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第46話

 初めて風車へ弁当を届けた日から、数日が過ぎていた。


 昼の鐘が鳴る少し前、風月の鐘亭では、食堂の客へ出す料理と、持ち帰り用の弁当の準備が重なっていた。


「琥珀ちゃん、魚のおにぎりは、あと三つです」


「こっちも、もうすぐできるよ!」


 琥珀は手のひらの上に載せた米を、崩さないように形へ整えた。


 数日前までは丸い丘のようになっていたおにぎりも、今では三つの角らしいものが見えるようになっている。


 もっとも、並べてみれば、少し背の高いものや、片側だけふくらんだものも混じっていた。


「今日は、ちゃんと三角になってるでしょ?」


「はい。少なくとも、丸ではありません」


「もう少し褒めてもいいんだよ?」


「前回より、確実に上達しています」


「えへへ」


 琥珀の耳が嬉しそうに立った。


 厨房の反対側では、マーレが焼いた肉と野菜を手早く弁当箱へ詰めている。


 しっかり食べられる量と、いつ食べても変わらない味で選ばれるマーレ弁当。


 おにぎりと、形を工夫したおかずが入った琥珀ちゃん弁当。


 いつの間にか、その二つは風月の鐘亭で並んで注文されるようになっていた。


「マーレ弁当を二つくれ!」


「こっちは琥珀ちゃん弁当だ。まだ残ってるか?」


「あと三つだよ。欲しいなら、今のうちに決めな」


「じゃあ二つ!」


「俺も一つ頼む!」


「はい、これで琥珀ちゃん弁当は終わりだよ」


 マーレが最後の三つに蓋をすると、少し遅れて食堂へ入ってきた男が、空になった置き場所を見て足を止めた。


「もうないのか?」


「今日はね」


「昨日も間に合わなかったんだぞ」


「だったら、明日はもう少し早く来ることだねえ」


 マーレが口元だけで笑う。


 男は悔しそうに頭を掻いたあと、隣に残っていた弁当へ目を向けた。


「じゃあ、今日はマーレ弁当をもらう。明日は鐘が鳴る前に来るからな」


「はいよ」


 そのやり取りを聞いていた琥珀は、空になった木のトレーと男の背中を交互に見た。


「マーレさん、明日はもっとたくさん作ろうよ」


「どうしてだい?」


「だって、買えなかった人がいたよ?」


「だから、明日は早く来るって言っただろう?」


「うん。でも、数を増やせば、その人も買えるよ?」


 マーレは次の注文へ弁当を渡しながら、琥珀へ視線だけを向けた。


「売れるからって、急に倍も三倍も作るものじゃないよ」


「でも、全部売れるかもしれないよ?」


「売れなかったら、残った分はどうするんだい?」


「それは……みんなで食べる?」


「毎日、食べ切れるとは限らないだろう?」


 琥珀の耳が少し横へ傾いた。


 マーレは、最後に残っていた自分の弁当に蓋をする。


「作れる数を守って、きちんと売り切る。今日買えなかった客は、明日こそ買おうと思う」


 そこで一度言葉を切り、また口元を緩めた。


「少し足りないくらいが、次の日の楽しみになることもあるのさ」


「わざと全部作らないの?」


「欲しがってる客へ意地悪するほど減らしはしないよ。材料と、作れる数と、昨日までの売れ方を見て決めるんだ」


