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第43話

 午後の光が、ベルグ工房の奥まで斜めに差し込んでいた。


 棚に並ぶ古い金具や板の端が、淡い光を受けている。


 先ほどの小さな音に、琥珀だけでなくロクスも確かに反応していた。


「今の、ロクスにも聞こえた?」


「ああ。今度のは、ちゃんと聞こえた」


 ロクスは棚へ近づこうとして、途中で足を止めた。


 少し離れた場所で腕を組んでいるマーレへ、ちらりと目を向ける。


「見るだけだよ」


「分かってるって」


 ロクスは棚との間に距離を残したまま、その中を覗き込んだ。


 琥珀も隣へ並ぶ。


 棚に置かれた試作たちは、先ほどと変わらず静かだった。


 風が通っているわけではない。


 誰かが触れたわけでもない。


 それでも琥珀には、棚の奥に小さな揺れが残っているように感じられた。


「どれが鳴ったんだ?」


「まだ分からない」


 琥珀は目を閉じず、一つずつ試作を見ていった。


 形だけで選ぶのではない。


 先ほど感じたざわめきが、どこから強く伝わってくるのか。


 急がず、静かに確かめていく。


「声がするのか?」


「声っていうより……気持ちが近づいてくる感じ」


 琥珀は胸元へ手を添えた。


「でも、全部が同じじゃないよ。少し前に出たそうに感じるものもあるし、すごく静かなものもある」


「部品にも、そんな違いがあるのか」


「本当に気持ちがあるのかは、わたしにも分からないよ」


 琥珀は棚を見たまま、小さく首を傾げる。


「ただ、そう感じるだけ」


 ロクスは笑ったり、疑ったりはしなかった。


 自分の描いた馬力車の紙と、棚の試作たちを交互に見る。


「だったら、気になったものを教えてくれ」


 ロクスは紙を持ち直した。


「でも、使えるかどうかは一緒に考えようぜ」


「うん」


「琥珀が感じたことを言う。俺が相棒に合いそうか見る。ベルグじいが形にできるか考える。ラファが危なくないか確かめる」


「私は、誰かが勝手に持ち上げないか見ておくよ」


「役割がきれいに分かれましたね」


 ラファお姉ちゃんの言葉に、琥珀は嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、一緒に見よう、ロクス」


