
ラファお姉ちゃんが小さく笑った。
「はい。とても大きくて、頼もしい音でした」
マーレが前を歩きながら、肩を揺らした。
「頼もしい音がした翌日に、昼飯を忘れていたら、頼もしいんだか困ったものなんだか分からないけどねえ」
「ベルグじい、ほんとに忘れてるのかな」
「まだ決めつけるのは早いさね。風車で点検しているかもしれないよ」
そう言いながらも、マーレの声には、どこか分かっているような響きが混じっていた。
長く一緒に街で暮らしてきた人だけが持っている、少し呆れたような、でも心配しているような響きだった。
さそり座風車に近づくと、昨日見た足場がまだ残っていた。
大きな資材を運び込んだ跡。
歯車を引き上げるために使った太い縄。
仮置きされた板。
昨日の作業の熱が、まだそこかしこに残っているようだった。
入口の近くでは、数人のドワーフ職人が部品を点検していた。
マーレが声をかける。
「お昼だよ。弁当を持ってきたさね」
「おお、助かる!」
「腹が鳴って、金槌よりうるさくなるところだった」
職人たちは笑いながら弁当を受け取った。
琥珀はその間に、風車の奥へ目を向ける。
昨日、大きな歯車が取り付けられた場所へ続く道。
ベルグなら、まずそこを見ていそうな気がした。
ロクスなら、腕を組みながら「悪くねえ」と言っていそうな気がした。
けれど、その声は聞こえない。
「あの、ベルグじいとロクスは?」
琥珀が尋ねると、弁当を受け取った職人が首をかしげた。
「ベルグ親方か? 今日はまだ見てねえな」
「ロクスも?」
「ロクスもだ。昨日の最後の点検まではいたが、今朝はこっちには来てねえ」
琥珀の耳がぴくりと動いた。
ラファお姉ちゃんも、少しだけ目を細める。
「今朝から、こちらには来ていないのですか?」
「ああ。俺らはてっきり、工房で何かまとめてから来るのかと思ってたんだが」
その言葉を聞いた瞬間、マーレの眉がゆっくりと上がった。
怒っている。
けれど、ただ怒っている顔ではなかった。
長い付き合いだからこそ、理由まで分かってしまった人の顔だった。
「……あの二人」
マーレは低くつぶやいた。
琥珀は、昨日のことを思い出した。
大きな歯車が回ったあと。
ベルグが点検を終え、こいつはもう仮ではない、と言ったこと。
ロクスがじっと何かを考えていたこと。
それから、少し前にみんなで描いた馬力車の図面。
軽さ。
丈夫さ。
荷物を積む場所。
琥珀とラファお姉ちゃんが座れる折りたたみ座席。
止まる仕組み。
ロクスの新しい足。
琥珀の耳が、ぴんと立った。
「あ」
ラファお姉ちゃんが、琥珀を見た。
「琥珀ちゃん?」
「あーーー!」
声は、風車の入口に響いた。
弁当を受け取っていた職人たちが、びくっと肩を揺らす。
マーレは弁当の空いた籠を持ったまま、大きく息を吐いた。
「気づいたかい」
「ベルグじいとロクス、工房だ!」
「でしょうねえ」
マーレの笑顔は、やさしかった。
ただし、目はあまり笑っていなかった。
「ほんとうに、あの二人は作ることになると我を忘れるねえ」
「ご飯も忘れてる?」
「たぶんね」
「寝るのも?」
「もしかしたら、少し怪しいさね」
琥珀は耳を横に倒した。
ラファお姉ちゃんは困ったように笑いながら、風車の奥と街の方を見比べる。
「工房へ向かいますか?」
「もちろんさね」
マーレは籠を持ち直した。
「ここの分は渡した。あとは、昼飯を忘れている職人二人を回収するだけさね」
「回収……」
「そう。回収だよ」
その言い方に、近くのドワーフ職人たちがそっと視線をそらした。
誰も止めない。
誰も助けに行こうとはしない。
