第42話
昼前の光が、ベルグ工房の窓から作業台の上へ差し込んでいた。
作業台には、先ほどまで見ていた地図が広げられたままになっている。
琥珀たちが歩いてきた道。
水瓶座風車へ向かった道。牡羊座風車へ続いた道。山羊座の坑道へ入る山道。そして、さそり座風車へ至った道。
その先には、ラファお姉ちゃんが行きたい場所へ続いているかもしれない、途中で途切れた街道の線がある。
ベルグは地図の横に、丸めて置かれていた大きな紙を広げた。
端から端まで、まだ何の線も引かれていない。
まっさらな一枚だった。
「さっき、新しい馬力車が欲しいと言うたな」
「ああ。前のやつを直すんじゃなくて、新しく作るやつをな」
「なら、まずおぬしの要望を全部出せ。作れるかどうかを考えるのは、そのあとじゃ」
ベルグは太い鉛筆を手に取り、紙の隅に小さな印をつけた。
ロクスは作業台の前で、落ち着かないように足元を踏み替える。
つい先ほどまで、新しい馬力車を作ると聞いて目を輝かせていたはずなのに、ベルグが本当に設計を始めようとすると、少しだけ不安になってきたらしい。
「要望って言われてもな。軽くて、丈夫で、小回りが利いて、荷物もたくさん積めるやつだ」
「無理じゃ」
あまりにも早い返事に、ロクスの耳がぴんと立った。
「早いな! まだ一つも描いてねえだろ!」
ベルグは鉛筆の先で、まっさらな紙を軽く叩く。
「軽くして、丈夫にして、荷を増やせば、どこかに無理が出る。全部を一番にはできん」
ベルグは紙の隅へ、三つの小さな丸を描いた。
「何を残して、何を変える。何を一番大事にするか。使う者が決めんで、誰が決める」
ロクスは言い返しかけて、口を閉じた。
ベルグは、新しい馬力車が必要な理由を聞いているわけではなかった。
ロクスにとって馬力車は、荷物を運ぶだけの道具ではない。
仕事をする時も、街を走る時も、遠くへ向かう時も、一緒に道を進んできた愛車であり、相棒だった。
そのことを、ベルグは最初から分かっている。
だからこそ聞いているのだ。
今度の相棒に、どんな役目を持たせたいのか。
ロクスはしばらく地図を見つめてから、最初の丸へ鉛筆の先を置いた。
「まず、仕事で使えることだ」
続いて、二つ目の丸を示す。
「荷物を運べなきゃ、馬力車じゃねえ。街の中も走るし、石や木材を積むこともある。そこは前と変えたくねえ」
ロクスは、途中で途切れた街道の線を見た。
それから、琥珀とラファお姉ちゃんへ顔を向ける。
「でも、今度はそれだけじゃない」
三つ目の丸へ、鉛筆の先を移した。
「琥珀とラファも乗せる。二人の荷物も積む。街道だけじゃなくて、細い道や、まだ整ってねえ道を見ることもある」
「わたしたちが乗っても、大丈夫な馬力車……」
「ああ。乗ってる二人が怖がるようなのは駄目だ」
琥珀は、少し意外そうにロクスを見上げた。
「ロクスがそういうこと言うと、なんだか不思議」
「なんでだよ」
「だって、いつもは速く走ることばっかり考えてそうだから」
「俺をなんだと思ってんだ」
琥珀は少しだけ考えるふりをして、楽しそうに答えた。
「すぐ走り出すロクス」
「だいたい合っとるな」
「ベルグまで乗るなよ!」
琥珀が「あはは」と笑うと、ラファお姉ちゃんも、つられるように微笑んだ。
少し離れたところでは、マーレが腕を組んでいる。
「話すのと描くところまでだからね。今日は休みなんだ。夢中になって重いものまで運び始めたら、そこで終わりだよ」
「分かっとるわい」
マーレは、楽しそうに鉛筆を握るベルグをじっと見た。
「その返事が一番信用できないんだよ」
ベルグは聞こえなかったふりをして、鉛筆の先を紙へ戻した。
「前の馬力車と、同じ形にするか?」
その問いに、ロクスは少しだけ黙った。
けれど、答えはもう決まっていたようだった。
「いや。同じにする必要はねえ」
ロクスは静かに首を振る。
