第44話
ベルグ工房を出ると、街は橙色の光に包まれていた。
家々の屋根へ落ちた夕日が、道の端まで長い影を伸ばしている。
工房の中では、ベルグが図面と木札を片付けていた。
ロクスが描いた新しい馬力車の絵も、次の休みまで大切に保管される。
「次に来た時も、ちゃんと残ってるよね?」
「ベルグさんが保管してくださいます。勝手に線が増えることもないでしょう」
「わしが増やすと言いたいのか?」
工房の中から声が飛んできた。
続いて、ロクスの笑い声も聞こえる。
「ベルグなら、眺めてるうちに一本くらい増やしそうだけどな」
「増やさんわい!」
琥珀は工房の入口から顔を覗かせ、二人へ手を振った。
「また次のお休みにね!」
「おう。今度はもっと真っ直ぐ描いてやる」
「絵の練習をする時間ではないぞ」
まだ言い合っている二人を残し、琥珀たちは歩き出した。
マーレが先を歩き、その少し後ろを琥珀とラファお姉ちゃんが並んで進む。
琥珀のしっぽは、右へ左へ楽しそうに揺れていた。
「座席が開いたら、ラファお姉ちゃんと隣に座れるんだよね」
「はい。安全に開き、固定できる構造になれば、二人で並んで座れます」
「景色も一緒に見られるね」
「琥珀ちゃんが馬力車の外へ身を乗り出さなければ、ですが」
「乗り出さないよ」
琥珀は少しだけ胸を張った。
その直後、何かを思いついたように耳を立てる。
「でも、旅の途中で綺麗な花を見つけたら、近くで見たいかも」
「その時は、馬力車を安全に止めてから見に行きましょう」
「うん!」
昼間にロクスが言った言葉が、二人の間にも残っていた。
速く走ることより、止まりたい時に止まれること。
景色を見る時も、何かを拾う時も、まずはきちんと止まってから。
それなら、慌てずに二人で同じものを見ることができる。
「それとね、旅に出たら、わたしがご飯を作る日もあるよね」
「私もお手伝いします」
「じゃあ、二人で作ろうね。スープとか、焼いたお肉とか……持って歩けるご飯も覚えたいな」
前を歩いていたマーレの耳が、ぴくりと動いた。
琥珀はそれに気づかず、指を折りながら続ける。
「それから、温かいお茶も作って、おやつも少し持っていって――」
「ずいぶん楽しそうな旅だねえ」
「うん。マーレさんに教えてもらったら、きっと作れるよね?」
マーレが足を止めた。
振り返った顔には、いつもの優しい笑みが浮かんでいる。
けれど、その目は先ほどまでよりも明らかに輝いていた。
「もちろん、教えてあげるよ」
「ほんと?」
「ああ。まずは部屋の掃除からだね」
「……お料理じゃないの?」
琥珀の耳が、少しだけ横へ傾いた。
マーレは指を一本立てる。
「旅に出たら、誰かが寝る場所を整えてくれるわけじゃないよ」
二本目の指が立つ。
「汚れた服や濡れた布だって、自分たちで洗って乾かす」
三本目。
「道具を使ったら、次に困らない場所へ戻す」
さらにもう一本。
「荷物は、ただ詰め込めばいいってものじゃない。重い物と軽い物、濡れていい物と困る物を分けなきゃならない」
琥珀は、立っていく指を目で追った。
「そんなにあるの?」
「まだ途中だよ」
「まだあるの!?」
マーレの笑みが、いっそう深くなる。
「火の扱い、水の残し方、食材を傷ませない置き方。それから、使った鍋を誰が片付けるか」
「それは……作った人?」
「作った人だけに押しつけたら、次から誰も作ってくれなくなるかもしれないねえ」
「じゃあ、一緒に片付ける」
「そういうことだよ」
琥珀は少し考えてから、ラファお姉ちゃんを見上げた。
「ラファお姉ちゃん、一緒に覚えようね」
「はい。記録も取りながら――」
「記録だけじゃ駄目だよ」
ラファお姉ちゃんの言葉を、マーレがすぐに止めた。
「覚えるなら、自分の手も動かすんだ」
ラファお姉ちゃんは一度瞬きをしてから、素直に頷いた。
「承知しました。私も琥珀ちゃんと一緒に作業します」
「やった!」
二人の返事に満足したのか、マーレは再び鐘亭へ向かって歩き出した。
「明日は、いつもやってる仕事を、少し細かく見させてもらうよ」
「いつもやってることなら、大丈夫だよ」
「そう思ってる時が、一番見落とすんだよ」
「うっ……」
ラファお姉ちゃんが口元へ手を添え、小さく笑った。
「私たちも、ベルグさんとロクスさんのことを言えませんね」
「どうして?」
「お二人は図面を見ると作業を始めたくなり、琥珀ちゃんは料理と聞くと、掃除や片付けを飛ばしたくなっています」
「飛ばそうとはしてないよ。ただ、お料理が先だと思っただけで……」
言いながら、琥珀の声は少しずつ小さくなっていった。
マーレが肩越しに二人を見る。