むしろ、全員が少しだけ安心したような顔をしている。
「ベルグ親方によろしくな」
「ロクスにも、ちゃんと食えって言ってやってくれ」
「言うだけで済めばいいけどねえ」
マーレはにこりと笑った。
琥珀は、その笑顔を見て、しっぽをそっと下げた。
怒っている。
でも、心配している。
ベルグとロクスが何かを作っていると分かっているからこそ、放っておけない。
それは、風月の鐘亭の昼の弁当が、ただの食事ではないからだった。
働く人が、午後もちゃんと働けるように。
夢中になりすぎた人が、ちゃんと戻ってこられるように。
マーレはいつも、そうやって街の人たちを食べさせていた。
「行こう、ラファお姉ちゃん」
「はい。少し急ぎましょう」
「急ぐ必要はあるさね。でも、走らなくていいよ」
マーレは街へ続く道を歩き出した。
「お説教は、逃げられない速さで行くのが一番だからね」
琥珀は思わず背筋を伸ばした。
ラファお姉ちゃんが、そっと琥珀の背中に手を添える。
さそり座風車の入口には、昨日の大きな歯車が回った余韻がまだ残っていた。
その余韻を背に、琥珀たちはベルグ工房へ向かう。
昼の弁当を忘れた二人と、きっと何か新しいものを形にし始めている二人のもとへ。
さそり座風車からベルグ工房へ向かう道は、昼の光で白く明るかった。
昨日、大きな歯車を運んだ職人たちの声が残っているような街の中を、琥珀たちは少し急ぎ足で進んでいく。
先頭を歩くマーレの背中は、いつもと同じようにまっすぐだった。
けれど、持っている籠が少しだけ揺れている。
怒っている。
でも、ただ怒っているだけではない。
琥珀はその後ろを歩きながら、耳をそっと前に向けた。
「ベルグじいとロクス、本当に工房かな」
「可能性は高そうですね」
「馬力車の図面、見てたのかな」
「見ているだけで済んでいるといいのですけれど」
ラファお姉ちゃんが静かに言うと、前を歩いていたマーレが、肩越しにちらりとこちらを見た。
「見ているだけで済むなら、昼飯を忘れたりしないさね」
その声は穏やかだった。
穏やかだったからこそ、琥珀はしっぽをそっと下げた。
やがて、ベルグ工房の屋根が見えてきた。
工房の扉は、半分だけ開いている。
中から、金属を置く軽い音がした。
続けて、木材が床の上を引きずられる音。
それから、低い声。
「そこじゃねえ。もう半分、後ろだ」
「分かっとる。じゃが、ここを下げすぎると、座席を出した時に尻が沈む」
「荷を積むなら前だ。だが、乗せるなら真ん中だろ」
「だから難しいんじゃろうが」
琥珀は、扉の前で足を止めた。
中の二人は、まったくこちらに気づいていない。
マーレも、扉を押し開けようとはしなかった。
ただ、少しだけ身をずらして、中を見た。
琥珀も、その横からそっと工房の中をのぞいた。
工房の床には、木材と金具と図面が広がっていた。
作業台の上には、昨日の大きな歯車の記録らしい紙が何枚も重ねられている。
軸の傷。
噛み合わせの深さ。
回した時の揺れ。
歯の当たり方。
細かい線と数字が、びっしり書き込まれていた。
ベルグは、ちゃんと昨日の仕事をまとめていた。
その記録の隣に、別の図面が置かれている。
少し前に、みんなで広げた馬力車の図面。
そこには、新しい線がいくつも足されていた。
車体の幅。
ロクスが引く位置。
荷台の長さ。
座席を折りたたむための板。
止めるための足。
指を挟まないようにする隙間。
琥珀は、思わず息をのんだ。
図面の線が、目の前で形になっていた。
工房の真ん中に、まだ未完成の馬力車がある。
前の馬力車より、少し大きい。