「あいつは、今は風車の地下を守ってる。あいつにはあいつの役目ができたんだ」
言葉を切り、もう一度地図へ目を落とす。
「だから、今度のは今度の相棒だ。前のやつの代わりじゃなくて、新しく一緒に走るやつがいい」
「うん」
ベルグはすぐには返事をしなかった。
ただ一度、深く頷く。
「なら、最初から作る」
ベルグは、紙の中央へまっすぐな一本の線を引いた。
その線は、ロクスが馬力車を引く力の通り道だった。
線の前側にロクスの位置を取り、その後ろに小さな四角を描く。
「まずは、おぬしの力をまっすぐ荷台へ通す。ここがずれれば、曲がるたびに荷台がおぬしを横へ引っ張る」
「前のやつも、荷物を片側に積みすぎると引かれたな」
「じゃろう。今度は二人も乗る。座る場所と荷物の場所は、最初から分けて考える」
ベルグは最初の線を中心にして、左右へ幅を広げていった。
いきなり馬力車の外側を描くのではない。
ロクスの力が通る場所。
車輪が重さを受ける場所。
琥珀とラファお姉ちゃんが座る場所。
それらを一つずつ重ねていく。
「車輪を外へ広げれば、倒れにくくなる。じゃが、広げすぎれば細い道を通れん」
「狭すぎると?」
「揺れた時に傾きやすい。横から強い風を受けた時も危ないのう」
ラファお姉ちゃんは、図面の左右を見比べながら静かに条件を拾い上げた。
「では、前の馬力車より大きくしすぎず、重さが下へ集まる形がよいのですね」
「そうじゃ。じゃが、荷台を低くしすぎれば、道の石や凹凸へぶつかりやすくなる」
ベルグは紙の端に、横から見た小さな荷台を描いた。
「乗り降りする時は、低い方がいいかも」
琥珀は図面を覗き込み、自分がそこへ乗る姿を想像した。
「足を高く上げないといけないと、ちょっと怖いと思う」
「走る時まで低いのは困るぞ。石に腹をぶつける」
「なら、止まっている時だけ下げればよい」
「簡単に言うなよ」
ベルグは鉛筆を動かしながら、当然のように答えた。
「簡単とは言っとらん。できる形を考えるのが設計じゃ」
荷台の下へ、斜めの線が二本加えられる。
まだ細かな動き方までは決めない。
まずは、乗り降りする時だけ荷台を下げ、走る前には元の高さへ戻す。
その考えだけを、紙の上へ置いた。
「走っている間には動かない方が安全です」
「俺もそれがいい。勝手に上がったり下がったりするのは絶対なしだ」
ラファお姉ちゃんは少し考え、停車した荷台の足元へ視線を落とした。
「停止して、補助脚を出したあとにだけ動く仕組みならどうでしょう」
「それなら怖くないかも」
「よし。荷台を下げられるのは停止中だけじゃ」
ラファお姉ちゃんは、作業台の端に置かれた小さな木札へ、決まった条件を書き留めていった。
仕事に使えること。
二人が安全に乗れること。
細い道で曲がれること。
荷物をきちんと固定できること。
ロクスが無理をしすぎないこと。
そして、止まりたい時に止まれること。
「ロクス。道から伝わる感覚を残したいと言っていましたね」
「ああ。引いてると、石の硬さや、地面が沈む感じが分かるんだ」
ロクスは、自分の足元を確かめるように軽く踏み替えた。
「助けてもらうのはいい。でも、それを全部消されると、逆に危ねえ。普段は俺が引く。そこは変えたくねえ」
「つまり、ロクスの代わりに走るのではなく、負担が片方へ寄った時だけ支える方がよいのですね」
ベルグは、引き具の位置へ小さな印を加えた。
「力を消さず、偏りだけを逃がす。なるほどのう」
「変なもの付けるなよ」
ベルグの鉛筆が一瞬止まった。
「まだ何も言っとらん」
「今、絶対に何か考えただろ」
「職人が考えるのは当然じゃ」
ベルグは平然と答え、そのまま荷台の上へ弧を描いた。
「次は幌じゃ。雨の時に、二人と濡らしたくない荷を守る」
「大きくしたら、風に煽られませんか?」
「ゆえに、必要な時だけ広げる。風が強い日は畳むんじゃ」
