第45話
風月の鐘亭で、いつもの仕事を続けるうちに、数日が過ぎていた。
客室を整え、洗った布を干し、乾いた物を取り込む。
食堂が忙しくなれば、皿や水差しを運び、客が席を立ったあとは、次に使う人が困らないよう卓の上を整える。
まだマーレから声をかけられることはあったが、琥珀とラファお姉ちゃんだけで気づけることも、少しずつ増えていた。
「ラファお姉ちゃん、そっちの卓は終わった?」
「はい。水差しの中身も入れ替えました」
「それじゃあ、こっちを拭いたら一段落だね」
琥珀は布巾を卓の端まで滑らせ、残っていた小さなパン屑を手のひらへ集めた。
昼の鐘が鳴るには、まだ少し早い。
食堂に残っていた客も席を立ち、入口へ向かって歩いていく。
「ありがとうございました!」
「またお越しください」
二人で客を見送り、扉が閉じるのを確かめる。
琥珀は最後の椅子を卓の下へ戻すと、使った布巾を籠へ入れた。
「これで大丈夫!」
「ええ。次のお客様も、すぐにご案内できます」
その時、厨房の奥からマーレが大きな籠を抱えて出てきた。
籠を調理台の上へ置き、両腕の袖をまくり上げる。
「さてと! 風車の連中のお昼を作ろうかね」
その声に、琥珀の耳がぴくりと動いた。
「マーレさん、今日のお弁当は何を作るの?」
「パンに焼いた肉と野菜を挟んで、サンドイッチにしようと思ってるよ。あとは果物を少しつけようかね」
マーレは棚からパンを取り出し、調理台へ並べ始めた。
「以前、絵描きさんへ届けたお弁当と似ていますね」
「ああ。運びやすいし、仕事の合間にも食べやすいからね」
琥珀は、並べられたパンと籠を見つめた。
焼いた肉と野菜を挟んだサンドイッチはおいしい。
風車へ運ぶ途中で汁がこぼれる心配も少なく、そのまま手に持って食べられる。
けれど今日は、自分の手で、別のお弁当を作ってみたかった。
「マーレさん、今日のお弁当なんだけど……」
「どうしたんだい?」
「教えてもらいながら、わたしに作らせてほしい!」
琥珀は胸の前で両手を握った。
「まだ分からないことも多いけど、ちゃんと頑張るから!」
琥珀の耳がまっすぐに立つ。
しっぽの先も、マーレの返事を待つように、ゆっくりと揺れていた。
「籠へ詰めるだけじゃなくて、料理するところからやってみたいのかい?」
「うん。前にスープは作ったけど、お弁当を作るのは初めてだから」
「弁当は、作ってすぐ食べる料理とは少し違うよ」
「風車まで運んで、少し時間が経ってから食べるから?」
「ああ。途中で崩れたり、汁が漏れたりしちゃ困る。冷めてもおいしく食べられるように、材料の選び方も考えなくちゃいけないね」
「うん。分からないところは、ちゃんとマーレさんに聞くよ」
「包丁や火を使う時も、勝手に先へ進まないこと」
「はい!」
琥珀が背筋を伸ばして答えると、マーレの犬耳が満足そうに動いた。
「それなら、今日は琥珀に作ってもらおうかね」
「本当?」
「あたしとラファも一緒だよ。最初から全部一人でやろうとしないこと」
「うん! ありがとう、マーレさん!」
「私もお手伝いします」
「ラファお姉ちゃんも一緒に作ろう!」
「はい。どのようなお弁当になるのか、楽しみです」
マーレは腕を組み、調理台へ並べたパンへ目を向けた。
「それじゃあ、まずは献立を決めなくちゃね。サンドイッチを作ってみるかい?」
「サンドイッチもいいけど……」
琥珀は少し考え、厨房の奥へ目を向けた。
「力になるなら、ご飯もいいよね」
「米を炊くのかい?」
「うん。パンより腹持ちもいいし、冷めてもおいしいよ!」
「だけど、普通のご飯を器へ盛って運ぶなら、食べる時に置く場所も必要になるねえ」
「作業場で食べるのであれば、手に持てる形の方が扱いやすいかもしれません」
「でもね、ご飯もサンドイッチみたいに、手で持って食べる方法があるんだよ!」
「米を、手で持つのかい?」
聞き返したマーレの犬耳が、片方だけ傾いた。
「そう!」
琥珀は両手を胸の前へ出した。
左右の指先を斜めに合わせ、得意そうに三角形を作ってみせる。
「おにぎり!」
「おにぎり、ですか?」
「炊いたご飯に少し塩をつけて、手で持てる形にまとめるの。中に具を入れるだけでも、おいしくなるんだよ!」
「塩を使うのは、味をつけるためですか?」
「それもあるけど、何もつけないより傷みにくくなるんだよ」
「少しは違うだろうけど、塩だけを当てにはできないよ。今日は、できたらすぐに届けようかね」
「うん。できあがったら、すぐ持っていこう!」
「なるほどねえ」
マーレは調理台に置かれた野菜を一つ手に取り、切り口を眺めた。