けれど、ただ大きくしただけではなかった。
低く、広く、ロクスが引いた時に力が逃げすぎないように、木の枠が組まれている。
車輪は仮のものだが、左右に取り付けられていた。
荷台になる場所はまだ空っぽで、仕切りもない。
幌もない。
雨を避ける布も、夜に使う灯りも、長く揺れを逃がす仕組みも、まだついていない。
それでも、そこには確かに、前へ進むための形があった。
「……馬力車」
琥珀の声は、小さかった。
ベルグとロクスには届かない。
ラファお姉ちゃんが、琥珀の隣で静かに工房の中を見つめる。
その目が、車体の横に置かれた細い木枠へ向いた。
「あれは……座席の枠でしょうか」
琥珀も、その木枠を見た。
二人分の幅。
低く畳まれた板。
背もたれになりそうな支え。
まだ布も留め具もついていない。
けれど、それは明らかに、琥珀とラファお姉ちゃんが座るために考えられた形だった。
琥珀の耳がぴんと立つ。
胸の奥が、ぱっと明るくなった。
自分たちのための場所がある。
それは、とてもうれしいことだった。
でも、そのうれしさの奥に、少しだけ別の気持ちが混ざった。
呼んでほしかった。
一緒に見たかった。
座る場所なら、自分たちも確かめたかった。
琥珀は、しっぽの先を小さく丸めた。
工房の中では、ベルグとロクスがまだ話し続けている。
「座席は出せる。じゃが、固定が甘い。ここをこのままにすると、曲がり道で揺れる」
「なら、留め具を二重にするか」
「二重にすれば硬くなる。琥珀が手を挟む場所を増やす気か」
「それはだめだ」
「じゃろうが」
「でも、ラファが乗るなら背もたれはいる。琥珀も、急に立ち上がったら危ねえ」
「そこも考えとる。背もたれは低すぎても高すぎてもいかん。荷台との兼ね合いもある」
「荷物も積む。人も乗せる。俺も引く。……欲張りすぎじゃねえか、これ」
「欲張っとるから面白いんじゃ」
ベルグは図面を指で叩いた。
ロクスは馬力車の前側に立ち、引き具の位置を手で確かめる。
まだ革も縄もついていない仮の枠。
それでもロクスの手つきは真剣だった。
ただの荷車ではない。
自分の新しい足を確かめている手だった。
琥珀は、その横顔を見て、さっきまでの少し寂しい気持ちが揺れた。
ロクスも、本気だった。
ベルグも、本気だった。
ただ、二人とも本気になりすぎて、周りが見えなくなっている。
工房の隅には、手をつけた跡のある湯冷ましの杯が一つ置かれていた。
その横に、かじりかけの硬いパン。
もう一つの皿は、ほとんど空のままだった。
琥珀は、それを見て小さく眉を寄せた。
ちゃんと食べたのか、少し怪しい。
寝たのかも、少し怪しい。
マーレは何も言わなかった。
ただ、工房の中を見ていた。
大歯車の記録。
馬力車の図面。
散らばった木材。
仮組みの車体。
食べかけのパン。
そして、こちらに気づかないまま目を輝かせているベルグとロクス。
マーレは籠を持っていない方の手を、ゆっくり腰へ当てた。
その横顔は、にこにこしていない。
けれど、怒鳴り込む顔でもなかった。
長い付き合いだから分かる。
作ることに夢中になった二人が、どこまで進んでしまったのか。
そして、どこで止めなければならないのか。
ラファお姉ちゃんが、そっと琥珀の肩に手を置いた。
「琥珀ちゃん」
「うん」
琥珀は小さくうなずいた。
工房の中では、ベルグが木枠を軽く叩き、ロクスがそれを支えている。
まだ未完成。
でも、もうただの図面ではない。
新しい馬力車は、声をかけられることもなく、工房の昼の光の中で、確かに形を持ち始めていた。
マーレが、静かに一歩だけ前へ出た。