「それは普通の工夫だな」
「荷物を固定する金具も付ける」
「必要だ」
「止まった時に出す補助脚もいる」
「それも欲しい」
ベルグは紙の余白へ、さらに小さな印を加えた。
「非常時に、少しだけおぬしを押す仕組みも――」
「待て」
ロクスの耳がぴんと立った。
「今のどこからが魔改造だ?」
「まだ考えを出しただけじゃろうが」
「そういう顔で言う時は信用できねえ!」
ラファお姉ちゃんは二人の間へ視線を動かし、静かに口を挟んだ。
「ロクスの感覚を残すことが、今回の優先条件です」
木札を一枚取り、補助する仕組みという言葉だけを書き留める。
「その仕組みは将来の検討案として残し、今回の基本設計からは外しましょう」
「ほら、ラファも今はいらないって言ってるぞ」
「いらんとは言っとらん。あとで考えると言うただけじゃ」
「それを勝手に付けるなよ」
「予定ではな」
「その言い方が一番怖いんだよ!」
工房にロクスの声が響いた。
琥珀は思わず笑いながら、図面の上へ視線を戻す。
「でも、怖くない工夫なら、ちょっと見てみたいかも」
「琥珀までそっち側へ行くな!」
「わたしは乗る側の目で、怖くないか見る係だもん」
「魔改造を見る係じゃねえ!」
「必要な補助と、危険な仕組みを分ければよいと思います」
「ほら、ラファも危険って言ってるぞ」
「危険にするとは言っとらん!」
「そこまでだよ」
マーレが手を叩くと、ベルグとロクスが揃って口を閉じた。
「今日は図面まで。それを忘れないこと」
「分かっとる」
「本当だね?」
ベルグは不満そうに髭を撫でたが、鉛筆以外へ手を伸ばすことはなかった。
紙の中央には、ロクスから荷台へ伸びる力の線がある。
その左右に車輪。
車輪の上には、止まっている時だけ高さを変えられる荷台。
琥珀とラファお姉ちゃんが並んで座る場所。
後方には、荷物を固定する区画。
上には、必要な時だけ広げる幌。
足元には、停車時に車体を支える補助脚。
まだ、細かな寸法は入っていない。
使う木材も、金具も、車輪も決まっていない。
それでも、まっさらだった紙の上には、新しい馬力車の骨組みが見え始めていた。
「前の馬力車より、少し短いのかな?」
「長くすれば荷は積める。じゃが、曲がりにくくなる」
ベルグは荷台の後ろを少しだけ消し、線を引き直した。
「細い道を考えるなら、前より詰めた方がよい」
「でも、二人は並んで座れるようにしてくれよ」
琥珀は嬉しそうにロクスを見上げた。
「そこは譲らないんだね」
「当たり前だろ。そのための新しい馬力車でもあるんだからな」
琥珀は、ラファお姉ちゃんの隣へ少しだけ寄った。
ラファお姉ちゃんも琥珀を見て、やわらかく微笑む。
「では、座席の細かな形は、あとで琥珀ちゃんと一緒に考えましょう」
「うん!」
ベルグは大まかな線を引き終えると、鉛筆を作業台へ置いた。
「外の形は、ひとまずこれでよい」
「もうできたのか?」
「仮の形じゃ。ここから、使えるものと照らし合わせて線を詰めていく」
ベルグの視線が、工房の奥へ向いた。
そこには、これまで作られ、試され、役目を得られなかった試作たちが、いくつもの棚に並んでいる。
重すぎたもの。
小さすぎたもの。
思うように動かなかったもの。
使う場所が見つからず、そのまま残されたもの。
「次は、こやつらの考えを借りられるか見る」
「この図面に使えそうな部品を探すのか?」
「それだけではない。おぬしの頭にある形も見せてもらう」
「俺が描くのか?」
ベルグは、ロクスの前へ新しい紙を一枚差し出した。
「おぬしの相棒じゃろ。使う者の考えを、わしだけで勝手に決める気はない」
ロクスは少し驚いた顔をしたあと、作業台の上の図面を見た。
やがて、照れくさそうに鼻の下を擦る。
「……分かった。俺も描く」
「絵、上手なの?」
「馬力車なら描ける。たぶん」
ベルグは、新しい紙と鉛筆をロクスの前へ揃えた。