「サンドイッチは、みずみずしい野菜を挟むと、時間が経った時にパンが水を吸ってしまうこともあるからね」
「おにぎりなら、具をご飯の中に包めるよ!」
「それでも、汁の多い具は避けた方がよさそうだね」
「うん! 焼いたお肉とか、魚をほぐしたものなら合うと思う!」
「食べるまで、中に何が入っているか分からないのですね」
「そうなの! 食べてからのお楽しみにもできるんだよ!」
琥珀の耳が楽しそうに立ち、しっぽの先が弾むように揺れた。
マーレは、琥珀が指で作った三角形と、厨房の奥に置かれた米袋を交互に見る。
「そのおにぎりっていう料理は、琥珀が何度も作ったことがあるのかい?」
「作り方は、ちゃんと知ってるよ!」
「作ったことがあるかを聞いたんだけどねえ」
「……見たことは、いっぱいあるよ!」
琥珀の耳が、ほんの少しだけ横へ開いた。
ラファお姉ちゃんが口元へ手を添え、小さく笑う。
「ですが、琥珀ちゃんがそこまで勧めるのですから、きっとおいしいのでしょうね」
「うん! 風車のみんなにも食べてもらいたいの!」
マーレはしばらく考えたあと、まくった袖をもう一度しっかりと整えた。
「分かったよ。今日は、そのおにぎりを作ってみようかね」
「やった!」
「琥珀には作り方を教えてもらう。あたしは、運んでも崩れない弁当にする方法を一緒に考えるよ」
「はい!」
初めて作る弁当の献立が決まり、琥珀は嬉しそうに米袋へ駆け寄った。
胸の前で作ってみせた三角形を、自分の手でも簡単に作れると信じながら。
米袋の前で、琥珀は期待に満ちた目をマーレへ向けた。
「マーレさん、これを使えばいいんだよね?」
「ああ。だけど、勝手に開けるんじゃないよ」
「分かってるよ!」
琥珀が米袋の横で待っていると、マーレとラファお姉ちゃんも厨房の奥へやってきた。
マーレが袋の口を開く。
琥珀はその隣から中を覗き込み、さらさらと重なった白い米粒に目を輝かせた。
「これだけあれば、風車のみんなの分も作れそうだね!」
「まずは、食べる人数を数えるところからだよ」
「あっ、そっか」
琥珀の耳が少しだけ横へ開いた。
「ベルグさんとロクスさん。それから、若い職人の方々と炭鉱夫の方々ですね」
「ああ。朝に聞いた人数から増えていなければ、これくらいで足りるさね」
マーレが木の器で米を量り、琥珀が隣の桶へ移していく。
ラファお姉ちゃんは人数と米の量を見比べながら、指先で静かに数えていた。
「少し多めに炊いておこうかね。足りないよりは、その方がいい」
「余ったら、わたしたちも食べられるね!」
「それなら問題ありません」
ラファお姉ちゃんの表情がすぐに和らぎ、琥珀は小さく笑った。
量った米へ水を注ぐと、琥珀は袖をまくり、両手を桶へ入れた。
「強く擦りすぎるんじゃないよ」
「優しく、だよね」
「ああ。水を替えながら、何度か洗うんだ」
琥珀が指を開いて米を動かすと、透明だった水が白く濁っていく。
ラファお姉ちゃんが新しい水を用意し、マーレが米の様子を確かめる。
三人で洗い終えた米を鍋へ移し、水を加えて火にかけた。
琥珀は蓋の前へ顔を近づける。
「今から見ていても、すぐには炊けないよ」
「分かってるよ。ちゃんと炊けるかなって思っただけ」
「蓋を開けたら、かえってうまく炊けなくなるさね」
「じゃあ、我慢する」
琥珀は名残惜しそうに鍋から離れた。
そのしっぽだけは、まだ鍋の方へ向いていた。
「炊き上がるまでに、ほかの物を作ろうかね」
マーレは棚から、蓋のついた木の箱を人数分取り出した。
続いて、底の広い籠と、スープを入れる蓋付きの器も調理台へ並べていく。
「おにぎりは、この籠で運ぶのですか?」
「うん! みんなに好きなのを選んでもらうの!」
「それなら、重ねずに並べられる物が必要ですね」
「潰れないように、広く並べようね」
ラファお姉ちゃんが清潔な布を用意し、マーレは棚から浅く広い木のトレーを取り出した。
琥珀は弁当箱の数を確かめ、マーレは蓋がきちんと閉まるか、一つずつ確かめた。
「スープも作るんだよね?」
「ああ。おにぎりと肉だけじゃ、野菜が足りなくなるからね」
「じゃあ、野菜をいっぱい入れよう!」
マーレが根菜と豆を取り出すと、琥珀は使う分だけ水で洗った。
包丁を持つ前に、マーレへ顔を向ける。
「マーレさん、このくらいの大きさでいい?」
「大きさを揃えるんだよ。大きな物だけ火が通らずに残っちまうからね」
「うん!」
琥珀が根菜を切り、ラファお姉ちゃんが豆と葉野菜を分ける。
マーレは鍋へ水を入れ、先に火の通りにくい根菜から煮始めた。
湯が温まり始めると、琥珀は調理台に並んだ卵へ目を向ける。
「おにぎりには、卵焼きも合うんだよ!」