「ああ。ゆっくり見て回ろうぜ」


 琥珀は棚の左端から、少しずつ視線を動かした。


 最初に目に留まったのは、二枚一組で置かれた薄い板だった。


 わずかに弧を描いていて、中央には小さな穴がいくつか開いている。


「この板、さっきから少し揺れてる感じがする」


「さっき見た、揺れを逃がす板か」


 ベルグは二人が見ている場所を、少し離れたところから確認した。


「以前、大きな荷台へ使おうとしたものじゃ。柔らかすぎて、重い荷を受け切れんかった」


「でも、椅子の下だけならどうだ?」


 ロクスは自分の描いた紙へ目を落とし、折りたたみ座席の位置を鉛筆で示した。


「大荷物を載せるわけじゃねえ。二人が乗った時に、強く跳ねた分だけ少し逃がせればいい」


「考え方としては合うのう」


 ラファお姉ちゃんは、木札へ薄い板の特徴を書き加えた。


「ただし、柔らかすぎると、座った時に深く沈む可能性があります」


「立ち上がりにくくなったら怖いかも」


「なら、この板をそのまま使うとは決めず、厚さや重ね方を考える候補じゃな」


 ベルグは図面の座席下へ、小さな波形の印を加えた。


「座席の揺れを逃がす考え。仮候補じゃ」


 琥珀がもう一度薄い板を見ると、先ほどまで感じていた細かな揺れが、少し静かになったような気がした。


「……落ち着いたのか?」


「うん。でも、使ってもらえるって決まったわけじゃないよ」


 琥珀は板を見たまま微笑む。


「ちゃんと見てもらえたから、安心したみたい」


 ロクスも棚へ向かって小さく頷いた。


「まだ候補だからな。合わなかったら、無理には使わねえぞ」


「それでいいと思う」


 次に琥珀の視線が止まったのは、棚の奥へ立てかけられた細長い骨組みだった。


 何本かの細い材が、折り重なるようにつながっている。


 表面には、以前使われた時についたらしい擦り傷が残っていた。


「こっちは、外を見たがってる感じがする」


「外?」


 ロクスは骨組みの形を目で追う。


「幌の骨に使おうとしたものじゃな」


「折りたためるやつか?」


「そうじゃ。じゃが、以前は広げた時に高くなりすぎた。横風を受けると、荷台ごと引かれかねん形だった」


 ロクスの耳が少し下がった。


「それは、そのままじゃ使えねえな」


「低くしたらどうかな?」


 ラファお姉ちゃんは、設計図に描かれた幌の線と、棚の骨組みを見比べた。


「すべてを覆わず、二人が座る場所と、濡らしたくない荷物だけを守る大きさであれば、受ける風は減らせます」


「仕事の時は畳んでおく。風が強い時も使わねえ」


「全部を使う必要はないのう」


 ベルグは骨組みを眺めながら、顎髭を撫でた。


「折りたためる動きだけを借りて、短く作り直す手もある」


 図面の幌へ、途中まで開いた形が描き加えられる。


「折りたたみ幌の考え。これも仮候補じゃ」


「この子、そのまま馬力車へ付くわけじゃないんだね」


「全部を使うことだけが、役目を得ることではない」


 ベルグは棚の骨組みを見上げ、静かに続けた。


「形が合わなくとも、動き方や考え方が次へ残ることもある。それも、試作の役目じゃ」


 琥珀は、その言葉を聞きながら骨組みを見つめた。


「形じゃなくても、一緒に行けるんだね」


「そういうことじゃ」


 ロクスは、自分の絵に描いた幌の線を消し、少し低い形へ描き直した。


「これくらいなら、前も見えそうだ」


「後ろを見る時の邪魔にもならない方がよいですね」


「ああ。全部ふさぐつもりはねえよ」


 ロクスが描き直した幌は、最初より小さくなっていた。


 琥珀とラファお姉ちゃんが座る場所と、雨に濡らしたくない荷物だけを守る形。


 馬力車全体を覆い隠すものではない。


「このくらいなら、雨の日でも外が見えそう」


「ああ。風が強けりゃ畳む。雨がひどけりゃ、そもそも進まない」


「よい判断です」


 ロクスは少し照れたように鼻を鳴らし、次の棚へ視線を移した。


 そこには、大小の留め具が並んでいる。


 どれもよく似て見えたが、その中の一つだけ、琥珀には強く前へ出ようとしているように感じられた。


「この金具、すごく使ってほしそう」


「どれだ?」


「真ん中の、少し黒くなってるもの」


 ロクスは棚へ顔を寄せ、琥珀が示した金具をよく見る。


「荷物を締めるものにしては、分厚いな」


「以前、大きな木箱を固定するために作ったものじゃ」