「最後の一言で急に心配になったのう」
「うるせえ!」
また、工房に笑い声が広がった。
その時、工房の外から昼を知らせる鐘の音が聞こえた。
マーレがすぐに作業台の前へ進み出る。
「はい。ここで一度おしまい」
「まだ描き始めてもおらんぞ」
「だからこそだよ。今から始めたら、昼ごはんを忘れるだろう?」
「少しくらい遅くても――」
「駄目」
マーレはベルグの前から鉛筆を取り上げると、持ってきていた籠を作業台の端へ置いた。
布を開くと、焼いたパンと、野菜や肉を挟んだものが姿を見せる。
小さな瓶には、冷ましたお茶も入っていた。
「今日は休みなんだから、食べる時はちゃんと食べる。座る時は座る」
「マーレ、用意してくれてたの?」
「こうなると思ったからね」
琥珀は籠の中を覗き込み、ぱっと顔を明るくした。
「おいしそう!」
「手を拭いてからだよ」
「はーい」
琥珀たちは作業台から少し離れ、工房の窓辺に置かれた椅子へ腰を下ろした。
図面を囲んでいる時には気づかなかったが、外から吹き込む風は思っていたよりやわらかい。
昼前から続いていた話し合いで、身体も少し固くなっていたらしい。
琥珀はパンを両手で持ち、小さくかじった。
「おいしい……」
「話し合いをしているだけでも、腹は減るからな」
ロクスも大きなパンを手に取り、すぐに半分ほど食べてしまう。
「ロクス、早いよ」
「昼からまた頭を使うんだ。食える時に食っとく」
「食べたあとは、少し休むんだよ」
マーレに釘を刺され、ロクスの耳がわずかに下がった。
「分かってるって」
「ベルグもだからね」
「わしは座っておる」
「頭の中で組み立て始めるのも休みとは言わないよ」
ベルグは返事の代わりに、手にしていたパンへかじりついた。
ラファお姉ちゃんは、作業台の上へ置かれた二枚の紙を静かに見つめていた。
「ラファお姉ちゃん、まだ考えてる?」
琥珀が尋ねると、ラファお姉ちゃんは小さく首を振った。
「今は休憩です」
そう答えてから、琥珀の持つパンへ目を向ける。
「おいしいですか?」
「うん。ラファお姉ちゃんも食べられたらよかったのに」
「琥珀ちゃんがおいしそうに食べていることは分かります。それで十分です」
琥珀は少しだけラファお姉ちゃんの方へ身体を寄せた。
窓の外では、昼の光を受けた街の屋根が明るく見えている。
遠くから、道を行き交う人の声も聞こえた。
風車の修復も、新しい馬力車の設計も、今すぐ終わらせる必要はない。
食事をして。
少し話をして。
風に当たりながら、ゆっくりと身体を休める。
休みの日の時間は、急がずに流れていった。
食事を終えたあとも、マーレはすぐに作業台へ戻ることを許さなかった。
琥珀とロクスは椅子へ座ったまま、しばらく窓の外を眺める。
ベルグは何度か図面の方へ目を向けたものの、そのたびにマーレから見返され、最後には諦めたように腕を組んだ。
やがて、マーレが小さく頷く。
「それじゃあ、午後は少しだけ続きをしてもいいよ」
「少しだけ、か」
「夕方になる前には終わるんだよ」
「分かっとるわい」
今度の返事には、午前中よりも少しだけ素直さがあった。
ロクスは椅子から立ち上がると、腕と肩を軽く回した。
「よし。今度こそ描くぞ」
「曲がらないようにね」
「まだ描いてねえだろ!」
琥珀が楽しそうに笑いながら作業台へ戻る。
ラファお姉ちゃんも、その隣へ静かに並んだ。
午前中にベルグが引いた仮の設計図の横には、もう一枚のまっさらな紙が置かれている。
今度の紙は、ベルグが描くためのものではない。
ロクスが、自分の頭の中にある馬力車を描くための紙だった。
ロクスは渡された鉛筆を握ったまま、まっさらな紙をじっと見つめた。
「ほれ。描いてみい」
「そんな簡単に言うなよ。形なら分かってるんだ。絵にするのが難しいんだよ」
「さっき、馬力車なら描けるって言ってなかった?」