「料理は逃げないよ。ちゃんと順番に教えてあげるから、安心しな」
「うん!」
やがて、風月の鐘亭の看板が見えてきた。
夕暮れの中、入口からは温かな灯りが道へこぼれている。
扉の向こうから、食器の触れ合う音と、客たちの穏やかな話し声が聞こえた。
琥珀は少しだけ歩調を速めた。
休みの一日は、もうすぐ終わる。
けれど、楽しかったことが消えるわけではない。
新しい馬力車のことも、いつか二人で見る景色も、次の休みまで大切に取っておける。
今は、帰ってきた場所で身体を休める時間だった。
琥珀は鐘亭の扉を開け、明るい声で中へ呼びかけた。
「ただいま!」
「ただいま戻りました」
「お帰り、二人とも。まずは手を洗っておいで」
マーレは奥の洗い場を指した。
「明日の話はまたあとで。今日はもう、ちゃんと休むんだよ」
「はーい!」
「はい」
琥珀はラファお姉ちゃんと並び、奥の洗い場へ向かった。
その背中を見送りながら、マーレは腕を組む。
「さて。明日はどこから教えようかねえ」
楽しそうな声に、琥珀の耳がぴくりと動いた。
振り返ったマーレの目は、やはりまだ輝いていた。
──────────
翌朝。
風月の鐘亭には、焼きたてのパンと温かなスープの香りが広がっていた。
朝食を終えた客たちが一人、また一人と食堂を出ていく。
琥珀は空いた器を両手に重ね、厨房へ運んだ。
「マーレさん、今日は何から作るの?」
琥珀の耳は、期待するようにぴんと立っている。
作業台の上には、野菜の入った籠と、まだ火にかけられていない鍋が置かれていた。
昨夜から、最初に教えてもらう料理を楽しみにしていたのだ。
しかし、マーレが琥珀へ渡したのは包丁ではなかった。
乾いた布と、小さな籠だった。
「まずは二階へ行くよ」
「二階?」
「空いた客室を整えるんだ」
琥珀の耳が、少しだけ横へ傾いた。
「やっぱり、お掃除からなんだね」
「料理は逃げないって、昨日言っただろう?」
「うん。覚えてるよ」
琥珀は布を受け取り、気持ちを切り替えるように胸元で抱えた。
ラファお姉ちゃんも別の籠を持ち、二人でマーレの後を追う。
二階の客室へ入ると、マーレは最初に窓を開けた。
朝の風が入り、閉じていた部屋の空気をゆっくりと動かしていく。
「窓からなんだね」
「先に空気を入れ替えておくんだよ。寝ていた部屋は、思ったより空気がこもるからね」
琥珀は窓辺へ近づき、外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「ほんとだ。少し違うかも」
「感じられるなら、覚えておきな」
マーレは寝台へ向かい、掛け布をめくる。
琥珀とラファお姉ちゃんも、隣の寝台を整え始めた。
琥珀は枕を持ち上げ、その下へ落ちていた小さな糸くずを見つける。
「あ。こんなところにもある」
「見えるところだけ綺麗でも、次に使う人が気持ちよく休めなきゃ意味がないよ」
「じゃあ、寝台の下も見るね」
琥珀はしゃがみ込み、長い髪が床へ触れないよう片手で押さえながら、寝台の下を覗いた。
奥に落ちていた丸めた紙を見つけ、手を伸ばす。
「取れた!」
「そのまま床へ置かずに、籠へ入れるんだよ」
「あっ、そうだった」
琥珀は紙を籠へ入れ、今度は忘れないよう籠を自分の近くへ置いた。
一方、ラファお姉ちゃんは机の上に置かれていた水差しや布を、一度すべて棚の端へ揃えていた。
大きさごとに並び、見た目は整っている。
「こちらは完了しました」
マーレは棚へ近づき、水差しを取ろうとした。
しかし手前には折りたたまれた布が重ねられ、水差しはその奥へ置かれている。
「ラファ。これじゃあ、水差しを取るたびに布を全部動かすことになるね」
ラファお姉ちゃんは棚を見つめ、わずかに目を見開いた。
「見た目を揃えることを優先しすぎました」
「片付けるっていうのは、物を見えなくしたり、綺麗に並べたりするだけじゃないよ」
マーレは水差しを手前へ戻した。
「次に使う人が、困らない場所へ戻すんだ」
「はい。使用する順番も考える必要がありますね」
「わたしもさっき、紙を床に置きそうになったよ」
「では、二人ともやり直しですね」
「うん!」
二人は顔を見合わせ、もう一度棚と寝台の周りを整え始めた。
琥珀は使う物を手前へ置き、予備の布は奥へ揃える。
ラファお姉ちゃんも水差しを手に取りやすい位置へ戻し、その横へ杯を並べた。
すべてを終えると、最初よりも部屋が広く見えた。
それだけではなく、どこに何があるのかも分かりやすい。
「今度はどう?」
「これなら、次のお客さんも困らないね」
褒められた琥珀のしっぽが、嬉しそうに揺れた。
客室を出た三人は、使い終えた布や寝具を籠へ入れ、洗濯場へ運んだ。