工房の中では、ベルグとロクスがまだ図面と馬力車の間を行き来している。
ロクスは仮の引き具に手をかけ、少し腰を落とした。
「ここをもう少し低くすれば、引き始めが楽になる。けど、荷を積んだ時に前へ寄りすぎるか」
「そこは後ろの支えで逃がす。じゃが、逃がしすぎると座席を出した時に揺れる」
「座席か。琥珀とラファが乗るなら、そこは外せねえな」
「外せるわけがなかろう。最初から、そのための馬力車じゃ」
琥珀の胸が、少しだけ温かくなった。
ちゃんと考えてくれている。
自分とラファお姉ちゃんが乗る場所を、二人は本気で作ろうとしている。
けれど、その温かさのすぐ横に、やっぱり小さな寂しさもあった。
それなら、呼んでほしかった。
一緒に見たかった。
琥珀がそう思った時、マーレが音もなくロクスの背後へ回った。
ロクスはまだ気づかない。
「まずは、この枠を仮で締めて――」
その言葉の途中で、マーレの手が伸びた。
ぐいっ。
ロクスの襟元が、後ろから確かにつかまれる。
「うおっ!?」
ロクスの体が、作りかけの馬力車から少し引き離された。
工具を持っていた手が宙で止まる。
突然のことに、ベルグが目を丸くした。
「なんじゃ、ロクス。急に――」
そのベルグの襟元も、次の瞬間、同じようにつかまれた。
「ぬおっ!?」
ベルグも、作業台の前からぐいっと引き戻される。
乱暴ではない。
けれど、逃げられる力でもなかった。
琥珀は思わず耳をぴんと立てた。
ラファお姉ちゃんも、目を丸くしている。
マーレは、片手でロクスの襟元を、もう片方の手でベルグの襟元をつかんだまま、にこにこと微笑んでいた。
ただし、その笑顔は、さっき風車で見た時よりもずっと近くて、ずっと怖かった。
「ベルグ。ロクス」
そこで初めて、マーレは二人の名を呼んだ。
つかんだ襟元は、離さない。
「……ずいぶん楽しそうだねえ」
工房の空気が、ぴたりと止まった。
ロクスの耳が、びくりと立った。
ベルグの眉が、ぎこちなく上がる。
「マ、マーレ……」
「おう、マーレ。いや、これはだな……」
「言い訳は後で聞くさね」
マーレはにこにこしたまま、二人を工房の広い床の方へ引っ張った。
ベルグとロクスは、抵抗しなかった。
というより、抵抗できなかった。
「そこに正座」
「正座!?」
「わしもか!?」
「二人ともさね」
短い言葉だった。
けれど、そこには逆らえない力があった。
ベルグとロクスは、顔を見合わせたあと、工房の床にそろって正座した。
ロクスの膝は少し窮屈そうで、ベルグは腕を組もうとして、マーレの視線に気づいてそっと手を膝の上に置いた。
琥珀は、入口のそばでそっとラファお姉ちゃんを見上げる。
ラファお姉ちゃんは小さく苦笑していた。
けれど、止めようとはしない。
マーレは二人の前に立ち、腰に手を当てた。
「まず聞くよ。あんたたち、昨夜ちゃんと寝たのかい」
ベルグとロクスの視線が、ほんの少しだけ横へ泳いだ。
「寝たぞ」
「少しは寝た」
マーレは何も言わなかった。
ただ、にこにこと微笑んだまま、ベルグとロクスを見下ろしている。
その沈黙だけで、二人の背筋が少しずつ伸びていった。
「じゃあ、ご飯は食べたのかい」
ベルグとロクスは、同時に工房の隅を見た。
そこには、かじりかけの硬いパンと、手をつけた跡のある湯冷ましの杯がある。
琥珀の耳が、すっと横に倒れた。
「あれだけ?」
ロクスが、気まずそうに頭をかいた。
「いや、朝にちょっとな」
「ちょっと、とはどれくらいさね」
「……パンを半分」
「ベルグは?」
「わしは……記録を書きながら、少し」
マーレは、また何も言わなかった。