「むずかしい……」


「だから商売なんだよ」


 その直後、残っていた最後のマーレ弁当も客の手へ渡った。


「これで、今日は両方とも終わりだ」


「全部なくなった!」


 琥珀のしっぽが高く上がる。


 空になった二つの木のトレーを見ていると、忙しかったはずの厨房が、急に少し広くなったように感じられた。


「喜ぶのはいいけど、片付けるところまでが仕事だよ」


「分かってるよ!」


 琥珀とラファお姉ちゃんは、使い終わった布や器をまとめ、作業台の上を順番に整えていった。


 食堂の客足が落ち着き、最後の水差しを入れ替えた頃、マーレが帳面を抱えて二人を呼んだ。


「琥珀、ラファ。片付いたら、ちょっとこっちへおいで」


「何かあったの?」


「いいから、手を洗ってから来な」


 琥珀はラファお姉ちゃんと顔を見合わせる。


 何か失敗しただろうかと、立っていた耳が少しだけ伏せた。


 琥珀とラファお姉ちゃんが手を洗って食堂へ戻ると、マーレは客のいなくなった卓の一つに帳面を広げていた。


 帳面の横には、紐で口を結んだ小さな布袋が二つ置かれている。


「二人とも、そこへ座りな」


「……本当に、何か失敗した?」


「失敗してたら、座らせる前に言ってるよ」


 琥珀は少しだけ伏せていた耳を戻し、ラファお姉ちゃんと並んで椅子へ腰掛けた。


 マーレは帳面へ視線を落とし、書かれている日付を指先で確かめる。


「二人がこの街へ来て、今日でちょうどひと月だ」


「ひと月?」


 琥珀の耳がぴんと立った。


「もう、そんなに経ったの?」


「毎日忙しかったからねえ。気づかなかったかい?」


 琥珀は、この街へ来た日のことを思い出した。


 泊まる場所も、これから何をするのかも、まだはっきりとは分からなかった。


 風月の鐘亭で仕事を教わり、皿を運び、客室を整え、洗った布を干した。


 何をすればよいのか分からず立ち止まった日もあれば、二人だけで次の仕事に気づけた日もあった。


「そっか……もう、ひと月なんだ」


 マーレは帳面を閉じると、二つの布袋をそれぞれの前へ置いた。


「これは、二人のひと月分の給金だよ」


「きゅうきん?」


「ここで働いた分の金さ」


 琥珀は自分の前へ置かれた袋を見つめた。


 すぐには手を伸ばさず、マーレと袋を何度か見比べる。


「わたしたち、お手伝いしてただけだよ?」


「手伝いでも、働いたことに変わりはないさ」


「でも、ご飯も食べさせてもらって、ここにも泊めてもらってるよ?」


「だから、宿代と食事代は先に引いてある。ここで働く者には、少し安くしてあるけどね」


 マーレは、もう一方の袋をラファお姉ちゃんの前へ押した。


「弁当で客が増えた分は、少し足してある。けど、これは弁当だけの金じゃないよ」


「では、掃除や洗濯、食堂での仕事も含まれているのですね」


「そういうことさ。目立つ仕事だけが、仕事じゃないからね」


 ラファお姉ちゃんは布袋を両手で受け取り、静かに頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼を言う前に、自分が働いた分だって覚えておきな」