琥珀は大きな布を抱えたまま歩き、前が見えにくくなっている。
「琥珀ちゃん、右側に柱があります」
「見えないよー!」
「見えないほど持つんじゃないよ」
マーレは布の半分を取り、琥珀の腕の中を軽くした。
「一度で全部運ぼうとして、転んだら余計に時間がかかるだろう?」
「うん。二回に分ける」
「私も持ちます」
三人で籠と布を分けて持つと、無理なく洗濯場まで運べた。
運んできた布や寝具を洗う物ごとに分けると、マーレは朝早くから干してあった服へ目を向けた。
「新しく洗う前に、干してある物を先に確かめるよ」
朝の光は、先ほどよりも少し高くなっていた。
琥珀は一枚の服を広げ、外側へ触れる。
「これはもう乾いてるよ」
「本当に?」
「うん。触っても濡れてないよ」
マーレは服を受け取り、袖の付け根を琥珀へ向けた。
「ここも触ってみな」
琥珀が指先を当てる。
表面は乾いていたが、布が重なった部分には、まだ冷たさが残っていた。
「あれ? ここだけ冷たい」
「布が重なってるところは、乾くのが遅いんだよ」
マーレは服を裏返し、風が当たるよう広げ直した。
「表だけ乾いてても、そのまま畳んだら生乾きになる。生乾きの服を着るのは嫌だろう?」
「うん。それは嫌だよ」
琥珀は少し顔をしかめた。
「せっかく洗ったのに、気持ちよく着られないもんね」
「旅先じゃ、次の日も晴れるとは限らないからね。乾かせる時に、きちんと乾かすんだよ」
琥珀は服の袖をもう一度触った。
外側だけではなく、縫い目や布が重なる場所も確かめる。
「じゃあ、厚いところを外に向けたらいいのかな」
「そうだね。風の通り道も塞がないようにしな」
琥珀は服と服の間を少し広げた。
ラファお姉ちゃんも隣で布を確かめていたが、同じ大きさの布を隙間なく揃えて並べ直している。
琥珀はその様子を見て、首を傾げた。
「ラファお姉ちゃん、それだと風が通らないかも」
ラファお姉ちゃんは布の間へ手を入れ、ほとんど隙間がないことを確かめた。
「確かに、このままでは内側へ風が届きません」
「少し離しておこう」
「はい。琥珀ちゃん、そちらをお願いします」
二人は端から順番に、布の間隔を広げていった。
乾いていた物は取り込み、冷たさの残る物は風が当たるように広げ直す。
マーレは少し離れた場所から、その様子を見守っている。
「教わったことを、もう人に教えられたね」
「えへへ。ラファお姉ちゃんと一緒に覚えたからだよ」
「ありがとうございます、琥珀ちゃん」
すべての服と布を確かめ、干し方を整え終えると、鐘亭の一階から賑やかな声が聞こえてきた。
何人もの足音が入口を通り、食堂へ入っていく。
聞き覚えのある笑い声も混じっていた。
琥珀の耳が、声のする方角へ向く。
「誰か来たみたい」
「風車の職人たちだろうね。今日は少し早い昼休みにしたのかもしれないよ」
「ベルグさんやロクスもいるかな?」
「下へ行けば分かるさ」
マーレは干してある布を最後に一度確認し、手を叩いた。
「さあ、次は食堂だよ」
「今度こそ、お料理?」
「まずは接客だね」
「また先だった!」
琥珀は耳を横へ倒したが、すぐに笑った。
「でも、みんなのお話を聞けるね」
「ああ。ただし、聞くのに夢中になって料理を運ぶのを忘れないようにね」
「忘れないよ!」
琥珀は元気よく答え、ラファお姉ちゃんと並んで階段へ向かった。
その後ろで、朝の風を受けた衣服と布が、ゆっくりと揺れていた。
──────────
琥珀とラファお姉ちゃんが一階へ戻ると、食堂は朝よりもずっと賑やかになっていた。
入口近くの大きな卓には、土や煤をつけた若い炭鉱夫たちが座っている。
窓際には数人の職人が集まり、その隣では絵描きが紙を丸めたまま、運ばれてくる料理を待っていた。
奥の卓からは、聞き慣れた大きな声も聞こえる。
「だから、あの石を先に置いたら道が塞がると言ったじゃろう!」
「分かってるって。ちゃんと置き直しただろ」
琥珀の耳がぴんと立った。
「ベルグじいとロクスも来てる!」
「琥珀ちゃん、立ち止まると後ろが詰まります」
「あっ、そうだった」
琥珀は慌てて通路の端へ寄った。
厨房から顔を出したマーレが、二人へ盆を差し出す。
「話を聞くのはいいけど、まずはこれを運んでおくれ」
盆には、湯気を立てるスープと焼いた肉、厚く切ったパンが並んでいた。
「はーい!」
「こちらは私が運びます」
琥珀はスープの盆を受け取り、若い炭鉱夫たちの卓へ向かった。
「お待たせしました!」
「おお、来た来た!」
「今日は腹が減ったぞ」
琥珀が器を置くと、若い衆の一人が隣の仲間へ肘を当てた。