「さっき言ってた、強く締まりすぎるやつか」


「そうじゃ。締める方へ力が寄りすぎておる」


 ロクスは自分の紙へ目を落とした。


 荷物を固定する区画。


 床へしまう座席。


 停車した時に出す補助脚。


 それらをしばらく見比べる。


「荷物に使うと、また開かなくなるかもしれねえ」


「うむ」


「でも、簡単に外れちゃ困る場所なら?」


 ベルグが目を細める。


「どこを考えとる」


「座席の固定だ」


 ロクスは、琥珀の考えた折りたたみ座席を鉛筆で示した。


「走ってる時に、勝手に畳まれたら困る。座席を開いたあと、動かないように固定する仕組みに使えないか?」


「そのままでは強すぎます」


「だから、金具全部じゃなくて、止める部分の考えだけ使う」


 ベルグはしばらくロクスの図を見つめた。


 それから、棚の黒い留め具へ視線を移す。


「おぬし、ちゃんと見とるではないか」


「俺の相棒だからな」


 ロクスの声には、少しだけ誇らしさが混じっていた。


「止める力を弱めて、停車したあとに手で外せる形へ変えれば、使えるかもしれん」


「乗っている間は外れず、停車してから解除できる仕組みが必要ですね」


「それなら、怖くない?」


「開いた座席が勝手に動かないのであれば、安全性は上がります」


「じゃあ、この子は椅子を支えるお手伝いができるかもしれないんだね」


「まだ候補じゃがな」


 ベルグは図面の折りたたみ座席へ、固定金具の印を加えた。


「座席を開いた状態で固定する考え。仮候補じゃ」


 琥珀が金具へ笑いかけると、前へ出たがっていたように感じた気配が、少しだけ静かになった。


「使ってほしくて、焦ってたのかな」


「そうかもしれねえな」


 ロクスは金具を見ながら、小さく息を吐いた。


「でも、合わねえ場所に付けたら、また失敗する」


「うん。急がずに、合う場所を探そうね」


 その言葉に応えるように、棚のどこかで、こと、と小さな音が鳴った。


 今度の音は、近くにいた全員の耳に届いた。


 マーレが少し離れた場所から、二人の様子を見守っている。


「今のところ、約束は守れてるね」


「俺たちだって、言われたことくらい守るぞ」


「さっきまで作り始めそうだった人が二人いたけどね」


「俺とベルグじいを一緒にするなよ」


「おぬしも十分、前のめりじゃったろうが」


 ロクスとベルグが顔を見合わせる。


 けれど、どちらも棚へ手を伸ばすことはなかった。


 ラファお姉ちゃんは、木札に書かれた候補を確認した。


 座席の揺れを逃がす考え。


 低く作り直す折りたたみ幌。


 座席を開いた状態で固定する仕組み。


 どれも、まだ採用ではない。


 今の図面へ必要な可能性を置いただけだった。


「ほかに、優先して確認するものはありますか?」


 ベルグは棚の下段へ視線を移した。


「止めるためのものじゃな」


「止める?」


「走る仕組みより先に、止まる仕組みを決める」


 ベルグが示した先には、太い楔と、短い脚のような試作が並んでいた。


「休憩中に勝手に動かないためのものか」


「うむ。荷台を下げる時にも、先に車体を支えねばならん」


 琥珀は太い楔を見た。


 先ほどまで気になった試作たちとは違い、それはとても静かだった。


 前へ出たがっているようには感じない。


 使ってほしいと焦っているようにも思えない。


 ただ、どっしりとそこにあり、動くものを受け止める時を待っている。


「この子は、すごく静かだね」


「嫌がってるのか?」


「ううん。待ってる感じ」


 琥珀は楔をじっと見つめる。


「急がなくても、自分の役目が分かってるみたい」


 ロクスも、その楔をしばらく見た。


「俺、こいつの考えは欲しい」


「まだ使えるかは分からんぞ」


「それでも、止まる仕組みは最初に決めたい」


 ロクスは図面の車輪へ鉛筆を置いた。


「道が悪い時は止まる。俺が疲れた時も休む。二人が乗り降りする時に勝手に動くのも駄目だ」


 ロクスは琥珀とラファお姉ちゃんへ目を向ける。


「速く走るより、止まりたい時に止まれる方が大事だろ」


 ベルグは満足そうに髭を撫でた。


「よう分かっとるではないか」


「当たり前だ。二人を乗せるんだからな」


 ラファお姉ちゃんは、木札へ優先を示す印を書き込んだ。


「安全停止は、仮候補ではなく、必ず設ける条件として扱いましょう」