 琥珀は、もう一度、自分の前にある袋へ目を落とした。


「これ……お小遣いとは違うの?」


「今回はね」


 マーレは琥珀の前の袋を、指先で軽く押した。


「これは、あんたがここで働いて得た金だよ」


 琥珀は、ようやく両手を伸ばした。


 小さな布袋を持ち上げると、中で硬貨が触れ合い、かすかな音を立てる。


 袋は手のひらへ収まるほど小さかった。


 それなのに、思っていたよりもずっと重かった。


 誰かにもらった物ではない。


 朝から客室を整えた日も、洗った布を落としそうになった日も、食堂の中を何度も行き来した日も。


 失敗して、教えてもらい、少しずつ自分でできることを増やした時間が、この袋の中へ入っているように思えた。


「……わたし、本当に働けたんだ」


「はい」


 ラファお姉ちゃんは、自分の袋を胸元で包みながら、琥珀へ穏やかに微笑んだ。


「琥珀ちゃんが、このひと月働いて得たものです」


 琥珀の耳がゆっくりと立ち上がる。


 胸の奥から込み上げた嬉しさが、しっぽの先まで伝わり、左右へ大きく揺れ始めた。


「わたしが働いたお金……!」


「ああ。何に使うかも、自分で考えるんだよ」


「うん!」


 琥珀は大切な物を守るように、給金袋を両手で包み込んだ。


「ただし、琥珀」


「なに?」


「最初に割った皿の分は、少し引いてあるよ」


 琥珀のしっぽが止まった。


「感動してたのにー!」


「割ったのは事実さね」


「最初の日だったのに!」


「最初の日でも、皿は皿だよ」


 琥珀は給金袋を胸元へ抱えたまま、耳をぺたんと伏せた。


 ラファお姉ちゃんは、そんな琥珀の隣で、自分の給金袋を静かに胸元へ抱えていた。


 マーレは声を上げて笑い、閉じた帳面を小脇へ抱えた。


「次のひと月は、何も割らなければ、その分も手元に残るさ」


「もう絶対に割らないからね!」


 琥珀はしっぽをぴんと立て、給金袋を握り直した。


 少しだけ皿の分が軽くなっていても、それが自分で働いて得た初めての給金であることは、何も変わらなかった。


──────────


 午後の仕事へ戻ってからも、琥珀は給金袋が気になって仕方がなかった。


 客室へ運ぶ新しい布を抱えながら、腰へ結んだ袋の上から、そっと手を当てる。


 中で硬貨が小さく触れ合うたびに、本当に自分が働いて得たものなのだという実感が込み上げてきた。


「琥珀ちゃん、先ほどから七回確認しています」


「だって、落としてないか心配なんだもん」


「腰紐へしっかり結んであります。通常の動作で外れることはありません」


「でも、初めてのお給金だよ?」


「はい。ですから、私も五回ほど確認しました」


「ラファお姉ちゃんも気になってるんじゃん!」


 琥珀が笑うと、ラファお姉ちゃんも自分の腰へ結んだ袋に触れ、少しだけ目元を和らげた。


 二人で客室の布を取り替え、使い終わった物を洗い場へ運ぶ。


 その間も、琥珀の頭の中には、マーレから言われた言葉が残っていた。


 何に使うかも、自分で考える。


 欲しい物を買うこともできる。


 必要になる時まで、残しておくこともできる。


 けれど、初めて自分で得たお金だからこそ、何に使いたいのか、すぐには決められなかった。


 最後の布を籠へ収めたあと、琥珀は隣に立つラファお姉ちゃんを見上げた。


「ラファお姉ちゃんは、お給金を何に使いたい?」


「琥珀ちゃんは、何に使いたいですか?」


「わたしが先に聞いたのに」


「私も、琥珀ちゃんの希望を先に聞きたいと思いました」


 二人はしばらく見つめ合い、同時に首を傾げた。


「決まってない?」


「はい」


「あはは。わたしも!」


 琥珀のしっぽが揺れ、ラファお姉ちゃんのスカートへ軽く触れた。


 すぐに使わなくてもよい。


 そう思って給金袋から手を離しかけた時、琥珀の耳が小さく動いた。


「……わたしたち、この街に来てから、もうひと月なんだよね」


「そうですね」


「リノは、グランさんからわたしたちのことを聞いてるかもしれないけど……」


 村へ戻ったグランなら、二人がこの街で元気に過ごしていることも、さそり座風車の修復を続けていることも、リノへ話してくれているかもしれない。