「たぶん、も付けただろ」
琥珀がくすっと笑う。
ロクスは耳をぴくりと動かしてから、意を決したように紙の中央へ一本の線を引いた。
けれど、その線は最初から少し右へ曲がっていた。
「曲がってるね」
「今から直すところだ!」
ラファお姉ちゃんは図面へ視線を落とし、静かに言葉を添えた。
「中心の線でしたら、もう少しまっすぐな方が分かりやすいと思います」
「ラファまで真面目に言うなよ。余計に恥ずかしくなるだろ」
「では、応援します」
「それもなんか違うな……」
ベルグは口元を緩めながら、ロクスの紙を覗き込んだ。
「線の上手い下手はどうでもよい。どこに何が欲しいのかを描け」
「最初からそう言えよ」
「最初からそう言っとる」
ロクスは小さく息をつくと、前方に自分が立つ位置を描いた。
そこから後ろへ、少し短めの荷台を伸ばす。
左右に車輪。
さらに、荷台の後ろ側へ荷物を積むための四角をいくつか描き込んでいった。
「仕事の時は、ここを全部使いたい」
ロクスは荷台の中央を鉛筆の先でなぞった。
「石を積むこともある。木材を運ぶこともある。街の荷物を頼まれることだってある」
荷台を示したまま、琥珀たちへ顔を向ける。
「二人を乗せるようになったからって、普段の仕事ができなくなるのは困る」
「でも、わたしとラファお姉ちゃんが座る椅子もいるよね」
「ああ。それで悩んでる」
ロクスは荷台の中央に、二人分の座席を描いてみた。
だが、二つの四角は荷台の大半を塞いでしまう。
「これじゃ、荷物を積む場所がほとんど残らねえ」
「座席を端へ寄せるのはどうかな?」
ラファお姉ちゃんは図面の左右を見比べ、小さく首を振った。
「片側へ寄せると、二人が乗った時に重さが偏ります」
「曲がる時や、横から風を受けた時に危ないのう」
「だったら中央に置くしかねえ。でも、置きっぱなしじゃ仕事の邪魔になる」
ロクスは鉛筆の後ろで頭をかいた。
琥珀も図面を覗き込み、二人が座る椅子と、仕事で使う広い荷台を交互に思い浮かべる。
乗る時には、椅子が必要。
けれど、乗らない時には、椅子がない方がいい。
それなら――。
「椅子を、使わない時は床にしまえないかな?」
「床へ収納するのですか?」
「うん。荷台の床に、ぺたんって畳んでおくの」
琥珀は紙の上へ指を置き、小さな四角を二つ描いた。
「それでね、ここを背もたれにして、持って引き上げると……」
琥珀は両手を使って、何かを持ち上げるような仕草をしてみせる。
「座るところも、ぱたって一緒に出てくるの!」
ラファお姉ちゃんの目が、すぐにその動きを追った。
「飛び出す絵本のような仕組みですね」
「そう! それ!」
ベルグは眉を寄せ、琥珀の手元と図面を見比べる。
「……飛び出す絵本?」
琥珀はベルグの方へ向き直ると、両手を本のように重ねた。
「本を開くとね、中に畳んであったお家とか、動物とかが、ぱたって立ち上がる絵本なの」
閉じた両手をゆっくりと開き、その間から何かが起き上がるように指を立てる。
「閉じると、またぺたんって本の中に戻るんだよ」
ベルグは「ほう」と小さく唸った。
琥珀はうれしそうに続ける。
「椅子も同じで、背もたれをこうやって上げたら、座るところと、下から支えるところも一緒に出てくるの」
今度は指を折りたたみ、床へ戻すような仕草をする。
「使わない時は、またぺたんって床に戻すの!」
両手を開いたり閉じたりしながら説明する琥珀を見て、ロクスも思わず図面へ顔を寄せた。
「それなら、仕事の時に荷台を広く使えるな」
ベルグは琥珀の手の動きを追いながら、紙の隅へ横から見た荷台を描き始めた。
「……なるほどのう。背を起こす動きで、座るところと支えも一緒に出すのか」
「できそう?」
「考え方は使える」
ベルグの鉛筆が走る。
床と同じ高さに収められた座席。
後ろ側には、背もたれとなる板。