「うん。止まってる時に動かない方が安心する」


「では、この楔の考えを土台にして、車輪と補助脚の両方を止める方法を考える」


 ベルグは図面の足元へ、太い印をつけた。


 どの部品を使うかは、まだ決まっていない。


 それでも、止まる仕組みを必ず入れるという考えは、図面の中へ確かに置かれた。


 琥珀は、棚の楔が重く息をついたように感じた。


 本当に何かが伝わったのかは分からない。


 喜んで跳ねるような反応もない。


 ただ、自分の立つ場所が見つかったことを、静かに受け止めたような気がした。


「この子、嬉しいのかな?」


「どうだろうな」


 ロクスは楔を見たまま、小さく笑った。


「でも、頼りになりそうだ」


 琥珀も、つられるように微笑んだ。


 棚を一通り見終えると、みんなは作業台の前へ戻った。


 誰も試作を持ってはいない。


 けれど、図面の上には、棚を見る前にはなかった印が増えている。


 座席の下には、揺れを逃がす候補。


 幌には、折りたたむ考え。


 座席には、開いた状態を支える固定。


 車輪のそばには、止まるための太い印。


 ロクスは、自分の描いた原型と、ベルグの図面を見比べた。


「少しずつ、馬力車らしくなってきたな」


「まだ、紙の上だけじゃがな」


「でも、さっきより相棒の顔が見える気がする」


 ラファお姉ちゃんは、二枚の図面と木札を順番に確認した。


「今日、優先して決めるものを整理します」


 木札を三つ、作業台の中央へ置く。


「一つ目は、止まるための仕組み」


 次の木札をその隣へ並べた。


「二つ目は、座席を安全に開き、動かないように固定すること」


 最後の一枚を置く。


「三つ目は、荷物と乗る人の場所を分けることです」


「幌や揺れを逃がす板は?」


「必要ではありますが、今すぐ形を決めるものではありません」


 ラファお姉ちゃんは候補を書いた木札を、少し離れた場所へまとめた。


「優先する三つを崩さない範囲で、次に考えましょう」


「最初から全部を一番にはできん、と言ったからのう」


 ベルグの言葉に、ロクスは素直に頷いた。


「まずは、安全に止まれて、二人が座れて、仕事にも使えることだな」


「はい」


 話が一度まとまったところで、マーレが冷ましたお茶を配った。


「ここで少し休憩だよ」


「またか?」


「棚を端から端まで見たんだ。目も頭も休ませな」


 ベルグは何か言いたそうに口を開いたが、すぐに閉じた。


 ロクスも作業台から離れ、椅子へ腰を下ろす。


 琥珀は受け取ったお茶を一口飲んだ。


 昼食のあとよりも少し傾いた光が、窓辺の床へ伸びている。


「試作たち、使えるといいね」


「全部を使う必要はないぞ」


「うん。考えだけ一緒に行く子もいるんだよね」


 琥珀はお茶の入った器を両手で包んだ。


「それも、置いていかないってことなのかな」


「そうかもしれません」


 ラファお姉ちゃんは、棚に並ぶ試作たちへ静かに視線を向けた。


「ただし、無理に役目を与えることも違うと思います」


「合う場所が見つかったものだけだな」


 ロクスは自分の図面を見ながら頷いた。


「今度の相棒に合わなかったら、また別の役目を待てばいい」


 その言葉に、琥珀はやわらかく笑った。


 短い休憩を終えると、みんなはもう一度作業台を囲んだ。


 ラファお姉ちゃんは、図面の中央に描かれた二人分の座席へ視線を止める。


「次は、実際に乗る場所を考えましょう」


「椅子の中?」


「はい。座る場所、手を添える場所、荷物との仕切りです」


 マーレも作業台へ近づき、二人分の座席と荷物の区画を覗き込んだ。


「外の形が良くても、中が使いにくかったら困るからね」


「じゃあ、次はわたしたちが考えるの?」


 琥珀が目を輝かせる。


 ラファお姉ちゃんは、その期待を受け止めるように微笑んだ。


「はい。琥珀ちゃんと一緒に考えましょう」


「私も、暮らす側の目で口を出させてもらうよ」


「うん!」


 ロクスは、急に楽しそうになった琥珀を見て苦笑した。


「外より中の方が、注文が増えそうだな」


「乗る場所は大事だもん」


「そうですね。安全に座れることを、最初に確認しましょう」


 ラファお姉ちゃんは、座席の条件を書いた木札を自分の前へ寄せた。


「座席を開いた状態で固定できること。指を挟まないこと。乗り降りする時に手を添えられること」