「卵を焼いて、弁当へ入れるのかい?」
「うん。それでね、切り方を変えると、もっと可愛くできるの!」
「切り方だけで、ですか?」
「できてからのお楽しみ!」
琥珀が卵を器へ割り入れ、ラファお姉ちゃんが味付けを量る。
風車で働く者たちの分まで、次々と卵が加えられていった。
「混ぜる時は、こぼさないようにね」
「任せて!」
琥珀が勢いよく混ぜ始めると、器の中の卵が縁近くまで大きく揺れた。
「琥珀ちゃん。少しだけ力を抑えた方がよさそうです」
「まだこぼれてないよ!」
「今のところは、ですね」
琥珀は口を尖らせながらも、混ぜる手を少しだけゆっくりにした。
マーレが熱した平たい鍋へ卵を流し、琥珀は教わりながら端から巻いていく。
一度目は端が少し崩れた。
二度目は、途中から急に太くなった。
それでも、マーレが火加減を見て、ラファお姉ちゃんが器を支え、三人で黄色い卵焼きを作り上げた。
「少し形が違うところもあるけど、ちゃんとできた!」
「弁当へ入れる前に、少し冷ましておくんだよ」
「冷めたら、可愛くするからね!」
次に琥珀が手に取ったのは、小さな腸詰めだった。
端へ何本か切り込みを入れようとすると、マーレが手元を覗き込む。
「そんなところへ切れ目を入れて、どうするんだい?」
「焼いたら分かるよ!」
マーレに見守られながら、琥珀は一本ずつ、端から途中まで切り込みを入れた。
ラファお姉ちゃんも隣で同じように刃を止める。
「切り離さないよう、途中までなのですね」
「そう! 足を残すの!」
「足?」
小さな腸詰めを鍋で焼くと、熱を受けた切り口が、少しずつ外側へ開いていった。
「見て! 開いた!」
琥珀の耳がぴんと立ち、しっぽが楽しそうに揺れた。
「タコさんソーセージ!」
「タコの足に見立てたのですね」
ラファお姉ちゃんが一つを持ち上げ、開いた足を数える。
「この子は、一本少ないようですが」
「それは個性なの!」
「失敗ではないのですか?」
「個性!」
琥珀がもう一度言い切ると、マーレが声を立てて笑った。
「それなら、その子も大事に入れてやらないとねえ」
「うん!」
少し冷めた卵焼きを、琥珀は一口ほどの厚さに切り分けた。
その一切れを斜めに切り、片方の向きを反対にして、切り口同士を合わせる。
「ほら!」
二つに分かれていた卵焼きが、小さなハートの形になった。
「形が変わりました」
「ハートだよ!」
「切り方と向きを変えただけなのに、面白いねえ」
「お弁当の蓋を開けた時に、これが入ってたら、ちょっと嬉しくなるでしょ?」
琥珀は、できたハートを手のひらへ載せた。
「ベルグじい、これを見たらどんな顔するかな」
「ベルグさんが、ですか?」
「うん。びっくりするかな。それとも、何も言わずに食べるかな」
「ロクスさんは、タコさんソーセージから食べるかもしれませんね」
「ロクスなら、足から一気に食べそう!」
琥珀は楽しそうに笑い、ハートの卵焼きと、足を広げた腸詰めを弁当箱へ入れていった。
スープへ入れる分とは別に残した根菜は薄く切って焼き、葉野菜はさっと茹でて水気を切った。
焼いた根菜と茹でた葉野菜も、弁当箱へ添えていく。
一つの箱へ緑が偏りそうになると、ラファお姉ちゃんが隣の箱へ少し移した。
「こちらにも分けた方が、皆さん同じくらい食べられます」
「本当だ。形ばっかり見てた」
「見た目も大切ですよ。蓋を開けた時、きっと楽しい気持ちになります」
「うん。みんな、笑ってくれるといいな」
琥珀は並んだ弁当箱を見渡した。
ハートの卵焼き。
足を広げた小さな腸詰め。
黄色と赤茶色の間に置かれた、緑の野菜。
少し不揃いなところもある。
けれど、風車で蓋を開ける一人一人の顔を思い浮かべると、それさえも楽しく見えた。
「食べる人の顔を考えながら作っているんだね」
「うん。風車でいっぱい働いてるから、お昼くらい楽しい方がいいでしょ?」
「ああ。きっと喜ぶよ」
マーレの犬耳が、穏やかに揺れた。
その時、鍋の蓋の隙間から、白い湯気が細く立ち始めた。
厨房へ、炊けた米の柔らかな香りが広がっていく。
「あ……この匂い!」
琥珀の耳がぴんと立った。
鍋へ駆け寄りかけたところで、マーレが片手を前へ出す。
「まだ熱いよ。蓋はあたしが開けるから、少し離れておいで」
「うん!」
マーレが厚い布で蓋を持ち上げた。
白い湯気が一気に立ち上り、その向こうから、つやのある米が姿を見せる。
「わたし、この炊けた時の匂いが好きなんだ」
琥珀は湯気の香りを吸い込み、嬉しそうに目を細めた。
「この世界にもお米があって、本当によかった」
「ええ。私も、この香りには安心します」