 けれど、人から聞くのと、自分たちの言葉で伝えるのとでは違う。


「わたしたちからも、ちゃんと伝えたいな」


「はい。私たち自身の言葉で、お届けしましょう」


 琥珀は頷き、村で過ごした日々を思い浮かべた。


 ラビィのこと。


 一緒に食卓を囲んだ、うさぎ族の人たちのこと。


 編み物を教わりながら、何度も糸を絡ませていた子どもたちのこと。


「みんな、元気にしてるかな」


「きっと、変わらず過ごしていらっしゃると思います」


「うさぎ族の子たちも、編み物が上手になってるかな?」


「私たちよりも、ずっと上達しているかもしれませんね」


「それはちょっと悔しいかも……」


 琥珀の耳が横へ傾く。


 けれど、村の子どもたちが上手に編み物をしている姿を想像すると、すぐに楽しそうに立ち上がった。


「本当は、みんなにお手紙を書きたいけど……全員分は書ききれないよね」


「ラビィさんへお送りして、村の皆さんにも私たちのことを伝えていただくのはいかがでしょうか」


「うん! ラビィに、みんなにも見せてねって書こう!」


 風月の鐘亭で、これまでとは違う仕事を覚えたこと。


 この街でたくさんの人と出会ったこと。


 怖い思いをした時、隣にいる人や仲間たちに支えてもらったこと。


 さそり座風車のことも、その中で生まれた赤い玉のことも、伝えたいことは次々と浮かんでくる。


「リノとラビィに、お手紙を書こうよ!」


「はい。私も書きたいです」


「でも……書いても、届ける方法が分からないね」


「街道や荷運びについてであれば、ロクスさんがご存じかもしれません」


「そうだ! ロクスに聞いてみよう!」


 二人はマーレへ行き先を伝え、給金袋を腰へ結び直して、さそり座風車へ向かった。


 作業場では、午後の仕事が続いていた。


 琥珀たちは人の通り道を避け、運び込まれた材料を確認しているロクスが手を止めるまで、少し離れた場所で待った。


「どうした?」


 ロクスが手についた木屑を払いながら近づいてくる。


「ねえ、ロクス。聞きたいことがあるの」


「また何か運ぶのか?」


「今度は荷物じゃなくて、お手紙!」


「手紙?」


「リノとラビィに送りたいんだけど……届けてもらう方法ってないかな?」


 ロクスは腕を組み、街道の方角へ目を向けた。


「手紙だけなら、信用できる荷運びか商人に預ける方法がある」


「本当に?」


「ああ。ただ、いつ届くかまでは約束できねえぞ。向かう先や道の様子で、時間は変わる」


「遅くなっても、ちゃんと届くならいい!」


「宛先と、誰に渡すかが分かるように書いておけ。それと、運んでもらうなら少し金もかかる」


 琥珀は腰の給金袋へ手を当てた。


 初めて自分で得たお金を、何に使うのか。


 その答えの一つが、胸の中へ落ちた。


「わたしのお給金から払う!」


「私もお支払いします」


「えっ、わたしが送りたいって言ったんだよ?」


「私も、リノさんとラビィさんへ伝えたいことがあります」


 ラファお姉ちゃんは、自分の給金袋へ手を添えた。


「二人からの手紙です。二人で出しましょう」


「……うん!」


 琥珀の耳が嬉しそうに立ち、しっぽが大きく揺れた。


 ロクスは二人を見て、わずかに口元を緩める。


「明日の午後、街を出る荷運びの一団がいる。俺から話をしておいてやる」


「明日!?」


「ああ。それまでに二通とも書けるか?」


「書く!」


 勢いよく答えたあとで、琥珀の耳が少し横へ傾いた。


 この世界の言葉を話したり、聞いたりすることには慣れてきた。


 けれど、文字として書くことは、まだ得意ではない。


「……ラファお姉ちゃんに、いっぱい教えてもらいながら」


「はい。一緒に書きましょう」


 二人は顔を見合わせて頷いた。


 初めての給金で選んだのは、遠くにいる大切な人へ、自分たちの今を届けることだった。


──────────


 風月の鐘亭の仕事が一段落した頃には、窓から差し込む光が、少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。