「お前が朝から石を置き直したせいだろ」
「仕方ないだろ。右側へ運ぶ道を塞ぎかけたんだから」
「右側って、次の鍛冶場?」
「ああ。今は、右側で作業する場所を空けてるところだ」
若い炭鉱夫は運ばれてきたスープを受け取り、嬉しそうに息を吐いた。
「歯車も小さな窯も、少しずつ進んでるぞ。まだどれも途中だけどな」
「そうなんだ!」
「詳しくは、実際に見た方が分かりやすいだろうな」
「右側へ置く物も、通る道を塞がないように分けてるところだ」
琥珀は、朝にマーレから言われたことを思い出した。
「見えないくらい持ったり、通るところを塞いだら危ないもんね」
「そういうことだ。俺たちも昨日、ベルグ親方に随分怒鳴られた」
「怒鳴ってはおらん!」
離れた卓から、すぐに声が飛んできた。
食堂のあちこちで笑いが起こる。
「聞こえてたみたい」
「いつものことだ」
琥珀も笑いながら、空いた水差しへ水を足した。
次に窓際の卓へ向かうと、職人たちがパンをちぎりながら話していた。
「歯車も、小さい窯も作ってるんだよね?」
「ああ。ただし、どちらもまだ確かめながら進めているところだ」
年長の職人は、パンを持ったまま頷いた。
「歯車は一度削りすぎたら戻せない。小さな窯も、安全を確かめるまでは火を入れない」
「じゃあ、急がずに作ってるんだね」
「そういうことだ」
「まだ火は入れさせんぞ」
奥の卓から、またベルグの声が飛んでくる。
「分かってますよ、親方!」
若い職人は苦笑しながら肩をすくめた。
「鐘亭にいても、ちゃんと見張られてるな」
「ちゃんと止めてもらえてるんだね」
「止めてもらってるって言い方は、少し違う気もするけどな」
そう言いながらも、その顔は嬉しそうだった。
ラファお姉ちゃんは別の卓へ料理を置き、空いた器を重ねている。
絵描きがその姿を見ながら、丸めていた紙を少しだけ広げた。
「昨日より、人の立つ場所が分かりやすくなったよ」
「風車のところ?」
「うん。運ぶ道と、作業する場所が分かれてきたからね」
紙の端には、さそり座風車の周りで働く人々が小さく描かれていた。
風車の周囲には、道具を運ぶ者や、作業の順番を確かめる職人たちの姿がある。
「前は、風車だけが大きく見えてたんだ」
「今は違うの?」
「今は、その周りに人の姿がたくさんある。少しずつ、街の仕事場らしくなってきたよ」
琥珀は紙を覗き込み、嬉しそうに目を細めた。
風車の地下へ初めて入った時、そこには長く溜め込まれた熱があった。
行き場を失い、近づくことさえ難しかった熱。
今はその熱が、職人たちの鍛冶場へ送られ、仕事を支えている。
「さそり座の風車、前よりずっと賑やかになったね」
琥珀は笑顔のまま、絵描きの前へスープを置いた。
「溜めていた熱も、ちゃんとみんなのお仕事に使えてるんだね」
「ああ。無駄に溜めるんじゃなく、必要なところへ分けておる」
いつの間にか、ベルグが空の器を手に立っていた。
「最初の鍛冶場が使えるようになったからといって、全部終わりではないがのう」
「右側の鍛冶場も、歯車も、小さい窯もあるんだよね」
「そうじゃ。じゃが、誰か一人がおらんと何も進まんようでは、仕事場とは言えん」
琥珀は一度瞬きをした。
「わたしがいない間も、ちゃんと進んでたんだね」
「当たり前だ」
ロクスがパンを片手に振り返る。
「石を運ぶのに、毎回琥珀の感知がいるわけじゃないからな」
「それに、必要な時にはこちらから呼ぶ」
ベルグは空の器を琥珀へ渡した。
「今日は鐘亭の仕事をしておれ。ここの飯がなければ、こやつらは昼から動けん」
「親方だって二杯食べてるじゃないですか」
「わしは働いておるからよい!」
また食堂に笑いが広がった。
琥珀は受け取った器を盆へ置き、満面の笑みを浮かべた。しっぽも楽しそうに左右へ揺れていた。
「じゃあ、おかわり持ってくるね!」
「待て、勝手に増やすな!」
「でも、二杯目食べたんでしょ?」
「それとこれとは別じゃ!」
琥珀は楽しそうに笑い、厨房へ戻っていった。
ラファお姉ちゃんもその後を追い、空いた器を流しのそばへ置く。
「皆さん、それぞれの仕事を進められていますね」
「うん。わたしたちが鐘亭にいても、風車は止まらないんだね」
「そして、鐘亭の仕事も風車を支えています」
琥珀が振り返ると、食堂では職人たちが温かな料理を食べ、次の作業について笑いながら話していた。
マーレが大きな鍋の蓋を開け、二人へ目を向ける。
「感心するのはいいけど、まだ運ぶ料理があるよ」
「はーい!」
琥珀は新しい盆へ手を伸ばした。
その時、入口から一人の若い炭鉱夫が顔を覗かせる。
「マーレさん、頼みがあるんだけど」