「なんだか、ほっとするよね」
ラファお姉ちゃんが穏やかに微笑む。
「気持ちは分かるけど、顔を近づけすぎるんじゃないよ」
「はーい」
マーレは炊き上がった米を大きな器へ移した。
三人で固まりをほぐしながら、湯気が逃げるように静かに広げていく。
「すぐには握れないの?」
「このまま触ったら火傷するよ。手で扱えるくらいになるまで、少し休ませようかね」
「じゃあ、その間に中へ入れる具を作ろう!」
マーレは塩漬けの魚を軽く炙り、骨を取り除いて身をほぐした。
琥珀は焼いた肉を細かく刻み、ラファお姉ちゃんは甘辛く煮た茸の汁気を布で軽く押さえていく。
「汁が残っていると、ご飯の中から染み出すかもしれませんね」
「そうさね。味は残して、水気だけ少し取るんだ」
「おにぎりでも、何を入れてもいいわけじゃないんだね」
「弁当にするなら、運ぶ間のことも考えなくちゃいけないからね」
仕上げた具を、それぞれ小さな器へ分ける。
三人はもう一度手を洗い、清潔な布で水気を拭いた。
その横へ、手を濡らすための水と塩の壺も置いた。
「それで、どうやって握るんだい?」
「まず、ご飯を手に載せて、真ん中を少しくぼませるの」
琥珀は空の手のひらを使い、マーレへ手順を見せた。
「そこへ具を入れて、上からご飯で隠すでしょ。それから、こうやって優しく握るの!」
両手を合わせ、向きを変えながら、胸の前で三角形を作る。
「力を入れすぎると、硬くなってしまいそうですね」
「でも、弱すぎると持った時に崩れちゃうんだよ」
「その間を見つける必要があるわけだね」
「うん。でも大丈夫。ちゃんと綺麗な三角にするから!」
自信たっぷりに答える琥珀を見て、マーレが広げた米へ指先を近づけた。
「そろそろよさそうだね。琥珀も、指先から確かめてごらん」
「うん」
琥珀は水で濡らした指先を、米へそっと触れさせた。
まだ温かい。
けれど、手を引きたくなるほどの熱さではなかった。
「これなら握れそう!」
「最初は、小さめに作ってみようかね」
「任せて!」
琥珀は両手を水で濡らし、塩をほんの少しだけ広げた。
マーレが一人分より少ない米を取り、琥珀の手のひらへ載せる。
琥珀は米の中央をくぼませ、魚の身を置いた。
その上からご飯を被せ、両手でそっと包み込む。
ひと握り。
向きを変えて、もうひと握り。
「できた!」
琥珀が得意そうに手を開いた。
そこに載っていたのは、三角形というより、少し潰れた丸い丘だった。
「……三角、ですか?」
「今から三角になるところなの!」
琥珀の耳が横へ開いた。
もう一度おにぎりを包み、形を整えようと手を開く。
けれど、指先には米粒がいくつもくっついていた。
「ああ、もう……。海苔もあればいいんだけどねー」
「のり? のりってなんだい?」
聞き慣れない言葉に、マーレの犬耳が片方だけ傾いた。
「海藻を乾燥させて、パリッとさせたものなの。おにぎりのお供に最高なんだよ!」
「おにぎりへ巻けば、米粒が直接手につくのも少なくなりますね」
「そうなの! 持ちやすくなるし、一緒に食べてもおいしいの!」
「海藻を乾かせば、すぐに作れるのかい?」
「えっと……」
琥珀の耳が、考えるように少し外へ開いた。
「海藻を細かくして、水の中へ均一に広げます。それを薄い形へ整えて、乾燥させた物です」
「そう! だいたいそんな感じ!」
「琥珀ちゃん、最初の説明では、ずいぶん簡略化しましたね」
ラファお姉ちゃんが口元へ手を添え、くすっと笑った。
「分かりやすく説明したの!」
「ええ。おにぎりのお供としては、十分に伝わっていました」
「海藻から、そんな薄い食べ物を作るのかい。面白いねえ」
「パリッとしてるけど、ご飯へ巻くと少し柔らかくなるんだよ」
「海藻なら、この街で探すのは難しそうだね」
「そっかぁ……」
少し下がった琥珀の耳が、すぐにもう一度立ち上がった。
「だったら、いつか旅で海の近くへ行った時に探してみようかな!」
「海苔にできる海藻を、ですか?」
「うん。それに、まだ知らないおいしい食べ物も、きっといっぱいあるでしょ?」
琥珀のしっぽが楽しそうに揺れる。
「旅の途中で、おいしい食材を探すのも楽しそう!」
「食べられる物かどうかは、きちんと確かめてからにしてくださいね」
「拾ってすぐ食べたりしないよ!」
ラファお姉ちゃんが静かに目を逸らした。
「どうして目を逸らすの?」
「何でもありません」
「絶対、信じてないでしょ!」
二人のやり取りを見て、マーレが声を立てて笑った。
「旅の献立を考える前に、まずはその丸い丘を三角にしないとねえ」
「丸い丘じゃないよ! 今から三角になるの!」