けれど、視線だけが、ゆっくりとベルグの膝の上へ落ちる。
ベルグの手が、そっと握られた。
ロクスも、正座したまま目をそらせなくなっている。
琥珀は、思わず息を止めた。
怒鳴っているわけではない。
責め立てているわけでもない。
けれど、マーレの沈黙は、工房の床に落ちた工具の音よりも重かった。
「職人の手は、腹が空いていても動くかもしれない。けれどね、腹が空いたまま作ったものに、人を乗せるんじゃないよ」
ベルグもロクスも、黙った。
琥珀は、マーレの横顔を見た。
怒っている。
でも、それは作ることを否定する怒りではなかった。
食べずに、寝ずに、大事なものを作ろうとすることを叱っている。
人を乗せるものだから。
ロクスの足になるものだから。
琥珀とラファお姉ちゃんの体を預けるものだから。
マーレは、そこを見ていた。
「それから、もう一つ」
マーレの視線が、馬力車へ向いた。
まだ未完成の馬力車。
低い木枠。
仮の車輪。
荷台。
座席になるはずの板。
マーレはそれを見てから、もう一度ベルグとロクスへ目を戻した。
「その馬力車は、誰のために作ってるんだい」
ロクスが口を開きかけて、止まった。
ベルグも、すぐには答えなかった。
「ロクスの足になるものだろう」
「……ああ」
「荷物を運ぶものでもあるね」
「そうじゃ」
「それから、琥珀とラファが乗る場所もある」
琥珀のしっぽが、小さく揺れた。
ラファお姉ちゃんの手が、そっと琥珀の肩に触れる。
「だったら、乗る子たちを置いてけぼりにして、勝手に形にするんじゃないよ」
その言葉に、工房の中が少し静かになった。
ベルグは膝の上で手を握った。
ロクスは、まっすぐ琥珀を見た。
「琥珀、すまねえ」
「ロクス……」
「俺もベルグと語りだしたら、止まらなくなっちまった。お前たちを外すつもりはなかった。でも、結果的にそうなった」
ロクスの声は、いつものように荒っぽい。
けれど、軽くはなかった。
琥珀は少しだけ耳を伏せたまま、ロクスを見る。
「わたし、馬力車ができてるのはうれしかったよ」
ロクスが、少しだけ目を見開いた。
「でも、びっくりした。座るところもあったから、うれしかったけど……一緒に見たかった」
琥珀は、そこまで言ってから、しっぽの先を少し丸めた。
「わたしとラファお姉ちゃんが乗るところなら、わたしたちも確かめたい」
ラファお姉ちゃんが、静かにうなずいた。
「私も同じです。作ってくださったことは、とてもありがたいです。けれど、乗る側として確認したいこともあります」
「座った時の高さ、背もたれの位置、手を置く場所。琥珀ちゃんが安全に乗り降りできるかどうかも、実際に見なければ分かりません」
ベルグは、深く息を吐いた。
「……その通りじゃ」
マーレが、少しだけ目を細める。
ベルグは正座したまま、作業台の上の記録へ視線を向けた。
「歯車がはまった後、点検して記録を細かくまとめとったんじゃ」
ベルグの声は、いつもの大きさより少し低かった。
「軸の当たり、歯の噛み合わせ、回した時の揺れ。昨日のうちに見えたものを、忘れんうちに残しておきたかった」
作業台の上には、確かに記録が何枚も重なっている。
琥珀は、昨日の大きな歯車を思い出した。
あれだけ大きなものが動いたなら、記録することも多かったはずだ。
「それで、記録をまとめた後、ロクスと一緒に馬力車の図面を見とった」
ベルグは気まずそうに、ひげのあたりを指でなでた。
「ここはこうした方がいい。いや、このままでは重い。座席を出すなら支えがいる。荷を積むなら、重心が逃げる。そんな話をしとったら……」