「どうしたんだい?」
「風車から離れられない連中が何人かいるんだ。悪いけど、持っていける昼飯を用意してもらえないか?」
「もう用意してるよ」
マーレはそう言って、厨房の奥へ目を向けた。
そこには、持ち運べるように分けられた昼食と、蓋の付いた器がすでに並べられていた。
「もう?」
「全員が鐘亭まで戻ってこられるとは限らないからね」
若い炭鉱夫は、安心したように息を吐いた。
「助かるよ。みんな、もう腹を空かせてると思う」
琥珀の耳がぴんと立ち、しっぽが勢いよく揺れ始めた。
「わたし、届けに行く!」
「私もご一緒します」
マーレは、待っていましたと言わんばかりの琥珀を見て、楽しそうに笑った。
「そのつもりだよ」
「ほんと?」
「ああ。むしろ、風車がどうなったのか見たくて、ずっとうずうずしてたんだろう?」
「えっ」
琥珀は、手に持っていた盆を少し持ち上げ、顔の下半分を隠した。
ぴんと立っていた耳がぺたりと横へ倒れ、勢いよく揺れていたしっぽも、急に小さな動きへ変わる。
「……ちょっとだけ」
「ちょっとどころではなかったと思います」
「ラファお姉ちゃん!」
盆の向こうから顔を覗かせた琥珀を見て、マーレが声を立てて笑った。
「見に行くのは構わないよ。ただし、今日の一番の仕事は弁当を届けることだからね」
「うん!」
琥珀は盆を下ろし、倒れていた耳をもう一度立てた。
「今朝教えたことを忘れずに運ぶんだよ」
「重い物は下。こぼれたら困る物は、傾かない場所だよね」
「はい。籠の中で器が動かないよう、隙間も埋めましょう」
「そうだよ。まずは弁当を詰めるところから手伝いな」
「はーい!」
「はい」
食堂の賑やかな声を背に、琥珀とラファお姉ちゃんはマーレの横へ並んだ。
今度は鐘亭で用意した食事を、さそり座風車へ届ける番だった。
厨房の奥に用意されていた昼食は、いくつかの蓋付きの器へ分けられていた。
琥珀とラファお姉ちゃんが昼食を運ぶ準備を始める横で、食事を終えたベルグとロクスが席を立つ。
先ほど弁当を頼みに来た若い炭鉱夫も、二人と一緒に風車へ戻るようだった。
「わしらは先に戻るぞ」
ベルグは風車の作業図面を丸めて脇へ抱え、厨房に並んだ弁当へ目を向けた。
「向こうで待っておる者にも、もうすぐ届くと伝えておく」
「慌てて運ぶなよ、琥珀」
「分かってるよ。ちゃんと歩いて持っていくから!」
元気よく答えた琥珀のしっぽは、早く風車へ行きたい気持ちを隠せず、左右へ大きく揺れていた。
ロクスはそれを見て、少しだけ眉を上げる。
「しっぽまで歩かせとけよ。先に走らせるな」
「走らないってば!」
「なら、向こうで待ってるぞ」
ベルグとロクスは、若い炭鉱夫と一緒に鐘亭を出ていった。
入口の扉が閉じると、琥珀は厨房の奥へ向き直る。
「よし。わたしたちも準備しよう!」
「はい。ですが、急がず一つずつ確認しましょう」
琥珀は大きな籠の底へ、パンと包んだ焼き肉を入れていく。
その上へスープの器を置こうとして、途中で手を止めた。
「これだと、下のパンが潰れちゃうかな」
「それに、器の方が重いですね」
ラファお姉ちゃんは隣の籠へ敷いていた布を一度外した。
「重い物を先に置き、その周囲へ布を詰めましょう」
「うん。器が動かないようにするんだよね」
二人はスープの器を籠の底へ並べ、その間へ丸めた布を入れた。
軽いパンと焼き肉の包みは、その上へ重ねる。
琥珀が籠を小さく揺らしてみると、器同士がぶつかる音はしなかった。
「これなら大丈夫そう!」
「持ち上げる前に、蓋も確認してください」
「あっ」
琥珀は一つずつ蓋へ触れ、きちんと閉まっていることを確かめた。
マーレは口元に笑みを浮かべながら、最後に清潔な布を籠へ掛ける。
「見るのを楽しみにするのはいいけど、走るんじゃないよ」
「走らないよ」
琥珀のしっぽが、返事とは反対に勢いよく揺れていた。
「しっぽは、もう風車まで走っていそうですね」
「もう、ラファお姉ちゃんまで!」
耳を少し横へ倒した琥珀を見て、マーレが楽しそうに笑った。
「二人で持っていきな。食べ終えた器も、あとで忘れずに回収するんだよ」
「はーい!」
「行ってまいります」
二人は籠の持ち手を片方ずつ持ち、鐘亭を出た。
──────────
街を抜けてさそり座風車へ近づくにつれ、金属を打つ音が少しずつ大きくなっていった。
以前は、風車の周りへ近づいても、古い羽根や建物が風を受ける音ばかりが目立っていた。
今は違う。
石を運ぶ掛け声。
道具を渡す声。
火の具合を確かめる職人たちの声。
いくつもの音が重なり、風車の周りには人の動きが絶えなかった。
「本当に、賑やかになってる」