琥珀は指についた米粒を一つずつ戻すと、もう一度、おにぎりを両手で包み込んだ。
片方の手を屋根のように傾け、もう片方で下から支える。
向きを変えて、もうひと握り。
恐る恐る手を開くと、今度は片側だけが尖っていた。
「先ほどより、三角へ近づきました」
「近づいただけじゃ駄目なの!」
琥珀の耳が横へ開いた。
「最初から綺麗にできる方が珍しいさね」
「でも、風車のみんなに食べてもらうんだもん。ちゃんとした形にしたいの」
「形ばかり見て、強く握りすぎるんじゃないよ」
「優しく……でも、持っても崩れないくらい」
琥珀は力を少し弱め、もう一度だけ形を整えた。
綺麗な三角にはならなかったが、持ち上げても崩れない。
「一個できた!」
耳が立ち、しっぽの先が嬉しそうに跳ねた。
「はい。立派なおにぎりです」
「丸いけどね」
「丸くても、味は変わらないさね」
「でも、三角も作りたいの!」
次のおにぎりは、力を抜きすぎた。
手を開いた途端、横から米粒がぽろぽろとこぼれる。
「あっ!」
「崩れた分を戻して、もう一度だね」
その次は、崩れないように意識しすぎた。
琥珀が完成したおにぎりを差し出すと、マーレが表面を指先で確かめる。
「これは、ずいぶん丈夫そうだねえ」
「持っていく途中では崩れないよ!」
「食べる時に、顎まで鍛えられそうです」
「そこまで硬くないよ!」
琥珀も指で押してみた。
おにぎりは、ほとんどへこまなかった。
「……これは、わたしが食べる」
「自分で作った物の出来を確かめるのも大事さね」
硬いおにぎりは、琥珀たちが食べる皿へ移された。
それからも、琥珀は握り続けた。
丸い物。
平たい物。
片側だけ山のように高い物。
形は揃わなかったが、握るたびに、崩れない力加減が少しずつ分かってきた。
「同じ形が一つもありませんね」
「選ぶ時に楽しいでしょ?」
「すべて三角にすると、おっしゃっていませんでしたか?」
「これはこれで、可愛いからいいの!」
「個性、ですね」
「そう! 個性!」
ラファお姉ちゃんが小さく笑い、次に使う具を琥珀の近くへ寄せた。
琥珀は両手を水で濡らし、塩を少し広げる。
「今度こそ、一番綺麗な三角を作るよ」
手のひらへ米を載せ、中央へ焼いた肉を入れた。
上からご飯を被せ、角を作るように両手を合わせる。
だが、手を開くと左側だけが丸かった。
「もう少し……」
手についた米粒を水で流し、指先へ塩をつけ直す。
向きを変えて整えると、今度は右側が少し崩れた。
「あとちょっとなのに」
「何度も握ると、硬くなってしまいますよ」
「あと一回だけ!」
琥珀はもう一度手を整え、塩をほんの少し広げた。
底を平らにし、左右の形を揃える。
そっと手を開くと、そこには今までで一番綺麗な三角のおにぎりが載っていた。
「できた!」
琥珀の耳が勢いよく立った。
しっぽも高く上がり、大きく左右へ揺れている。
「綺麗な三角になりましたね」
「うん! これがお手本!」
「ずいぶん頑張ったねえ」
マーレは三角のおにぎりを眺めたあと、琥珀の手元へ目を落とした。
「塩も、何度かつけ直していた気がするけどね」
「ほんの少しずつだよ?」
「なら、大丈夫だといいけどねえ」
琥珀は、一番綺麗な三角のおにぎりを大切そうに置いた。
残った米も、三人で手分けして握っていく。
マーレは崩れない強さを確かめ、ラファお姉ちゃんは中へ入れる具が偏らないよう分ける。
最後のおにぎりができる頃には、野菜のスープも仕上がっていた。
「それじゃあ、運ぶ準備をしようかね」
マーレは蓋をしっかり閉めたスープの器を、底の広い籠へ収めた。
琥珀も横から覗き込み、器が傾いていないか確かめる。
「重いスープは、一番下だね!」
「ああ。籠の重心も低くなるから、運ぶ時に安定するさね」
マーレが器の上から厚手の布をかけ、余った部分を周りの隙間へ入れていく。
「これなら、スープの器も動きにくいですね」
「上へ熱が直接当たりすぎるのも防げるよ」
厚手の布の上へ、浅く広い木のトレーを載せる。
籠の幅に合っているため、左右へ大きく動くこともなかった。
「ここへ、おにぎりを並べるんだね!」
「具ごとに列を分ければ、好きな物を選べます」
「手前が魚、真ん中がお肉、奥が茸!」
三人は、できたおにぎりを一つずつトレーへ移した。
魚のおにぎりは手前へ。
肉のおにぎりは中央へ。
茸のおにぎりは奥へ。
形は不揃いでも、列を分けて並べると、どこに何が入っているのか一目で分かった。
琥珀が何度も握り直した、一番綺麗な三角のおにぎりも、肉の列へ置かれた。
「みんな、好きなのを選べるね!」