 食堂の卓はきれいに拭かれ、昼の賑わいもすっかり落ち着いている。


 琥珀とラファお姉ちゃんは、壁際の卓へ並んで腰掛けた。


 二人の前には、マーレから分けてもらった紙と、インクの入った小さな瓶、先を整えた筆記具が置かれている。


「まずは、リノから書こう!」


「はい。最初に、誰からのお手紙なのかを書きましょう」


「わたしとラファお姉ちゃんから!」


「それでは、そのように書きましょう」


 琥珀は筆記具を手に取ると、紙の上へ慎重に先を下ろした。


 一文字目を書き終えるまでに、普段の倍ほど時間がかかった。


「……これ、ちゃんと読める?」


「読めます。ですが、最後の線をもう少し長くすると、より分かりやすくなります」


「ここから?」


「はい。右側へ、少しだけ伸ばしてください」


 ラファお姉ちゃんは別の小さな紙へ、同じ文字をゆっくりと書いて見せた。


 琥珀は見本と自分の文字を何度も見比べ、もう一度、空いた場所へ書いてみる。


「今度はどう?」


「とても読みやすくなりました」


「えへへ。じゃあ、こっちを書こう」


 この世界の言葉を聞き、話すことには、もうほとんど困らなくなっていた。


 けれど、それを文字として紙へ残すとなると、まだ簡単にはいかない。


 同じように聞こえる言葉でも、使う文字が違うことがある。


 曲がる向きや線の長さが少し違うだけで、別の意味になるものもあった。


 琥珀が伝えたい言葉を口にし、ラファお姉ちゃんが必要な文字を見本として書く。


 琥珀はそれを見ながら、一つずつ自分の手で手紙へ並べていった。


「次は、王冠のことを書きたい!」


「リノさんが大切にしてくださっていると聞いて、嬉しかったことですね」


「うん! それから、また会ったらいっぱいお話ししたいって書く!」


「では、少し短く区切りながら書いてみましょう」


 琥珀は何度も筆記具を止めながら、それでも自分の文字で言葉を残していった。


 書き終えた文字が少し斜めになっていても、ラファお姉ちゃんはすぐに書き直させなかった。


 読める文字は、そのまま残す。


 どうしても分かりにくい文字だけを、隣へ小さく書き直す。


 二人で作る手紙には、琥珀が一生懸命書いた跡も残っていた。


 やがて、マーレが湯気の立つ二つの杯を持って近づいてきた。


「根を詰めすぎるんじゃないよ」


「あっ、マーレさん。ありがとう!」


「文字が全部踊り出す前に、少し休みな」


「もう少しでリノへの分が終わるの!」


「その、もう少しが長くなるんだよ」


 マーレは手紙の中身を覗くこともなく、二人の前へ温かいお茶を置いた。


 そのまま空いた器を抱え、静かに厨房へ戻っていく。


 卓の上には、書きかけの二通の手紙と、柔らかな湯気が残された。


「琥珀ちゃん。冷める前にいただきましょう」


「うん。ちょっとだけ休憩!」


 二人は筆記具を置き、温かい杯を両手で包んだ。


 口に含むと、文字を書くことへ集中して強張っていた肩から、ゆっくりと力が抜けていく。


「ラビィには、何から書こうかな」


「元気に過ごしていることからでよいのではないでしょうか」


「うん。それから、村のみんなにも見せてねって書く!」


 短い休憩を終えると、二人はラビィへの手紙を書き始めた。


 風月の鐘亭で、これまでとは違う仕事を覚えたこと。


 掃除や洗濯、食堂の手伝いを続け、初めて自分たちで働いた対価を受け取ったこと。


 この街で、ベルグやロクス、マーレをはじめ、たくさんの人と出会ったこと。


 怖くて動けなくなりそうな時もあったこと。


 そんな時には、隣にいる人や仲間たちに支えてもらったこと。


 さそり座風車のことも、その中で生まれた赤い玉のことも、話したいことは尽きなかった。


 うさぎ族の子どもたちが、今も編み物を続けているだろうかということも書き添えた。


「わたしたちより上手になってたら、どうしよう」


「その時は、もう一度教えていただきましょう」