「いつの間にか、木を出してた」
「いつの間にか、車輪を合わせとった」
「いつの間にか、枠を組んでた」
「いつの間にか、ここまでやってもうた」
ベルグとロクスは、同時に少しだけ肩を落とした。
マーレは腕を組んだまま、二人を見下ろしている。
「いつの間にか、で昼飯も連絡も忘れたわけだね」
「……すまん」
「すまねえ」
マーレは、しばらく黙っていた。
二人を見て、工房を見て、作業台の上の記録を見て、最後に未完成の馬力車へ目を向ける。
琥珀は正座しているベルグとロクスを見て、少しだけくすっとした。
こんなふうに並んで小さくなっている二人は、なかなか見られない。
けれど、胸の奥にはまだ温かいものも残っている。
二人は、本当に考えてくれていた。
ロクスの足。
荷物を運ぶ場所。
琥珀とラファお姉ちゃんの座席。
危なくないようにする仕組み。
勝手に進んでしまったのは嫌だったけれど、その中にある気持ちは、ちゃんと分かった。
未完成の木枠が、工房の昼の光を受けている。
まだ何も積んでいない荷台。
まだ布もついていない座席。
まだ長旅には足りない、空いた場所の多い形。
それでも、それは確かに、ロクスの新しい足として、琥珀たちの旅の場所として、生まれ始めていた。
マーレは小さく息を吐いた。
「作るのはいいさね」
ベルグとロクスが、そろって顔を上げる。
「けど、ここから先は、食べて、寝て、勝手に進めないこと。分かったね」
「分かった」
「分かったわい」
「それから、この馬力車は、あんたたちだけのものじゃない」
マーレの声は、少しやわらかくなっていた。
「ロクスの足で、琥珀とラファが乗る場所で、これから先へ進むためのものさね」
琥珀は、馬力車を見た。
ラファお姉ちゃんも、同じように見ている。
まだ未完成。
でも、もうそこにある。
図面の上だけにあった線が、木と金具になって、昼の工房に立っている。
マーレは、正座した二人の前で腕を組み直した。
「だから、勝手に形にするんじゃないよ」
ベルグとロクスは、今度こそ深くうなずいた。
工房の中に、少しだけ静かな時間が落ちた。
ベルグとロクスは、正座したまま深くうなずいている。
琥珀は、二人と、工房の真ん中にある馬力車を交互に見た。
叱られている二人は、いつもより少し小さく見える。
けれど、その向こうにある馬力車は、確かに大きく見えた。
まだ未完成。
まだ空っぽ。
まだ、どこへも進んでいない。
それでも、紙の上の線ではなくなっている。
木と金具と、考えた時間と、止まらなくなった二人の手で、そこに形を持ち始めている。
マーレは腕を組んだまま、しばらく馬力車を見ていた。
低く組まれた木枠。
前のものより少し広い荷台。
ロクスが引くための前側の位置。
琥珀とラファお姉ちゃんが座るために用意された、まだ板だけの座席枠。
仮の車輪。
まだついていない幌。
まだ空いたままの荷物仕切り。
まだ何も入っていない工具の場所。
マーレは、正座しているベルグとロクスの前で、小さく息を吐いた。
「だけど、一応は形にしたんだね」
ベルグの肩が、ぴくりと動いた。
ロクスの目も、ほんの少しだけ上がる。
マーレは二人を見ずに、馬力車を見たまま続けた。
「前より少し大きいけど、いい形じゃないか」
その瞬間、正座していたベルグとロクスの顔が、同時に少しだけ緩んだ。
叱られている途中だというのに、二人の口元がどうしても上がっていく。
ベルグは必死にひげの下で口元を隠そうとした。
ロクスは下を向いた。
けれど、どちらも隠しきれていなかった。
琥珀は、思わずくすっと笑った。