「冷まして握ったお米も、下のスープの温かさで冷えすぎずに済みそうです」
「食べる頃には、ほんのり温かいかもしれないね!」
「熱くしすぎず、冷たくもしない。ちょうどよく届くといいねえ」
最後に、ラファお姉ちゃんがトレーの上へ清潔な布をふわりとかけた。
別の籠には、人数分の弁当箱が並んでいる。
中には、ハートの卵焼きと、足を広げた小さな腸詰め、色の違う野菜が詰められていた。
人数分の木椀と匙は重ねて布で包み、弁当箱の脇へ収めた。
「完成!」
琥珀は二つの籠を見渡し、満足そうにうなずいた。
けれど、すぐに何かを思いついたように耳を動かす。
「マーレさん、これ、わたしが作ったって言わないで持っていってもいい?」
「どうして秘密にするんだい?」
「わたしが作ったって先に知ったら、みんな、失敗してても優しく褒めてくれそうだから」
琥珀は、トレーに並んだ不揃いなおにぎりを見つめた。
「本当においしいって思ってくれるか、こっそり見てみたいの」
「なるほど」
「だから、わたしが作ったことは秘密!」
琥珀は人差し指を口元へ立てた。
「マーレさんも、ラファお姉ちゃんも言わないでね」
「分かったよ。あたしからは言わないさね」
「私も秘密を守ります」
「やった!」
琥珀のしっぽが、嬉しそうに大きく揺れた。
ラファお姉ちゃんは、その動きを静かに目で追う。
「どうしたの、ラファお姉ちゃん?」
「……いえ。秘密ですね」
「うん!」
本人だけは、黙っていれば隠し通せると信じていた。
琥珀は籠の持ち手を確かめると、風車へ届ける準備を始めた。
──────────
風月の鐘亭を出ると、昼の光が街道へ明るく降りていた。
ラファお姉ちゃんは、スープとおにぎりを収めた大きな籠を両手で持っている。
琥珀は、人数分の弁当箱が入った、もう一つの籠を抱えていた。
「ラファお姉ちゃん、重くない?」
「重さはありますが、籠の中で偏ってはいません。問題ありません」
「わたしの方も大丈夫。傾けないように持っていくね!」
二人は互いの歩幅を確かめながら、さそり座風車へ向かった。
籠の底では、蓋を閉じたスープの器が温かさを保っている。
厚手の布を挟んだ上のトレーも大きく揺れず、おにぎりは並べた場所に収まったままだった。
やがて、風車の入口が見えてくる。
中からは、石を動かす音と、金属同士が短く触れ合う音が聞こえていた。
「お昼を持ってきたよー!」
琥珀の声が作業場へ響く。
「おう、もうそんな時間か」
奥からロクスの声が返ってきた。
職人たちは、すぐに道具を置いて集まってくることはなかった。
手にしていた物を決められた場所へ戻す。
熱を持った道具は、ほかの物から離して置く。
動かしていた材料を安定した場所へ下ろし、人が通る道を空けてから、一人ずつ作業場を離れていく。
「今の火はどうなっとる?」
「弱めて、灰も被せました」
「なら、手ぇ洗ってこい。飯へ埃を持ち込むんじゃないぞ」
「はい!」
琥珀は籠を抱えたまま、その様子を見守った。
食事が届いても慌てず、先に作業場を安全な状態へ戻している。
琥珀の耳が、嬉しそうに立った。
「ここへ置けばいいか?」
「うん。平らなところがいい!」
ロクスが広い作業台の上を空ける。
琥珀とラファお姉ちゃんは、二つの籠をゆっくり載せた。
「今日は、ずいぶん荷物が多いな」
「スープもあります。先にそちらを配りましょう」
ラファお姉ちゃんは籠の上から、浅い木のトレーを持ち上げ、空けてもらった作業台へ置いた。
厚手の布をめくると、蓋付きの器はまだ温かさを残している。
「ちゃんと温かいまま届いたね!」
「トレーも傾いていません。運び方は問題なかったようです」
二人は持ってきた木椀へスープを分け、手を洗い終えた者から順番に匙と一緒に渡していった。
全員へ行き渡ると、今度は一人に一つずつ、蓋付きの弁当箱を配る。
「今日は何が入ってるんだ?」
「開けてからのお楽しみ!」
琥珀は最後の箱を渡し終えると、少し離れたところへ立った。
皆が一斉に蓋を開ける。
最初に聞こえたのは、若い職人の笑い声だった。
「なんだ、これ。卵が変わった形になってるぞ」
「二つ合わせてあるのか。心臓みたいだな」
「ハートだよ!」
思わず答えてから、琥珀は、はっと口を閉じた。
両耳はまっすぐに立っている。
「はーとっていう形なのか」
「……そうみたいだね!」
若い職人は琥珀の耳と、その後ろで揺れ始めたしっぽを交互に見た。
それ以上は尋ねず、卵焼きを一口で食べる。
「うまい。見た目だけじゃないな」
琥珀のしっぽが、ひときわ大きく揺れた。
「こっちの腸詰めには、足が生えてるぞ」
「その子はタコさんなの!」