「それから、急に揺れても姿勢を保ちやすい背もたれが必要です」


「背もたれが低すぎたら、後ろへ倒れそうで怖いかも」


 琥珀は椅子へ座るように腰を少し落とし、背中を預ける仕草をした。


「でも、高すぎたら後ろが見えにくくなるよね」


「幌を畳んでいる時も、視界を塞がない高さがよいですね」


「肩より少し下を目安にするかのう」


 ベルグは図面の座席へ、背もたれの高さを示す短い線を加えた。


「細かな高さは、実際の寸法を決める時に合わせる。今日は目安だけじゃ」


 琥珀は座席の横へ描かれた空白を見つめた。


「乗る時に、ここへ手を置けたら安心するかも」


「手すりですね」


「でも、大きいと仕事の邪魔になるよね」


「乗り降りする側だけに、短いものを付けるのはどうでしょう」


 ラファお姉ちゃんは図面の片側を指した。


「止まって荷台を下げたあと、ここへ手を添えて乗る。走っている時も、座席の横で身体を支えられます」


「それなら、荷物を積む場所もあまり狭くならねえな」


「高すぎず、荷物を引っかけない形ならよさそうだね」


 ベルグは図面の乗降側へ、小さな手すりの印をつけた。


「短い手すり。乗り降りする側だけじゃ」


 琥珀は、少しずつ増えていく図面の線を嬉しそうに眺めた。


 自分が怖いと思ったことが、ラファお姉ちゃんの言葉で条件になり、ベルグの鉛筆で形になっていく。


「次は、荷物との仕切りですね」


 ラファお姉ちゃんは、座席の後ろに描かれた荷物の区画を指した。


「急に止まった時や、道が大きく揺れた時に、荷物が座席側へ動かないようにする必要があります」


「荷物を固定する金具だけじゃ足りないのか?」


「小さなものが、隙間から転がる可能性があります」


 琥珀は、自分の足元へ鍋や水筒が転がってくるところを想像し、耳を少し伏せた。


「それは怖い……」


「だから、座る場所と荷物の間に低い仕切りを入れる」


 マーレは、図面の座席後ろを指で横切った。


「壁みたいに高くする必要はないよ。足元へ転がってこない高さがあればいい」


「高くしすぎると、荷物を取る時に邪魔になるからね」


「手の届くところに、小さな収納も欲しいな」


「何を入れるんだ?」


「水筒とか、布とか。あと、おやつ」


「最後のが一番大事そうだな」


「大事だよ?」


 琥珀が真剣な顔で答えると、ロクスは少しだけ目を丸くした。


 マーレはそんな二人を見て、くすりと笑う。


「長い道なら、すぐ口へ入れられるものも必要だよ」


「水も、全部を荷物の奥へ入れたら、休むたびに探すことになるからね」


「では、座席の横へ小さな収納を設け、軽いものだけを置くようにしましょう」


「水筒と、布と、少しのおやつ」


「増やしすぎるなよ」


「少しだもん」


 ロクスは疑うように琥珀を見たが、琥珀はにこにこと笑ったままだった。


 ベルグは座席の横へ、小さな収納の印を加えた。


「重い荷は後ろ。すぐ使う軽いものだけを座席の横へ置く」


「掃除しやすいことも大事だよ」


 マーレの一言に、ベルグの鉛筆が止まった。


「掃除?」


「あんたたち、道を走ったあとの泥や砂を甘く見てるだろう」


 マーレは荷台の床を示すように、図面の上へ手を広げた。


「靴から土は落ちる。濡れた外套を置けば水も垂れる。食べ物をこぼすことだってある」


「床の隙間へ全部入り込んだら、掃除するのは誰だと思ってるんだい?」


 琥珀とロクスが、ほとんど同時に視線をそらした。


「……わたしも掃除するよ」


「俺だって、自分の馬力車ならやるぞ」


「なら、最初から掃除しやすい形にしておきな」


「床板を細かく分けすぎない方がよさそうですね」


「座席をしまう境目以外は、できるだけ平らにするか」


「濡れたものは、荷物と一緒に入れない方がいいよね」


「外套を掛ける場所か」


「幌の内側へ、小さな掛け具を付けるのはどうでしょう」


「外套や布くらいなら問題は少なそうです」


「幌を畳む時に邪魔にならない場所へ付けるんだよ」


 ベルグは幌の内側へ、小さな印を二つ書き込んだ。


「濡れ物用。軽いものだけじゃな」


「夜や、暗い場所で止まることもあるよね」


 琥珀は図面の足元へ指を置いた。


「ここが少し光ったら、乗り降りしやすいかも」


「大きな灯りは必要ありません」


 ラファお姉ちゃんは、琥珀の指先を見つめた。