背もたれを起こせば、座るところと支えも一緒に立ち上がる。
細かな金具の形までは、まだ決めない。
今は、琥珀の発想を図面へ移すだけだった。
「開いた時に動かないようにする仕組みと、畳んだ時に床を平らにする方法が必要じゃな」
「仕事の時に荷台を全部使えるなら、俺もそれがいい」
ラファお姉ちゃんは、座席の部分へ視線を止めた。
「開く途中で、指を挟まない形も必要ですね」
「うん。怖くない椅子にしようね」
「座る高さや背もたれの形は、内側を考える時に改めて確認しましょう」
「ラファお姉ちゃんと一緒に座れる幅もね」
「はい」
ロクスは、琥珀の考えた折りたたみ座席を、自分の絵へ描き込んでいった。
座席を出した時の形。
床へ畳んだ時の形。
その横には、二人が並んで座る姿も小さく描き足す。
片方には猫耳があり、もう片方には長い髪らしい線が伸びていた。
「これ、わたし?」
「他に誰がいるんだよ」
「こっちはラファお姉ちゃんだよね」
「そうだ」
琥珀は紙へ顔を寄せ、少し首を傾げる。
「わたし、ちょっと丸くない?」
「人を描くのは専門外なんだ!」
ラファお姉ちゃんも自分らしい細長い人影を見て、小さく目を瞬いた。
「私は、琥珀ちゃんよりかなり長く描かれていますね」
「人は見なくていい! 座る位置だけ見ろ!」
「ですが、二人が並んで座ることは分かりやすいです」
「そこが伝わればいいんだよ」
線は少し曲がり、車輪の大きさも左右で違っていた。
それでも、その絵にはロクスが新しい相棒へ求めているものが、はっきりと描かれていた。
仕事で荷物を運ぶ時には、広く平らに使える荷台。
琥珀とラファお姉ちゃんを乗せる時には、床から立ち上がる二人分の座席。
後方には、荷物を固定する区画。
必要な時だけ広げる幌。
そして前には、それを引いて道を見るロクスがいる。
ベルグは二枚の紙を並べ、見比べるように頷いた。
「この形を、わしの図面へ移す」
ロクスの絵にある座席へ、鉛筆の先を向ける。
「じゃが、紙の上の形だけでは仕組みは決まらん。座席を支えるもの。揺れを逃がすもの。必要な考えに合う試作がないか、棚を見てみるか」
「今から作るのか?」
工房の奥から、すぐに声が飛んできた。
「作らないよ」
ベルグは咳払いを一つする。
「見るだけじゃ」
マーレは腕を組んだまま、ベルグとロクスを順番に見た。
「約束は覚えてるね」
「分かってるって」
「では、棚を見て回る。使えそうな考えがあれば、図面へ書き加えるだけじゃ」
「それなら問題はなさそうです」
「ラファまでマーレ側に付いたか」
「安全を確認しているだけです」
工房の奥には、いくつもの棚が並んでいた。
木の箱。
金具。
小さな車輪。
曲げられた板。
使われなかった留め具。
一度は何かのために作られ、それでも形になりきれなかった試作たち。
棚の前には、何に使うつもりだったのかを記した小さな木札が掛けられている。
文字が薄くなり、読みづらくなったものも多い。
「こんなに残してあったんだね」
「使えなかったものを、全部捨てずに置いてあるのか」
「全部ではない。別の形なら使えるかもしれんものを残してあるんじゃ」
「失敗したものでも?」
「失敗した形が、そのまま使えるとは限らん」
ベルグは、棚に置かれた古い金具へ目を向けた。
「じゃが、そこに使った考えまで、すべて失敗とは限らんからのう」
ベルグは棚に並ぶ試作を、手を触れずに順番に示していく。
「これは、以前作った荷台の留め具じゃ。強く締まりすぎて、開けるのに時間がかかった」
「それじゃ駄目じゃねえか」
「荷物へ使うにはな。じゃが、別の場所で役立つかもしれん」
琥珀は棚の下段にある薄い板へ目を向けた。
「こっちの薄い板は?」
「揺れを逃がすために作ったものじゃ。柔らかすぎて、大荷物には耐えられんかった」
「二人分の座席だけであれば、使える可能性はありますね」