「今度は、わたしが教えてあげたかったのに」


「それまでに、私たちも練習すればよいのです」


「じゃあ、負けないように練習しないとね!」


 琥珀のしっぽが、椅子の後ろで楽しそうに揺れた。


 書きたいことをすべて細かく書いていたら、二枚の紙だけではとても足りない。


 琥珀が伝えたいことを選び、ラファお姉ちゃんが文章を整える。


 長くなりすぎたところは二人で短くし、大切な言葉だけを残していった。


 やがて、二通の手紙が形になった。


 琥珀は筆記具を置くと、少し疲れた指を開いたり閉じたりした。


「できた……!」


「はい。二通とも、きちんとお気持ちが伝わると思います」


「リノも、ラビィも、喜んでくれるかな?」


「きっと喜んでくださいます」


 琥珀は手紙を汚さないように気をつけながら、改めて二枚を眺めた。


 今の自分たちが元気にしていることは、たくさん書いた。


 それでも、どこか足りないような気がした。


 琥珀は自分が着ている風月の制服へ目を落とす。


 それから髪へ手を伸ばし、以前、ラファお姉ちゃんと一緒に作った髪飾りへ指先で触れた。


「写真があれば、わたしたちの可愛い制服とか、この作った髪飾りとかも見せられるのにね」


 何気なくつぶやいた直後、琥珀ははっと目を見開いた。


 隣のラファお姉ちゃんも、同じ瞬間に顔を上げる。


 二人は互いの顔を見合わせた。


 そして、ぴったり同じ動きで人差し指を立てる。


「絵描きさん!」


 二人の声が、ぴたりと重なった。


 一瞬の静けさのあと、琥珀の耳が勢いよく立ち上がった。


「ラファお姉ちゃんも、同じこと考えたの?」


「はい。琥珀ちゃんも、ですよね?」


「一緒だね!」


 琥珀は嬉しそうに笑い、ラファお姉ちゃんの腕へぴたりと寄り添った。


 言葉だけでは届けられない今の二人の姿を、小さな絵にして手紙へ添える。


 初めての給金で何をしたいのか、その答えがもう一つ増えていた。


──────────


 翌朝。


 風月の鐘亭で朝の仕事を終えた琥珀とラファお姉ちゃんは、二通の手紙を大切に包み、街の絵描きの仕事場を訪ねた。


 室内には、さまざまな大きさの紙や布が並び、壁際には使い込まれた筆が何本も立てられている。


「手紙と一緒に入れられるくらい、小さな絵を二枚描いてほしいの!」


「二人の姿を、二枚かい?」


「うん。遠くにいる大切な人たちへ送りたいの」


 絵描きは二通の手紙へ目を向けると、手のひらより少し大きな紙を二枚選び出した。


「それなら、このくらいがいいだろう。折らずに手紙へ添えられる」


「わたしたちの制服と、髪飾りも分かるように描いてください!」


 琥珀は風月の制服の裾をつまみ、髪につけた飾りを指差した。


 ラファお姉ちゃんの髪にも、同じ時に作ったお揃いの髪飾りがついている。


 絵描きは二人の髪へ目を向けると、懐かしそうに目を細めた。


「あの時に作った髪飾りだね。二人とも、ちゃんと使ってるんだな」


「うん! 今も大切にしてるの!」


「では、髪飾りもよく見えるように描こう。二人とも、そこへ並んでくれるかい?」


 琥珀とラファお姉ちゃんは、言われた場所へ並んだ。


 ラファお姉ちゃんは背筋を真っすぐに伸ばし、両手をきちんと体の前で重ねる。


 琥珀もその姿をまねて胸を張ったが、しばらくすると耳の先が小さく揺れ始めた。


「動かない方がよいですよね」


「そこまで固くならなくても大丈夫だよ」


「ラファお姉ちゃん、いつもと全然違うよ」


「絵を描いていただいているのですから、正しい姿勢を保つべきかと」


「でも、リノとラビィに見せたいのは、いつものわたしたちだよ?」


 琥珀は少し考えたあと、ラファお姉ちゃんの腕へ寄り添った。


 ラファお姉ちゃんは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに表情を和らげ、琥珀の肩へそっと手を添える。