琥珀の耳が、あちらこちらから聞こえる音を追うように動いた。
「はい。食堂で伺った以上に、多くの方が作業されています」
二人は籠を傾けないよう歩調を合わせ、弁当を受け取る場所へ向かった。
最初に整えられた鍛冶場では、職人が赤く熱した金属を台へ置いている。
地下に溜まっていた熱は、壁際を通る管から必要な分だけ送られていた。
以前のように、近づくだけで息苦しくなるほどではない。
火を扱う場所の周囲には余計な物が置かれず、水の入った桶もすぐ手の届く位置にあった。
「熱が、ちゃんと火のお仕事になってるね」
「おう。勝手に広がらないよう、量を見ながら使ってるぞ」
職人はそう答えたあと、すぐに手元へ視線を戻した。
今は話を続けるよりも、金属を見る方が大切なのだろう。
琥珀も邪魔をしないよう、軽く頭を下げて先へ進んだ。
右側の鍛冶場を作る場所では、若い炭鉱夫たちが石材を運んでいた。
地面には二本の線が引かれている。
一方は荷物を運ぶ道。
もう一方は、人が歩いて戻るための道だった。
「食堂で話してた道だね」
「はい。今は、どちらも塞がれていません」
その時、二人の若い炭鉱夫が一枚の石材を持ち上げた。
置こうとしていた場所には、別の道具箱が残っている。
「待て。そこへ置いたら、戻る道が狭くなる」
前を持っていた一人が、足を止めた。
「じゃあ、先に箱を動かす。いったん下ろそう」
「せーの」
二人は無理に方向を変えず、石材を元の場所へ静かに下ろした。
近くにいた仲間が道具箱を移し、通路へ何もないことを確かめる。
「今度は大丈夫だ」
「ああ。もう一度いくぞ」
琥珀は思わず一歩近づきかけたが、その場で止まった。
助けを呼ぶ声はなかった。
若い衆は自分たちで危険に気づき、持ち上げる前の状態へ戻していた。
「ちゃんと、自分たちで止まったね」
「はい。無理に続けず、安全なところまで戻しました」
琥珀のしっぽが、安心したようにゆっくりと揺れた。
少し離れた場所には、大きな円い材料が横たえられていた。
表面にはいくつもの線と印が描かれている。
まだ歯車の形にはなっていない。
けれど、どこを残し、どこを削るのか、確かめた跡が少しずつ増えていた。
その向こうでは、若い職人が小さな窯の周囲へ石を並べている。
窯にはまだ火が入っておらず、煙も上がっていない。
若い職人は石を一つ置くたびに少し離れ、形を見直していた。
「思ってたより、本当に小さいんだね」
「おう。細かい物を作る窯だからな」
若い職人は立ち上がり、手についた土を払った。
「でも、今日は石を組んで形を見るところまでだぞ。火を入れるのは、ベルグ親方たちに見てもらってからだ」
「うん。聞いてるよ」
「もう話したのか、親方……」
「鐘亭まで聞こえる声で言ってたからね」
若い職人は頭を掻き、近くの仲間たちが笑った。
「琥珀、こっちだ」
聞き慣れた声に、琥珀の耳がそちらへ向いた。
先に鐘亭を出たロクスが、日陰になった場所から手を振っている。
その隣ではベルグが図面を広げ、作業を離れられなかった職人たちへ何かを伝えていた。
ロクスたちが先に知らせてくれていたのか、弁当を待つ者たちも少しずつ集まり始めている。
「お弁当、持ってきたよ!」
「待ってたぞ」
琥珀とラファお姉ちゃんは籠を地面へ直接置かず、用意されていた台の上へ載せた。
蓋を開けると、まだ温かい湯気がふわりと上がる。
「器も動いていません。無事に運べました」
「パンも潰れてないよ」
「上出来じゃな」
図面を丸めたベルグが、二人の運んできた籠を覗き込む。
「ベルグじいも、またこっちで食べるの?」
「わしは鐘亭で食べたじゃろう」
「二杯もね」
「余計なことは覚えておらんでよい!」
琥珀は「あはは」と笑い、耳を楽しそうに動かした。
ベルグは小さく咳払いをすると、作業場へ視線を戻す。
「どうじゃ。おぬしがおらん間にも、少しは進んでおるじゃろう」
「うん。みんなが、自分たちで止まって、戻る道も残してた」
「いつまでも、おぬしとラファに見てもらわねば動けんのでは困るからのう」
その言葉に冷たさはなかった。
むしろ、自分たちの仕事を自分たちで持てるようになったことを、少し誇らしく思っているようだった。
「琥珀ちゃんの感覚が必要な場合は、こちらからお伝えします」
「そうじゃ。必要な時には頼む」
ベルグは弁当を待つ若い衆へ目を向けた。
「今は、こやつらに飯を食わせる方が先じゃ」
「じゃあ、配るのを手伝うね!」
「はい。私はスープをお渡しします」
二人は弁当を順番に手渡していった。
受け取った者たちは礼を言い、火や道具から離れた場所へ腰を下ろす。
琥珀は最後の包みを渡したあと、風車の周囲をもう一度見回した。