「候補に入れておくか」
ラファお姉ちゃんが、試作の特徴と使えそうな場所を木札へ書き留める。
ロクスも自分の絵へ、小さな印を加えていった。
折りたたみ座席に使えるかもしれない金具。
座る場所の揺れをやわらげられるかもしれない薄い板。
幌へ使えそうな細い曲げ材。
荷台を下げた時に支えられるかもしれない古い部品。
どれも、まだ使うと決まったわけではない。
今日は、可能性を紙の上へ置いていくだけだった。
琥珀は、みんなの少し後ろを歩きながら棚を眺めていた。
ロクスの鉛筆が紙を擦る音。
ベルグが試作の役目を説明する声。
ラファお姉ちゃんが木札へ書き込む音。
誰も棚へ手を伸ばしていないか、マーレが見守る気配。
その合間に。
からん。
小さな音がした。
琥珀は足を止めた。
「どうしましたか、琥珀ちゃん?」
「今、何か鳴らなかった?」
「何か落ちたか?」
ラファお姉ちゃんは床へ視線を走らせ、静かに首を振る。
「床には何も落ちていません」
みんなが棚を見る。
けれど、金具も木片も、先ほどと同じ場所に並んでいる。
「古い金具が、わずかに揺れただけかもしれんのう」
「うん……」
琥珀は頷いたものの、棚から目を離せなかった。
音だけではない。
棚の奥の方から、かすかな気配が伝わってくる。
はっきりした声ではない。
名前を呼ばれたわけでもない。
ただ、小さなものたちが一斉に身じろぎしているような。
自分の番が来たのかと、そっと顔を上げたような。
そんな細かなざわめきだった。
から。
こと。
きい、と。
実際に鳴った音なのか。
それとも、琥珀の内側へ触れたものなのか。
まだ、はっきりとは分からない。
琥珀は棚の前へ少しだけ近づいた。
ただし、手は伸ばさない。
「……この子たち」
「何か感じますか?」
「うん。たぶん」
「使ってほしいと言っているのか?」
琥珀は小さく首を振り、棚の上から下までゆっくりと見回した。
「少し違う気がする」
静かな試作。
前へ出たそうな金具。
棚の奥で、じっと何かを待っているような板。
けれど、どれもまだ、はっきりした言葉にはなっていない。
「自分が何になれるのか、探してるみたい」
ロクスは、先ほどまで描いていた紙を下ろした。
そして、琥珀と同じように棚を見る。
「こいつらが?」
「うん。静かな子もいるし、ちょっと前に出たそうな子もいる」
琥珀は胸元へ手を添えた。
「でも、まだ言葉にはなってないの」
「どれが馬力車に使えるかまでは、分からないのですね」
「うん。わたしは、感じるだけ」
ベルグは笑わなかった。
試作たちが並ぶ棚を見上げ、少しだけ目を細める。
「役目がなくなったのではない。まだ、合う形が見つかっておらんだけかもしれんな」
ロクスは、自分の描いた馬力車の原型を見た。
それから、もう一度棚へ目を向ける。
「だったら、俺も一緒に見る」
「ロクスも?」
「ああ。新しい相棒に付くものを、琥珀だけに決めさせるわけにはいかねえだろ」
「わたしは、感じたことを言うだけだよ」
「それでいい」
ロクスは自分の紙を持ち直した。
「琥珀が気になったものを、俺が使えそうか見る。ベルグじいが形にできるか考える。ラファが危なくないか確かめる」
「私は、誰も重いものを持ち始めないか見ておくよ」
「役割がきれいに分かれましたね」
琥珀は、もう一度試作たちを見た。
小さなざわめきは、まだ消えていない。
けれど、先ほどより少しだけ落ち着いたような気がした。
「じゃあ、一緒に見よう、ロクス」
「ああ。どれが今度の相棒に合うか、ゆっくり見て回ろうぜ」
今日は作らない。
まだ、何も完成させない。
ただ、紙の上に描かれた新しい相棒と、棚の中で役目を待つ試作たちを見比べる。
棚の奥で、小さな金具がもう一度、かすかに鳴った。
今度は、琥珀だけではなく。
隣に立っていたロクスも、その音がした方へ顔を向けた。