「うん。その方が二人らしい」


 絵描きの筆が、紙の上を軽やかに走り始めた。


 一枚目を描き終えたあと、二枚目へ移る頃には、琥珀の緊張もすっかり解けていた。


 琥珀が隣を見上げる。


 ラファお姉ちゃんも琥珀を見つめ、穏やかに微笑む。


 その瞬間も、絵描きの筆によって小さな紙の中へ残されていった。


 描き終えた二枚を十分に乾かしてから、絵描きは二人の前へ並べた。


 どちらにも、風月の制服と、お揃いの髪飾りをつけた二人が描かれている。


 一枚では二人が並んで前を向き、もう一枚では互いの顔を見て笑っていた。


「わあ……どっちも、わたしたちだ!」


「はい。制服も髪飾りも、とても丁寧に描いてくださっています」


 琥珀は二枚を何度も見比べたあと、嬉しそうにラファお姉ちゃんを見上げた。


 ラファお姉ちゃんも琥珀へ顔を向け、二人は同時に笑った。


 絵描きは、その自然な笑顔を静かに見つめていた。


 絵描きは完成した二枚をもう一度確かめると、二人へ向かって指を三本立てた。


「二枚で、銀貨三枚だね」


「分かりました」


 琥珀とラファお姉ちゃんが給金袋へ手を伸ばす。


 けれど、絵描きは少し考えたあと、立てていた指を一本だけ折った。


「……と言いたいところだけど、これまで弁当や料理をいろいろもらってるからね。今日は銀貨二枚でいいよ」


「いいの?」


「ああ。いつもおいしい物を食べさせてもらってる、そのお礼だよ」


「ありがとう、絵描きさん!」


「ありがとうございます」


 二人はそれぞれの給金袋から銀貨を一枚ずつ取り出し、絵を描いてもらった代金を支払った。


 二人が絵を包もうとした時、絵描きが小さな紙をもう一枚取り出した。


「ちょっと待ってね」


「まだ何かあるの?」


 絵描きは答えず、先ほどよりも細い筆を手に取った。


 紙の上へ短い線を重ね、迷うことなく二人の姿を描いていく。


 描かれているのは、完成した二枚の絵を間に置き、顔を見合わせて笑っていた琥珀とラファお姉ちゃんだった。


「さっきの二枚は、遠くにいる人へ届けるための絵だろう?」


 絵描きは描き上げた小さな一枚を、二人へ差し出した。


「これは、今日ここへ来た二人が持って帰る分だよ」


「わたしたちが、もらっていいの?」


「お代は、もうちゃんともらったからね。これは二人の笑顔を見せてもらったお礼だよ」


「ありがとうございます」


「ありがとう、絵描きさん!」


 琥珀は胸元で小さな絵を抱え、隣のラファお姉ちゃんへ笑いかけた。


「これ、どこに飾ろうか?」


「お部屋であれば、毎日見ることができますね」


「それもいいけど……せっかく可愛く描いてもらったから、みんなにも見てもらいたいな!」


「では、マーレさんへ相談してみましょう」


 二人は送る二枚を汚さないよう、それぞれの手紙へ一枚ずつ添え、おまけの絵は別の布で大切に包んだ。


 リノへ送る手紙にも。


 ラビィへ送り、村のみんなにも見てもらう手紙にも。


 今の二人の姿が、一枚ずつ添えられた。


──────────


 風月の鐘亭へ戻ると、マーレは食堂の卓を整えているところだった。


「マーレさん、見て!」


 琥珀が布を開き、小さな絵を差し出す。


 マーレは手を止め、制服姿で顔を見合わせて笑う二人をじっくりと眺めた。


「これはまた、とても素敵な絵じゃないかい」


「絵描きさんが、おまけで描いてくれたの!」


「完成した絵を見て、私たちが喜んでいた時の姿だそうです」


「お部屋に飾ろうかと思ったんだけど……みんなにも見てもらいたくて」


 琥珀は食堂の壁を見回した。


「ここに飾ってもいい?」


 マーレは絵の中の二人と、目の前に立つ二人を交互に見る。


「二人の選んだところへ飾りな」


「本当に、食堂でもいいの?」


「もちろんさ」


 マーレは腰へ手を当て、食堂いっぱいに響くほど豪快に笑った。


「風月の鐘亭の看板娘が、こんなにいい顔で笑ってるんだからね!」


「私たちが、看板娘……ですか?」


「ラファお姉ちゃんと二人でだよ!」


 琥珀は嬉しそうにラファお姉ちゃんの腕へ抱きついた。


「それなら、入口からも見える場所がいい!」


「料理の湯気や油が届かない場所を選びましょう」


「そこならどうだい? 客の邪魔にもならないし、二人も毎日見られる」


 マーレが示したのは、食堂へ入った時に目へ入る、厨房から少し離れた壁だった。


 ラファお姉ちゃんが留め具を固定し、琥珀が少し離れた場所から位置を確かめる。


「もう少し右!」


「こちらでしょうか」


「行きすぎ! ちょっとだけ左!」


「琥珀、下から言うだけなら簡単だねえ」


「あはは。そこ! そこでいいよ!」


 絵を掛け終えると、三人は並んで少し離れた。


 小さな絵の中では、風月の制服を着た二人が、お揃いの髪飾りをつけて笑い合っている。


「うん。風月らしくなったじゃないかい」


 琥珀のしっぽが、誇らしげに揺れた。


 初めてのお給金から生まれた思い出が一つ、二人だけでなく、風月の鐘亭で過ごすみんなの目に見える場所へ残った。


──────────