鍛冶場の火。
印をつけられた歯車の材料。
形を作り始めた小さな窯。
石を運ぶ道と、人が戻るための道。
どれもまだ完成してはいない。
けれど、琥珀が鐘亭で働いている間にも、みんなの手で少しずつ前へ進んでいた。
「見に来られてよかったね、琥珀ちゃん」
「うん。でも、一番のお仕事もちゃんとできたよ」
琥珀は空になった籠を持ち上げ、満足そうに笑った。
「みんなに、お弁当を届けられたから!」
風車の周りに、食事を始めた者たちの声が広がっていく。
琥珀とラファお姉ちゃんは長居をせず、食べ終えた器はあとで回収することを伝え、鐘亭へ戻る道を歩き始めた。
鐘亭へ戻る頃には、昼の賑わいも少しずつ落ち着き始めていた。
食堂にはまだ何人かの客が残っていたが、職人や若い衆の多くは、午後の作業へ戻っている。
「ただいま!」
「ただいま戻りました」
「お帰り。ちゃんと届けられたかい?」
「うん! 器も動かなかったし、パンも潰れなかったよ」
琥珀の耳が誇らしそうに立ち、しっぽも軽く揺れていた。
「現場の皆さんにも、無事にお渡しできました」
「それなら上出来だね」
マーレは、二人が持ち帰った籠へ目を向ける。
中には、弁当を包んでいた布が何枚か残っていた。
「届けて終わりじゃないよ」
「分かってるよ。次はお片付けだよね」
琥珀は籠から布を取り出した。
汚れていない物と、汁が少し付いた物を分ける。
ラファお姉ちゃんは空になった籠の中を確認し、底へ敷いていた布を外した。
「こちらは洗った方がよさそうです」
「うん。重い器を置いてたところだね」
二人は使った布を洗濯場へ運び、籠を拭いて乾かした。
琥珀は洗った布を干そうとして、隣の布との間を少し空ける。
「くっつけたら、風が通らないもんね」
「厚く重なった部分も確認しましょう」
「うん。外だけ乾いてても駄目なんだよね」
朝に教わったことを思い出しながら、二人は布の端を広げた。
マーレは厨房の入口から、その様子を見ている。
「ちゃんと覚えてたようだね」
「だって、生乾きの服を着るのは嫌だもん」
「ああ。それが分かっていれば忘れないよ」
布を干し終えると、今度は厨房へ戻った。
使った道具は洗い、乾いた物は元の場所へ戻していく。
琥珀は鍋を棚の奥へ置こうとして、途中で手を止めた。
「これは、よく使うから手前だよね」
「はい。重さもありますので、低い位置の方が安全です」
二人は場所を確かめ、鍋を安定した棚へ収めた。
「朝は、お料理を最初に教えてもらえると思ってたんだけどなあ」
琥珀は空いた作業台を布で拭きながら、少しだけ笑った。
「今日は料理より先に、たくさん覚えましたね」
「うん。お部屋を綺麗にすることも、お洋服を乾かすことも、荷物を運ぶことも、旅に必要なんだね」
マーレが大きな鍋の中を確かめながら頷く。
「旅に出たからって、急に何でもできるようにはならないからね」
「鐘亭でやってることを、旅でもやるんだ」
「場所や道具が変わっても、困らないように考えるところは同じさ」
琥珀は布を畳み、次に使いやすい場所へ置いた。
「風車のみんなも、戻る道を塞がないように考えてたよ」
「石を運ぶ方々が、自分たちで作業を止め、安全な状態へ戻していました」
「へえ。ちゃんと身についてきたじゃないか」
「わたしがいなくても、みんなで進めてた」
その声に寂しさはなかった。
琥珀のしっぽは、安心したようにゆっくりと揺れている。
「必要な時は呼ぶって、ベルグじいが言ってたよ」
「それでいいんだよ」
マーレは琥珀へ向き直った。
「何でも一人で抱えたら、旅へ出る前に疲れちまうからね」
「うん。鐘亭のお仕事は、わたしとラファお姉ちゃんがする」
「風車の作業は、職人さんたちが進めてくださいます」
「それで、鐘亭で作ったご飯を風車へ届けるんだね」
琥珀は嬉しそうに笑った。
鐘亭と風車は離れている。
けれど、働いた人たちは鐘亭へ食事に来て、鐘亭で作った弁当は風車へ運ばれる。
それぞれの場所で働きながら、街の一日はつながっていた。
午後の仕事が始まると、琥珀は食堂へ戻った。
空いた器を下げ、飲み物を運び、新しく訪れた客を部屋へ案内する。
朝に整えた客室へ入ると、水差しも布も、必要な場所へきちんと収まっていた。
客が迷わず使えることを確かめ、琥珀の耳が嬉しそうに動く。
「ごゆっくりお休みください!」
客室を出ると、廊下で待っていたラファお姉ちゃんが微笑んだ。
「今朝よりも、自信を持って案内できていますね」
「だって、どこに何があるのか、ちゃんと分かるように置いたから」
「はい。とても使いやすいお部屋になっています」