またすぐに答えてしまい、琥珀は両手で口元を押さえた。
「琥珀ちゃん」
「しーっ。秘密なんだから」
「はい。秘密ですね」
ラファお姉ちゃんは微笑み、それ以上は言わなかった。
ベルグは自分の弁当箱を開き、ハート形の卵焼きをじっと見下ろしている。
「ベルグじい、どうしたの?」
「別に、何も言っとらん」
ベルグは卵焼きを持ち上げ、そのまま口へ運んだ。
琥珀は知らないふりをしながら、耳だけをベルグへ向けている。
「……悪くない」
短い一言に、琥珀の耳がぴんと立った。
ベルグは大きく揺れたしっぽを横目で見たが、何も指摘しなかった。
「今日の弁当は、いつもと雰囲気が違うな」
「そうですか?」
「ああ。マーレの飯はうまいが、こういう形にはしねえだろ」
ロクスが、足を広げた腸詰めを持ち上げる。
「これは、どこから食えばいいんだ?」
「足から一気に食べると思ってた!」
ロクスが琥珀を見る。
琥珀の耳が揺れ、しっぽが楽しそうに左右へ動いていた。
「なるほどな」
「な、何が?」
「いや。足から食うか」
ロクスは笑いながら、腸詰めを口へ放り込んだ。
「うまい」
「本当?」
「ああ」
琥珀のしっぽが、さらに高く上がった。
若い職人たちも顔を見合わせたが、誰も作った者の名前を口にはしなかった。
「まだ、おにぎりもあるよ!」
琥珀がトレーへかけられた清潔な布を取った。
中には、具ごとに列を分けた白いおにぎりが並んでいる。
丸い物。
少し平たい物。
片側だけ高い物。
どれも冷えきらず、まだほんのりと温かかった。
「これは……米か?」
「うん!」
「器に盛ってないぞ」
若い炭鉱夫は、不思議そうにトレーへ顔を近づけた。
「そのまま手で持って食べるんだよ!」
「米を手で持つのか?」
その場にいた者たちが、改めて白い塊へ目を向けた。
「ずいぶん斬新な食べ方だな」
「パンみたいに、そのまま持って食べられるの。それに、中には具も入ってるんだよ!」
琥珀は得意そうに胸を張った。
耳はまっすぐに立ち、しっぽの先も楽しそうに揺れている。
「外からじゃ、中身は分からねえな」
「手前が魚、真ん中がお肉、奥が茸です」
「好きなのを選んでね!」
若い職人が、手前の列から丸いおにぎりを一つ持ち上げた。
崩さないよう、少し慎重に指へ力を入れる。
「本当に持てるな」
「だから、おにぎりなの!」
「名前の理由は、まだよく分からねえけどな」
「細かいことはいいの!」
笑い声が広がり、ほかの者たちもトレーへ手を伸ばし始めた。
「俺は魚にする」
「じゃあ、俺は茸をもらうぞ」
一つ選ばれるたび、琥珀の耳がそちらへ動く。
持ち上げても形が崩れないと分かれば、しっぽが安心したように揺れた。
最後に、ロクスが肉の列へ手を伸ばす。
「せっかくだ。一番形のいいやつをもらうか」
その指が持ち上げたのは、琥珀が何度も握り直した、一番綺麗な三角のおにぎりだった。
「あっ、それ!」
「なんだ。取っちゃまずかったか?」
「ううん! 一番綺麗にできたやつなの!」
言ってから、琥珀は慌てて口を押さえた。
作業場の何人かが、声を立てずに笑う。
ロクスは何も指摘せず、三角のおにぎりを手の中で眺めた。
「そうか。なら、ありがたくもらうぞ」
琥珀の耳としっぽが、隠しようもなく嬉しそうに跳ねていた。
ロクスは、手の中の三角おにぎりをもう一度眺めた。
少し硬そうではあるものの、左右の角も、下の辺も、ほかのおにぎりより綺麗に揃っている。
「一番綺麗にできたんだな?」
「うん!」
琥珀の耳が誇らしげに立った。
ロクスは小さく笑うと、三角の端へかぶりついた。
「…………」
噛んだまま、動きが止まった。
琥珀のしっぽの動きも、ぴたりと止まる。
「ロクス?」
ロクスはゆっくりと口を動かし、なんとか飲み込んだ。
目の端には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「どうしたの? もしかして、硬かった?」
「……いや」
少しかすれた声で答え、ロクスはもう一口食べた。
今度も、その目がわずかに細くなる。
「うまい」
「本当?」
「ああ。うまいな、これ」
ロクスは涙目のまま、何度もうなずいた。
塩が強かったのか。
それとも、別の何かが込み上げたのか。
琥珀には分からなかった。
けれど、「うまい」と言ってもらえたことが嬉しくて、止まっていたしっぽが、また大きく揺れ始める。
「お肉もちゃんと入ってるでしょ?」
「ああ。入ってる」
「冷たくなってなかった?」
「まだ温かいぞ」
「よかった!」
琥珀は満足そうに笑うと、ほかの職人が持つおにぎりへ視線を移した。
「そっちは崩れてない?」