「ベルグじいとロクス、笑ってる」
「笑っていますね」
「笑っとらん」
「笑ってねえ」
二人はほとんど同時に言った。
けれど、声の端が完全に弾んでいた。
マーレはゆっくりと二人へ視線を戻した。
にこにこと微笑んでいる。
その瞬間、ベルグとロクスの背筋が、また少し伸びた。
「褒めたからって、お説教が終わったわけじゃないよ」
「……分かっとる」
「分かってる」
「ならよろしい」
マーレはそう言うと、持ってきた籠を作業台の上に置いた。
包みの中から、弁当を二つ取り出す。
それから、もう一つ。
予備に持ってきた包みも置いた。
「まず食べる」
ベルグとロクスが、同時に弁当を見た。
「今か?」
「今さね」
「作業の途中なんじゃが」
マーレの目が、すっと細くなった。
ベルグはすぐに口を閉じた。
「途中だから食べるんだよ」
マーレは弁当を二人の前へ置いた。
「腹が空いたまま続きをやれば、いい形も悪い形になる。手元も狂う。考えも狭くなる。人を乗せるものなら、なおさらさね」
ロクスは、少しだけ困ったように頭をかいた。
「……返す言葉がねえ」
「返す前に食べる」
「はい」
「ベルグも」
「分かっとるわい」
ベルグはそう言いながら、弁当の包みを開いた。
ロクスも、隣で包みをほどく。
立ちのぼる温かな香りが、工房の中へふわりと広がった。
くきゅ~~う。
その瞬間、琥珀のお腹が小さく鳴った。
「……あっ」
琥珀は慌てて両手でお腹を押さえた。
耳の先まで熱くなり、顔が少しずつ赤くなっていく。
ラファお姉ちゃんが、口元に手を当ててそっと笑った。
マーレはそれに気づくと、にこりと笑って、籠の中からもう一つ包みを取り出した。
「琥珀たちの分もちゃんとあるよ。こっちは一緒に食べながら、馬力車を見るさね」
「い、いいの?」
「もちろんさね。乗る子たちが見る時間も必要だろう?」
琥珀の耳が、ぱっと立った。
「うん!」
ラファお姉ちゃんも、やわらかく微笑んだ。
「ありがとうございます、マーレさん」
「礼を言うのは、ちゃんと食べてからでいいさね」
工房の床に、少しだけ昼の場所ができた。
工具を端に寄せ、図面を汚さないように丸める。
馬力車のすぐそばで、ベルグとロクスは正座のまま弁当を食べ始めた。
琥珀とラファお姉ちゃんは、その少し横に座る。
マーレは立ったまま腕を組み、二人がちゃんと食べているか見張っていた。
ベルグは一口食べると、少しだけ目を細めた。
「……うまい」
「そりゃそうさね」
ロクスも大きく一口食べて、深く息を吐いた。
「腹減ってたんだな、俺」
「今さら気づいたのかい」
「作ってる時は、気づかなかった」
「だから叱ってるんだよ」
琥珀は、口元に手を当てて笑った。
ラファお姉ちゃんも、小さく肩を揺らしている。
お説教されている二人は少し情けない。
でも、その情けなさが、なんだかとても安心できた。
風車の奥で大きな歯車を扱う人たちも。
ロクスの新しい足を作ろうとする人たちも。
お腹が空けば手が止まる。
寝なければ力が落ちる。
そして、誰かがちゃんと食べさせに来る。
琥珀は、そのことが少しうれしかった。
弁当を食べながら、琥珀は馬力車へ視線を向けた。
改めて見ると、やはり前の馬力車より少し大きい。
低い木枠はしっかりしている。
けれど、重くなりすぎないように、ところどころが抜かれていた。
荷台になる場所は、まだ広く空いている。
座席の枠は、まだただの板に近い。
背もたれも仮で、留め具もない。
足元の位置も、乗り降りのための手すりも、これから決めなければならない。
「ここに、わたしとラファお姉ちゃんが座るんだよね」