 同じ日の午後。


 街の出入口には、いくつもの荷物を積んだ荷車と、旅支度を整えた運び屋たちが集まっていた。


 ロクスから話を聞いていた一人の運び屋が、琥珀たちの姿を見つけて手を上げる。


「二通の手紙を運びたいっていうのは、君たちかい?」


「うん! よろしくお願いします!」


 琥珀とラファお姉ちゃんは、二通の手紙を差し出した。


 運び屋は受け取る前に、手紙へ書かれた名前を確かめる。


「それで、これはどこへ届ければいいんだい?」


「一つは村!」


「村?」


「炭鉱夫さんたちが暮らしてる村で、小さな女の子がいるお家!」


「それだけじゃ、さすがに家までは分からないなあ」


「えっとね、その子のお父さんはグランさんで、すっごく大きくて、角があって――」


 琥珀は両腕を高く上げ、大きな角を表すように頭の横へ広げた。


 運び屋はその姿を見ながら、記憶を探るように目を細める。


「グラン……ああ、あそこの炭鉱夫たちの村か」


「知ってるの!?」


「何度か荷物を運んだことがある。確か、琥珀ちゃんと同じくらいの背丈の女の子がいる家があったな」


「その子の名前は、リノっていうの!」


「リノちゃんだね。分かった。なら、あの家で間違いなさそうだ」


「よかったあ……!」


 琥珀は胸をなで下ろし、リノと書かれた手紙を渡した。


 運び屋は名前と届け先を書き加え、もう一通を手に取る。


「こっちは、ラビィさんか。どこにいる人だい?」


「風の丘にある、水瓶座の大きな風車!」


「大きな風車のそばに、うさぎ族の方々が暮らす村があります」


「その村と風車の間に、ラビィのお家があるの!」


「水瓶座の風車と、うさぎ族の村……」


 運び屋は腕を組み、少し長く考え込んだ。


「また、ずいぶん遠い場所からここまで来たんだね」


「うん。ラファお姉ちゃんと一緒に、いっぱい歩いてきたの!」


「確かに、あそこには大きな風車がある。それに最近、花がもこもこになった、小さな可愛らしい風車ができたって聞いたな」


「それ! わたしたちも見たよ!」


「それなら場所は分かる。そのラビィさんっていうのは、もしかして少し風変わりな婆さんかな?」


「風変わり……」


 琥珀が隣を見ると、ラファお姉ちゃんも少しだけ考えていた。


「否定することは難しいですね」


「ラファお姉ちゃん!」


「ははは。名前までは聞いたことがなかったが、あの婆さんなら分かる。ラビィさんだね」


「うん! 村のみんなにも見せてねって書いてあるの!」


「分かった。二通とも預かろう」


 運び屋は二通の手紙を、雨や汚れを防ぐための厚い布の袋へ収めた。


「ただし、どちらもここからは遠い。一人で最後まで運ぶんじゃなく、途中でそれぞれの道を知っている仲間へ渡すことになる」


「ほかの人にも渡すの?」


「ああ。俺が次の場所まで運び、そこから先は別の仲間が運ぶ。そうやって、次の手へ、また次の手へつないでいくんだ」


「知らない人たちも、わたしたちのお手紙をつないでくれるんだね」


「届けたい相手がいる人から手紙を預かって、道をつなぐ。それが俺たちの仕事さ」


 運び屋は二つの行き先を改めて確かめ、必要になる代金を二人へ示した。


「本来なら、二か所とも遠いから、これくらいはもらいたいところだが……」


 琥珀とラファお姉ちゃんが給金袋へ手を伸ばすと、運び屋は示した代金を少しだけ減らした。


「今回は、初めての依頼だから安くしておくよ」


「いいの?」


「ああ。ロクスから聞いている。初めてのお給金で頼みに来たんだろう?」


「うん。わたしたちが働いて得たお金なの!」


「俺も初めて給金をもらった時は、何に使うか、ずいぶん悩んだ覚えがある」


 運び屋は懐かしそうに笑った。


「初めてだからこそ、俺たちを選んでくれた。そのお礼だよ」


「ありがとう、運び屋さん!」


「ありがとうございます」


 二人はそれぞれの給金袋から、代金を半分ずつ支払った。


 すべてを使ったわけではない。


 残った硬貨は、また二人で使い道を考えるため、給金袋へ大切に戻した。


「確かに受け取った。時間はかかるかもしれないが、道を知る仲間へきちんとつないでいくよ」


「リノとラビィに、よろしくお願いします!」


「ああ。任せてくれ」


 やがて荷車が動き始めた。


 琥珀とラファお姉ちゃんは並んで立ち、荷車が街道の先へ小さくなっていくのを見送る。


「ちゃんと届くかな?」


「はい。私たちの言葉も、今の姿も、きっと届きます」


 ラファお姉ちゃんが差し出した手を、琥珀はしっかりと握った。


「返事が来るまでに、もっと話したいことを増やしておかないとね!」


「はい。次のお手紙には、さらに多くの出来事を書きましょう」


 つないだ二人の手の先で、琥珀のしっぽが嬉しそうに揺れた。


 二通の手紙は、これから何人もの手へ渡されていく。


 道を知る者から、次の道を知る者へ。


 琥珀とラファお姉ちゃんが込めた言葉と姿を、遠く離れた大切な人たちのもとへつなぐために。

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