「ああ。少し米が指につくけど、ちゃんと持ててるぞ」
「魚も合うな。器がなくても食えるのは便利だ」
琥珀が二人のそばへ駆け寄った隙に、ベルグはロクスの顔を横から覗き込んだ。
そして、作業台の端に置かれていた休憩用の茶壺へ手を伸ばす。
空いていた木の杯へ茶を注ぎ、何も言わずロクスへ差し出した。
「飲め」
「いらねえ」
「目から塩が出とるぞ」
「出てねえよ」
「なら、飲んでも困らんじゃろ」
ロクスはベルグを睨んだが、すぐに木の杯を受け取った。
お茶をひと口飲み、長く息を吐く。
「……助かった」
「塩が多かったんじゃろ」
「聞こえるぞ」
「琥珀は向こうじゃ」
ベルグは、若い職人のおにぎりを覗き込んでいる琥珀へ目を向けた。
琥珀の耳は、褒める声が上がるたびにぴんと立ち、しっぽは休むことなく揺れている。
「全部食う気か?」
「当たり前だろ」
ロクスは木の杯を脇へ置き、再び三角おにぎりを持ち上げた。
「琥珀が、一番綺麗にできたって言ったんだ」
「なら、味わって食え」
「分かってるよ」
ロクスは今度こそ急がず、少しずつおにぎりを食べていった。
その様子を見ていたベルグも、自分が選んだ茸のおにぎりを口へ運ぶ。
「ベルグじい、おにぎりはどう?」
いつの間にか戻ってきた琥珀に声をかけられ、ベルグの肩がわずかに動いた。
「食える」
「それだけ?」
「うまいと言うとるんじゃ」
「言ってないよ!」
「今、言ったじゃろうが!」
琥珀は一瞬きょとんとしてから、声を上げて笑った。
「あはは! じゃあ、おいしかったんだね!」
「そう言っとる!」
作業場にも笑い声が広がった。
ハートの卵焼きは、誰かが隣の者へ形を見せてから口へ運んだ。
足を広げた小さな腸詰めは、一口で食べる者もいれば、一本ずつ足をかじる者もいる。
形の違うおにぎりも、トレーから一つずつ減っていった。
「丸いのも食べやすいぞ」
「こっちの平たいのは、具が端まで入ってる」
「それは、たまたまだと思う!」
またすぐ答えてしまい、琥珀は慌てて口を閉じた。
若い職人たちは顔を見合わせたが、誰も作った者の名前は口にしなかった。
「今日の弁当、楽しいな」
「ああ。蓋を開けた時から、いつもと違った」
「味もうまかったぞ」
琥珀の両耳が高く立つ。
しっぽは、隠すことをすっかり忘れたように大きく左右へ揺れていた。
「そ、そうなんだ。作った人も喜ぶと思うよ!」
「そうだな」
若い職人は笑ったが、それ以上は何も言わなかった。
最後に残っていた小さなおにぎりも選ばれ、浅い木のトレーは空になった。
ロクスは三角おにぎりを最後まで食べきると、残っていたお茶を飲み干した。
「ごちそうさん」
「全部食べた?」
「ああ。一粒も残してねえ」
「やった!」
琥珀のしっぽが、今日一番高く上がった。
食事が終わると、職人たちは使った木椀と匙を一か所へ集めた。
琥珀とラファお姉ちゃんは、空になった弁当箱を重ねて籠へ戻していく。
スープを運んできた蓋付きの器にも、残りがないことを確かめて蓋を閉めた。
マーレから借りた浅い木のトレーへ清潔な布をかけ、もう一つの籠へ収める。
「では、こちらは持って帰りますね」
「ああ。助かった」
「午後も怪我しないでね!」
「お前も帰り道で籠を振り回すなよ」
「振り回さないよ!」
「しっぽは、ずっと振り回してたけどな」
「しっぽは関係ないでしょ!」
ロクスが笑い、ベルグも鼻を鳴らした。
午後の作業へ戻る者たちは、手と口元を洗い、置いていた道具の状態をもう一度確かめていく。
琥珀とラファお姉ちゃんは、食べ終えた器や弁当箱を収めた二つの籠をそれぞれ持ち、風車をあとにした。
鐘亭へ戻る道で、琥珀は何度も後ろを振り返る。
「みんな、ちゃんとおいしいって言ってくれたね」
「ええ。お弁当箱を開けた時から、皆さん笑っていました」
「作ったのがわたしだって知らないのに、ちゃんと褒めてくれた!」
「そうですね」
「秘密も守れたよね?」
ラファお姉ちゃんは、隣を歩く琥珀へ目を向けた。
両耳は嬉しそうに立ち、しっぽは歩くたびに大きく弾んでいる。
「はい。皆さん、何もおっしゃいませんでしたね」
「やっぱり、誰にも分からなかったんだ!」
「……ええ。誰も、口にはしませんでした」
琥珀は満足そうにうなずいた。
「今度は、もっと綺麗な三角にするからね!」
「塩は、少し控えめにしましょう」
「どうして?」
「念のためです」
ラファお姉ちゃんが微笑む。
琥珀は不思議そうに首を傾げたが、すぐに前を向いた。
風月の鐘亭へ続く道を、二人は並んで歩いていく。
琥珀のしっぽは最後まで、嬉しさを隠すことなく揺れていた。