ロクスは弁当を飲み込んでから、うなずいた。
「ああ。そのつもりだ。ただ、まだ座らせるには早い。固定も足りねえし、背もたれも仮だ」
「でも、場所はある」
「ある」
その短い返事だけで、琥珀の胸が少し温かくなった。
ラファお姉ちゃんが、座席枠を静かに見つめる。
「二人分の幅を取ってくださったのですね」
「狭くすれば荷を積める。広くすれば乗る者が楽になる。そこでもめとった」
「もめてたの?」
「もめとったというより、考えとったんじゃ」
「ベルグは荷を削りすぎるなって言うし、俺は座る場所を狭くしすぎるなって言った」
「どっちも大事だね」
「そうじゃ。どっちも大事じゃから、難しい」
ベルグは弁当を食べながら、馬力車の横枠を見た。
「軽くせねば、ロクスの足に負担がかかる。だが軽くしすぎれば、人を乗せた時に頼りない。荷を積めねば仕事にならん。じゃが荷を積むことばかり考えれば、座る者が怖い思いをする」
ロクスがうなずく。
「俺が引く。荷も積む。琥珀とラファも乗る。全部やるなら、まだここからだ」
「まだ、ここから」
琥珀はその言葉を小さく繰り返した。
完成したわけではない。
でも、始まった。
紙の上の線だったものが、今日、木の枠になった。
ロクスの言う通り、ここからいくつも確かめなければならない。
座る高さ。
背もたれ。
荷物の場所。
止まる仕組み。
雨の日。
夜の道。
山道。
長い移動。
まだ何も終わっていない。
けれど、その「まだ」が、琥珀には少し楽しく感じられた。
「じゃあ、ここからはちゃんと一緒に見ようね」
ロクスは真面目な顔でうなずいた。
「ああ。この後は、お前たちにもちゃんと確かめてもらう」
「座る高さも、背もたれも、手を置く場所も、ここから一緒に見るんじゃ」
マーレが横からじっと見る。
ベルグとロクスは、もう一度うなずいた。
「食べて、寝て、勝手に進めない」
「食べて、寝て、乗る者に確かめる」
「よろしい」
マーレは満足そうにうなずいた。
その言い方に、琥珀はまたくすっと笑った。
ラファお姉ちゃんも、やさしく目を細めている。
最初は、お説教されている二人を見て、少しだけおかしかった。
でも今は、それだけではなかった。
マーレが馬力車を見て「いい形」と言った時から、工房の中の空気が少し変わっていた。
怒られている。
でも、否定されているわけではない。
失敗を叱られている。
でも、生まれたものは認められている。
そしてその馬力車は、もう作る人だけのものではなくなっていた。
琥珀は、それがとても温かいことだと思った。
工房の昼の光の中で、未完成の馬力車が静かに立っている。
まだ幌はない。
まだ灯りもない。
まだ荷物の仕切りもない。
まだ長い旅には出られない。
それでも、そこにはロクスの足があり、琥珀とラファお姉ちゃんの座る場所があり、これから先へ進むための形があった。
琥珀は弁当を手にしたまま、そっとしっぽを揺らした。
「ねえ、ラファお姉ちゃん」
「はい」
「この子、ここからみんなで進めていくんだね」
ラファお姉ちゃんは、馬力車を見つめたまま、やわらかく微笑んだ。
「ええ。まだ生まれたばかりですけれど、ここから一緒に進めるようになります」
ベルグとロクスは、正座したまま弁当を食べている。
マーレはその前で、まだ見張るように腕を組んでいる。
けれど、その横顔は少しだけやわらかかった。
馬力車は、まだ完成していない。
けれど、工房の昼の光の中で、確かに一つの形になっていた。
作る者だけでなく、乗る者も一緒に確かめながら。
これから先へ進むための、新しい足として。