「荷物を確認したり、足元を照らしたりできれば十分です」


「普通の灯りじゃ駄目なのか?」


「使えます。ただし、火を使う灯りは倒れない場所へ置く必要があります」


 琥珀は少し考えた。


「マナクラフトで、本当に少しだけ光る印を作るのは?」


「安全な構造の代わりにはできません」


「うん。代わりじゃなくて、お手伝いだけ」


「それであれば、あとから加える補助として考えられます」


「先に、灯りがなくても安全に乗り降りできる形を作りましょう」


「先にちゃんと作って、光はあとからだね」


「はい」


 ベルグは足元へ、小さな丸だけを描いた。


「足元の灯りは、あとで考えるものじゃ」


 ラファお姉ちゃんは、すぐに決める条件と、あとから加えられるものを別々の木札へ書き分けた。


 止まる仕組み。


 座席の固定。


 短い手すり。


 荷物との低い仕切り。


 ここまでは、安全のために必要なもの。


 小さな収納。


 濡れ物を掛ける場所。


 足元の灯り。


 こちらは、重さや場所を確かめながらあとで考えるもの。


「これなら、増やしすぎずに済みそうだな」


 ロクスは二つに分けられた木札を見て、安心したように頷いた。


「でも、寝る場所は作らないの?」


 琥珀が空いている荷台を見つめ、少しだけ首を傾げた。


「基本は作らないよ」


 マーレは、図面の横に置かれていた地図へ視線を移した。


「グランが、ちゃんとテントをくれただろう?」


「旅の夜は、止まれる場所を探して、テントを張って休むんだよ」


「そっか。グランからもらったテントがあるもんね」


「馬力車の中で少し眠ることはできるでしょう」


 ラファお姉ちゃんは荷台の広さを確認した。


「ですが、宿泊を前提にすると、必要な広さも荷物も増えます。ロクスの負担を考えても、基本は外で休む方がよいと思います」


「俺もそれがいい」


 ロクスは図面の荷台を鉛筆の先で軽く叩いた。


「雨宿りや、疲れた時の短い休憩ならいい。でも、家みたいにする必要はねえ」


「俺だって夜は休まなきゃならねえし、荷物を増やしすぎたら走れなくなる」


「テントで寝るの、楽しみだな」


 琥珀は、テントの前で火を囲む夜を思い浮かべた。


 グランから受け取ったテント。


 休んでいるロクス。


 隣にいるラファお姉ちゃん。


 みんなで食事をする時間。


「ご飯はどうするんだ?」


「馬力車の中へ調理台まで付けるのはなしだよ」


「まだ言ってねえよ!」


「あんたたちの顔を見てたら、先に言っておいた方がいいんだよ」


 琥珀は少し考えたあと、ぱっと顔を上げた。


「ご飯は任せて!」


「わたしも、お料理をもっとたくさん覚えるから!」


 琥珀は胸の前で両手を握る。


「旅で作れるものを、マーレに教えてもらうの。スープとか、焼くものとか、持っていけるご飯も覚えたい!」


 マーレは嬉しそうに目を細めたが、すぐに少しだけ厳しい顔を作った。


「料理を覚えるなら、まずは片付けと火の見方からだね」


「え、そこから?」


「そこが一番大事だよ」


「頼もしい料理係の最初の仕事は、片付けか」


「ロクスも食べたら片付けるんだよ?」


「俺もか?」


「当たり前だよ」


 ロクスが少し困った顔をすると、琥珀は楽しそうに笑った。


「では、馬力車には調理する場所ではなく、食材と道具を安全に運ぶ場所を設けましょう」


「水。鍋。食材。保存食じゃな」


「全部一緒に入れちゃ駄目だよ」


 マーレは図面の荷物区画を指で分けた。


「水は倒れない場所。鍋や道具は音が鳴りすぎないように固定する。食べ物は汚れた道具と分ける」


「すぐ使う分と、予備も分けておいた方がいいね」


「箱を増やしすぎると、仕事で使う場所が狭くなるぞ」


「大きな箱を増やすのではなく、荷物区画の中へ外せる仕切りを入れるのがよいでしょう」


「仕事の時は外す。旅では水、道具、食材を分ける」


 ベルグは荷物の区画へ、細い仕切り線を加えた。


「外せる仕切りなら、使い方を変えられるのう」


 図面の上に、乗る場所の仮の形が見えてきた。


 二人が並んで座る、床へ収納できる座席。


 乗り降りするための短い手すり。


 荷物が転がってこない低い仕切り。


 軽いものを置く小さな収納。


 仕事と旅で使い方を変えられる荷物区画。


 寝床はない。