琥珀は満足そうに胸を張った。
「鐘亭で覚えたことも、ちゃんと旅へ持っていけるんだね」
「ええ。持っていけるのは、道具や荷物だけではありません」
一階から、マーレの声が飛んでくる。
「二人とも、話が終わったら下へ戻っておいで!」
「はーい!」
「はい」
二人は顔を見合わせ、笑いながら階段を下りていった。
──────────
夕方。
昼に届けた弁当の器を回収するため、琥珀は一人でさそり座風車を訪れていた。
ラファお姉ちゃんは鐘亭に残り、夕方に訪れた客の案内を手伝っている。
中身の入った籠を二人で運んだ時とは違い、帰りに持つのは空になった器だけだった。
それでも琥珀は、器が倒れないよう一つずつ重ね、その間へ布を挟んでいく。
「これで、帰る途中も音がしないね」
最後の器を籠へ入れると、近くにいた若い炭鉱夫が手を振った。
「昼飯、うまかったぞ。マーレさんに伝えておいてくれ」
「うん。ちゃんと伝えるね!」
午後の作業は、終わりに近づいていた。
職人たちは火の勢いを確かめ、使い終えた金槌や火箸を、一つずつ決められた場所へ戻している。
まだ熱を持った道具は、ほかの物と混ざらない場所へ分けられていた。
若い衆は通路に残った石や箱を運び、明日も人が安全に通れるよう道を空けていく。
まだ使う材料と、使い終えた物も、別々の場所へまとめられていた。
琥珀は、籠の持ち手へ伸ばした手を止めた。
「ここでも、同じなんだ……」
近くにいた若い職人が、道具を棚へ戻しながら振り返る。
「何がだい?」
「鐘亭でも、使った物は次に困らない場所へ戻すんだよ」
琥珀は、綺麗に空けられていく通路へ目を向けた。
「濡れた物や、まだ熱い物も、ほかの物と一緒にしないの」
「そりゃあ、混ぜたら危ないからな」
若い職人は、棚へ戻した火箸の向きをもう一度直した。
「ベルグ親方に、道具を使ったまま置くなって、何度も仕込まれてるんだ」
今度は、通路に残っていた小さな木箱を持ち上げる。
「ロクスにも、運ぶ道と戻る道を塞ぐなって、耳にたこができるくらい言われてる」
「二人とも、ちゃんと教えてるんだね」
「ああ。二人とも、見た目や言い方は少し怖いけどな」
若い職人は冗談めかして笑ったあと、少しだけ真面目な顔になった。
「でも、仕事のことじゃ間違ったことは言わないんだ。俺たちが怪我をしないように、よく見てくれてる」
若い職人は木箱を材料置き場へ運び、空いた通路を振り返った。
「最初は細かいと思ってた。でも、今なら言われてた意味も分かるよ」
「だから、みんな二人の言うことを聞くんだね」
「言われたから聞くんじゃないさ。二人の仕事を見てれば、信じていいって分かるんだ」
琥珀の耳が、驚いたようにぴんと立った。
「お部屋のお掃除と、同じなんだね」
鐘亭の客室と、風車の鍛冶場。
置かれている物も、使う道具もまったく違う。
けれど、次に使う人が困らないよう整え、危ない物を分け、歩く場所を空けておくことは同じだった。
「仕事が終わったら片付けるんじゃなくて、片付けるところまでがお仕事なんだね」
「ああ。明日の自分たちが困らないようにな」
琥珀は大きく頷いた。
朝、マーレに教わったことは、鐘亭の中だけの話ではなかった。
ベルグとロクスが若い職人たちへ伝えてきたことも、マーレの教えと同じ場所へつながっている。
旅に出ても、風車で働いても、次に使う時のことを考えるのは同じだった。
昼間より作業の音は少なくなっている。
それでも風車の周りには、片付けをする声や、明日の仕事を確かめ合う声が残っていた。
琥珀は籠を持ち上げる前に、風車の紋章と赤い玉へ目を向けた。
以前は、静けさの中に取り残されたように見えた場所。
今は鍛冶場の近くに職人が立ち、若い衆が道具を運び、その日の仕事を終えた者たちが笑い合っている。
琥珀のしっぽが、穏やかに左右へ揺れた。
「賑やかになってきたね」
誰かの声が聞こえたわけではなかった。
意識を研ぎ澄ませ、何かを感じ取ろうとしたわけでもない。
夕日に照らされた紋章が、淡い光を返した。
その隣で、赤い玉の内側に浮かぶ粒子が、嬉しそうに小さく震えた。
琥珀はその様子を見つめ、目を細める。
「明日は、もっと賑やかになるかもしれないね」
琥珀は紋章と赤い玉へ笑みを向け、空いている片手を小さく振った。
「また、来るね」
夕日に照らされた紋章が、もう一度淡く輝いた。
赤い玉の内側では、光の粒子が小さく揺れている。
琥珀は空になった器の入った籠を持ち上げた。
鐘亭へ帰れば、マーレとラファお姉ちゃんが待っている。
琥珀はもう一度だけ手を振ると、しっぽをゆっくりと揺らしながら、夕暮れの道を歩き始めた。