 調理台もない。


 けれど、移動する二人が安心できる場所には、少しずつ近づいている。


「小さな旅の部屋みたいだね」


「部屋にはしないって言っただろ」


「みたい、って言ったの」


「移動中に安心できる場所という意味であれば、近いかもしれません」


 ラファお姉ちゃんは座席の線を見つめ、静かに頷いた。


「ですが、外へ出て、テントを張り、火を囲む時間も残ります」


「うん。そっちも楽しみ」


 琥珀は図面を見ながら、まだ始まってもいない旅を思い浮かべた。


 馬力車の中で、ラファお姉ちゃんと並んで座る時間。


 道の途中で降り、グランからもらったテントを張る時間。


 マーレから教わった料理を、みんなに作る時間。


 そのどれもが、少し先の未来で待っているように思えた。


 作業台へ差し込んでいた光は、いつの間にかやわらかな橙色へ変わっていた。


 窓の外では、街の屋根や道の端が、夕暮れの色に染まり始めている。


 図面の上に伸びる鉛筆や木札の影も、昼よりずっと長くなっていた。


 マーレは窓の外を確かめると、作業台を囲むみんなへ向き直った。


「今日は、ここまでだよ」


「もうか?」


「もう、じゃないよ。昼ごはんも休憩も挟んだけど、昼前からずっと考えてたんだからね」


 マーレは作業台に散らばった鉛筆を集め、ベルグの手が届かない場所へ置いた。


「続きは、次のお休み。今日はちゃんと帰って、ゆっくり休むこと」


「あと少しくらい――」


「駄目」


 迷いのない返事に、ベルグは不満そうに髭を撫でた。


 ロクスは、そんなベルグを見て肩を揺らして笑う。


「諦めろ、ベルグじい。今日はここまでだ」


「おぬしまでマーレの側へ回るとはのう」


「俺だって、次の休みに続きがある方が楽しみだからな」


 マーレは満足そうに頷いた。


「そういうことだよ」


 ラファお姉ちゃんは、作業台に並んでいた木札を一つずつ重ねていった。


「今日決まったのは、止まる仕組みを優先すること。座席を安全に開き、固定できること。荷物と乗る場所を分けることです」


 候補を書いた木札は、その隣へ分けて置く。


「揺れを逃がす板、幌の骨組み、座席を固定する金具は、次に考える時に改めて確認します」


「まだ採用ではないからな」


「はい。無理に使うことはしません」


 ベルグは、ロクスが描いた少し曲がった絵と、自分の図面を並べた。


 左右で大きさの違う車輪。


 少し曲がった荷台。


 床から飛び出した二人分の座席。


 その前に立つ、ロクスの姿。


「この絵も残しといてくれよ」


「もちろんじゃ。使う者が最初に描いた形じゃからな」


「笑うなよ」


「笑っておらん」


「口元が笑ってるぞ」


 琥珀は二人のやり取りを聞きながら、作業台へ戻った。


 ベルグの図面。


 ロクスの絵。


 ラファお姉ちゃんがまとめた木札。


 昼前にはまだ何もなかったはずなのに、そこにはもう、新しい相棒の姿が少しだけ見え始めている。


 琥珀は図面へそっと顔を近づけた。


「ロクスの新しい相棒さん」


「まだ形もねえぞ」


「だから、先に言っておくの」


 琥珀は図面の中の馬力車へ、やさしく笑いかけた。


「これから、よろしくね」


 ロクスは少し驚いたように琥珀を見た。


 それから照れくさそうに耳を動かし、図面へ向き直る。


「……よろしく頼むぞ」


 ロクスは自分の描いた絵を見て、小さく笑った。


「まだ、線だけだけどな」


「線がなければ、形は始まらん」


 ベルグの言葉に、みんなの視線が図面へ集まった。


 まだ、木も削られていない。


 金具も選び終わっていない。


 車輪すら決まっていない。


 それでも、今日一日の話し合いによって、新しい相棒の最初の線は確かに引かれた。


 風車の修復が続く間。


 次の休みが来るたびに。


 急がず、休みながら、少しずつ形にしていくものが、また一つ増えた。


 琥珀はベルグを見た。


 ロクスを見た。


 マーレを見て、最後に隣のラファお姉ちゃんを見上げる。


 みんなの顔には、昼前から続いていた楽しさが、まだ残っていた。


 琥珀の耳が嬉しそうに立つ。


「ここまで来たら、お休みの時の楽しみがまた増えたね!」


 琥珀は、満面の笑みを浮かべた。

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